むかしむかしのそのまたむかし、この広く美しい海のすべてを手にする王がひとり。  王は海にすまうすべてのものに敬われ、崇められ、そして恐れられていました。  王の治世はながくながく続いていましたが、王はけっして満足していませんでした。  あるとき王は、先代の王からゆずり受けた指輪を海に投げいれます。  この昏く深い海が永遠にこの手のうちにありますようにと願いをこめて。  指輪はいまも、王の願いをとかしたまま、海の底で息をひそめているのです。  ***  お伽噺を思い出していた。  寝入りばなに、お母様が幾度も語り聞かせてくれていた古い話。目の前に横たわっている海にまつわる言い伝え。  海の結婚と呼ばれるそれはけれど『王』に永遠の栄光を与えることはなく。この港に生きるものたち──つまり私たち半端者への侮蔑と息苦しさを残しただけとなった。  誤った判断ではなかったと思う。海の者としての誇りを捨ててまで日なたで生きたいとは微塵も考えていない。  けれどたまに夢を見る。港に住まう誰も彼もと同様に息をすることができたらどんなにか楽だろうかと。妹たちがひとの目に怯えることのない普通の生活を送ることができたらどんなにか、と。私なぞの願いが聞き遂げられたことはない、一度も。  いつだったかお母様が言っていた、自身も指輪を海へ放ったのだと。底深くで目覚めの時を待つかのひとにみずからを捧げるため、その忠誠を誓うため、と。それからほどなくして、母は息を引き取った。まるで海にさらわれるかのように。  つま先で海とあそぶ。肌に馴染むそれはけれど言葉を返してくれることはない。  あるいはこの身を投げてしまえば。声は、願いは、祈りは、届くのだろうか。無垢なまでにすんdなお母様の眸にまた出会えるのだろうか。 「──散歩にしては長すぎると思うけれど」  つ、と。ふいに惹かれた裾に振り返る。見上げてくる眸はお母様に似ているようで、けれどお母様にはなかった凛とした色を宿していた。 「おなかが空いたって、あの子がうるさいの。だから早く帰ってきて」  すぐ下の妹の咎めるような語調のなかにこもった嘆願を拾い上げ、微笑んでみせる。 「まったく。仕方のない子ねえ」  ごめんなさい、お母様。私はまだ、沈むわけにはいかないの。 (Shosalizio del Mare.)  2021.1.19
 私の心臓はあとどれくらい、後頭部を包むやわらかな感触に耐えてくれるだろうか。 「あらあら、借りてきた猫みたいに大人しくなっちゃって」  見上げた深海色の眸がおかしそうに細められる、その色がいつにも増して優しく映るのは果たして気のせいだろうか。  そもそも私は姉の膝など借りるつもりはなかった。午睡の寝床にしようと向かった先に件の姉がいた、だから自室に引き返そうとした、けれど手招きされるままに近付いてなんの説明もなしに腕を引かれ気付けば満面の笑みを見上げていた。つまり不可抗力だ。 「あの子に膝枕したときあなた、羨ましそうに見てたでしょ。だからよ」  説明になっているのかなっていないのかよく分からない言葉が右から左へ抜けていく。柔肌からつたう熱から気を逸らすため必死に反論を組み立てる。膝枕を羨んでいたわけじゃない。無邪気に甘えられる妹に嫉妬して、そんな自分に辟易していただけ。  きっと説明したって理解してくれないであろう姉の指が、膝に広がる髪をやわく梳く。毛先からさえも伝播する痺れについにまぶたをぎゅうと閉ざす。代わりに姉のにおいがいっぱいに広がったものだから、追い詰められた頭はとうとう思考を放棄し祈りに転換した。ああどうか妹が帰ってきませんように。柄にもなく神に乞いながら起き上がろうとはしないのだからまったく、欲深いものだと現実逃避のようにため息をついた。 (あらあらあねさま、随分うれしそうね) (っ、あなた、いつ帰って、) (借りてきた猫みたいに大人しくなっちゃって、ってとこから) (忘れなさい今すぐ) (あなたも膝に来る?) (お姉様の膝はそんなに広くないでしょ。私のよ) (あらあら) (あらあらぁ)  2021.1.24
 耳がそわそわと落ち着かない。 『ああ、今日は記念すべき日だわ、お祝いしなくちゃ!』  声の主は果たして嬉しそうに目を細めているのか、それとも歓喜のあまり涙さえ浮かべているのか、受話器越しではどうにも図りかねる。  どうしてもだめですか、と若いモデルたちに泣きつかれたのがきっかけだった。どうやら手紙でのやり取りを億劫に感じた都会のクライアントたちから苦情が相次いでいるのだという。私のやり方に理解を示さない客からの依頼なんて断ってしまいなさい、と。言うのは簡単だけれど、この子たちに報酬を与えるためにはそうもいかない。  なによりグローリアが以前から散々、忙しいときにこそあなたの声が聴きたいのよ、とねだっていたから。などと、当人には伝えず、あくまで仕事のために電話を開通した。  さて初めての通話相手であるグローリアは、先程から感動しきりだ。反して私の心はなぜだか晴れない。喜びに満ちた声はすぐそこなのに抱きしめることもできないなんて。 「ねえグローリア、やっぱり今からそっちに行くわ」 『えっ、ちょ、ちょっと、急にどうしたのカルロッ、』  がちゃり、受話器を置いてすぐ支度を始める。会いたい気持ちをこんなにも募らせるなんてなるほど、やはり機械文明とは恐ろしい代物だ。 (お取り扱いにご注意を)  2021.1.31
