ああまったく、腹立たしいったら。  なにがあったか、ですって。ついさっきよ、シアターの子たちが仕上げた衣装を受け取りに来たの。そう、あなたの後輩たち。監督に小間使い扱いされてることに随分愚痴をこぼしていたわ。いいえ、それはいいのよ、不満は向上心に繋がるもの。  じゃあなんで、って、…あなたのことも洩らしてたのよ、あの子たち。こんな華やかな衣装が着れて羨ましい、才能があればわたしにだって、だなんて。  ええもちろんあなたには天賦の才があるわ。それは間違いないのだけれど。だけど、努力をしてこなかったわけじゃない。だれよりも志が高く、だれよりも血をにじませてきたことを、わたくしは知っているもの。なのに苦労もせず舞台に立っているみたいなことを言うものだから、だからその、ね、ちょっとだけお灸を、ね。  差し出がましい真似してしまってごめんなさい、でもどうしても我慢ならなくて。  ちょっと。どうして笑ってるの。そんなに肩を震わせるほど面白い話したつもりないのだけれど。ねえ。あなたへの風当たりが強くなったら申し訳ないと思って話したのに。  なんで喜んでるの。わたくしは当然のことを言ったまでよ。親友のことを悪く言われたら、だれだって腹が立つわよ。  もう。あなたってば本当、おかしなひとね。 (あなたがいるから立っていられるのよ、知らないでしょうけど)  2021.2.9
 これは悪夢よ、幻よ。 「あらあらそんなにはしゃいで。仕方のない子ねえ」  だってだって、あのお姉さまが猫と戯れてるだなんて。  野良とは思えないほどまっさらな毛並みはいかにもお姉さま好みだった。例によってお姉さまに連れてこられたその子は、やっぱりいつものとおり、拾ってきた当人に懐くことはなくて。腕も顔もひっかき傷だらけになった姿を見かねて、あねさまはミルクを、わたしは寝床を与えた。それがつい昨夜の話。  起きたら隣に白いかたまりがいなかったからてっきり、気に入らなくて出て行ったとばかり思ってたのに。なんでお姉さまの膝にいるのよ。なんでお姉さまの顔を舐めてるのよ。まさかかわいさのあまり、悪魔か魔王と契約でもしたんじゃないかしら。 「あら、おはよう。悪いけど朝ごはんは自分でつくってちょうだいね」  ようやくわたしの起床に気付いたお姉さまが、視線も向けず放った言葉はそれだけ。興味をまた猫へ移し、見たことないほど顔をとろけさせた。  ゆるせない。怒りに震える手をぎゅうと握りこむ。わたしのお姉さまを横取りするだなんて。そっちがその気なら受けて立つわ、全力で取り返してあげる。  けものに宣戦布告してるとも知らず、お姉さまはただ、猫のおなかに鼻をうずめた。 (けだものめ、いまに見てなさい)  2021.2.11
 どうせまた猫でも拾ってきたのだろう。 「お姉さまの胸はどうしてそんなにもこもこしてるの」 「これは、そう、成長期なのよ」  苦しすぎる言い訳にもはや笑いも出ない。すべてわかった上で聞いているのであろう妹は先程からそれはもうにこにこと恐ろしいほどの笑顔を浮かべているけれど。きっと姉をどう弄り倒そうか考えているのだ。見え透いた嘘をついているのだから自業自得ではあるけれど、そろそろ助け舟を出してあげることにしよう。 「そういえばあなた、裏の子猫に友達がほしいって言ってなかったかしら」  妹にかけた言葉に、これ幸いとばかり顔を輝かせ、胸元に潜ませた猫をお披露目する──かと思いきや、あの子は少し大きすぎるわねと姉は眉をひそめる。遊び相手として算段をつけているのだろうか。けれどあの猫でさえ大きいだなんて、今回連れてきた子は一体どれほど小さいのか。  妹も同じことを考えているのだろう、三人揃って首を捻っているところへ、ぴい、と。甲高い鳴き声はもちろん、姉の胸元から。妹と顔を見合わせ、声の発生源を注視する。  襟からもそもそと顔を出した黄色い物体はまた、ぴぃよ、と元気にひと声。 「…ひとりで彷徨ってたから、つい」 (振り向いてよさあ、こわくないよ)  2021.2.14
