いつもなんの音沙汰もなく襲来する彼女が、けれど今日必ずやって来るであろうことはわかっていた、それこそ一年も前から。
「ごめんあそばせカルロッタ、今日がなんの日かご存じかしら!」
まだ陽も高いうちから扉を押し開けたそのひとは、三割増し興奮した口調をそのままにつかつかと目の前まで歩み寄ってきた。普段通りを装い緩慢に見上げた先の、水槽色の眸がきらきら輝いている。
「さあ、なにか特別な日だったかしら」
「焦らさないでくださいまし、わたくしの誕生日ですわ」
「あら、そうだったの。ごめんなさい、すっかり忘れてたわ」
「うそを仰らないで。ほら、あなたのスケジュール帳にもこんなに大きな印が、」
「だからひとのスケジュール勝手に書き加えないでってあれほど」
この子はちっとも待てができないらしい。早々に自身の口から洩らしたグローリアはあっさりスケジュール帳を手離すと、それでどこですの、と期待のこもったまなざしで辺りを見回す。
「なにが」
「わたくしへのプレゼントに決まってますわ」
「なんである前提なのよ。忘れてたって言ったじゃない」
「でもこの前プレゼントを買いに市場へ下ったって、あなたのモデルが教えてくださいましたのよ」
「ああもう、おしゃべりにもほどがあるわよ、あの子たち」
忘れたふりをして焦らして、うんと喜ばせてあげようと思っていたのに。
きっとあの子ねと、情報を洩らしたひとりに当たりをつける私の目の前でけれど本日の主役であるそのひとはうふふと笑みをこぼす、もう堪えられない、そんな様子で。
「うそですわ、ふふ、わたくしなぁんにも聞いておりませんことよ!」
ああ謀られたのだと、悟ったころにはもう遅い。現れたころからご機嫌だったお嬢様はそれはもう跳ねださん勢いで満面の笑みを浮かべている。この子の演技が迫真なのか、それともあからさまな誘導尋問に引っかかる私がどうかしているのか。
はい、と両手を差し出すグローリアにこれ以上優位に立たれるのも癪だ。プレゼントをいまかいまかと待ちわびるその手をぐいと引き、無防備なくちびるに口づけをひとつ。水槽色の眸に驚きが満ちる。
「──これも予想通りかしら、グローリア」
落とした囁きに真っ赤に染まる耳を見とめ、私の頬にもじんわり笑みが広がった。
(さあ、プレゼントの他にも豪勢な料理と──って、どうしたの)
(腰、が、抜けてしまいました、わ)
2020.8.11
暮れゆく空を眺めても、思い出すのはあなたのことばかり。
息抜きと理由をつけて作業場を抜け出した。だってアイディアのひとつだって浮かばないんだもの。
思考はごちゃごちゃうるさいのに、そのひとかけらも取り出せないまま。答えを求めて近場のカフェの窓辺に席を取る。
そういえばカルロッタとよくこの席で逢瀬を重ねた。とりとめのない話でさえあのひととなら花が咲いて、あっという間に日が沈んで、夕陽に照らし出された横顔がまるで芸術品のように美しくて。
都会は嫌いだけれどここからの景色はすきよ。
やわらかに落ちた声をふいに思い出し、ここにはいないはずの声の主を探してしまう。
ここはわたくしの街なのに、あちらこちらにこんなにもあふれている。
ふ、と息をひとつ。スケッチブックは白紙のまま、今日も夕陽は姿を隠した。
(まるで夕陽にまで呆れられているみたい)
2020.8.15
通い慣れた道に心地よい靴音が響き渡る。
変装といえば、日除けにかけたサングラスひとつ。自分で言うのもなんだけど、女にしては高い身長と豪快な歩き方を隠しもしないから、私の正体に気付くひとだっているだろう。現に通り過ぎた何人かは私を指差し、もしかして、とその名を口にしていた。
そのどれもこれもに混ざる興奮した調子に口角がゆるむ。だってそれだけ自身の名が浸透している証だから。
