興奮して眠れないなんて、まるで旅行前の子供そのものだ。
海風の心地良さに目を細める。慣れ親しんだものとはまた違う潮のにおいに混ざる、春の気配。この季節が大切なものになるとは以前の僕は想像さえしていなかった。
「まだ起きてたのか」
覚えのある声は隣の部屋から。柵に背中を預けたまま音をたどれば、同じくベランダに出てきた隣人はなにが嬉しいのか、目尻にめいっぱい皺を寄せた。
「おじさんこそ」
「明日のことを思うと寝付けなくてな」
「いい歳して子供みたい」
自分のことは棚に上げてからかってみせても、彼は笑みを深めるばかり。夜に沈んだ海を見据え、子供だよ、と。風にとけるほど穏やかな声でそうこぼす。
「君と、君たちと、また同じ舞台に立つ瞬間が待ち遠しいんだ、こんなにも」
彼の高揚が手に取るようにわかる、だって僕の心と寸分違わないから。素直に認めるのは癪だけどきっと彼には伝わってしまってるんだろう。そう諦めがつくほど僕はあの三人と一緒に歩んできたから。代わりに苦笑してみせる。風が言葉をさらっていく。
春が、来る。
(僕の春が、)
2021.6.6
「それが今日は眠れなくてな、ふたりで朝まで話し込んでしまったんだ」
「わっ、ばか!」
悪びれもせず白状する男と、慌てた様子で制止する彼にもはやため息をつくしかない。このふたりのことだから、恐らく本番に支障をきたすことはないのだろうけれど、それでもいい大人が、と。呆れはすれど、気持ちが分からなくはないので小言は呑みこんだ。
かくいう私も、さっきから胸の高鳴りを抑えきれずにいた。それぞれのモチーフで飾った四艘が海へ漕ぎ入れるその瞬間をずっと待っていた。こんな私を、数年前の私が見たら一体どう思うだろう。相容れないものを認めなかったあのころの私に教えてあげたい、世界はこんなにも新しい出会いと喜びに満ちているのだと。
始まりの鐘が鳴る。ふたりの表情に期待が宿る。言葉を掛け合うでもなくただ視線を交わし、各々の船へ足を進める。ふと、振り仰いだ先、だれよりも早く乗りこんでいたそのひとは、まばゆいばかりの陽を受け止めるように両手を広げていた。
そ、と。名前を音にする。聞き留めた彼女が振り返り、私を見とめ微笑んだ。そうね、遅れを取ってはいられない。声の代わりに笑みだけ返し、自身の持ち場へ足を向ける。やわらかな陽射しが降り注ぐ。彼女に倣って眸を閉ざす。
春が、来る。
(私の春が、)
2021.6.6
不思議と心は凪いでいた。
歓声が遠く鳴り響く。季節を彩る祭典の終演が近付く。いつの間に用意していたのか、異なる衣装で現れた彼が、彼女が、やさしく微笑みかけてくる。たとえばいつかの自分であればきっと許容できなかったことだろう。だれも信じられなくて、だれかに蹴落とされるのがこわくて、ただひとりでひた走っていたあのころの自分であればきっと、笑みがのぼることなんてなかっただろう。
視線を順に移す。まるで子供のように顔を輝かせる三人の姿にどうしてだか泣き出したくなった。ねえ。いつかの自分に語りかける。ライバルだと呼べるひとができたの。認め合える仲間に出逢えたの。わたくしはもう孤独ではないの。
風がボンネットの羽飾りをやさしく揺らす。終わりの挨拶ではない、これは始まりの合図。あいしてやまない季節から、また新たな世界へ踏み出すための後押し。わたくしたちは止まらない。めぐるk氏悦を精一杯、自分らしく生きていく。
「──皆様、」
大好きな仲間と、大好きな場所へ戻ってくるために。
「いよいよ、クライマックスです!」
春が、来た。
(わたくしたちの春が、いま)
2021.6.6
どうしてわたくしはここにいるのかしら。
「いくら君たっての希望でもなあ…」
彼女の話を聞いてからというもの渋面しか浮かべていない監督がちらとこちらに顔を向ける。なぜこんな駆け出しのアーティストを、と。先ほどの言葉を雄弁に継いだ視線にぎこちなく微笑んでみせた。そんなのわたくしが聞きたいわ。
彼女がいつもの通りなんの連絡もなくサロンを訪れたのはつい数刻前。いま時間あるかしら。だれもかれもが見惚れるほどの笑みとともに窺う素振りだけしてみせて、指はもうわたくしの手首をはっしと掴んで引きずり始めていた。深い深いため息は届かない。まあ、そろそろひと息つこうかと思っていたところだからいいのだけれど。毎度こちらの予定も都合も関係なく現れる彼女はけれどどうしてだかタイミングだけは良いのだ。偶然なのかそれとも計っているのか。その間の良さのせいで毎回息抜きと称した愚痴や買い物に付き合わされている。こちらの気分転換にも繋がっていることは、悔しいから言わないけれど。
