カッサータ、リコリス、リモーネにザバイオーネ。 「いい? ひとりひとつだけよ」 「んもうっ、わかってるわよぉ、子供じゃないんだから」  だからこそ色とりどりのジェラートを前に悩んでるっていうのに、お姉さまは意地悪だ。日差しまでじりじりとわたしを急かす。早々に選んだお姉さまはリモーネをカップで注文する。留守番中のあねさまはアルコールが苦手だからリコリス一択だとして、残る味はふたつ。どっちも捨てがたい。 「…ねえ、お姉さまぁ」 「そんな甘えた声出しても財布の紐は緩まないわよ」 「けちんぼ」  悪態もなんのその、まだ時間がかかりそうだからと、お姉さまは他の買い物のために市場の人波へ紛れていってしまった。文句を言ったところで財布が膨らむわけじゃない。わかってる。だけどわたしにとってこれは究極の選択なの。  ひたすら唸るばかりのわたしに、店主であるお兄さんが困ったみたいに苦笑する。 「サービスしてあげたい気持ちは山々なんだけど、今日は実入りが悪くてね」  そんな彼の一言に、拍子抜けするほどあっさりと妙案が浮かんだ。 「つまり集客があればおまけしてくれるのね!」 「ま、まあそういうことになるけど…、まさか君が客寄せしてくれるのかい?」  半信半疑の言葉に片目をつむって応えてみせる。まさかもなにもわたしは、音でひとを惑わす彼女たちを祖にしてる。そんな芸当、朝飯前だ。  耳を塞いでてね、と忠告を入れて息をひとつ。紡ぐはお姉さまから教わった歌の一節。のどに馴染んだその音に誘われてひとりまたひとりと集まってくる。ついには列を成すほどの人混みに、店主は大喜び。 「さすがだなあ、一体どんな手を使ったんだい」 「ま、わたしの色香にかかればこんなものよ」 「ははっ、冗談まで上手いなあ」  失礼な物言いに思うところはあるけど、みっつもつけてくれたから見逃してあげよう。  タイミングよく戻ってきたお姉さまが行列に目を剥きながら支払いを済ませる。 「ねえ、あなたまさか…」 「なーんのことかしら」  日差しは変わらず絶好調。ねだる口実を作ってくれてありがと、とお礼は心の中で。 「お兄さんありがとね、あいしてるわ!」 (ところでなんで潰れてるの、この子) (だってあねさまが物欲しそうにわたしのジェラート見てたから、つい分けてあげたの) (そう。で、本当のところは) (こんなちょっぴりのアルコールでも酔えるのかなあって気になっちゃって) (やめてあげなさいな)  2021.8.22
 まるでこのシーツの主を抱きしめているようだった。ひとのにおいってこんなに移るものだったかしら。疑問は曖昧にほどけていく。まだ夢に沈んでいたいと訴える思考。朝から元気に市場へ下った姉と妹はきっとまだ帰ってこない。そう決めこみ、ぎゅうと香りを胸に抱く。すると香りが応えるようにやさしく髪を梳いて、 「─…んぅ、」 「あら、起こしちゃったかしら」  覚えた違和感に重いまぶたを引き上げる。自身の両腕が抱えこむ細い腰。まろやかな双丘を越えた先、深海をともした眸がやわらかく笑みをかたちづくった。 「…お、ねえさま…?」 「ええ、あなたの大好きなお姉様よ」  降る声も撫でる手つきもこんなに優しかっただろうか、などと首を捻るのはやめた。久しぶりに味わう感触を前に、こっそり姉のベッドに潜りこんでいるところを見られたことも、子供のように抱きついていることだってどうでもよくたってただ縋りつく。 「あの子、まだ帰ってこないだろうから。もう少しこのままでいさせてちょうだい」  私の代わりに許しを乞うた姉がそうして紡ぎ始めた子守唄は、昔とちっとも変わっていなかった。 (だって私もあなたの妹だから)  2021.8.29