自分の外見にも歩き方にも、この道のりにだって、やましいことはなにひとつない私には、変装なんて必要なかった。
さて健全な目的地にたどり着いたところで遠慮会釈なく扉をくぐる。からんと来訪を告げるベルももう耳に馴染んだものだ。この店の主お抱えの従業員たちが笑顔で出迎え、けれどサングラスを外した私を前にしてざわめきが広がっていく。通い始めていくらか経つというのに、いつだって色めきだった反応を返してくれるんだからかわいいものだ。
主の所在を尋ねようとした矢先、呆れた声音が投げられる。
「まぁた来たのね、カトリーヌ」
「あら、お得意様に向かって随分な言い草ね、グローリア」
奥のカウンターから姿を現した店主は、私を見とめ大仰に息をついた。
はじめはデザイナーと依頼主という間柄でしかなかった私たちがこうして友人関係を築くに至るまでいろいろあったわけだけど、同年代であることも理由のひとつかもしれない。てっきりうんと年下だとばかり思っていた彼女はどうやら私とさほど変わらない年齢らしく─もっともその話を持ち出せば、若作りだとか言うんじゃないでしょうね、と不機嫌になるものだから、からかうときにしか話題にしないんだけど─そこから購読している雑誌や好みの歌劇の話に発展し、意気投合したのだ。
曲がりなりにも今をときめく大女優相手に不遜な物言いを向けてくるのは彼女とその恋人くらいで、私のことを心から案じてくれるのもまたそのふたりくらいなものだから、その距離感が心地よくてつい、なにかと足を運んでしまう。グローリアもそれを察してくれているのか、呆れはしても決して来るなとは言わなかった。
慣れたカウンターに腰を下ろせば、彼女は諦めたようにこめかみを押さえる。
「きっと長くなるだろうから、少し早いけど店じまいしてちょうだい」
従業員たちにそれだけ伝えて、やれやれと目の前に腰を据えてくれる。なんだかんだこの子は私に甘い。その優しさを存分に享受したって、ばちは当たらないだろう。
何度目かわからない想い人に対する不満を皮切りに始まる雑談会。タイムリミットは明日の稽古時間まで。友人との久しぶりの戯れに、頬はもうとっくにゆるんでいた。
(まあ私もあなたのこと甘やかしてるんだからおあいこよね)
(だれがいつ甘やかされたのよ)
2020.8.16
お祭りってなんでこんなにも心が躍るんだろう。
とりどりの屋台に鼓動が逸り、街中に流れる音楽に自然と足がリズムを刻む。いつもより多い人通りがわたしたちを隠してくれる。だれもわたしたちのことなんて気に留めない。わたしは別に目立ったって構わないんだけど、きっとお姉さまがいい顔をしないだろうから、今日は大人しくその他大勢として楽しむのだ。
「ちょっと。歩くの早すぎよ、あなた」
「はぐれたって迷子にはならないわ。姉さまったら心配性ね」
早足で歩み寄ってきた姉さまが服の裾をつかむ。わたしを心配してるふりして本当は自分がひとり、こんな人混みのなか取り残されたくないだけだってこと、気付いてるんだから。楽しいお祭りを喧嘩して過ごすのも嫌だから口にはしないけど。わたしったら今日は随分と大人ね。
あれもこれもと手にする先からおなかのなかへ消えていく。最初は呆れてた姉さまも陽気な雰囲気に呑まれたみたいで、徐々に笑顔が覗いてきた。これはおねだりする絶好のチャンスだわ。
そう、わたしのおねだりをなんでも聞いてくれる一番上のお姉さまではなく、二番目の姉さまをわざわざ連れ出したのには理由があるのだ。
「ほら姉さま、これをどうぞ」
「また無駄遣いして…」
