寄港していの一番、この娘に船旅の土産話を語って聞かせるのが習慣になりつつあった。 「ホックったら、今回もあいかわらず大冒険ねえ」  浅瀬に似た色の眸を輝かせて話に聞き入っていた彼女は、ほうと熱のこもった息を吐く。人食いワニをからくも撃退した話や、奥地で蝶か人かも判別つかないものに遭遇した話は私にしてみれば日常茶飯事なのだが、彼女にとっては大冒険のうちらしい。彼女たち姉妹はこの平穏な海の街から出たことがないというのだから、それもそうだろう。  裸足のつま先で海面を蹴った彼女は、澄んだ眸で水平線を見はるかす。 「いいなあ、わたしも海の向こうを見てみたい」 「それなら次の出港のとき私と一緒に乗船すればいい」  誘いはかけたものの、返事はとうに読めていた。  この娘の最善は─そして生意気なひとつ上の姉も─長子の傍らにいること。そして彼女たちが愛するその姉は頑なにこの街を離れようとはしないのだから、返答は目に見えて明らかだった。  私の問いかけに間を置かず、目の前の彼女は首を振る。つま先が波をつくる。 「ううん、だってわたしの生きる場所はいつだってお姉さまのそばだもの」  まぶしいほどまっすぐに笑った彼女はどこまでも純粋に姉を想っているのか。 (君のいきる場所)  2020.7.1
 夢に見るほどあいしたくちびるからその言葉がこぼれたのははじめてのことで、思わず我が耳を疑った。 「えっ、ちょ、ちょっと、どうしたの、なんで泣くの」  指摘されてはじめて涙があふれている事実に気付く。自覚してしまうと止まらなくなるものらしく、ぽろぽろぽろぽろ、視界がにじんでやまない。ぼやけた世界のまんなかで、慌てた様子のそのひとがふれることも出来ずただおろおろと顔を覗きこんでくる。  ちがうの、うれしいの。嗚咽につぶれる喉からなんとか言葉を取り出していく。だって愛をぶつけるのはいつもわたくしばかりで、彼女は一向に心を晒してはくれなかった。もしや嫌われているのかともたげる不安は見えないふりをしてただ慕情を向け続けた。  すきよ。あなたのことがだいすきなの。もはや口に染みついた一方的な想い。諦めさえ覗き始めたそれと同じ言葉をまさか目の前のくちびるが紡ぐだなんて。 「ね、おねがい、もう一回」  ようやく絞り出した懇願に、ばつが悪そうに泳ぐ宵色の眸。実感させて、あなたの心を、おねがい。縋る手を取った彼女の指先があつい。かすんでよく見えない頬もきっと朱に染まっている。抱えていた同じ想いに涙があふれて止まらない。 「だから、─…私も。あいしてるわ、グローリア」 (あいをこめて)  2020.7.5
 少しでも非難の色が覗いたら大手を振って辞退するつもりだった、そのはずだった。 「いいじゃない、面白そうだわ」  だというのにこの姉は、私の予想も目論みもすべて裏切り、愉快極まりないと笑う。思考停止した頭が言葉の意味を解したころには、姉はもう編み目を数える作業に戻っていた。編み物している場合じゃないでしょ。妹の一大事なのよ。 「なに焦ってるの、まさか自信ないとか言うんじゃないでしょうね」 「自信とか不安とかそういう話ではなくてねお姉様、妹が大会に引っ張り出されようとしているのよ、聞こえていたのかしら」 「失礼な子ね。ポルト・パラディーゾのど自慢大会でしょ。ちゃんと聞こえてたわよ」  数を忘れてしまったのか、また一から数え直している実の姉に今度こそ絶望した。  私たち姉妹は海に棲まうものの末裔。血が薄れたとはいえ、常人を惑わすだけの声を持っているのだ、歌唱大会になど出場できるはずもない。だというのに、夜中の桟橋でひとりくちずさんでいた私の鼻唄を聴きつけた大会主催者の娘が、ぜひにと乞うてきた。  願わくば自室に引きこもっていたい。この街のだれとも関わりを持たず生きていたい。  けれども期待をこめてまっすぐ見つめてくる眸に拒絶を返すことができず結局、姉に相談してみるわと弱々しく保留するので精一杯だった。 