 人間相手には頑なに心を開かないこのひとも、どうやら猫の前では雪どけの氷みたいに緊張をといてしまうみたい。  もふ。いまにもそんな擬音が聞こえてきそうな勢いで、端正な顔が木洩れ日色の毛に埋もれていく。おなかに顔をうずめられた彼は、ぐるなあ、とご機嫌を露わにひと声。  気持ちはよくわかりますわ、ええ、彼のふわふわの毛並みは思わずさわりたくなるし、陽をいっぱい浴びた身体はいいにおいがするし。わかるけども、それでもへそを曲げていく自身がいるのもまた事実。  いまは見えない顔に一体どんな表情が浮かんでいるのか、想像しなくとも答えは明白、どうせとろけきっているに決まっている。わたくしにだって滅多に向けないやわらかな視線を、彼には簡単に与えていることを知っている。  さみしさよりも悔しさが先に立つ。かつかつ、わざと足音を響かせ距離を詰める。件のそのひとが慌てて顔を引き剥がす。 「グ、グローリア、あの、これは、」  いまさら言い訳したって遅いですわ、わたくしは怒っていますの。目標のそのひとが立ち上がるよりも早くしゃがみこみ、椅子の背ごと抱きしめおなかに頭をこすりつける。 「彼と同等の扱いを要求いたしますわ」 (ねこのこあのこやきもちやき)  2021.2.23
 いま一番会いたいひとの夢を見た、気がした。 「…っ、やだ、わたくしったら」  勢いよく上体を起こした拍子に、それまで枕にしていた紙がくしゃりと不満を洩らす。文字がにじんでいる。きっと頬にはインクがうつっているだろう。また書き直しだわ。悪態をつく代わりに紙を丸めたグローリアは深いため息をこぼした。  書きたいことは山ほどあった。作業が大詰めを迎えたこと、庭の椿がそろそろ満開になること、もうすぐ再会できるということ──けれどそのどれもが適当でない気がする。  それというのも手紙の宛て先である彼女がまったく返事を寄越さないのだ。勝手に送りつけているだけではあるものの、春が近付く喜びを素直に書き記すのは癪に障る。これじゃあわたくしばかりが浮かれてるみたいじゃないの。ひとりごちた彼女はペンを拾い上げ、こつこつとペン先で紙を叩く。  件のそのひとがどういう心持ちで手紙を読んでいるのか、そもそも目を通しているかどうかも定かではない。けれども、どれだけ悔しくとも癪であろうとも書かずにはいられなかった。それがグローリアの意地であり、精一杯の強がりだった。  ペンを持ち直す。書き出しはいつも同じそれ。 『親愛なるライバルへ』  *** 『親愛なるライバルへ』  安定の書き出しに、彼女はひとり相好を崩した。  自称ライバルからの手紙はこれで何通目だろうか。数えずとももちろん覚えている。一枚一枚の内容まで思い返しながら、今朝届いたばかりの手紙を引き出しに仕舞いこむ。  さて、と息をひとつ。意を決して向かい合った紙は相変わらずまっさらなまま。ペンの背でこめかみを押さえながら、カルロッタはもう何度目かの逡巡に陥る。  返事を出そうとした、幾度も。けれども書き出しからして浮かばないのだ。最近手がけたモチーフのこと、温室のシンピジウムが見頃だということ、もうすぐ再会できるということ──なにを書いても想いがにじんでしまいそうだった。ライバルだと親しんでくれている彼女の無垢な気持ちを踏みにじってしまいそうだった。ライバル以上の間柄になりたいとは思う、けれどこの関係を壊してしまいたくはない。悩みに答えは出ない。きっかり二週間ごとに届く手紙が引き出しに積み重なっていく。  ようやくペンを走らせたカルロッタは、綴った宛名に頭を抱える。これじゃあ気持ちを吐露しているようなものだわ。ぐしゃりと丸めた紙を屑箱へ投げ入れる。満杯のそこには、同じ書き出しの紙があふれていた。 『最愛のライバルへ』 (春来にけらし、)  2021.3.17
 珍しいひとがソファを占拠していた。  背中側から覗きこむ。クッションがわずかに沈んでも、寝転がるそのひとのまぶたは微動だにしない。おなかに乗った本がゆるやかに上下する。  姉が夢をたゆたう姿を見るのもいつ以来だろう。こまやかなまつげをなんとはなしに数えながらふと考える。海の底深くに沈むかのものの復活にとらわれてからというもの、午睡はおろか夜半でさえまともにベッドに横たわっていない気がする。私なら大丈夫よ。なんの根拠もなく、姉はそればかりを繰り返す。  左手でそ、と頬にふれる。私の体温よりもまだ冷たいそれに思わず眉をひそめる。  姉の想いを否定するつもりも、阻むつもりもない。姉が願うのなら、私はそれに従うまでだ。けれど身をやつしてまで遂げる必要が果たしてあるのだろうか。私はこのままでもいい、このひとが健やかに生きてくれるのならそれでいいのに。 「─────、」  もはや呼ぶひとのいなくなった姉の名をこぼす。体温を求めるように頬がすり寄ってくる。こみあげる想いのまま額にくちびるを落とせば、ゆるりと綻ぶ口元。  ああどうか夢のなかくらいはしあわせでありますように。幼子のようにゆるむ表情にとうとう泣き出したくなりながらただそればかりを願った。 (だって私にとってはあなたのしあわせがすべてだから)  2021.3.21
