薬を手渡すたび、向けられる感謝に罪悪感を覚える日々だった。  ご丁寧にも毎月動けないほどの痛みを与えられるグローリアを少しでも救いたくて、薬を煎じ始めた。そうでもしないと、効きもしない市販薬を山と服用してしまうから。  あなたの薬はよく効くわね。汗で張りついた前髪をそのままに、鈍痛で眉を寄せて、それでも彼女はいつも笑ってみせる。痛々しいその表情に張り裂けそうな胸を留めて私も笑みを返していた、だって本当に苦しんでいるのは私ではなく彼女自身なのだから。  私が調合した薬は、彼女が常備しているものほど効力はない。そもそも手渡し始めた理由は、薬物中毒と呼べるまで常用していたからなのだから、同様の効き目を持つ薬を与えてしまっては意味がないのだ。  身体に悪い薬に依存するくらいならいっそ害の少ない私の薬に──私に依存してくれればいいと。エゴが混ざっていないといえば嘘になるけれど。  前髪を整えた流れで頬に伸ばした指先に縋る冷たい腕。熱に浮かされたようにうつろな眸がようやく私を捉え、ふ、と口角をゆるめる。 「─…ああでも、もしかしたら、」  あなたが一番の特効薬なのかも。すう、と寝息にとけた言葉が胸に刺さる。ごめんなさい。謝罪は今日も届かなかった。 (依存しているのはきっと、)  2020.10.3
 あらまあ、と怪異そのものであるそのひとは驚いたふうに目を丸めた。 「本当よ、お姉さま。夜な夜な彷徨っては海の底に消えていくんですって。まるでこの世に未練でもあるみたいに」 「ここらも物騒になったものねえ」  妹が興奮さえ覗かせて話題にしているのは、最近この港で囁かれている怪しい噂。宵も深まる海の際、腰を優に越す髪を波風に遊ばせる女がふらりと現れ、最後は波に呑まれるように海へと落ちていくのだという。家に引きこもってばかりの私でさえ耳にしたことがあるのだから、よほど流布しているのだろう。噂好きの人間が好みそうな話だとさして興味はなかったけれど、よくよく聞いてみればこれは。 「ね、ね、お姉さま、あねさま、わたしたちで捕まえましょうよ」 「そうね、私の散歩ルートに現れるとあらば見過ごせないわ」  ああもうこのひとは。姉はどうやら、深夜に自分の縄張りを徘徊する不審者だとしか思っていないらしい。妹とともに珍しく意気込むその足で鏡台の前に立ってほしい。  こんな奇異怪談が大好物の妹は目を輝かせ、私の手を取り繰り出すは闇の色濃い夜の海。明日には怪異が三人に増えているんでしょうね。  私の心中など知るよりもなく、頭痛の種たちは勇んで家を後にした。 (ね、ね、お姉さま。今度はなんと三体現れたらしいわよ!不思議ね!) (まあなんてこと。どこの輩かしら) (ねえどうしてそう鈍感なの)  2020.10.14
 私の記憶にいる姉が涙を流したことはただの一度もない。  母がこの世を去ったときだってそうだ。簡単な葬儀のあと、私と妹を抱きしめたあのひとは悲しみのかけらを覗かせるどころか微笑んでさえ見せた。これからは私があなたたちを守るから。妹に言い聞かせるようにも、姉自身の決意にも聞こえた。  どうして泣かないの、と。あのとき呑みこんだ疑問がいまも腹の底でくすぶっている。娘たちのだれよりも母を慕っていたこのひとこそ、涙をあふれさせてしかるべきなのに。  ふわり、過去を彷徨っていた意識が浮上する。視界に差しこんだ光がまぶしい。 「調子はどうかしら」  光がこぼすやわらかな声。ちょうし、調子。回らない頭がようやく、身体を蝕む熱を思い出した。ひやりとした感触が額にふれる。あのひとの指、だ。思い至ったころにはもう距離を置いてしまったそれがひどく恋しい。 「まだ高いわね。りんご切ってくるから少し待って、」  ようやく伸びた手が、席を立ちかけた姉の裾をつかむ。振り向いた眸が丸みを帯びる。 「おねえさま、は。わたしが、しん、だら、ないてくださる、かしら」 「─…ばかな子」  私を映す眸がくしゃり、まるで泣き出すみたいにわらった。 (ねえ私きっと、お姉様に泣いてほしいんだわ)  2020.10.24
 無理に引き剥がされた手に、伊之助は大いに違和感を抱いた。  感情の機微というものに疎い彼は、相手がたとえば唐突に腕を取られたことに驚いたせいだとか、たとえば指を舐められることに抵抗を覚えたせいだとかは微塵も考えない。そもそも普段温厚な胡蝶しのぶが相手となればそのどれもありえないことだ。やんわり窘めるか、あらあらとおかしそうに眸を丸めるくらいが常である。けれども彼女は彼を拒んだ、伊之助でさえ疑問に感じるほど明確に。  彼女の表情に動揺が走ったのは一瞬、すぐに繕われた笑みはけれど急ごしらえのそれ。 「だめですよ、伊之助君。傷口からばい菌が入っちゃいます」 「んだよ、傷はなめときゃ治るって、」 「だめ」  有無を言わせぬ眸は、ともすれば懇願のようにも映った。細い手首を再び捕らえようと伸びた伊之助の腕が思わず止まる。その隙に拭われていく指。まっさらな布に滲む赤。 「なんか隠してねえか、しのぶ」 「なんのことでしょう、伊之助君」  彼女の笑みはもはや崩れない。みたび血の豆が浮かんだ指を、伊之助はただただ見つめるしかなかった。 (お前はなにも教えてくれないんだな)  2020.10.26
