思えばふたりとも朝から浮かれていた。晩酌を心待ちにする妹と、焦らなくてもお酒は逃げないわよと宥める姉。妙なところで真面目な姉は、この子の齢が満ちるまで一滴たりとも許さなかった。そんな姉も今日を待ち望んでいたのだろう。夕食の後に並んだ瓶は、普段の数倍は上物だった。
とうに炭酸の抜けた液体を飲み干す。これならあなたも楽しめるわね、と下戸の私にモクテルを勧めた当人は随分と前から、なんとも心地よさそうな表情で夢を漂っていた。はじめてアルコールを口にしたはずの妹は、思ったとおりだれよりも強かった。ひとりで何本も空けているというのにまるで変わらない顔色で、私の左腕にじゃれついている。たしか母もさほど強くなかったと、以前姉が言っていた気がする。一体だれに似たのか。思わずこぼれたため息を、猫のようにまとわりつくその子が目聡く咎める。
「あねさまだけ素面だなんてずるいわ!」
なにがずるいのよ、と問う間もなかった。ふくれっ面の妹はグラスを呷り、その手を私の頬へ、無理に振り向かされたかと思えば、口内に広がるアルコールのにおい。
ああやっぱりこの子も充分酔っ払っていたのだ──からからとおかしそうに笑う妹の輪郭が歪む。後悔の念ごと意識が沈んでいこうとする。お姉様がきちんと飲み方を教えないからだわ、と。呑気に寝息を立てる姉に、恨み言はついに届かなかった。
(酒を飲むものに呑まれるな)
2021.4.27
美しいと思った。
神というアーティストが生み出した至高の一品。体躯はもちろんのこと、声も仕草も微笑み方に至るまで緻密に計算され尽くされた作品に違いないと、大袈裟でも誇張でもなく本気でそう感じた。
グローリア、と彼女は名乗った。志を同じくする彼女に触発されたのか、それからというものアイディアが湯水のように湧いた。面白いくらい作品を生み出した。会場で顔を合わせる機会が増えた。次の衣装作製への意欲に繋がった。順調に名を上げるなかで自然、彼女との距離も縮まった。すべてが順風満帆だった。なにもかもしあわせだった。
なにも浮かばなくなったのは唐突だった。描いては消し、描いては消しを繰り返し、腕も心も崩れかけていた。違う、全然違う。ついにはキャンバスを破り捨てる。こんなデザイン、彼女に似合うはずがない。そうだ私はいつの間にか彼女を引き立たせる衣装ばかりを作るようになった。彼女をより美しく飾る服を、より鮮烈に存在を際立たせる意匠を。心が急くばかりで一向に筆が進まない。差しこむ陽光も食事さえも煩わしい。少しでも口にしてくださいと強要してくるモデルたちを全員追い払った。やがて訪ねてきた彼女は常と変わらずまぶしくて、ああそうよ、ひらめいたそれは天啓にも似ていた、彼女こそ最高のキャンバスじゃないの、
***
うつくしい、と、思った。
生まれたままの姿でベッドに転がる彼女の肩甲骨付近から生えた翅。シーツに溜まる鮮血で赤く染まっている。小指の先で血だまりをすくい取り、やわく開いたくちびるに紅を施す。背筋を走る恍惚に頬をゆるめる。これで完成、これで完璧。そのはずだった。ああなのに、見れば見るほど出来が悪い。先程までの高揚が一気に冷めていく。だって彼女の美しさは可憐さは愛らしさはぬくもりが通ってこそだったのに。くるくると変化する表情も私をとかす澄んだ眸も私の名を転がす鈴のような声にももうまみえることが叶わない。みずからの手で最高傑作を壊してしまうだなんて私はわたしはなんてことを、
「──失敗したのならまたつくればいいのよ」
すぐ耳元で落ちた声は目の前で鼓動を止めたはずのグローリアそのひとだった。血の気が引いていく。振り返れない私の眼前に現れる水槽色の眸。どうして。震える喉を指がたどる。ぬくもりなどどこにもない指先が頬に行き着いて、にい、と弧をえがくくちびるのなんと赤いこと、まるで血を塗りこめたよう。カルロッタ。声が頭を痺れさせる。そうよ、アートに失敗はつきものじゃない。大丈夫よ、だってキャンバスはいくらでもあるんだから。ただひたすらに美しい笑みが私を呑みこみ彼女のこと以外もうなにも、
「あなたの手でもっともっと美しく飾ってちょうだいね、カルロッタ」
(Gloria.)