 姉の心境とは正反対に、空はどこまでも澄んでいた。  遠く水平線で混ざり合う青をともに見つめて、どれほど時間が過ぎただろう。ともに、と言っても、軒下で動かなくなった姉の隣に私が勝手に腰を下ろしただけ。姉が許しも拒絶も示さなかっただけ。  気付かれないようひっそりと─心をどこかに置いてきた姉が勘付くこともないだろうけれど─横目で盗み見る。隣人は一言も発さない。土にまみれた指先が、まるでなにかの感触を忘れまいとするように握って、ひらいて。恐らく無意識であろう仕草がいたたまれなくて視線を上げる。深い海を湛えた姉の眸はけれどすべての感情をなくしたようにも映った。 「お姉様、」  何度目かの呼びかけにようやく震える肩。ふわり、横顔が無理に笑みを繕う。 「泣いてもいいのよ、お姉様」  意図せず切実に響いた懇願に自分でも驚いた。それは姉も同じだったのか、数回またたいたのち、深海色が不格好に細められる。慰め方ひとつ知らない私はただ、傷ついた心を覆っていく色を見つめることしかできなくて。 「─…もう、忘れちゃったわ。泣き方も、止め方も」 (いのちをうめた日)  2021.9.13
 珍しいこともあるものですわね、と目を丸めたのは、前触れなしに来訪したからでも、言い訳じみた理由を並べ立てないからでもなく、どこかきまりが悪そうに視線を逸らすそのひとがほんの少しふくれているように見えたから。  わたくしがカルロッタの居所へ足を運ぶことはあっても─ほとんど奇襲じゃないのと毎度呆れさせていることは、ええ、ちょっぴり反省しなくもないですけれど─彼女みずから訪れたことなんて片手で足りる程度なのに。しかもそのたびに、買い付けのついでだとかなんとか無理やり言いくるめようとしてくるくせに、いまばかりは理由のひとつもないまま、ソファで背を丸め居心地悪そうに指を組み合わせている。 「ね、カルロッタ。どうしていらしたの、手紙もなしに」 「…それは、その」  歯切れ悪く一度口ごもったかと思えば、やがて諦めたように両手で顔を覆ってしまう。 「この前の手紙であなた、言ってたじゃない。最近仲良くしてるっていう郵便配達員のこと。聞いてもないのに何枚も。だから、──ああもう、笑うなら笑いなさい!」  ついには自棄気味に睨みつけてきたカルロッタの顔は、隠しようもなく染まっていた。ねえわたくしおかしくて笑ってるわけじゃありませんのよ。 「だってあなたがあんまりにもかわいいことを仰るから」 (危うく呪詛を飛ばすところだったわ) (もっと穏便に妬いてくださいな)  2021.10.9
 陽が沈んで随分経つというのに、町はいまだ活気を失わない。 「もうわた、私、足が、限界でっ」 「だからおんぶしてあげるって言ってるのに。強情ねえ」  坂を少し下ったところで、妹たちがいつもの攻防を繰り広げている。きっともう間もなく足の痛みに耐えかねたあの子が折れるだろうことは目に見えていた。  思えば朝から動きっぱなしの一日だった。最近浸透してきた海外の祭りに影響された末の妹が作ってほしいとねだるものだからお菓子を焼いて、出来上がったそれを片手に町に繰り出して─難色を示した次妹を、運動不足が過ぎるわよと説き伏せるのに苦労したけれど─歩いて、買って、食べて、歩いて、配って、また歩いて。滅多に出歩かない妹が陽が暮れるまで付き合ってくれたんだから、むしろ褒めてあげるべきかもしれない。  すっかり軽くなったかごを揺らす。文句を言いつつも、末妹に負けず劣らず頬張っていたから、あの子なりに楽しんだということだろう。無理にでも連れ出して正解だった。末の子がそこまで考えて部屋から引きずり出したかはわからないけれど。  何事か言い合ったあと、妹がひょいと自身の姉を方に担ぎ上げた。下ろしなさい、と喚く妹のすぐ横を町の子供たちが駆けのぼってくる。お決まりの文句を口にした彼らに微笑んでみせて、残りをお菓子をあうべて差し出した。 (Dolcetto o scherzetto!)  2021.11.1
