ああ、この手触りをなんと表現したらいいのか。
「もうっ、姉さん! いつまでもふもふしてるの!」
そう、もふもふ。それが一番適切なオノマトペ。この目に鮮やかな毛並みは、きちんと整えられているわけでもないのに私を包み込んでくれる。
抱き付けばその分、身体が沈み込んでいく。
心休まるぬくもりを無条件に与えてくれるこの大きなぬいぐるみはなんと言ったか。
プー、たしかそう。名前からしてやわらかさが感じ取れる。
見上げてみれば、毛の間から覗く眸だって愛らしい。全身を覆っている毛の色も、くりくりとした眸も、それから私よりも随分と大きな身体だって、ああもう、なにもかもがかわいらしいの。
「そろそろ代わってよ! あたしだってもふもふしたいのに!」
焦れた妹に場所を譲ってあげたいところだけれど、何分身体が言うことを聞いてくれない。そう、これは仕方のないことなのだ。決して意図的に腕を巻き付けているわけではないのだ。
少しばかりの罪悪感だって、頬ずりしてしまえばその豊かな毛の中に吸い込まれていってしまう。
「ああ、しあわせ…」
あともう少しだけ。ゆるい誓いを立てて、まったりと襲い来るまどろみに身を任せた。
(なんて魔力の持ち主なの、ミスタープー)
2016.10.16
「んぅ…、テレーズ…?」
ぱちり、ぱちり、深緑の眸がわたしを映す。
まだ現実の世界に戻ってきていないのか、曖昧さをその深緑に色濃くとかし込んだまま。
ふ、と。微笑んで。
「わたしの、天使」
そうしてまた、まどろみの中へと落ちていってしまった。覗き込んだ顔からはもう目覚める気配を感じ取れなくて、息を一つ。
彼女がわたしに対してたびたび口にする、天使、という単語。あなたはまるで天から落ちてきたみたいね、と。彼女はいつだって切なく眸を細めるのだ。天使だなんて、そんな大それたものであるはずがないのに。
もしも天使のように清廉で慈愛に満ちたそれが存在するのならそれはまさしく、彼女の方であるはずなのに。
彼女の場合天使ではなく、女神と呼んだ方がしっくりとくるけれど。
「─…ねえ、女神さま」
わたしだけの女神さまは、わずかにまつげを揺らしただけで呼びかけに応じることはない。
それでいい、それでよかった。この言葉は、願いは、わたしだけの秘密にしておきたかったから。
「──どうかわたしだけをあいしてくださいね、女神さま」
(どうかわたしだけを映してくださいと)
2016.10.16
うとうとと、子供みたいにまどろんでいる姿も珍しい。
両手を広げてもまだ余りあるほどのクッションに背中から包み込まれ、だけどもまぶたは抵抗するみたいに小さなまたたきを繰り返していて。
「アナぁ…、引っ張って…」
「だぁめ。大人しく寝てちょうだい」
「でも…まだ仕事が残ってる、から、寝るわけには…」
頑固にもそう言い返しながら、意識はすでに曖昧な境界へと足を踏み入れているように見える。いままで溜めに溜めていた疲れが、このやわらかなクッションによって解放されたのだろう。
どうにも抗いがたいみたいで、しょるいが、なんて舌足らずな言葉を最後にすうすう寝息を立て始めてしまった。
あどけない寝顔を上から、横から、間近から堪能して、閉じたまぶたに口づけを一つ。
物陰から窺ってきていたゲルダたちに親指を立ててみせれば、一向に休みを取らない女王に手を焼いていた人たちが一斉に安堵の息を洩らした。
屈みこんで、顔を覗き込む。
どんな夢を見ているのかわからないけど、弧を描いた口の端を窺うにきっと、しあわせなものに違いない。
「…もう。手のかかる姉さんなんだから」
(それでも、そんな姉さんがいとおしいんだけど)
2016.10.16
眸を閉ざした次の瞬間には、花の咲き乱れるその中心に佇んでいた。
息を一つ。
色とりどりのそれらはどれも種類を異にしているはずなのに、ぶつかり合うことのない香りはやさしくわたしを包み込む。
さあ、と。花弁を揺らす風にまたたきをして、一瞬、