2021.4.29
「はあぁ…」
「そういえばこの前依頼した舞台衣装の話だけど、」
「ちょっと。目の前でこんなに悲嘆に暮れているのに、どうしたのくらい言えないの」
「どうしたの」
「それがね、少し聞いてほしい話があって」
グローリアの言う、少し、はまったく少しではなかった。よほど溜めこんでいたのか、長い長い話に適当に相槌を打つ間に気付けば陽は暮れ、店が面した大通りは帰路につくひとたちで賑わい始めていた。
「──もう結婚しちゃえばいいじゃない」
「こんなに話を聞いた末の結論がそれって、雑にも程があるわ」
つまりは最近、母親に縁談を勧められすぎて滅入っているらしい。吐いた息には常にない疲労がとけている。なるほど、これは思ったより重症ね。
グローリアの話によれば、見合いをする男たちはだれもかれも彼女の仕事にいい反応を示さないらしい。女にはぜひ家庭に入って内から支えてほしい、なんて男がまだ多く存在するものだから、それも仕方ないといえばそうだけど、自身の生業に誇りを持っている彼女にしてみれば我慢ならないだろう。
「わたくしの仕事にけちをつけない男性がいるならまあ考えなくはないけれど…」
「あら、じゃあいっそ私と結婚しちゃいましょうか」
「どうしてそうなるのよ」
またおかしなことを、とでも言いたそうに向けられた胡乱な眸に力説してみせる。
私なら当然、グローリアの仕事に異を唱えるどころか大歓迎だし、店を支援するだけの財力もある。彼女は思う存分、衣装制作に没頭できることだろう。
「それに一途だから浮気の心配もないわよ」
「最後のはともかく、本当に優良物件ね、あなた」
あごに指を添えたグローリアが真剣な表情で思案を始める。渾身の冗談だというのに指摘しないなんて、もしかしてこの子、相当疲れているんじゃなかろうか。そういえば最近、忙しさに目が回りそうだとこぼしていた。仕事量を調整するよう、今度この子の秘書にでも伝えておこう。
私の心配をよそに、ぎゅう、と両手を握りしめられる。顔を向ければ、目の下に疲労の痕を残した彼女が晴れやかに笑っていた。ああどうしていまのいままで寝不足の証に気付けなかったのか。そんな状態で冗談が通じるはずもないのに。
「ねえ、いまからわたくしの両親に挨拶しに行きましょうよ、カトリーヌ」
(プロポーズは突然に)
2021.5.4
「最近の子供ってませてるのねえ」
広場で顔を合わせる子供たちの間で流行ってる遊びが結婚ごっこだというんだから、お姉さまの感想ももっともだ。
今日も今日とておなじみのその場所へ顔を出せば、わたしに懐いてる男の子のひとりが花を編んで作った指輪を差し出して、結婚してください、なんて。ごっこだから、と頻りに繰り返してた顔の真っ赤なこと。いま思い出しても面白い。
「それでちゃっかり夫人になっちゃったのね、あなた」
わたしの左薬指を飾る花輪を見とめたお姉さまがおかしそうに笑みをこぼす。こんな小さなわっかひとつでこの先の生涯を捧げるなんて、ひとって不思議ないきものね。
女の子からもらった別の花輪を取り出す。お姉さまの左手を取り、彩るはまっさらな薬指。細い指を自身の手で染め上げるのも、うん、悪くないかも。
顔の前にかざしたお姉さまの目が興味深そうに細められる。それで、と。視線は指に留めたまま、先を促すそのひとに告げるのはお決まりの文句。
「お姉さまのこれからを全部、わたしにくださいな」
自分の言葉に少し胸が高鳴る。こんな小さなわっかひとつで大好きなひとのすべてを縛るのも、うん、いいかもしれない。
(ただのごっこあそびよ、決まってるじゃない)
2021.5.5
起きたら全裸の姉が隣で眠っていた。
いいえ、就寝時はいつもなにもまとわないのがこのひとの常だから、その点は問題ではない。酔って部屋を間違えるられるのもままあることだから、私のベッドに我が物顔で侵入している点も納得はいく。おかしいのは、私も裸であるという一点だった。
認識した途端、一瞬で眠気が吹き飛んだはずなのにまだ頭が機能してくれない。おかしい。たしかに寝間着をまとってから眠りについたはずなのに。酔っ払いに剥ぎ取られたのか、寝苦しさのあまり無意識に脱いだのか、それとも、それともまさか、