 眠らぬ街の雪化粧もなかなか趣があるものだ。  今日はさすがに車の往来が少ない。一歩一歩慎重に踏みしめる婦人。急いだあまり尻もちをついた学生。ここぞとばかりに腕を絡める恋人。道路脇にひっそり佇む雪だるま。過ぎ行く人々の観察に勤しんでいたせいで空返事をしていることにも気付かなかった。 「もうっ、ちゃんと聞いてくださいまし!」  ぐい、と両頬を包みこんだ手に正面を向かされる。窓から強制的に剥がされた視線が、ふくれっ面のグローリアと捉えた。お見通しですわよ。見透かしたように小言を洩らすくちびるがいつもより鮮やかな気がする。などと口にしようものなら、また別のことを、なんてさらに機嫌を損ねるのは目に見えているからそっと呑みこんで、代わりにいまだ頬を解放しない指に自身のそれを重ねる。暖房にあたためられた指が馴染んでいく。 「あなただってさっき夢中で冬服を描きこんでたじゃない。おあいこよ」 「わ、わたくしは芸術に突き動かされただけですもの、仕方ないですわ」 「なら私もアイディア探しよ」  それ以上反撃の言葉が見つからなかったのか、悔しそうに口を引き結んだグローリアの両手が離れていく。ぬくもりを恋しがる頬に、彼女は気付かない。とうの昔に冷めたカップを両手で持ち上げ、ふいと向けた横顔のなんて芸術的なこと。 「それで。なんの話だったかしら」 「………ですから。次の春のテーマはどうするつもりなんですの、って」  じとりと睨み据えてきた眸にようやく本日の主旨を思い出す。  盛況のうちに幕を閉じた春の祭典も、来年は開催されない。そこで私とグローリアで、小規模なコレクションを催す運びとなったのだ。今日はその打ち合わせでカフェに集合したというのに、これといったテーマも浮かばないまま陽が暮れてしまった。  あごに指を当て、視線は再び窓の外へ。真っ赤に染まった手を自身のポケットへ誘う青年。背伸びしてマフラーを巻いてあげている少女。土台がとけてこつりと寄り添っているふうな雪だるま。テーマ。テーマ、ねえ。 「─…恋人。とか、どうかしら」  こぼした思い付きに、ぱちりと水槽色の眸がまたたく。じわり広がる喜色。 「あなたからそんなテーマが出るなんて」 「あら、ご不満かしら」 「これが不満そうな顔に見えて?」  カップを手放した指が私の左手に伸ばされる。求めていたぬくもりにふと、寄り添うふたりに春を運ぶようなデザインにしよう、と。何気なしにそう、思った。 (芽吹きの春に)  2022.1.7
『どこまでも邪魔をするか、ダニエラ!』  己のものではない呼び名に、彼女は目を瞠った。それまで──彼女が阻むまで破滅を呼び起こすべく歌っていた海精の末裔は、片膝を突いた状態でぎりと彼女を睨みつけている。深淵に似た眸ににじむ明らかな憎悪。海の底を這うような恐ろしい声。先程まで古の旋律を紡いでいた女は狂気を孕むと同時にどこか救いと祈りを乞うていたのに、目の前で牙を剥くこれはまるで、 「あなた──、」  この地に恐怖とともに伝わるその名を口にしようとして、けれどなにかの意思がそれを諌める。名は力を持つから。穏やかな声が語りかけてくる。『彼女』だ、と直感した。彼女が衣を借りているもの。惑わされた仲間たちの目を覚まさせるために聞かせた昔話の主人公、この港の姫その人だ、と。  彼女が再びそれに視線を移す。闇を思わせる眸の奥底に、かすかに感じる女の気配。大丈夫。彼女は確信する。あの子はまだ呑まれていない。  膝を折った彼女がそれの頬を包みこむ。肌を刺す殺意と怨念。 『これで勝ったつもりか』  亡霊は嘲笑う。彼女の中に宿る『彼女』を見透かすように。 『この女は脆い。蜘蛛の糸に縋るように何度でも我が復活を乞うだろう。それでも貴様は救おうというのか。いつか貴様の息の根を止めるやもしれぬ、愚かな女を』  毒にまみれたそれの言葉に、けれど彼女は微笑んだ。この港に生きるすべてのものに等しく向けてきた慈愛がどうか深淵の隅でうずくまるかの者に届きますようにと。  こつり、額を重ねる。触れ合った身体がびくりと怯える。 『それでもわたしは生きていてほしいの、あなたたちに』  彼女と『彼女』の声が、想いが、共鳴した。  せいぜい後悔するがよい。頭に直接届いたそれを最後に闇の気配がふ、と途絶えた。