「──悩み事は解消されたかしら」
軽やかな声を生み出した彼女が、気付けば目の前で微笑んでいた。
空色の傘をくるりと回した彼女の言葉に、ここを訪れる前の記憶を辿ってみる。そういえばどうしようもなく思い詰め、藁にも縋る想いで噂を頼りにまぶたを閉ざしこの場所に行き着いたはずなのに、彼女の指す悩み事がどうしたって思い出せない。
わたしはなにに迷っていたのだろう。悩みを取り除いてくれるというここを、どうして追い求めたのだろう。単にわたしの元いたところに残してきただけなのか、それとも本当に解消されたのか。
真相を探るよりも早く、景色が歪み始める。花の香りが遠のき、彼女の笑みが薄くとけて。
「またなにかあればいつでもいらっしゃい。私はいつだって、ここにいるから」
聞き終える前に、まぶたが下へ引きずられてしまった。
(あるいはみんなの中に潜む、幻想だったのか)
2016.10.16
あごをすくい取られ、世界が持ち上げられる、瞬間、あたしを映す氷色になにもかもを奪われた。
ああ、この眸に、この表情に、このくちびるに、この人のすべてに、あたしは恋をしているのだと。
愛を伝えようと開いたくちびるを呑み込まれる。まずはやさしく触れて、それから後頭部を押さえ付けられ舌が侵入する。歯列を辿る舌先にぞくぞくと快感が走り抜けていく。
ふ、と。わずかに距離を置いたその人の眸が細められた。
熱にとかされたその表情に、あごのラインをなぞるその舌に、情欲をかき立てられていくばかりで。
「──ごめん、やっぱり無理」
言葉を紡ぐのもまどろっこしくて、謝罪とともにくちびるを返した。
あたしの突然の反撃に驚いたのか、エルサの肩が大仰に跳ねる。不服を表すかのように、頬の色が増した。
「ちょ、ちょっとアナっ、今日は私が…!」
「うん、わかってる、わかってた、でもごめん!」
本当は手を出さないという約束だったけど、こんなにも嬉しそうに、扇情的に求められてしまえばなにもしないなんてことができるはずもなくて。
それ以上の謝罪を押し込み、もう一度、距離を詰めた。
(エルサを前にして、我慢なんてできるわけないじゃない)
2016.10.16
ああもう、いくらやったって出来やしない。
「なにしてるんですの、ハーデスさん。まばたきの練習です?」
「なんでそんなもの練習しなきゃいけないのよ! 誰だってできるじゃない!」
「ハーデスさんはお出来にならないのかと」
「馬鹿にしてる?」
「あら、お分かりになりまして?」
人がわりと真剣にウインクの練習をしているというのに茶々を入れてくるこの鐘女にはまったく腹が立つ。
元はといえば、下手くそだとなじってきたあの女たらしが全ての元凶なのだけれど、いない者に罪を擦り付けることはできない。
ちりちりと、忌々しい鈴の音を鳴らす彼女はそうして、なにか微笑ましいものでも見るかのように口元をゆるめる。その表情が余計にわたしの神経を逆撫ですることにきっと気付いてはいないのだろう、本当に、腹立たしい。
「ウインクは、こうやるのですわよ」
恨めしく見つめるわたしの視線を意にも介さず、ぱちり、きれいにウインクを決めてみせて。
そういえばあの海賊が言っていた、武器を持っていない時はウインクで倒すのだと。それもあながちジョークではない気がした。だってわたしの心はこんなにもぐらついて。
「ああもう! むかつくわね、あんたたち!」
(まともに練習しているわたしこそ馬鹿みたいだけれど)
2016.10.16
いつだって地上に憧れていた。この足で駆けてみたいと願っていた。雲の上みたいなふわふわと覚束ないそれでなく、しっかりとした地面を踏みしめてみたいと。
強く祈り始めたのは一体、いつからだろうか、なんて。記憶を辿らなくても明らかなことだった。
始まりは忘れもしない、あの日。雲に身体を横たえ見下ろした彼女の微笑みを捉えた、あの瞬間から。わたしの心はどうしようもなく、惹かれていて。その興味はまだ足を下ろしたことのない地上へ向けてなのか、それとも名前も声も知らない彼女へなのか。