いましがた買ったばかりの仮面を手渡す。文句を言いつつも受け取ってくれた姉さまの手をつかみ、誘導したのはひとがひしめき合う中央広場。ひときわ大きく鳴る音楽に合わせ、めいめい自由にステップを踏んでいる。
仮面やペイントで素顔を隠したひとたちの渦に、わたしたちも飛びこんでいく。
「まさか一緒に踊りましょうなんて言い出すんじゃないでしょうね」
「さすが姉さま、察しがいいわね」
「嫌よ。おひとりでどうぞ」
予想通りの反応に、だけど手首は解放してあげない。少しきつい表情で見上げてくる姉さまに、お願い、と指を絡める。
「わたしね、一度でいいから姉さまと踊ってみたかったの。こんな機会でもなくちゃ許してくれないでしょ」
わたしよりもなおその身体に海の気配を宿した姉さまは、ひとの前で素顔を晒すことを極端に嫌う。そんな姉さまのために仮面まで用意したあたしの気づかいを、ちょっとは汲んでくれたっていいんじゃないかしら。
いつも見下ろすばかりの姉さまに、腰を屈めて目線を合わす。なんだかんだこのひとだって、お姉さまに負けず劣らず甘いことを、わたしはちゃんと知っている。
ぐ、と気圧されたようにくちびるを噛んだ姉さまはそうして仮面で素顔を覆い、今日だけよ、とそれはそれは仕方ないふうを装って呟いた。
「やったあ! 大好きよ、姉さま!」
「ちょっと、暑苦し、」
もがく姉さまを抱き寄せステップを刻む。よろめいた姉さまも、だけど難なく体勢を整えすぐさまリズムを指先つま先へ、舞うのはだれよりも華麗なダンス。
つないだ手をめいっぱい伸ばす。くるりと引き寄せて、わたしの腕のうちで姉さまがターンする、楽しそうに。湧き上がる喜びを表現する姉さまを目にするのはいつ以来だろう。思い起こすなんて無粋な真似はやめてただふたり、群衆にとけこみ音楽に乗る。
ふ、と顔を上げたそのひとの、仮面越しにもはっきり映る宵の眸がわたしを捉える。ああ姉さま、わたしも同じ気持ちよ。だれの目も気にすることなく大好きな音楽に身を投じるこの喜びを、しあわせをいま、共有してるの
まだ高い陽が、垣根なく舞う人々をあたたかに照らす。どうか音楽よいつまでもと、つないだ指に願いをこめた。
(ひともまものもまいおどり、)
2020.8.17
気付いていた、だって視線が痛いほどまっすぐだったから。
自惚れていた、だってこの日々がずっと続くものだと信じて疑わなかったから。
なんて愚かだったのだろう、私は。いまさら後悔したって仕方がないのにそれでも、もしもをえがかずにはいられない。もしも。もしも私が好意を素直に受け取っていたら。もしも、私もよと、きちんと返していたら。あるいはこの結末も変わっていたのだろうかと。現実から逃避したいがための繰り言はやまない。
力無く座りこんだ私を、床一面に広がった花弁がやさしく受け止める。
春と一緒に終わってしまうから──微笑みながらこぼした彼女の言葉が頭をめぐる。どうして私はその言葉の意味を、微笑みの裏を深く突き詰めなかったのだろう。いまにも儚く消えていきそうだった身体に手を伸ばさなかったのだろう。終わりを悟っていながらそれでも笑っていた彼女になにができたかはわからない、けれど想いを伝えることはできたのに、抱き留めることも、ともに終わりをみつめることだって、ああ、それなのに私は。
震える両手で花弁をすくい上げ、胸にかき抱く。はらりはらり、腕の隙間からこぼれ落ちていってしまう。
目にまぶしいそれは、もうここにいない彼女と同じいろをしていた。
(春にとけたひと)
2020.9.5
これがなければ姉は完璧なのに、といつも頭を抱えずにはいられない。
「裸で寝るのだけはやめてくださるかしら、お姉様」