途端に響くのは恐れの色濃い二つの悲鳴。目の前の女が弾かれたように顔を上げる。女の眸に再び灯る、深い海の色。 「──っ、あの子たちが…!」  姉である女がまろびながら駆け出す。その背に闇を負うていないことを見とめ、彼女は安堵の息をつく。きっと恨まれるだろう、憎まれるだろう。それでもいい、と彼女は思う。迷い子が生きる道を見つけられるのなら、それでいい。  身を寄せ合う女たちへ微笑みかける。おびえないで、こわがらないで。宥める代わりに彼女はうたう。万感の祈りをこめた『彼女』の物語を。 (だれしもに降る希望であるように)  2022.1.31
 こぼれた笑い声にようやく息をつけた気がした。 「あなたってすごいのね。まるでドイツ人みたい」 「ヨーロッパの言語はあらかた伯父上に叩きこまれてきましたから」  伯父の妻である彼女にロシア語を教え始めて、かれこれ一ヶ月。  どこぞの家庭教師を呼ばなかったのは僕と彼女に家族としての絆を結ばせるためか、それとも単に彼女と歳が近いからか。真意は分からない。けれど伯父の采配と厳格な教育にこれほど感謝した日もないだろう。  はじめのうちは戸惑った。なにせ彼女は覚えが早い。二度繰り返さずとも単語を習得してしまえるのだ。僕が教えるまでもなく教科書を渡しさえすれば、恐らく三日三晩でロシア人と見分けがつかなくなるだろう。  だが彼女はロシア人ではない。ドイツからひとり嫁いできた、まだ年若い女性なのだ。そんな当たり前のことに気付くのに随分と時間を要した。  彼女は繕うことに長けていた。察するに彼女の祖母にでも仕込まれた処世術だろう。見知らぬ土地で、慣れない人間に囲まれて生きる不安を、完璧すぎる微笑みの裏に隠してしまっていた。だから気付けなかった。というのは、僕の言い訳に過ぎない。  綻びが出たのはドイツ語を話した時だった。彼女の母国語で説明した方が早いと思い口にした言葉に、彼女が動きを止めた。初めて目にする挙動に、僕は無我夢中でドイツ語をまくしたてた。彼女の目はまばたきさえ忘れ、ただじっと、僕の口元を凝視する。まるで一音の取りこぼしなく聞き遂げようとでもするみたいに。  ああそうか。発声をやめた僕を見つめる彼女の眸に、ふいに合点がいく。彼女は恋しいのだ、故郷が。  向けられた微笑みに、先ほどまでは影も窺えなかった寂しさがにじんでいるように見えて、どうしてだか悲しくなった。懐かしむように細められた眸に、なぜだかぎゅうと心臓を掴まれた気がした。かわいそうなひとだと思った、どうしようもなく。いっそ故郷に帰りたいと泣いてくれればどんなにかと、僕が願うほど。 「─…時々でいいから。また、話してちょうだい」  普段どおりのようでいて、けれど縋るような声音で。背を正した僕が口にする返事はただひとつ。 「貴女がお望みとあらば」 (それが僕にできる唯一の慰めならば喜んで)  2022.2.2
「見て、お母様。雪が降ってきたわ」  吹きこんだ冷たさに視線を向ければ、外は早くも雪化粧が施されていた。本を閉じ、吐いた息が白く凍える。どうりで寒いわけだ。  ベッドサイドの椅子から立ち上がり窓を閉めようとして、ぼそり、声が落ちた。 「なぁに、お母様」 「…うみが、みたいわ」  乾燥してひび割れたくちびるに耳を寄せる。色の窺えない声が洩らすのは幾度となく繰り返されてきた願い。深海よりもなお深い色の眸は私も、なにものをも映すことなくただじっと天井を見つめている。 「─…あたたかくなったら、一緒に行きましょうね」  できるだけやわらかく返した言葉に答えはない。  上体を起こすことさえ難しい母を外出させるなんて土台無理な話だし、たとえ動けたとしても、その願いだけは叶えたくなかった。近付けばきっと、海にさらわれてしまう。そんな予感がして。  すっかり骨と皮ばかりになった手をそっと握りしめる。雪よりもまだ冷たい指が反応を返してくれることはなかった。 (うみにとらわれたひと)  2022.2.13