「ん、─…あら、早起きなのね、おはよう」
もぞりと動いた隣からいま一番聞きたくない声が届いて思わず心臓が跳ねる。軋む首をなんとか捻り視線を向ければ、じい、と私の身体を見つめた姉がまたたきを二度三度、それはそれは満足そうに口角をゆるめる。
「あなたがあんなに情熱的とはね」
姉の言葉にもはや頭を抱えるしかなかった。一切記憶がないことを惜しめばいいのか最低な奴だと罵ればいいのかもわからない。ひとしきり悩んだ末、見上げてくる姉の眸に観念して向き合う。
「あの、…責任は、取ります」
(ああなんてもったいない、じゃなくて)
2021.5.5
もはや惨状としか呼びようがなかった。
深呼吸をひとつ。一旦整理しましょう。机に並んだ酒瓶は三本、床に転がっているのは五本、いいえそれ以上。この様子だと楽しみに取っておいた秘蔵のそれも空けられているかもしれない。
「遅いじゃないのお姉さまぁ」
存分に酔いが回った妹たちは、現状把握する暇さえ与えてくれないらしい。舌足らずに呼び止めてきた末の妹が左腕、どうしてだかぽろぽろ泣いているすぐ下の妹は胴体に取りついた。アルコールに強いはずの末の子がここまで正体をなくしているのも珍しい。それに次妹は一滴口にするだけで昏々と眠ってしまうはず。かわいそうなほど染まった腕を見るに、素面というわけではなさそうだけれど。
「う、…ひ、ぐ、」
「ほらあ、お姉さまも早くのんでって、あねさまも言ってるわよお」
「言ってない、ねえ言ってないわよねこれ」
妹たちが酔っ払っているなか、私まで理性を濁すわけにはいかない。拒絶の意を表す私にけれど末妹が手にした酒瓶が迫る。力でこの子に敵うはずがない。わけもわからず流れる妹の涙に背を濡らされながら、明日は大掃除ね、と諦めとともに息をついた。
(だ、だって、お姉さまのいないうちにこっそり味見しましょってあねさまが)
(ちょっ、持ってきたのはあなたじゃないの)
(いいからふたりとも、ちょっとここに正座なさいな)
2021.5.5
痛いほどの光を前にもはやなす術がなかった。
今回こそはと万全の体制を整えてきた、そのはずだった。以前よりも入念に儀を織りこんだ。改心したように見せかけ彼らに取り入った。すべてはかのひとの復活のため。私たちの安寧のため。すべてが上手く運んでいた、けれどあと一歩というところでまたしても崩れていく。憎らしいほど眩いあの光のせいで。手を差し伸ばすこの女のせいで。
以前と変わらず向けられる慈愛の笑みに背筋が震える。まだ憐れむのか、まだ情けをかけようというのか。このものたちの施しなど受けない、絶対に。
振り払おうとした、刹那。女の表情が翳る。それまでやかましく喚き立てていた群衆たちの動きが止む。鼓膜に直接降る旋律に思わずまぶたを閉ざす。虚弱なあのひとの手を煩わせてしまった不甲斐なさと、どうしようもない安堵に息がこぼれた。
隣に落ちた気配に視線を上げる。海の底に似た眸はただ女に注がれている、その色に歓喜がにじむ様を見とめるのもいつ以来だろう。このひとも確信しているのだ、我らが王の再訪を、その先に待つはずの幸福を。
集った妹たちに視線をくべることもなく、そのひとは笑う、美しく、恐ろしく。
「──私の娘たちに随分とご挨拶ですこと」
お母様。思わず洩れたそれは、さざめく波に呑まれていった。
(ああ、あなたこそ私たちの標)
2021.5.9
お姉さまはなにかが欠けてる。
「あら、いつもお寝坊なのに珍しいわね」
ゆるりと下がるまなじりに残る寝不足の痕。化粧で隠してもなお存在を主張するそれに今朝も胸が痛む。日に日に色濃く映るそれを見つめてもう何日目だろう。
椅子を引くと同時、湯気が立ちのぼるカップが差し出される。徹夜でささくれ立った思考を、ミルクの香りがやわらかくほどいていく。
「身体あっためて、少し眠りなさいな」
目の前に腰かけるそのひとの微笑みにまたぎゅうと胸が締めつけられる。妹がたった一夜眠らずにいただけで気遣うくせに、自分には一切心を配らないなんて。気付かないとでも、隠し通せるとでも、本気で思ってるんだろうか。夢に侵されてることも、そのせいで眠らなくなってしまったことも、全部全部、知ってるのに。お姉さまを苛むそれの内容なんてわからない、だって相談もなにもないから。