ついに下着の金具まで取り外しにかかっている目の前の姉に何度目かの苦言を呈したところで聞き入れられないどころか明日にはさっぱり忘れてしまっているということは、これまでの経験でよく理解している。これだから酔っ払いは手に負えない。
背中に両腕を回したままちろりと私に向けられた視線には不服が色濃くとけている。私だって姉の寝姿にまでとやかく言いたくない。言いたくはないけれどここが姉の自室ではなく私の部屋である限りは全裸で眠られては困るのだ、非常に。
ぱち、と申し出も空しく金具を外してしまった姉に深い深いため息をひとつ。ならば私がソファを寝床にするしかないと出て行きかけたところでぐんと惹かれる手首。ああもう勘弁してほしい。振り返れば、早くもベッドに身を横たえた姉が私の手首をつかみ、シーツを持ち上げ笑っている、まるで邪気の無い子供のように。
こなれば私に拒否権は存在せず、いざなわれるままベッドへ不時着。まだ寝間着に着替えていないどころかお風呂にさえ入っていないのに。
私の肩まで雑にシーツを引き上げた姉に引き寄せられるまま頭は姉の胸元へ。枕よりもまだやわらかな感触に無理やりまぶたを閉じる。眠気はきっと訪れない。
(これじゃあどっちが姉だかわからないじゃない)
2020.9.13
あなたを思い起こすとき、最初に浮かぶのは鮮烈な赤。
わたしの被るちゃちなサンタ帽と、あなたの首を彩るスカーフだけが共通点だった。
同じ色なのに、ただの色であるはずなのに。名前も知らない初対面のあなたの首筋にあるというだけで目を惹かれた。
あるいはわたしにしか見えていなかったのかもしれない。視線を外した一瞬の隙に消えたあなたを想い、そう結論づける。そうでないと誰も彼もの目に留まらないはずがないから。
それでもしっかり記憶の片隅に居座ったまま離れようとしない色がふと、呼びかけてきた。
上げた視界を塗りこめる鮮明な赤。声も視線も表情も、わたしのすべてが強引に奪い去られていく。他のなにもかもが途端に色を失くしていく。同じ色のくちびるが不器用に弧をえがいて。
ああ、わたしは、
(思えばはじめからあなたの色しか見えていなかった)
2020.9.16
わたくしの誘いに返事はなかった。
いつもみたいに眉尻を下げる、それが答え。
わかってますわ。事あるごとに傍にいたがる行為が、ひとりよがりな好意が、あのひとの負担になっていたことくらい。やさしいあのひとの厚意に甘えていただけってことくらい。
わかっていても、いざ突きつけられるとどうしようもなく息が苦しくなってしまいますの、どうしようもなく涙があふれてしまいますの。
広げたままのスケッチブックがにじんでいく。
今日来なければ諦めようと思っていた。ひとりで生きていく覚悟を決めるつもりだった。けれどわたくしはまだこんなにも、筆が進まないほどあなたのことを。
夕陽が姿を隠していく。あれだけ賑やかだったカフェがひとり、またひとりと、だれかと連れ立ち笑顔で夜の街に消えていく。
あのひとは来ない。言い聞かせる。あのひとは来ない。
それでもあふれる悲しみに溺れたくなくて必死にペンを走らせる。ペン先には性懲りもなく希望がにじんでいる気がした。
(それでもわたくしは信じたかったの)
2020.9.20
てっきり呆れて帰っているものだとばかり思っていた。
約束の時間はとうに過ぎていた。いや、約束と呼べるかも怪しいそれはつい一週間程前、いつものように押しかけてきたグローリアが一方的に結んだものだ。適当にいなす私の言葉もものともせず邪気の無い笑みを振りまく彼女はけれどそのときばかりは妙に真剣な表情で繰り返していた。一週間後の正午、彼女のサロンのほど近くにあるカフェに来てほしいのだと。大切な話があるのだ、と。
その指定された日時が今日。クローズの札を掲げた目の前のカフェが待ち合わせ場所。