 温室のシンピジウムがさらに蕾をふくらませたのだと、世話当番の叫びに皆が慄く。一瞬訪れる静寂。その間隙を埋めるように、先ほどよりも増してミシンが唸る。作業場に恐怖を焦りをもたらしたその話題は当然私のもとにも届き、思わず真っ白なスケッチブックに突っ伏してしまった。  春がやって来る。それはいまの私たちにとって最大の悲報だった。もう定番となった合同ファッションショーの打ち合わせは夏の盛りに行ったはずなのに、一体いつの間に季節が流れてしまったのか。伏せている暇は無いのに一度落とした顔が上がらない。 「あの…、先生、少しお休みになられた方が…」 「そうね、もう一着の素案が決まれば」 「三日前もおっしゃってましたよねそれ」  そのまま崩れていきそうになる身体を、両脇に手を差しこんで引っ張り上げてくれた彼の目元に居座る黒い影。彼らがこんなに精力を注ぎこんでくれているのに、私ひとり休むわけにはいかない。深いため息をついたその子が部屋を辞する。  あと一着。長年私のモデルを務めてくれている長身の彼のデザインがどうしても決まらず、破り取ったページが積み上がっていくばかり。あるいは仮眠を取れば浮かぶものもあるだろうかと思いはすれど、そのまま熟睡してしまう未来しか見えなかった。  再びスケッチブックと向き合って、けれどペンは一向に進まない。 「──…もありますから、少しっ、お休みに…っ、」  いっそ滝にでも打たれてこようかしら、と本格的に頭が沸き始めたころ。いましがた私にかけられたのと似た言葉が扉の向こうから聞こえ、ふと首を傾げる。慌てた声音と忙しない足音。馴染みのある音だわ、と記憶をたどるよりも早く開け放たれた扉。  果たしてそこにいたのは、ショーの発起人のひとりであるグローリアそのひとだった。据わった目。やつれた頬。アイシャドウ代わりのクマ。取り縋るうちの子に構わず入室してくるグローリアの気迫に押され声もかけられない。やがてデスクを回りこみすぐ隣までやって来た彼女は、疲労が色濃く残る眸で上から下まで私を見つめる、まるで観察でもするみたいに。 「グ、グローリアさん! あの、ベッドでもソファでも床でもどこでもいいですから、お休みになってください!」 「人のことを言えないのは重々承知のうえで言うけど、あなた顔色ひどいわよ」  私たちの若干失礼な物言いさえ届く様子もない。棒立ちのグローリアの視線が三巡はしたところで、ふと、輝きを取り戻した眸が見開かれる。喜色満面とはこのこと。平時であればかわいらしいその表情も、今の顔色で浮かべれば少し狂気を感じる。 「ああ…っ、そうよ、こうすればよかったんだわ!」  叫びにも似た歓喜の声が部屋に響く。ショルダーバッグからスケッチブックとペンを取り出したグローリアはその場に立ったまま、目にも止まらぬ速さでペンを走らせた。  激しい情緒の動きについていけずただまばたきを繰り返すばかりの私の目に留まったのは、スケッチブックのリング部分に残った切れ端。  ──ああきっと、この子も私と同じだったんだわ。唐突に思い至る。しっくり嵌まるアイディアが浮かばなくて、何日も徹夜して、一縷の望みをかけてここへ足を運んだ。恐らくそんなところだろう。一心不乱にえがく様子からしてなにか閃いたのだろうか。羨ましさと、知らないうちにでも助けになれたという喜びが半分ずつ。嵐のような来訪に、焦りはどこかへ消えてしまった。  机に頬杖を突き、目の前のグローリアをなんとはなしに見つめる。裾めがけて海面のように波打つスカート。彼女が得意とする曲線美にさすがだわと素直な感想を抱き──ぱちぱちと、眼前で火花が弾けたような錯覚。久しぶりに覚えた感覚に、考えるよりも先にペンを取っていた。行き詰まっていた数分前が嘘みたいにページの空白が埋まっていく。開け放したままの扉のそばで立ち尽くしていた彼が、私たちの様子に息をつく。 「よかった、いつもの先生たちだ…」 (芸術家たちの春に)  2022.3.27