無理に引き剥がされた手に、伊之助は大いに違和感を抱いた。
感情の機微というものに疎い彼は、相手がたとえば唐突に腕を取られたことに驚いたせいだとか、たとえば指を舐められることに抵抗を覚えたせいだとかは微塵も考えない。そもそも普段温厚な胡蝶しのぶが相手となればそのどれもありえないことだ。やんわり宥めるか、あらあらとおかしそうに眸を丸めるくらいが常である。けれども彼女は彼を拒んだ、伊之助でさえ疑問に感じるほど明確に。
彼女の表情に動揺が走ったのは一瞬、すぐに繕われた笑みはけれど急ごしらえのそれ。
「だめですよ、伊之助君。傷口からばい菌が入っちゃいます」
「んだよ、傷はなめときゃ治るって、」
「だめ」
有無を言わせぬ眸は、ともすれば懇願のようにも映った。
細い手首を再び捕らえようと伸びた伊之助の腕が思わず止まる。その隙に拭われていく指。まっさらな布に滲む赤。
「…なんか隠してねえか、しのぶ」
「なんのことでしょう、伊之助君」
彼女の笑みはもはや崩れない。みたび血の豆が浮かんだ指を、伊之助はただただ見つめるしかなかった。
(どこからか香る藤の、)
2020.12.7
そういえば、と。傾げた首を真似るように、目の前の端正な顔も同じ方向に傾いた。
「最近は被らないんですか、伊之助君」
率直な問いを受け、新緑色の眸がまたたきをひとつ、ふたつ。やっぱり何度見ても羨ましいほど整った顔立ちだと、答えを与えられるまでの間に思ったのはそんなこと。
怪我を負った箇所が顔でないのなら特段脱いでもらう必要もなかった。けれども彼はここ最近、無駄に綺麗な素顔を晒して私を訪ねてくる。洗濯中だとか修繕中だとか理由を考えてみたけれど、私以外のだれかと一緒のときはいつも通り猪頭で元気に走り回っているのだから首を傾げたくもなる。
ようやく質問の意図を汲み取ったのか、秀麗な顔が苦虫を噛み潰したように歪んでいく。どういう表情なんですか、それは。
「アオギリが言ってたんだ、しのぶは毛のふさふさしたヤツが苦手なんだって」
彼の言うアオギリ、とは、恐らくアオイのことだろう。相変わらず私の名前しか正確に口にするつもりがないらしい。
「しのぶがいやな思いしたらやだな、って、思って」
「まあ」
目を丸めるのは今度は私のほう。ひとの感情に疎くはあるけれど、その実だれよりも敏感な彼らしい気遣いに自然、口の端がゆるんでいく。
大丈夫ですよ、と。いまだ顔をしかめている彼に微笑んだ。
「嫌だなんて思いませんよ。だってあれは君の一部であり、すべてなんでしょう」
やわらかな髪を撫でる。子供にするそれのような扱いに怒り出すかとも思ったけれど、意外にも新緑を輝かせた彼は喜色を頬に乗せた。
「いやじゃないのか! すきなのか!」
「すきとまでは言ってませんけど」
「待ってろ、すぐ被ってきてやる」
「だれもいまここで見たいだなんて言ってませんけど」
どうやらいつもの調子を取り戻した彼は、私の言葉を聞き遂げもせず飛び出していった。
廊下を駆ける足音、アオイの叱責、弾んだはしゃぎ声。帰ってきたらまず廊下を走ったことを叱らないといけませんね。ため息をつきつつ、けれど頬の綻びがとけることはなかった。
(やさしい子ですね、君は)
2020.12.7
「夜と同じいろだ」
「はあ」
最初はしのぶがなにを考えてるのかさっぱりわからなかったが、ようやく掴めるようになってきた。いまのはあは、なにを言っているんですか君は、のはあだ。
鼻が邪魔な猪頭は脱ぎ捨てていた。はじめは縁側を滑るように腰かけたまま逃げてたしのぶも、端に追い詰められて諦めたのか、おとなしく覗きこまれてくれた。