「お姉さまの子守唄がないと眠れないわ」
子供の口調を装った願いに、だけどそのひとは困ったように笑う。ああ、
「─…そんなわがまま言わないで」
お姉さまは自分自身がひどく欠けてる。
(その空白を埋めてあげることはできなくて、)
2021.5.31
「ほら、言ったとおりじゃないの。ただの噂だって」
「なーんだ、つまんないの」
月明かりも差さない夜半。ランタンの灯だけを頼りに海を見渡し、呆れ混じりにそう言えば、私をここまで引っ張ってきた妹は落胆したように肩を竦めた。
海から伸びる不気味な影が夜な夜な人をさらっていく──そんなありふれた怪談片手に喜々としてやって来た妹に連れられてみれば、なんてことはない、いつも通り穏やかな海が広がるばかり。暗がりの波打ち際は、海に親しんでいる私たちでさえ空恐ろしさを感じることはあるけれど、だからといって幽霊なんていう目に見えないものを怖がるほど子供ではないのだ。
拍子抜けしたように家路をたどる妹に続く。早く帰って本の続きを楽しむとしよう。せっかく物語の中盤だったというのにこの子のせいで、
──ぐしゃり、
まるでなにかが這うような音。わずかに響いていたはずの波音が消えている。寒気がするほど静かな空間でただ、ぐしゃり、ぐしゃり、音が近付いて、妹の眸に怯えが走る、逃げたいのに身体が動かない、ぐしゃり、音が、きっともう数歩と離れていない、妹の表情が泣き出すみたいにくしゃりと歪む、意を決し、勢いのままランタンを振りかざし、
「─…お、お姉さま、ついてきてたならそう言ってよぉ」
涙声の妹が言うとおり、灯火の先に佇んでいたのは姉だった。いつもは結わえているはずの髪が、いまは身体にぴたりと張りついている。きっと海を漂っていたのだろう。姉は海面に背を預け、夜空を眺めるのがすきなひとだから。
妹の声に、前髪の隙間からわずかに覗いた口元が綻ぶ。悪戯心あふれる姉のことだ、きっと幽霊だなんだと恐れる私たちを見たいがために驚かしたに違いない。
「もう。いいからさっさと帰るわよ」
再び灯を前方に向け、妹とともに歩みを進める。ぐしゃり。いましがた恐怖を煽った音が鼓膜にこびりついて離れない。頭を振ってなんとかやり過ごす。そう言えば波音は消えたままだ。風が止んだのだろうか、けれどランタンの灯はひどく揺らめいている。
「ちょっと、こんな時間にふたりしてどこに行ってたのよ」
玄関をくぐった矢先、叱責とともに現れたのはだれであろう姉だった。妹ふたりの夜遊びに目くじらを立てるそのひとは、けれどたしかに私たちの後ろにいたはずなのに。
「お姉様こそどうして、」
──ぐしゃり。なにかが這う音が、残響でもなんでもなく真後ろから聞こえて、姉が怪訝に目を細める、妹の表情が強張る、動けない私はただランタンを握りしめて、
ぐ し ゃ り
(夜の海にはご用心)
2021.6.2
額から汗が伝い落ちる前に腕で拭う。大事な作品を万一にも汚してしまいたくない。
作業はいよいよ大詰め。もう長い期間、この作業部屋に籠りきりなものだから、生憎季節の変化は感じられないものの、工程が首尾よく運んでいるのなら、外の世界はもう春の香りで満ちているはずだ。
色濃い季節の到来を思っただけで自然、頬がゆるみ、いっとき疲れを忘れてしまう。もうすぐあの三人に会える。今年は一体どんな世界を、ひらめきを、きらめきを見せてくれるのか、いまから心が躍って仕方がない。
ひとりきりでも完結すると思っていた。自身のなかにこそ最高のアイディアが眠っているのだと信じていた。けれど外の世界にはこんなにも発想と感動があふれているのだと、だれよりも彼らが教えてくれたから。
そんな彼らも最後の追い込みに精を出していることだろう。
「俺もあとひと踏ん張りだな」
だれにともなく向けた呟きが、胎動する火山の震動に呑まれていく。再び腕をまくり、針を取り、息をひとつ。先程よりも鮮やかに躍る指先で、自身の魂を丹念に織りこんでいく。
春が、来る。
(俺の春が、)
2021.6.6