「不思議なくらい押しに弱いわよね」 「わかっているならお姉様から断ってくださってもいいんじゃないかしら」 「いやよ。こんな楽しい機会をふいにするなんてもったいない」 「かわいい妹がこんなに困ってるっていうのに」 「自分で言うんだから世話が無いわね」  呆れた調子のそのひとは、本気で歌わなければ大丈夫よと宣う。そんなに適当な認識でいいのだろうか、いや絶対によくない気がする。それとも、と。痛み出したこめかみを押さえる私の目の前で不意に意地悪く持ち上がる口角。 「こわいんじゃないの、歌で負けることが」 「な、」 「ああそれならいいわよ、かわいい妹の頼みだもの、私が代わりに出て優勝してあげる」  このひとなら言葉通り、本気を出すまでもなく頂点に立ってしまえるのだろう。その光景を容易に想像できたことさえ悔しくて、気付けば編み物を突き返していた。 「そんなわけないでしょ、見てなさい、トロフィーくらい持ち帰ってみせるわ」  途端にくつくつ笑い始めた姉に、ああまた乗せられたのだと、後悔するのも何度目か。やっぱり私はいつまで経っても、このひとには敵わないのだ。 (いちまいにまいそれ以上、うわてなあなたに今日も振り回されてばかり)  2020.7.20
 どうしてカルロッタなのだろう。痛みに霞む頭が、現実逃避するかのようにふと思う。 「水ならどう、グローリア」  いらないわ。声には出さず、またたきひとつにその意思をこめる。もう長いこと水も食べ物も口にしていないけれど、なにか胃に入れようものなら途端吐き気がこみ上げるのだからおちおち食欲も満たせやしない。そんな面倒な体調にも慣れたものだ。  難なく意味を汲み取ってくれた彼女が眉尻を下げる。汗で張りついた前髪を、細い指先がさらっていく。指が冷えているのか、それともわたくしの額が熱を持っているのか、もう判断もつかない。 「…なにかおはなし、して」 「…それじゃあ今度は、あなたを初めて認識したときの話でもしましょうか」  何度目かわからない催促に呆れることもなく、やわく微笑んだカルロッタはとつとつと言葉を落とす。耳障りのよい音にじんわりと痛みが和らいでいくような感覚も一度や二度ではない。どうしてだろう。再び疑問が頭をもたげる。薬でさえもたらしてくれることのない安息を、どうしてこのひとは易々と与えてくれるのだろう。頭が働かない。忘れていた睡魔が揚々と帰ってくる。重力に任せて眸を閉じれば、おやすみなさい、と。降ってきたくちびるにはじめて笑みがこぼれた。 (わたくしだけの処方箋)  2020.7.25
 さてこの酔っ払いをどうしてくれようか。 「酔ってなんていませんわぁ!」  ああだめ、これは重症だ。頭が痛むのは決してアルコールのせいではない。こめかみを押さえつつ、まだ酒を呷ろうとグラスに伸びるグローリアの手を留める。 「んもうっ、カルロッタっていじわるですのね」 「そんな不服そうな顔してもだめなものはだめよ」  ぷくりとふくらんだ頬にアルコールがにじんでいる。これ以上飲ませたら、これまでの酒や料理をすべて戻すか、店で眠るかの二択だろう。どちらも御免こうむりたい。  一緒に飲むのははじめてではないけれど、ふたりきりで飲むのはこれが最初。普段はワインやカクテルを優雅に嗜むグローリアに、ここの地ビールもおいしいのよと勧めてみれば、どうやらお口に合ったようで。こんなにおいしいお酒もありますのね、と目を輝かせた彼女が、一杯二杯三杯といつにないペースでグラスを空にしていくものだからてっきりアルコールに強いのかと思いきや、目尻はとろけ舌遣いもふわふわと覚束なくなっていた。店内の仄暗い照明のせいで気付くのが遅れた私にも非はある、あるけれど、こんなにペースが早いのに酒にめっぽう弱いだなんて誰が思おうか。恐らく本人も自覚していないのだから余計たちが悪い。  グラスを掠め取ろうとするグローリアの指先を阻みながら、お開きの算段をつける。  こんな彼女をひとりヴィークルに放りこんで万が一のことがあるとも知れない、やはり共に乗りこみ家に送り届けるべきだろう。