さてそんな彼女に今回は一体どこへ連れていかれるのかと引っ張られるまま足を進めれば、たどり着いたのはカフェでもデパートでもなく小劇場。観劇でもするのかしら、なんて予想は、勝手口を抜け階段を上るうちに改めた。
机を挟んで対面に座る監督─ふたりの話から察するに、どうやら彼女が次に登板する舞台の監督兼脚本家らしい─はようやく視線を外し、唸り声をひとつ。主演女優が突然、小さな店を構えたばかりの娘を連れてきて、彼女を衣裳担当に、などと言い出したのだ。彼でなくても頭を抱えたくなる。
「まだまだ無名ですけれど、腕とセンスは確かですの。私が保証いたしますわ」
「そうは言っても、もう案も固まってるんだよ」
諭すような口調の彼が、卓上に紙の束を広げ始める。恐らく舞台衣装の原案だろう。 解禁前の情報を部外者が覗き見ていいものか。逡巡したのち、好奇心に負けて結局、視線はラフ画へ。そうして見えた全容に悲鳴を上げなかっただけ良しとしてほしい。
「ひ、一言よろしいかしら」
監督が怪訝を露わに顔を上げる。本来であれば窺わなければならない顔色にもいまは構っている余裕はなかった。
有体に言えば酷かった。それはもう物申したくなるほど。娼婦の役かと疑うくらいの肌面積に、お粗末な装飾。どんな高尚なアーティストがデザインしたか知らないけれど、こんな衣装で彼女の魅力が引き立つわけもない。肌を露出させるのではなくあえて覆い、襟元や裾にだけ甘さを残してこそ惹かれるものがあるというのに。
それらを一気に捲し立てれば、やがてお手上げだという様子で上げられる両手。
「降参だ、もういいよ、君に任せる」
「………え、」
「ありがとうございます、監督。それでは私たちはお暇いたしますわ」
わけもわからず呆気に取られるわたくしとは対照的に満面の笑みを浮かべた彼女は、こちらの襟首を掴みさっさと辞去してしまった。一体なにがどうなったのよ。
「まさかあなた、わたくしに仕事を与えようと、」
「違うわよ。ただあの監督、デザイナーを選ぶセンスが壊滅的だから。あなたならなんとかしてくれるって踏んだら案の定ね」
なんとも軽い口調と足取りに、逆に気勢を削がれてしまった。聞けばどうやら以前もそれはそれは惨憺たる衣装をあてがわれたらしい。それならそうと最初から言ってくれればよかったのに。ぶつくさこぼした文句にもどこ吹く風、勝手口を開けた舞台の主は、陽気よりもまだ晴れやかに笑ってみせる。
「だってグローリアったら、仕事以外だと途端に口下手になるじゃないの。先に事情を話して下手に取り繕うよりも、あの衣装を見てもらったほうが早いと思ったのよ」
本人よりも性格を熟知している彼女にそれ以上返せず、ただただ深く息をついた。
(すべては彼女の思惑通り)
2021.7.12
恐らく一年振りに目にした彼女は見違えるほど美しい笑みを湛えていた。記憶にあるかわいらしさに、更に磨いた知性と淑やかさを巧みに纏っている。想像が及ばないほど努力をしてきたのだろうと、グラス片手に遠巻きに見つめる。思い出すのは最後に見た彼女の姿。
うそつき。彼女は泣いていた。卑怯者。まだ少女の面影を残していた彼女はなじった。返す言葉もなく、私はただ、痛々しく吐き出される絶叫を無言で受け取るしかなかった。その姿勢さえ、彼女には裏切りに映ったのかもしれない。それきり姿を現さなくなった彼女と同じ業界にいるのだからいつか顔を合わす日が来るだろうとは思っていたけれど。
「あら。相変わらずお元気そうね、カルロッタ」
懐かしい声があるべき場所に馴染んでいく。身勝手な懐古さえ彼女は望まないだろうなと、ぼんやり思うのはそんなこと。いつの間にか人垣を抜けたグローリアがかつりと足を止める。久しぶりに対面した彼女は寸分の隙もない愛想笑いを浮かべていた。
「いつかあなたに会えると思っていたけれど、ようやく念願叶ったわ」
上辺ばかりの笑みに縁取られた視線が鋭さを増す。けれどグラスに添えた指の震えを見とめてぎゅうと心臓が握り潰された。ああこの子はまだ、
「あのとき言えなかったことをお伝えしたくて。──大嫌いよ、あなたなんか」
(いっそ憎みきってくれていれば、)
2021.7.31
かわいらしい顔に浮かぶなんともわかりやすい救難信号。あれだけあからさまなのに、相手はまったく気付く素振りもなく、むしろ前のめりで距離を詰めている。