「悪趣味ですよ、伊之助君」
「きらきらしたものがすきなことのどこが悪趣味なんだよ」
「女の子の顔を至近距離で不躾に見つめる行為が悪趣味だと言っているんです」
膝立ちになってしのぶを見下ろす。月が映りこめばそこはもうまさしく夜だ。静かな夜。俺としのぶしかいない夜。
はあ、と。これはたぶん、呆れをこめたため息。
「─…まるで凪いだ夜のようだと。姉にも昔、言われたことがあります」
ぽつり、夜にとけるみたいな声。
姉。姉がいたのか、しのぶには。この屋敷には妹たちしかいない。しのぶが一番上だと思ってたのに。じゃあどこに。疑問を口にするより早く、ちっちゃなくちびるが言葉を継ぐ、まるで俺の質問を封じるみたいに。
「夜は鬼が蔓延る。だからすきではありません。だれもかれもをさらう夜なんて。夜をまとった私なんて」
見上げてきた顔がわらう。だれもかれも、がだれを指してるのか、向けられた表情の意味が、わからない、わかんねえ顔するなよ、しのぶ。
「俺はすきだぞ」
「…え、」
まんまるくなった夜色にずいとまた近付く。額が重なる。俺の姿が夜にとけていく。
「いきものの息遣いが一番きこえるのが夜なんだ。寝息もさやめきもぜんぶぜんぶ拾って届けてくれる。そんな夜が、俺はすきだ。だから、」
だから、
「きらいだなんて、いうなよ」
夜空がまたたく、ひとつ、ふたつ、みっつめでようやく目尻がゆるんで、くすくすこぼれる笑い声、ああよかった、しのぶがちゃんとわらってる。
「おかしな子ですね、君は」
俺のすきな夜色がきゅうと、三日月を象った。
(しのぶがしのぶをすきでいてくれるなら)
2020.12.7
酒癖の悪さを除けば、このひとはいつだって完璧なのに。
「私のどこがだめだっていうのよ」
「そういうところよ、お姉様」
今日も今日とて陽気な姉を、私の部屋に運び入れる。本当はこのひと自身のベッドに放りこみたいところだけれど、こんな寂しい夜に置き去りにするのね、などと駄々っ子よろしく拗ね、終いには眸さえ潤ませるのだから始末に負えない。諦めて自室へ招けば途端に機嫌を直し、再びアルコールを入れる。最近はそれの繰り返し。
我が物顔で腰かけた姉は、いつの間にやら携えていたワインで酒盛りをもう一度。
けらけらと楽しそうな笑い声が、夜の静寂をひっそり破る。私はちっとも楽しくない。ひとの部屋で悠々自適に飲んで寝て、妹を連日寝不足にさせている姉のどこが完璧だというのか。溜まった睡魔に思わず前言撤回したくなる。
そんな私の心中など露知らぬ姉は、立ち尽くしている私を引き寄せ、おもむろにくちびるを寄せる。額に、眉間に、頬に、耳たぶに。身勝手な愛情の爆撃はやまない。いい加減にしてちょうだいと不満を抱きつつも拒絶することができない私も大概だ。
もどかしい熱に震える身体を気取られないようぎゅうとまぶたを閉ざす。夜はまだ、終わらない。
(どうせ朝にはきれいさっぱり忘れるんだから本当、身勝手なひと)
2020.12.9
軽口ひとつ寄越さないのだから、これは相当お疲れの合図。
たかだワイン二杯で突っ伏してしまったグローリアを横目にグラスを呷る。さてどうしたものかと一思案。意地っ張りなこの子がみずから弱音を吐かないことくらい、もう充分に知っている。いつでも頼りなさいよとあれほど伝えているのにこの子は、いつもひとりで抱えこんでしまうのだ。それならこちらから強引に手を引くより術はない。
「いま港に停泊してる客船のこと、知ってるわよね」