 依頼だと思って熱心に耳を傾けていたのに、気付くと惚気話にすり替わっているのだから本当、油断も隙もあったものじゃないわ。 「それでねロバートったら、君のそのまっすぐな眸に射抜かれたら誰だって裸足で駆け出したくなるさ、なーんて言ってね、」 「それで体よく逃げられたんでしょ、また」 「あら、恥ずかしくてどこかへ行っちゃっただけよ」  話を聞く限りは毎回置いてけぼりにされているというのにこのひとは、めげずに一途に懸想しているのだから不思議。いまや誰もがその名を知る大女優にここまで想われているそのロバートという男に興味は湧くけれど、顔を合わせることは叶わない気がする。大体、わたくしの友人の心を奪っておきながら誠意のひとつも見せない相手だなんて、対面した途端グーで殴りかねない。などと、このひとには口が裂けても言えないけれど。 「まあ、もうこんな時間。そろそろ劇場に戻らなくちゃ」  わたくしの心中など露知らず、腕時計に目をやったカトリーヌはサングラスをかけながら立ち上がる。それだけで女優の風貌と化すのだから毎度感心してしまう。 「今度はちゃんと仕事の話を持ってくるから、許してちょうだいね」  べつに話に来るだけでもいいのよ、なんて、口が裂けても言ってあげない。 (今日は海外のお菓子持ってきてあげたからいつもより時間延長してもいいわよね) (そういうお店みたいに言うのやめてちょうだい。賄賂なんかなくったって聞いてあげるわよ) (素直じゃないんだから) (なんでわたくしが悪いみたいになってるの)  2020.10.27
「そもそもどうしてそんなにすきになったのよ」  呆れ混じりのカルロッタの問いにどうしてかしらと首を傾げる。 「ちょっと。そんなに考え込むようなことじゃないでしょ」  記憶をたぐる、そうだ、あれは二年前、私がまだ駆け出しの役者として燻っていた頃、 「ねえ、その回想長くなるの?」  そう、まだ満足に仕事ももらえなかったあの頃。  なにもかもを投げ出したくなって、外国行きの客船に飛び乗った。片道切符でいいと思っていた。もうなにもかもどうでもよかった。けれど海に身を投げる気力もなくただぼんやりと、遠ざかる陸地を眺めていたら突然、ぽん、と。鮮やかに色づく視界。 『ああやっぱり。君には笑顔が似合う』 「気障なセリフだこと」 「自分で振ってきたんだから、少しは静かに聞いててちょうだい」  けれどカルロッタのおかげでまた、あのときのまばゆい花の色を思い出せた。知らずゆるむ頬。頬杖を突いたカルロッタがおかしそうに苦笑する。 「大女優の恋する表情なんて、一体この世で何人知ってるのかしら」 「貴重だからとくと拝んでおきなさい」 (ところでそのロバートとかいう男、一回殴ってもいいかしら) (だめに決まってるでしょ) (パーは) (だめ) (チョキ) (指変えればいいと思ってるの) (じゃあもう呪詛しかないじゃない) (一番ひどいわよ)  2020.10.27
 こんなつもりじゃなかった、なんて言い訳でだれが許してくれるというのだろう。  まっさらなベッドからようやく聞こえ始めた穏やかな寝息。血の気を失った彼女の顔は、けれど目元だけは痛々しいほど赤く腫れあがっていた。  ゆるして、どうかゆるしてカルロッタ──悲痛な懇願が耳にこびりついて離れない。  入院する旨を聞きつけたのは、グローリアが倒れた次の日だった。病室に駆けこんだ私を見るや、部屋の主は怯えを顔ににじませた。あなたの言いつけを守れなかったと、展示会に穴を開けてしまったと、お母様を失望させてしまった、と。鎮静剤が効くまでひとつひとつ、懺悔でもするみたいに。  毎月訪れる痛みに逃げ場を与えたのは私だ。効きもしない薬をまるでお守りのように抱えさせて、これ以外に救いを求めてはならないと刷りこんで。彼女の身体を気遣って、なんて建前を剥がして現れたのは、ただ依存の矛先を私に向けてほしかったなどというあまりに身勝手な本音だった。  青白い頬に伸ばしかけた手を間際で留める。いまの私に、彼女にふれる資格などあるはずもないのに。時折混じる苦し気な息遣いに胸を締めつけられる。ああどうか。願うことさえおこがましいとは分かっているけれど。どうかどうか、彼女の怒りが悔しさが絶望が、彼女自身の首を絞めることになりませんようにと。 (願うことしかできない無力な私は、)  2020.12.7