彼女の言う、大切な話の見当はついていた。恐らくは以前から交友関係にあったのだという財閥の跡取り息子との婚約について。ゴシップ雑誌なんて手に取ったこともないけれど、その記事を目にしたうちのモデルたちが口々に噂しては私の存在に気付きばつが悪そうに散っていたものだから、ついに気になって読んでしまった。
婚約間近だと、記事は謳っていた。にこやかな好青年の腕に縋るグローリアの写真がまぶたにこびりついて離れない。私の前で見せる気儘で無邪気でわがままな、まさしく箱入りのお嬢様といった風情はどこへやら、誰がどう見ても完璧な令嬢がそこにいた。
やっぱりね。ひとりきりの私室でどこか納得したように呟いていた。やっぱりあなたにはこういうひとが相応しいのよ。
私のような人間に好意を寄せたことがそもそもの間違いだったのだ。向けられた愛情にろくに応えられない人間に、忌み嫌われて生きてきた私なんかに。
この婚約が彼女自身が望んだことなのか、それとも厳格な彼女の親が勝手に取り決めたことなのはわからない。けれどこれで諦めもつくだろうと思った。自分にとって誰が相応しいのか、どんなひとと一緒になるべきなのか、彼女にも見えてくるだろうと。
いいですわね、絶対ですわよ。何度も念を押していたグローリアにきちんと告げればよかった。素敵な縁談に影が差すのも嫌でしょ、だからもう私と会わないほうがいいわ。どこか懇願するような表情の彼女に言えるはずもなかったけれど。
約束を反故にするつもりではなかった。結局断りの手紙さえ書けなかったから、最後に直接会って、この前伝えられなかった言葉を向けるつもりだった。
急に入った商談にどれだけ救われたことか。ああこれで言い訳ができたと、卑怯な私は安堵さえしていた。
顧客と別れたのは宵闇迫る夕方。きっともう帰ってしまっているだろうと思いつつも、カフェでひとり夕暮れを眺めているグローリアの姿が浮かんでしまってはそのまま休むこともできず結局、アメリカンウォーターフロント行きの最終便に乗りこんでしまった。自分の行動がまったく理解できないものの、こうなっては引き返すこともできない。
タラップを下りても足はもどかしいほど進まず、いっそこのまま夜が明けてしまえばいいのにと往生際悪く考えている間にたどり着いた待ち合わせ場所は、すでに店仕舞いを始めていた。
安堵と、落胆。どちらの割合が大きいのか、それさえもわからない。今夜の宿をどうしようかと、冷静な部分がやけに呑気に思う。往路よりも重い足を引きずり踵を返したその直後、窓際で動く影が視界に入った。
カルロッタ。立ち上がった影が叫ぶ。驚きにまばたきさえ忘れた私を置いて、影が姿を消す、カフェの扉が勢いよく開いて瞬間、衝撃に包まれた。
「カルロッタ! ああ、絶対来てくださると信じてましたわ…!」
涙に濡れた声に、じわりと胸が締めつけられていく。彼女は信じてくれていたのに、こんな夜中まで待ってくれていたのに、臆病な私は向き合おうともせずただ逃げていただなんて。
こわかった。グローリアの口から婚約の話を聞くことが。あんまりにも無垢に一途に私を想ってくれていた彼女が離れていってしまうことが。一度だってその想いに報いたことがないくせになんて身勝手なのだろうと呆れるけれど、それでも私はいやだった、彼女の隣に居心地のよさを感じていた。
伝えなければ、私の本当の気持ちを。全部明かして、それでも他の誰かと共に生きるのだというのなら、きちんと笑って諦めなくては。
「待たせてごめんなさい、グローリア。…その、あなたの婚約の話、だけれど、」
「あら、ご存じでしたのね」
恐る恐る切り出した言葉に、それまで鼻をすすっていたグローリアが丸めた眸をそのままに見上げてきた。