そこから先はきっと、彼女の秘書かだれかが介抱してくれるに違いない。  通りがかったウェイターに会計を伝えたところで帰り支度の気配を悟ったのか、視線を向けてきたグローリアはけれど、不満ではなくわずかな悲しみを灯しやがて俯いた。 「どうしたの、もしかして気分でも、」 「今夜は、」  ぽすり、彼女が前触れなく首筋に顔をうずめてきた。あごを撫でるやわらかな髪。熱を持った額になぜだか思考が浮かされそうになる。慌ててかけようとした声を、けれど背に回った腕に押し留められた。 「─…今夜は、帰りたくありませんの」  どうやら私も相当重症らしい、かわいらしく駄々をこねるグローリアを帰したくないだなんて。  グラスに残っていた酒をひと息に飲み干す。ちらりと持ち上がった眸に乞われた気がしてくちづけをひとつ。目の前の赤いくちびるがゆるんだ意味を知るのはまた別のお話。 (あいにくとあなたに耐性はついてないの)  2020.7.25
 妹よりも長い時間を姉と過ごしてきた。妹の知り得ない姉の一面を覗いてきた。この世に生きるだれよりも姉のことを理解している。この世では、の話だけれど。  しゃがみ込んだ姉が一輪の花を手向ける。毎年花屋で買っていくあれは姉の好みなのかそれとも墓石の下で眠るそのひとの趣味なのかはわからない。わからないけれど姉は毎年この日──母の命日には陽がのぼるより早く家を抜け出し、前日に仕入れておいた花を手に、この場所を訪れることだけは知っていた。  眸を閉ざし、両手を重ねる姉はなにを考えているのか。どこかあどけなく膝を抱える姉はなにを語りかけているのか。付き合いが長いはずなのになにひとつわからない私はただ毎年こうして姉の後を追い、隠れて様子を窺うだけ。  海を一望できるこの場所からは、日の出がよく見える。水平線を浮かび上がらせる光に、深海を宿す眸がかなしそうに揺れた。  もう行かなくちゃ。たしかにそう動いたくちびるを見とめ、私も腰を上げ、姉よりも先に家路をたどる。よもや馬鹿な行動に出るんじゃないかと毎年気になって追いかけるものの、一年に一度のふたりの逢瀬を邪魔するつもりはなかった。  数歩進んだところでふと振り返る。墓前に佇むそのひとはやはり、私には見せたことのない表情でわらっていた。 (いちばんちかくてとおいひと)  2020.7.26
 声が、きこえる。  物心がつくより早く鼓膜を掠めていたそれが明確な言葉となったのはいつからだろう。木枯らしが吹き抜けるたび、かがり火で指先をあたためるたび、川の水で顔を洗うたび、苔むした地面に腰を下ろすたびに。耳を澄まさずとも頭に直接響く声。だれと問うまでもない。この森に棲まう者なら知らぬはずがない。彼ら、あるいは彼女らは、わたしたちの守り神であり、よき隣人であり、そして時には畏怖すべき存在。地水火風を司り、この森そのものでもあるそれらの声だった。  イデュナはあいされてるのね。風に髪を弄ばれる幼いわたしを見つめながら口癖のように母は笑っていた、生まれたときからあなたはとりわけあいされていたのよ、と。  あいしていたのならなぜ姿を見せなくなってしまったのだろう。あいされていたのならなぜ見えなくなってしまったのだろう。これも罰だというのだろうか、のろいだというのだろうか。彼らを、彼女らを、森を、仲間を、家族を、なにもかもを裏切ったわたしへの、これが報いなのだろうか。  もはや朧な記憶でしかない母の微笑みが水に呑まれる。昏く澱んだそれがわたしのつま先を濡らす。ぬめりとした感触に足を取られる。胸元が浸る。呼吸とともにのどの奥へ。酸素が絡め取られる。鼓膜が侵される。ぼわぼわと不愉快な音が反響する。水をかく手はだれにも取られず。声は、こえはもう、どこにも、 「──イデュナ、」  おぼれる意識をすくったのはやわらかな声。  もはやなによりも耳に馴染んだ音に拾われ、視界を開く。まぶたが重い。どうにかこじ開けた先に見えた浅葱色に緩慢なまたたきをひとつ、ふたつ、みっつ目にしてようやく、自身をとかしたその眸に微笑みかけることができた。  