 先生は自分以外のだれかを決して自室に入れようとしない。それはなにも僕たちに心を許してないからとかじゃなくて─その可能性もなきにしもあらずだけど─こわいから、なんだと思う。自分の領域に入られることが、自分自身を間近で見つめられることが。ただの推測ではあるけど、はずれでもない気がする。先生のおそばにいさせてもらって少しずつわかってきたことは、このひとはひどく臆病だということ、だから。  だけどもそんな先生に最近、変化が訪れてる。 「聞いてくださいまし、カルロッタ!」 「ああもうあなたはまた断りも無しに…」  嵐のように来訪したグローリアさんは我が物顔で先生の私室に押し入り、いつも通り笑顔でソファを陣取る。せめて僕たちには事前に教えてくださいと懇願したおかげで、一報は入るようになった。ほんとにほんとに直前に電話一本もらうだけだけど。  開いたままの扉からふたり分の声が洩れ聞こえる。楽しそうに弾む声。呆れたように差し挟まれるため息。だけど僕たちは知ってる、先生は決して迷惑に思ってるわけじゃないことを、心地よい侵入者に少しずつ気を許していることを。  先生がわざわざ街から取り寄せたお茶菓子を用意する。色鮮やかなそれがグローリアさんの好物だということは僕たちには秘密らしいので、今日も何食わぬ顔でお持ちした。 (つまりは公然の、)  2020.12.7
 この屋敷に彼の声が響くことはもはや珍しくなくなった。 「おいしのぶ! 見ろ! でっかいムカデつかまえた!」 「まあそれは…、随分立派な…」  毎度口を酸っぱくして言い含めたおかげで、礼儀正しくもきちんと扉を開けてやって来た彼の手がわし掴んだそれがうぞうぞと蠢く。控えめに言って気持ち悪い。いくら私が蟲柱だからといって、虫が得意なわけでは決してないというのに。  近付いてくるそれについに腰を上げる。じりじりと距離を取る私にようやく気付いたのか、眉を寄せた彼は怪訝を露わにした。 「ああん? どうしたんだよ、こんなでっけえのに」 「あのですね伊之助君、大きいから問題なんですよ。そもそも相手が私でなければ今頃、悲鳴を上げて叩き切っているところです」  なんだよ、と窓から投げ捨てた彼は妙に不服そう。  なんですか、と問いたいのはこっちの方だ。昨日はふっくら太ったネズミ、その前はカメ、前の前はもう思い出せないけれど、連日なにかしらを捕まえては私のもとを訪れるのだ。まるで獲物を見せびらかす猫のように。  目の前の丸椅子にどっかと座った彼が、頭の後ろで両手を組みあからさまなため息をつく。私に非があると言わんばかりに。ますます意味がわからない。 「いつもだったら褒めてくれんのによ」  ぼそり。落ちた声にしばらく目を丸めた。 (だって、それだけ、だなんて)  2020.12.7
「そろそろしのぶ様を呼んできてください」  子分のひとりであるアオサのぶしつけな頼みに、俺は大いに腹を立てた。 「なに、どうして俺が、」 「私もカナヲも手が塞がってるからです。朝ごはんが遅れてもいいならいいですけど」  しゃもじを握ったアオノリはそうしてまた台所に駆け戻る。そこまで懇願されちゃあ仕方がない。子分の頼みをきいてやることも親分の務めだからな。  ドスドスと足音を響かせて目指すはしのぶの部屋。  てっきりまだぐうすか寝てやがると思ってたのに、そいつはきちんと服を着こんで髪も結わえて鏡台の前に座ってた。だけどもなにかと鋭いしのぶにしちゃあ珍しく、俺が来たことに気付いてないらしい。鏡の中のしのぶはただじいっと、自分の顔を見つめてるみたいだった。 「おいしのぶ、朝飯だぞ、早く来い。俺は腹がへった」 「あらあ、カナヲ」  肩を掴んで振り向かせる。いつになく遅い動作。どこか定まらない視線。妙に間延びした声。どれを取ってもしのぶらしくない。それに俺はカナブンじゃない。一体どこに目をつけてやがるんだ。 「なに言ってんだ、しの、」  文句を言い切る前にぽすり、腹めがけて落ちる頭。続いて洩れ聞こえたのは寝息。おい。俺様の腹は枕じゃねえんだぞ。一瞬大声を出しかけたものの、あんまりにも規則正しい呼吸に割って入ることができなくて。  さらさらな毛先が腹をくすぐる。あったかい息がふれて、離れて、またふれて。  どうか腹の虫がこいつを起こさないようにと、寛大な俺はただただ小さな頭を見つめた。 (そんないいもんじゃねえだろ、寝心地)  2020.12.7