「それならわたくし、きっぱり丁重にお断りいたしましたわ」
「おことわ、え、どうして、」
「ついでに母との縁も切ってまいりましたの。わたくしは嫌だと散々申しましたのに、今回の縁談だって勝手に決めるんですもの。おかげで清々しましたわ」
「縁を、って、ちょっと待ちなさいグローリア」
「待つもなにも、もう済んだことですわ」
動揺になにひとつ答えを得られないまま、上機嫌なグローリアがぐいぐい手を引く。目指す場所は恐らく彼女のサロン。混乱で足がもつれる私に、けれど彼女は楽しそうに振り返る。こんなときだというのに変わらぬ笑みにやっぱりすくわれてしまって。
「遅れた罰ですわ、今夜は一晩中、おしゃべりに付き合ってくださいな!」
(ねえそろそろ寝かせてもらえないかしら)
(まだ真夜中も過ぎていませんことよ)
(どうしてそう宵っ張りなのよ)
(若いからかしら)
(喧嘩なら買うわよ)
(喧嘩する元気がおありならもっとわたくしの話を聞いてくださいまし)
(仰せのままに)
(目を開けてから仰ってくださいまし)
2020.9.20
姉が子猫を抱えてきた。
「これで何度目だとお思いかしら、お姉様」
「人懐っこいみたいで離れないの、だから仕方なく連れてきたのよ」
「指。指噛まれてるわよお姉様」
動物に目がないこのひとは特に猫を寵愛しており、捨て猫を見つけてはこうして連れ帰ってしまうのだ。ただでさえ食べ盛りの妹のおかげで家計に余裕がないというのに、そのうえ猫まで養う余力は我が家にはない。幸いにも歴代の猫たちには貰い手がついたけれども、毎度毎度すぐ飼い主が見つかるとも限らない。それにもう、猫と別れる際に見せる姉の切なさを押し殺した表情にまみえるのは御免だ。
聞けば姉の親指を一心に口に含んでいるこの猫はどうやら、親猫を亡くしてしまったらしい。亡骸の傍らで鳴く姿を見かけ、どうしても手を差し伸べずにはいられなかったのだと。申し訳なさの欠片もなく弁明する姉にため息は止まらない。
「…おなかを空かせてるみたいだから、ひとまずミルクを飲ませてあげましょう」
「そう、そうね、いまあたためるから待っててちょうだい」
いまだ指に吸いつく子猫を不器用にひと撫でした姉は、名残惜しそうに私に預けると急いでキッチンに向かった。
片手の平に収まる大きさの猫はけれどそこまで弱っているわけではなさそうで、鍋を火にかけている姉に咎められぬようこっそり安堵の息をつく。あれは何匹目の猫だっただろうか、ひどく衰弱していたその子は翌朝の陽を浴びることなく息絶えてしまった。そのときの姉の憔悴ぶりときたら、後追いでもしかねない様相だった。
不思議そうに私を見上げる猫の眸はどことなく姉のそれと似た色をしている。そんなところも、姉の情が移った原因なのかもしれない。
「…おまえも同じね、私と」
依拠すべき親を亡くし、そうしてあのひとに救われた。この小さな身体に惜しみなく注がれる姉の愛に嫉妬しないと言えば嘘になるけれど、それが姉というひとなのだから諦めるより他はない。
人差し指でそ、とあごの下をくすぐる。まるでそうされることが当然とばかりに受け入れた子猫は、薄氷色の眸を閉ざし満足そうにのどを鳴らした。
「あらあ、随分と仲良しじゃない。あなたも手放したくなくなっちゃったんじゃないの」
「飼わないわよ」
「強情っぱりねえ」
人肌のミルクをいれた哺乳瓶片手にやって来た姉は少しだけさみしそうに笑った。
(貰い手が見つかってよかったわね)
(そうね)
(きっとかわいがってもらえるわよ)
(わかってるけど、最後のバステトの顔が離れなくて)
(ああもういつも言ってるでしょう、名前なんてつけるから名残惜しくなるんだって)
2020.9.23