「…知ってるもなにもその乗客から、ここに滞在してるうちに三着作ってほしいなんて無茶な依頼を受けて、さっきようやく仕上げたところよ」
ああなるほど、原因はそれね。顔を上げたグローリアの目元に疲労が浮かんでいる。再びくずおれそうになったその子に向けるのはとびきりの微笑み。
「旅行に出かけましょうよ、その船で」
私の提案に、水槽色の眸がぱちりとまたたく。
「このあとしばらく休暇だってたしか言ってたわよね。チケットは私が都合つけるわ。もちろん、あなたの恋人の分もね。しばらく会えてないんでしょ、あなたたち」
反論の隙も与えずまくし立てる。ようやく首を縦に振ったグローリアが、ここにきてはじめて、泣き出すように笑った。
(存分に甘やかしてあげるわよ、だって友達だもの)
2020.12.9
呼吸が朝の静寂にとけていく、この瞬間が、あたしはいっとうすき。
「─…早々に飽きるかと思っていましたけど」
「あんたの歌だよ、飽きるわけないじゃん」
稽古を終えた途端、いつもと同じため息、同じやり取り。そりゃあ最初は早起きするのがしんどかったけども、この子の歌声を聴くためだと思えばがんばれたし、いまでは鳥に突っつかれることなくひとりで寝床を抜け出せるようになった。
まあいいですけど。肩の力を抜いたその子がいつも通り家路をたどる、かと思いきや近場の椅子にちょこんと腰を下ろした。夕やけ色の眸がひたと見上げてくる。
「どうぞ」
「どうぞ、ってなにを、」
「私だってたまには、あなたの声がききたいんです」
ほら早くと、さっきまでこの子が立っていた場所を示される。歌うつもりはなかったけど、いつもおねだりなんてしたことのないこの子がせっかく乞うてくれてるんだから、それに応えなくてどうする。
足を進め、息をひとつ、くるりと振り返れば、夕やけ色が朝日を浴びてきらきら輝いていた。
(たったひとりの観客におくる、)
2020.12.9
はじまりは、ええ、よく覚えていますとも。
最低で最悪で、けれど奇跡みたいに綺麗に幕を下ろしたあの祝祭のあとだったわ。
観客の拍手が遠ざかってもまだ耳元でなにかが鳴り響いていた。それが自分の鼓動だと気付くのに随分とかかってしまった。全身が熱に浮かされたみたいに火照っていて、呼吸が落ち着かなくて。
船が停泊してようやく我に返ったの。男性陣は、それまでのわだかまりが嘘のように肩を組んで降りていって。わたくしも、と考えたわ。褒めるのも認めるのも癪だけれど、それでもいま感じている高鳴りを見て見ぬふりはしたくなかったの。
ライバルに格上げしてさしあげてもよろしくてよ。きっとそんなふうなことを言おうとしたの。いつものように不遜に、なんてことないように。
けれど、──ああけれど。振り返って最初に映ったあのひとの眸が表情が、あんまりにも輝いていたものだから。あんまりにもわたくしの心のうちそのものだったから。
「ああグローリア、とても素敵な一日になったわね」
無神論者のわたくしがあれほどまでに神に頼った日もないわ。
「だってあなたに、あなたのアートの神髄に、出逢えたんだもの」
ああ神様、この感情の名前をどうか。だなんて。
(恋の迷い子)
2020.12.23
こんなおざなりな嘘で私を誤魔化せると、本当にこの子は思っているのだろうか。
「いちいち気に留めていたらきりがないもの。大丈夫、いくらでも機会はあるわ」
普段より濃い化粧は赤く腫れた目元を隠すため。よく回る舌は震えを悟られないため。
ようやく個展を開けるのだと、数ヶ月前の弾んだ声をよく覚えている。なんのつてもパトロンも無かった彼女の努力の集大成を、自分のことのように喜んだ。