 まるで胎児みたいだと思った。  座っても横になっても痛みが和らがないみたいで、身体の左側を下にして中途半端に膝を抱えるかたちで毛布にくるまってる。脂汗のにじむ額。ぎゅうとかたく閉ざされたまぶた。浅くこぼれる呼吸。握りしめすぎて白くなった甲。ちっとも快方に向かわないお姉さまを前にただ、自分の無力さばかりを感じてた。  お姉さまを毎月苦しめている痛みの半分でも引き受けられたら。願うのは簡単だけど、叶うはずもないそれに虚しさが募ってく。こうして寄り添うのだって、役立たずな自分をごまかしてるだけなのに。  ずっと姿を隠してた深海色の眸が覗く。緩慢に動いたそれがわたしをとかしこむ。 「─…不思議、ね」  たどたどしくこぼれる声に耳を寄せる。湿っぽい吐息が鼓膜を震わせる。 「背中、なでてもらってるだけで、安心するの、すごく」  どうして、どうしてお姉さまはこんなときでさえ、わたしに意味を与えてくれるんだろう。余裕なんてないはずなのに、わたしのことばかり気にかけてしまうんだろう。 「も、いいから。寝れそうだったら寝てね」  いま泣くべきはわたしじゃないから、お姉さまの眸をそっと、手で塞いだ。 (この指でなにもかもすくいとれたら、)  2021.3.22
 この季節が来ると、あの子の声がよみがえる。 「まるでわたくしが死んだみたいな言い方やめてくださるかしら」  ひょい、と逆さまに顔を覗きこんできたグローリアが不服を露わに頬をふくらませる。色づく花弁の中心から、まるで綻ぶように現れた彼女は空中で一回転し、難なく地面に踵を下ろしてみせた。 「毎年春にしか顔を出さないんだから、似たようなものじゃない」 「失礼しちゃうわ」  隣に並び立つ彼女は、最後に見たときとは違う装いだった。きっと冬ごもりしている間に仕上げた一作なのだろう。桜色の羽飾りは彼女によく似合っている。  自称、花の精だというグローリアとは、花弁が色付く春にしか出会うことが叶わない。はじめのころは花が散るたびに寂しさを覚えていたけれど、いまではどんな装いで現れるのか楽しみに季節の巡りを待つようになっていた。これがきっと、私と彼女の適切な距離感なのかもしれない。  いたるところで命が芽吹く街に気を良くした彼女が駆け出し、勢いこんで振り返る。彼女の動きに合わせて花が開き、風が歌い、頬が綻ぶ、ああやっと、 「急いでカルロッタ、春が待ちくたびれてるわよ!」 (私の春がやってきた)  2021.4.4
 ミシンがやかましく喚いてる部屋で、だけど彼女の声は不思議とよく通る。 「まーったく、ポップじゃありませんこと」 「うるっさいなあ、いま集中してるんだから静かにしててよ」 「あら、せっかく手をお貸ししたのに、随分な言い草ですわね」  ああそうだ忘れてた。律儀にも彼女への恩義を思い出してしまい、ぐうと押し黙る。  完成まであと一歩というところで布地が足りないことに気付いたのが昨日。普段の僕ならありえないミスだけど、今回の案件はあんまりにもタイトなスケジュールだったのと、変更や修正が多すぎてそこまで気が回らなかったのが原因だ。問屋に発注すれば、到着まで数週間はかかる。それじゃあ納期に間に合わない。焦った僕はプライドをかなぐり捨て、一番頼りたくない同僚に電話をかけた。それが事の顛末。  てっきりお抱えのモデルとか秘書が届けに来てくれるとばかり思ってたのに、現れたのはグローリアそのひとだった。今日はオフなのだという彼女はかれこれ二時間、作業部屋に入り浸って余計な口を挟んでくる。そりゃあ恩も忘れたくなる。  どこからか椅子を運んできて隣に鎮座してるグローリアは、訳知り顔でため息をつく。 「納期を守ってこそ一流のアーティストですのに」 「まだ三時間あるってさっきから言ってるじゃん」  実際、仕上がるまでもう一時間とかからないだろう。