仕事以外の会話は苦手だと、渋面まで作ってこぼしていたのだ。顔色ばかり窺って、結局なにを話したものか迷ってしまうのだと。そうは言っても顔を繋ぐためには社交の場に出る必要がある、けれどひとりでは不安なのだと。そういうことでカルロッタが、半分護衛として同行することと相成った。
そんなグローリアが客に捕まったのは、空のグラスを交換するべく外したほんの数分。
苦手だなんて言って、初対面で話しかけてきたのはあの子じゃないの。グラスを傾けながらふと思い出す。どちらかといえばカルロッタも、こういう場では無口を貫き通していた。といっても彼女の場合は単に無駄な人付き合いを嫌っての行動である。
そういえばあの日のグローリアはやけに緊張しているふうだった。会話が不得手と知ったいまでは合点がいくものの、ならばどうして。首を傾げて一思案。やがて至った結論に、ひとり口角をゆるめる。そう、そういうことなの。
人混みからようやくカルロッタを探し出したグローリアの視線に安堵がにじむ。歩み寄ったカルロッタはふたりの間に身体を滑りこませ、余裕の笑みを浮かべてみせた。
「私の連れになにかご用かしら」
(つまりは特別ってことでしょう)
2021.8.1
その女性の姿を見とめてから本日で一ヶ月となります。
聖母様もかくやというほどの儚さと美しさをはじめて目にしたときは心が震えました。勿体なくも現世に顕現なさったのかと己が眼を疑うほどでした。
女性は教会の敷地に一歩も踏み入らず、ただ宙を見上げるばかり。憂いを帯びた眸は深海で息を潜める宝珠のよう。毎朝庭を掃き清めているわたくしはそのお姿を盗み見ながら、如何様な理由であんなにも痛ましい表情を浮かべていらっしゃるのだろうと窺い知れぬ心中に思いを馳せておりました。
女性の話を同僚にしたところ、それは恐らく港外れに住む姉妹のひとりに違いないと声を潜めて申しました。なんでも悪しき血を引く一族だとかで町人から敬遠されているというではありませんか。さらには神の御前にさえ晒してはならないのだと、院長からきつく言い渡されていると。続いた言葉に耳を疑いました。嘘か真かも定かでない噂で人を判断するなど、聖職者として恥ずべき行為でございます。わたくしは悲しみに暮れました。
翌日も足を運ばれたその方に思い切って声をかけてみました。驚きに目を丸めたその女性は、フードをますます目深に被かれてしまいます。人目を避けなければならぬほど虐げられてきたのでしょう。女性の苦労を思うと胸が潰れるようでした。
自分はこの場所を訪れてはならないのだと女性は仰りました。海よりもまだ澄んだ声でした。穢れた身にはその資格がないのだと。心無く突き付けられ続けた噂をいつしか真実として信じ込んでしまったのでしょう。なんといじらしい。
わたくしは説得いたしました。これほどまでに清らかな貴女に一体なんの罪があると言うのでしょう。足繁く通われている姿をきっと主もお認めになっていらっしゃるはず。たとえ罪を犯していたとして、誠心誠意悔い改めればいずれ赦しも与えられます。
それでも悲しく微笑むばかりの女性の手を取ったことに自分でも驚きました。きっと神の御意志なのでしょう。同僚の言葉が頭を過ぎりましたが、もとより神はなんびとをも受け入れてくださる懐の深いおかた、この女性だって例外ではないはずなのです。
果たして御前にともに参り、その足下に跪きました。どうかこのかたの穢れが払われますように。謂れのない噂が払拭されますように。普段の礼拝よりもさらに一心に祈りました。御覧になっていらっしゃるのでしたらどうか主よ、彼女に赦しを、祝福を。
「ああシスター、やっぱりあなた、ここの出身じゃないのね」
背筋の冷える声色とともに、靴音がわたくしのすぐ横を通り過ぎていきました。
「だって港のひとはみーんな知ってるものね、わたしたちのこと」
教会の円蓋に響く弾んだ声は、あの女性のものではありませんでした。
祈りを中断し、慌てて面を上げればそこには、同じ海色の衣に身を通した女性が三人。ステンドグラスの光で視界が不明瞭になっているせいでしょうか、そのうちのひとりは、今しがた連れ立った女性と瓜二つのように見受けられました。
一体どうしたことでしょう。浮かぶ疑問のどれもこれもが形にならずただ膝を折ったまま彼女たちを見上げるばかり。呼吸さえも忘れたわたくしを、ひとりは教壇に腰かけ愉快そうに、ひとりは腕を組み侮蔑をこめて、そうしてかのひとりは目の前に膝を突き、ひたと見つめてきました。