伸びてきた指先がわたしの前髪をやさしく払う。そのままの流れで横髪を撫で、大丈夫かい、と。動きにも声音にも、心配と不安がにじんでいた。 「うなされていたみたいだが」 「だい、じょうぶ、よ」  発した言葉がまるで信用ならないほど震えていることくらい、自分が一番わかっていた。  声が、意識が、身体が。ついいましがたまで沈んでいた夢にまだとらわれている。恐怖と、どこか懐かしささえ感じる水に、自分のなにもかもを呑まれる夢。最近とみに現れる夢、そう、夢、だ。 「だいじょうぶよ、アグナル、だいじょうぶ」  自身のために繰り返す。大丈夫、ただの夢。そのはずなのに、こののどが酸素を求めてひりついているのはなぜ。  後頭部にぐと力が加わり、広い胸にかき抱かれる。頬にふれた熱いほどの体温を感じてはじめて、涙がつたっていたことに気付いた。再びまぶたを閉ざす。少し早い鼓動に合わせて呼吸をひとつ。だいじょうぶ、生きている、わたしも、このひとも。 「大丈夫だよ、私がいる」  しとしと降り積もる言葉に涙がとけていく。思えば彼はいつも言っていた、大丈夫だと、私だけはいつでも君のそばにいるからと。 「だから、君が感じる恐れも不安もすべて分けてくれないか、私に」  耳元に落とされる響きに甘えてしまいそうになる、信じてしまいそうになる、このひとだけはと望みをかけてしまいそうになる。そうしてゆらぐわたしを引き留めるのはいつもわたし自身。わたしの知り得るすべてを聞き遂げた彼が果たして変わらず愛をささやいてくれるだろうか。そばに置いてくれるだろうか。永遠を誓ってくれるだろうか。  ぎゅ、とまぶたをつむり、押し寄せるそれらを閉じこめる。たったそれだけで、幾度となく隠してきた真実たちは留まってくれた。 「─…持ってもらってるわよ、いつだって」  すり寄った体温の持ち主は信じてくれたのか否か。わからないままに再び、眠りの波が押し寄せてきた。意識を手離すのが惜しくて、せめてもの抵抗にと目の前の寝間着を握りしめる。わたしと同じ香りが全身を包みこんでさらに、安堵という名の睡魔に侵される。よい夢を、なんて願いとともに額に降る熱。願わくば彼と同じ夢を。祈りがかたちになる前にとけていく。 「おやすみ、イデュナ」  合図とばかり、身体が重くなっていく。  ああ、ともすればあれはいつか訪れる未来なのかもしれない、などと。意識が途切れる直前、ふいに浮かんだのはそんなことだった。 (卑怯で臆病なわたしは今夜も目をそらす)  2020.8.4
 大体顧客というものは、わたくしを舐めてかかりすぎですのよ。  もちろんそんな横柄な態度を取るのはごくごく一部だけれど、それでもそのごくごく一部のせいでその日一日の気分を害されるわたくしの身にもなっていただきたいですわ。  納期はきっちり守りますのよ、ええ当然。クオリティだって落としませんの。その上で一言申し添えますの。あなたのそのわがまま、わたくしでなければまず通りませんのよ、って。大抵のかたはぐうの音も出ませんの、だって文句をつけようにもわたくしの仕事があまりに完璧なんですもの。  そう、だからこれはがんばった自分へのご褒美。だって無茶な依頼のせいで、あなたと連絡ひとつ取れなかったんですもの。秘書に手配をお願いしていた船便のチケットを受け取って、事前に用意していたトランクを手に飛び乗って。  ええそうですわ、日中は色々立て込んでいたから仕方なく、仕方なぁく最終便に乗りこみましたの、おかげでもう帰る便がありませんの。 「はるばる来てくれたのは嬉しいんだけどね、グローリア。私のスケジュール帳も見てくださるかしら」  あらまあ、ここからここまで空白ですわ。 「こら。ちょっと。勝手に人の予定塗り潰さないの」  いやですわ、ジャングルの夜ってこんなに早いんですのね。真っ暗な夜道なんてわたくし、生まれてはじめてでどきどきしちゃいますわ。 「わかった、わかったから本気で出て行こうとしないで。…今夜は泊まっていって」  ごめんなさい、カルロッタ。