 女三人寄れば姦しいとよく言うが、ならば四人集った場合はなんと形容するのだろう。 「ホックさん聞いてくださいまし、この方々ったら意地が悪いんですのよ!」 「まあ人聞きの悪い。ただ妹が世話になったお礼を言っただけなのに。そう、色々とね」 「やめてちょうだいお姉様。思い出しただけで寒気がするわ」 「あねさまだけずるいわ、わたしにもお姫さまだっこして!」  右腕をヴェールに、左腕を末の妹に交互に引っ張られ、頭がぐらぐら揺さぶられる。お願いだからもう少し加減してくれ。陸の上なのに船酔いしそうだ。  きっと青褪めているだろう私を、けれどすぐ下の妹とともに遠巻きに見つめる彼女は呑気に笑っている。君の妹だろう、笑っている暇があるなら止めてくれ。切実な懇願を汲み取ることもしてくれず、彼女はさらに油を注いでくる。 「そういえば私も口説かれたわねえ、美しいとかなんとか」 「…っ、あなたというかたはまた…!」 「お姉様にまで手を出すだなんて」 「わたしには言ってくれないくせにぃ」  泣く子も黙る海賊だというのに、非難の嵐に成す術もなく呑まれていく。もう二度とヴェール以外を褒めるものか。誓いは海だけが聞いてくれた。 (自業自得もいいところ)  2021.2.2
 まるで天使のようだと誰かが評した。  善悪などまるで知らない無垢な子供。奔放な無邪気さと剥き出しの色情を前に、民衆はただ天使がいざなうまま呑まれていく。果たして天使が呼び寄せんとしているものの正体を、天使そのひとさえ知らない、知ろうともしない。すべては敬愛する姉のため、自身のすべてを武器に変え奔流を生み出す。 「──いよいよだわ」  浅瀬色の眸が予感に打ち震える。邪気鳴く澄んだ色が愚かな民衆を見渡し三日月をえがく。  天使は紡ぐ、ただ愛する姉のため、呪われた歌を。 (天使か悪魔)  2021.2.3
 至福の時だわ。  まさに幸せの絶頂だとでも言わんばかりに相好を崩した彼女は、差し出されたパイにすぐさまかじりつく。 「そんなに焦って食べなくてもパイは逃げないわよ」  苦笑した姉の言葉に、けれど勢いを止める彼女ではない。これでもかと頬に詰めこむ姿はさながら栗鼠のようだと、斜向かいに座るすぐ上の姉が口に舌や湯には耳も傾けず、甘くとろけるそれを堪能した彼女は、子供のような笑みを広げる。 「おかわりちょうだい、お姉さま!」 (ティータイムは独壇場)  2021.2.3
 まるで妖精のようだと誰かが称賛した。  彼女の指先からつま先に至るまで音楽が宿る。妖精と称されたそのひとが歌い踊るだけで、その場は大劇場と化した。観客である民衆は喝采の代わりに自らも音の一部となり身体にリズムを乗せる。  傍目から見れば妖精に狂わされているだけの惨状だというのに、ひとりとして気付こうとしない現状に、彼女は酷薄な笑みを浮かべる。見咎める者さえいないまま、妖精はただ、終演え向け唄を刻む。 「──ああ、我らの待ち望みし時が、」 (幕は下りない)  2021.2.3
 起き抜けに頭を抱えるのが、最近の彼女の常になり始めていた。  深い深いため息も、玄関で寄り添って眠る姉と妹には届かない。泥酔した末の光景だということは火を見るより明らかだ。昨日は台所、その前は廊下だったか。  まったくこのふたりはいつ学習してくれるのか。嘆く代わりに肩を揺すり、けれど寝ぼけた妹に抱きこまれるのもいつものこと。 「…学習しないのは私も同じね」  諦めも肝要だと、彼女は今日も重いまぶたを閉ざした。 (なにもかも平穏な朝に)  2021.2.3
 まるで聖母のようだと誰かがため息をこぼした。  静謐な歌声がしんと染み渡る。ともすれば母なる海に抱かれているような安堵感に、民衆は安らぎを覚えただ身を委ねる。  彼女は祈る、切実に、ひたむきに。捧げられているのが祈りではなく自らだとも知らず、民衆は踊り乞う、我らに光を、平穏を。  傀儡と成り果てた彼らに憐憫の笑みを向けた彼女はまさしく聖母そのもの。  それでも聖母は乞うた、妹たちのために。 「希望の光よ、いま、ここに」 (我らが聖母に救いを)  2021.2.3
 背中にのしかかる重みに呻き声を洩らしながらも、いつもと変わらぬ体温に彼女は頬を綻ばせた。 「もうすぐ出来上がるから、あの子を起こしてきてちょうだい」 「あねさまったら、相変わらず朝に弱いわよねえ」  不平を垂れつつ離れた末の子が、幾分弾んだ足取りを残していく。なんだかんだ言いながらも妹たちの仲が良いことを、姉である彼女は誇らしく思っていた。  願わくばこの幸せな朝がいつまでも続かんことを。  毎朝の祈りを胸に、朝餉の仕上げに取りかかった。 (そうして朝は巡りくる)  2021.2.3