だというのに彼女の生業を快く思っていない父親の根回しによって、延期せざるを得なくなってしまったのだという。開催を目前にした悲報に心を痛めないはずがないのにこの子は、悔しさも悲しさもなにもかもを隠してしまうのだ。弱みを見せないように、つけこまれないように。きっと染みついてしまったのであろう彼女の癖に歯噛みする。頼れる者がこれまでだれもいなかったことも、ひとりで立ってきたことも容易に想像がつく。けれど、それでも、いまは、少なくともこの瞬間は、私がいるのだから。
「もういいから、」
ぐ、と強引に頭を引き寄せる。息つく間もなく繰り出されていた言葉が潰える。まるで怯えているみたいに強張った肩をやさしく撫でて、大丈夫だから、と。
「私の前ではそんな顔、しなくていいから」
やがてあたたかく濡れ始めた胸元に、私はようやく息をついた。
(なにもかもとは言わないから、せめてそのひとかけらだけでも私に)
2020.12.26
「ちょっと、少しは風向きってものを考え、っう、」
文句ばかりが絶好調なあねさまめがけて思いっきり扇ぐ。文字通り煙に巻かれたあねさまはまぶたをぎゅうと閉じ、咳きこみながら家に駆けこんだ。
そもそもわたしにばっかり重労働を任せてるくせして、やれ火をおこしすぎだとか、扇ぎかたが雑だとか、口だけ達者に挟んでくるんだから、仕返しのひとつやふたつお見舞いしたくもなる。
「あんまりあの子をいじめちゃだめよ」
「いじめられてたのはわたしのほうだってばぁ」
あねさまと入れ替わるようにやって来たのは一番歳の離れたお姉さま。一から十まで察してるはずなのにくすくす笑いを洩らしながらそんなことを言うんだからまったく、わたしのお姉さまたちはいじわるだ。
いい具合に馳せる火桶を覗いたお姉さまが楽しそうに目を細める。魚屋のおじさんが特別大きなこれをおまけしてくれたものだから、せっかくの機会だとお姉さまが以前、露店で買った東洋の扇を使って焼いてみたのだ。
食欲を誘うにおいにおなかが切なく反応する。仕方ないからあねさまにも食べさせてあげよう。渋々ながらもおいしさにゆるむ顔を想像してまた、笑みがのぼった。
(たまにはおいしいひとときを)
2021.1.5
今日も今日とて来訪の報せはなかった。
「まったく…」
深い深いため息は夢の中にまでは届かない。我が物顔でソファを占領する眠り姫は、私の心中など露知らず呑気に寝息を立てている。
冬が色を深めたということはつまり、私たち四人に課せられた納期が迫ってきていることと同義。もう数ヶ月ほど顔を合わせていない彼らもいまごろ、自身の衣装との戦い真っただ中だろう。私はといえばようやく完成の目途が立ち、一息ついたばかりだった。
そんな進捗を、恐らくモデルのだれかから聞き出したのだろう。久々の散歩から戻ってみれば、夢深く沈んだグローリアがいたというわけで。
私と同様、目の下にありありと浮かぶ寝不足の痕をなぞる。少しでも早く会いたいんですの、なんて息巻いておきながら人の家で寝るなんて。少しばかりの恨めしさをこめ頬をやわく摘む。水槽色の眸が現れる気配はない。
どうせ春には嫌でも会うじゃないの。そう返しながらも作業の手を速めた理由はもちろんこの子にある。私だって会いたかったのだ、この子が思っている以上に。
額にくちづけたのを皮切りに眉間に、頬に、鼻先に。くちびるが止まらない。早く目を覚ましなさいよ。理不尽な憤りを聞き遂げるように、淡く色づいた口の端が綻んだ。
(寝坊よ、眠り姫)
2021.1.19