あなたを困らせたかったわけではありませんの。 「困ってないわよ、大丈夫。私だってグローリアに会いたかったもの。仕事だって別に急な案件が詰まってるわけじゃないし、一日二日くらいどうってことないわ」  そうですわよね、そこはあなたのモデルにも事前に確認しておきましたもの。 「下調べ万端じゃないの」  ああわたくし、長旅で疲れてしまいましたわ、癒してくださるかしら。甘いメープルをたっぷりかけたパンとおいしい紅茶が飲みたいの。 「昨日新しいメープルと紅茶を仕入れたこと、どうして知ってるのよ。私の個人情報筒抜けじゃないの。もしかしてうちの子たちもグルなのね」  そうだわ、あなたの笑顔も対面にあればもっとしあわせになれますわね。 「話を聞きなさいよ。…まったく。注文の多いお姫様だこと」  うふふ。カルロッタのこともあとでちゃぁんと甘やかして差し上げますわ。 「丁重にお断りするわ」 (あなたの前ではわがままプリンセス)  2020.8.7
 大体連絡のひとつも寄越さず嵐みたいにやって来るのが悪いのよ。  突然ひとの家に上がりこんでソファもお風呂もベッドさえ占領して。全部自分のものだとでも思ってるのかしら。まるで猫の子だわ。 「あなたはわたくしのもの、あなたのものもわたくしのもの、でしょう?」  あなたのものになった覚えはないんだけど。こら、枕に逃げるのはやめなさい、まだ髪乾いてないでしょ。いつもいつも拭いてあげると思ったら大間違いよ。だからそんな当然のようにタオルを差し出すのはやめなさい。拭かないったら。 「わたくしね、この一ヶ月がんばりましたのよ。無理な注文にも、」  完璧に応えて、ね、はいはいもう聞き飽きました。早くタオル貸しなさい。  まったく。あなたなら誰も彼もが甘やかしてくれるでしょうに、どうして私のところに来るのよ。きっとあなたが満足するほど構ってあげられていないわよ、私。 「だからだれでもいいわけじゃありませんのって、わたくし何度も伝えていますのに」  だれでもよくないのに私はいいだなんて、物好きな子ね。  ほら、拭き終わったから船を漕ぐのはやめなさい。ちゃんと横になって。私の膝は枕じゃないのよ、これも何度目かしら。  朝まで隣にいてあげるわよ、お望みどおりにね。だからゆっくりおやすみなさい。  もう寝た、かしら。かわいそうに、よほど疲れが溜まっていたのね。かわいらしい顔にクマまでこさえて。こんな僻地に来なくとも自分のベッドのほうが休まるでしょうに。  よくがんばってると思うわ、あなたは。年齢のことを持ち出すつもりはないけれど、それでも私よりうんと年若いあなたが数多くの注文を受けて、そのどれもに満足のいく作品を提供しているんだもの、尊敬しないはずがないわ。  創作意欲に満ちて、天真爛漫で、だれからもあいされるあなたがどうして私なんかのところで憩うのかわからないけれど。ねえグローリア、私もね、あなたのその無邪気で遠慮のないところに随分すくわれてるの。呆れながらも心があたたかくなって、自然と頬がゆるんでしまって。こういうのをきっと、 「─…うふ、ふ、」  ちょっと。寝たんじゃなかったのあなた。 「あら、バレてしまいましたわ」  どこから起きてたの。どこまで聞いてたの。まさか狸寝入りじゃないでしょうね。  こら。寝たふりはもう通用しないわよ、だから首筋に顔をうずめるのはやめなさい、そこはあなたの枕じゃないの、くすぐったいのよ。  ああもう、私はもう寝るわよ。はいはい隣にいてくださってありがとう。 (あなたの前では意固地なシスター)  2020.8.8
 ぬくもりを追いかけてくちびるに手を当てる。  たしかにつたうリップの感触。開いた視界で弧をえがく紅。 「ねだってないけれど」 「でも物欲しそうな顔してたわ」  寝る支度は万端、あとは夢に沈むだけだったというのにこのひとはまったく、今夜も寝かせてくれないらしい。  こぼした吐息はまた、紅に呑みこまれた。 (たったの三秒、)  2020.8.10