余裕の完成とはいかないまでも、無茶な要求に対して完璧に応えてみせたんだ、これくらい大目に見てほしい。  だというのにやれやれと肩を竦めてみせる彼女の仕草が癪に障る。 「グローリアだってこの前、手が足りなくてカルロッタに泣きついたらしいじゃん」 「まっ…、だれも泣きついてなんていませんわ! ただたまたまうちへいらしたものだから少し手伝いをお願いしただけで、」 「ほーらやっぱり」 「た、謀りましたわね」  なんて騙されやすい子だろう。ここまで簡単に引っかかってくれると逆に心配になるけど、まあきっと僕相手だから気を許してるところもあるんだと思う。  年齢が近いこともあってか、なにかにつけて僕のもとへやって来る。今日だってなにか聞いてほしい話でもあるんだろう。切羽詰まってはいるものの目途がついてきたし、なによりグローリアのことが嫌いではないし、お礼に少しくらいは付き合ってあげよう。 「ま、その調子なら仲良くやってるみたいだね」  針からちらりと視線を上げる。それまでふくれていた彼女は、だけど打って変わってしおらしく微笑んでみせた。 「…順調、とはいきませんけれど。以前よりは、わたくしを訪ねてくださるようになりましたわ」 「進歩じゃん」  僕の知る限りだれにも心を許してなかったあの唐変木が、まさかいくらも年下の彼女に絆されるなんて想像もしなかった。この距離に近付くまでどれほど時間を要したのか、彼女の話でしか知らないけど、きっと紆余曲折あったんだろうとは思う。  いつだったか、理由も明かさず泣きついてきた彼女を前に、いつかカルロッタに一言物申そうと考えていたんだけど、いまが幸せそうならまあいっか、と苦笑する。結局僕はなんだかんだ言いつつ、彼女たちのことが大切らしい。 「せっかくの休みなら僕に構ってないで、さっさとカルロッタのとこに行けばいいのに」 「あら、せっかくあなたと恋バナとやらをしたくて参りましたのに。それにカルロッタとは来週約束してますの。なんとあのひとから誘ってくださいましたのよ」 「あーはいはいおなかいっぱい、ご馳走さまです」 「そちらから振ってきたくせに、いけずなひとですわ」  再びへそを曲げてみせたグローリアは一転、すぐに扇子で口元を隠し、くふふと含み笑いを洩らす。 「わたくしのことばかり聞いてないで。あなたはどうなんですの、あの朴念仁と」 「はあ? なに言っちゃってんの、べつに僕はおじさんになんかなにも、」 「あーらわたくしヒューゴーのことだなんて一言も申しておりませんことよ」  おかしそうに目を細める彼女の言葉についに作業の手を止めてしまう。  グローリアはどうも、僕がヒューゴーに懸想してると思いこんでるみたいで、事あるごとに話題を振ってくる。なんでも以前、酔っ払ったときにうっかり心情を吐き出してしまったらしい。あの初心で鈍感で色恋にさっぱり疎い男に興味なんてあるわけないし、たとえあったとしても余計なお世話だ。  だというのに腕時計を確認したグローリアはなおも楽しそうに言葉を継ぐ。 「そろそろ彼、港に到着するころじゃないかしら」 「は、え、なん、なんで、」 「わたくしが連絡しましたの。オーシャンが会いたがってるからって」  それでは邪魔者は退散いたしますわね。歌うように締めた彼女が席を立つ。まったく、なんでいつもいらない気遣いばかり。憤りをぶつけている暇はない。  ひらりと手を振り去っていくグローリアを見送る余裕もないまま、そろそろ訪れるのだという男のためにミシンを走らせた。 (そんな手土産いらないんだってば)  2021.4.4
 ぎゅ、と。引かれた袖に思わず振り返った。  わたしも充分驚いてたけど、袖を掴んだそのひとは思考停止までして、ただじっと、自分の手の甲を見つめてた。 「…あ。ごめんなさい」  ようやく我に返ったそのひとが慌てて手を引く。  まったく、素直じゃないんだから。からかうのは、このひとの風邪が治ってからにしてあげよう。  再びシーツに沈んだ指を取る。まだ熱に浮かされたそこがびくり、怯えるみたいに震える。 「わたしったら、子守唄をすっかり忘れてたわ」 「…必要ないわよ、子供じゃないんだから」  口ではそう言いつつも拒絶はしないあねさまの指を握り、いつかのお母さまみたいに紡ぐ。  ゆるりと閉じたまぶたに、どうか穏やかな夢をと。願いをこめて、くちびるを落とした。 (たまには母の真似事を)  2021.4.15