「ごめんなさいね。どうしてもこういうところの力が必要なの」
「愚かな人間を唆すにはうってつけの場所だものね」
「こんなものを信じてるだなんて、ひとって面白いわよねえ」
ぐるぐると頭を巡る声。ああ主よ。思考を支配せんとする邪な声に抗うためには我が主に縋るしかありませんでした。主よ、彼女たちはやはり悪の御使いなのでしょうか。彼女の悲嘆も悲愴もすべてはまやかしだったのでしょうか。ならばなぜ彼女はわたくしに赦しを乞うたのでしょうか、なぜはじめから惑わさなかったのでしょうか、ああ主よ、どうかお答えください、どうか。
信ずるべきかのひとの声は聴こえずただ美しい歌声ばかりが響いてもう、なにも。
(聴こふは神をも畏れぬ海の唄。)
2021.8.2
「あら、お目が高い!」
得意げな声がはじめましての代わりだった。
振り向くより早く並び立ったその女性を、少女と淑女、どちらで表すのが正しいのかわかりかねる。きっと私より幾分も年若いであろう彼女はけれど誇りと威厳に満ちあふれていて、だというのに自身の作品について口早に語る姿は、宝物を褒められた幼子のようでもあって。不思議な子。それが第一印象。
「丁寧な解説をどうもありがとう、グローリア嬢」
「わたくしをご存じとは光栄ですわ、ミス・マリポーサ」
躍進目覚ましい彼女の名を知らぬ者など、この業界にいるはずもない。さらりと名前を呼ばれたことに、むしろこちらが驚いていた。写真はおろか、こんな品評会にだって滅多に顔を出さないのに。
謙遜した口振りとは裏腹に、自信で輝く表情が羨ましいと、素直にそう感じた。本当に世間に認められているのかと懐疑に駆られている自分とは大違いだと。
「わたくしね、あなたのアートに憧れていますの」
だから、目の前の少女が放った言葉に思わず目を丸めた。
「すきなんですの、カルロッタ、あなたのすべてが」
(私とあなたのはじまり)
2021.8.3
ああこんなのずるいですわ。なんでもない顔で差し出してくるそのひとの輪郭がぼやける。わたくしがどれだけ迫ってものらりくらりとかわすくせに。サプライズなんて柄じゃないくせに。
今日はこのひとと初めて言葉を交わした日だった。わたくしなりの勇気を振り絞った日。あのときのあなたの不思議そうな表情を、信じられないといった声音を、つい昨日のことのように思い出せるけれど、当のこのひとは忘れているとばかり思っていたのに。
照れ隠しか、それまでそっぽを向いていたそのひとがようやく視線を戻し、目の前で大粒の涙をこぼすわたくしを見とめ焦ったように言葉を継ぐ。
「ご、ごめんなさい、泣くほど嫌だなんて、」
「違いますわよ、おばか!」
ああもう、肝心なところで鈍感ですのね。語気を強めても嗚咽は止まらない。代わりに突き出した左手をおずおずと取られて。薬指にぴたりと嵌まる白銀色。どうして合うんですの。いつの間に測ったんですの。疑問が全部雫にとける。
「…ね、返事は」
「わかりきったこと、聞かないでくださいませっ」
そのひとの指に光る同じ色を見つけて、とうとう顔を覆ってしまった。
(イエス以外の選択肢があるはずもなく、)
2021.8.4
視界を覆う花束にいよいよわけがわからなくなった。
「…まさかカルロッタ、今日一日わたくしが引っ張り回した理由がわからない、とでも仰るおつもり?」
「ええ、と。そう、仰ったら、怒るかしら」
真っ赤なバラの隙間から覗いた眸が明らかな呆れを表していた。
あなたの一日をくださいな──数ヶ月前の手紙が指定したのは今日。どうしてそんな遠い日付をピンポイントで、と疑問に思いはすれど特に予定もなかったものだからなんの気なしに承諾した。当日を迎えてみれば、美術展に生地の買い付けに食事に、と目白押しの一日だった。そうしていま、帰港中の客船レストランでデザートの代わりに運ばれてきた花束を前にようやく首を傾げたというわけで。
大袈裟なほど深いため息が返ってくる。思い当たらないんだから仕方ないでしょ。
「まあ、そういう無頓着なところも含めてすきなんですけれど」
「褒めてないわよね、それ」
食って掛かる私を気にも留めず再び花束を差し出したグローリアはふわり、やわらかに微笑んでみせる。花開くようなその表情に惹かれたのだと、ふと、思った。
「それならわたくしが毎年思い出させて差し上げますわ、──あなたの生まれた日を」
(私の人生で一番の幸運は、)
2021.8.12