「──あ、」
わたしの心を一番知っているのは、誰であろうわたし自身だ。
あの日から探し続けていた彼女をついに見つけた。
どうやって降り立とうか、どんな表情を浮かべようか、なんて言葉をかけようか。今日までそればかりを考えていたはずなのに、そのどれもに答えが出ないまま、身を乗り出し、雲を蹴る。
誰に教えられたわけでもないのに知っていた、飛び方も、着地の仕方さえも。
念願の地面に難なく足の裏をつけたわたしはそうして、驚きに眸を丸める彼女の目の前で口を開く。
「はじめまして!」
言葉も、音も、知っていた、はじめから。
(すべてはあなたに出逢うために)
2016.10.16
うっちーは、時々ひどく冷たい。特に、わたしに対して。
「ねえ、うっちー、」
「やだ」
まだ言い終わっていないうちから拒絶が返ってくる。
さっきまでみんなで仲良く写真を撮っていたのに、ふたりきりになった途端、雑誌にばかり目を向けてわたしの方なんてちっとも見てくれない。見なくとも、聞かなくとも、続く言葉はわかっているとでも言うように。
わたしのことをよく理解してくれているようで、それはそれで嬉しいけど。
けど、それでも、こんなに距離を置かれるのは寂しい。だってわたしは大好きだから、うっちーのこと。
うっちーが腰かけている椅子に近付き、ちらと見上げる。
ぱらぱらページをめくる手を押し留めれば、明らかに不機嫌そうな視線が向けられた。決して好意的なものでないというのにわたしときたら、ようやく眸に映してくれたというだけで、こんなにも心が弾んでしまっている。
「なに」
うっちーにしては低く響いた声。でも、ここで怯んでいられない。
首を傾げ、冷たいその眸に少しでも、かわいく映りますようにと。
「触れたい、な」
取り出した言葉は理想より随分曖昧なものになってしまったけど、これがいまのわたしの精一杯。
震えた語尾に気付いてくれたのか、珍しく反論を収めたうっちーがはじめて、微笑んだ。
雑誌から離した手を、わたしの頭に乗せて。
「仕方ないなあ、ぱいちゃんは」
うっちーは、時々ひどく優しい。特に、わたしに対して。
(そのやさしさに、溺れてしまうんだけれど)
2016.10.19
手の感触を、きっと私は一生、忘れないのだろう。
「はい、できた」
私の手に満遍なくハンドクリームを塗り終えた彼女は、満足そうに離してしまう。
距離を空けていくそのやわらかな手を、私の方から掴めるはずもなくて。
触れてもらっただけでしあわせが溢れていたはずなのに、欲張りな私はつい寂しさを覚えてしまう。もっと、もっと、と。
そ、と。先ほどまで彼女が握っていた自身の手を、もう片方の手で触れて、口元に近付けて。
彼女がこちらに視線を向けていないことを確認し、こっそり、口づけた。
彼女がいつもつけているハンドクリームのにおいが身体中を伝って、いまだけは、私ひとりが彼女を独占できているようで。
(きっとただの願望なのだろうけれど)
2016.11.7
大して変わっていないはずの、約一年振りの世界は、鮮やかな景色を持ってして私たちを出迎えてくれた。
「見てエルサ! 冬だよ! クリスマスだよ!」
はしゃぐ妹の声につられ、頬に自然と笑みが浮かんでくる。
季節は冬。私たちが一番好きな時期ということもあって、観衆の面前だというのに弾む心を隠せないでいた。
安全のためにと装着した紐を目いっぱい引っ張って身を乗り出した妹は、雪にまみれた木を、鼻の頭を真っ赤に染めて手を振ってくれる人々を示し、そうして私にとびっきりの笑顔を向ける。
寒さなんて少しも感じていないみたいなその表情にようやく、なぜ景色が色付いたのかがわかった。
「─…とても、きれいね」
妹が、アナが、隣にいてくれるから。
私の感情に合わせて、雪がちらちらと舞い始めた。
(聖なる季節に乗せて)
2016.11.7