自分の人生に一点の後悔もなかった。
級友の陰口には実力で見返した。ニューヨークで最多の受注数をキープした。自分の作品がだれよりも優れていると自負していた。常に孤高であろうと努力していた。アートに共感し、針子やモデルとして付いてきてくれる子たちもたくさんいた。孤独を感じたことはない、一度だって。
ええ、なんの後悔もないと、胸を張って言える。わたくしの信念は、人生は、なにひとつ間違っていなかったと。
けれど。
ペンを置き、凝り固まった肩をゆっくり回しながら振り返る。窓は朝から開けたまま。どうりで寒いわけね。ニューヨークの冬が身体に堪えるようになって久しい。早く閉めないと。そう思いながらも、重い腰はなかなか椅子から離れてくれない。早く春が来てくれないものかしら。ストールを胸の前で引き会わせ、身体を震わせる。
春。最近とみに思い出すのは、鮮やかに彩られた海辺。祭典に湧くギャラリー。丹精込めた衣装をまとうモデルたち。まだまだ駆け出しだったわたくしにとって、その光景はまさに春の夢のようだった。
若きファッションアーティストとしての命運を賭けた一回限りの祭典は、結果として成功とも失敗とも言い難い形で幕を閉じた。信条も方向性も異なり、しかも揃いも揃って頑固者の四人が集って、衝突しないわけがない。なんとか諌めようと駆けずり回っていた主催たちの声も届かず思い思いのショーを展開し、けれど観客たちはそれも進行のうちなのだろうと盛り上がり、異様な熱狂と混乱を孕んだまま閉幕したのだ。その後キャパシティを超えるほどの依頼が舞い込んできたから、プロモーションという意味では大成功だったのかもしれない。
机に頬を懐かせる。肌寒さがじわじわ侵食してきているというのに、疲れからか徐々にまぶたが下りていく。
航海はない、その言葉に偽りはない。けれど心残りがないと言えば嘘になる。
まぶしいばかりだったあの春。彼女の、彼らの作品を認めていたら、あの祭典はどんな結末を迎えていたのだろう。ほんの少し歩み寄っていたら、アートに触れていたら、わたくしは一体どんな人生を送ることになったのだろうか。
ひどく感傷的になっているのは歳のせいか疲れのせいか。睡魔に侵され始めた頭では判別つかない。迷い込んだ風が書類を散らしていく。まぶたが重い。よく気のついていた秘書も今はもういない。まぶたが重い。
「…もしも、」
彼女は、彼らは、果たしてどんな想いで人生を歩んできたのだろう。
まぶたが重い。
「もしも、過去に戻れたら、」
ひゅる、と再び侵入した風が鼻先をくすぐって、
──春のにおいが、した。
「─…っ、わ、っ、たぁ…!」
勢い込んで上体を起こした拍子に身体が傾ぎ、そのまま後ろへ倒れてしまった。打ち付けた後頭部が徐々に痛みを訴える。視界がちかちか瞬いているのはなにも頭を打ったからではない。いつの間にか陽が昇っていたからだ。
頭をさする。咄嗟に受け身を取ったおかげか、こぶが出来た様子はなかった。すっかり老いさらばえたと思っていたけれど、まだまだ捨てたものではないらしい。
半身を起こしながら恨めしい視線を椅子に投げつけて──ふと、違和感を覚えた。見覚えのある椅子、だけどここにあるはずのない椅子。事務所を構えたばかりのころ、アンティークショップで一目ぼれした椅子だった。購入したころから後ろの脚が軋んでいたそれは、もう何十年も前にお役御免したはずなのに。知らない間に買い戻したとか。まさか。そこまで呆けた覚えはない。
引いていく痛みに代わり、疑問が頭をもたげる。壁際に整列したトルソー。棚からあふれるとりどりの布。誇らしく飾られた真新しい賞状。それらはすべて、ずっと昔に整理したはずなのに。
じわりと混乱していく頭を、控えめなノックの音が引き戻した。先程の盛大な音を聞きつけたモデルの誰かが様子を見に来てくれたのだろうか。やがて扉が開く音に続き、足音が近付いてくる。
「………ど、…して、」
「それはこちらの台詞です。どうなさったのですか、お嬢」
見上げた顔に、我が目を疑った。だって彼が、一足先にこの世を去ったはずの秘書が、心配と呆れを浮かべてそこにいたのだから。モノクルの奥の灰色の眸が、わたくしと椅子に交互に移り、ため息をひとつ。その仕草も表情もまるきり彼そのものだ。
「また椅子でお眠りになったのですね」
「ね、ねえあなたどうして、」
「何度も申し上げているはずです、お身体に障りますから控えてくださいと」
流れるように自然な動作で背中を支えた彼のため息はやまない。彼はわたくしの私生活に関しては口うるさかった。すべてはわたくしの体調を慮ってのことだけれど、若いころは親にも似た口喧しさによく腹を立てていたものだ。久しぶりに浴びせられた小言に、けれど懐かしむ余裕はない。どうして。同じ問いばかりがのどにせり上がる。どうしてあなたがここに。
なにひとつ言葉にならない様子を、きまりが悪くて押し黙っているとでも思ったのだろうか、彼は肩を竦める。
「お若いうちは問題ないかもしれませんが、齢を重ねた時に後悔するのは貴女ですよ」
若いうち、って、なにを言っているのだろう、彼は。うちの子たちが、デビュー五十周年のサプライズパーティーを開いてくれたばかりだというのに。
朝食の用意をするため彼は部屋を辞した。答えはひとつも与えられていない。手離したはずの家具。亡くなったはずの人。そして。
ある予感が閃くまま立ち上がった。震える足で向かうは、これまた昔に知人に譲ったはずの鏡台。まぶたを一度固く閉ざし、身を乗り出してから、目を開いて。
「──…どういうことなの、一体」
二十代のころの自分が、驚きに目を見開いたわたくし自身が、そこにいた。
(BttFな華)
2022.7.3
まぶたを開けて瞬間、飛びこんできたきれいな顔がだれのものか一瞬わからなかった。
「エル──っ、」
認識した途端叫びかけた口を慌てて塞ぐ。呼吸を整え、またたきをひとつ、ふたつ。姉さんの寝息があたしの前髪を揺らす。ぴたりと閉ざされた氷色の眸が覗く気配はない。
たしかにひとりで眠ったはずなのに。昨夜の記憶をたどりながらううむと唸る。公務を終えた姉さんとその日の出来事を話して、少しだけのつもりが気付けば短針が頂点を過ぎてて、おやすみなさいと姉さんの部屋を後にして──ということは間違いなくここはあたしの部屋で、とすると姉さんはあたしが寝入ったあとにベッドに潜りこんできたことになるわけで。
両指を握りこんで、抱えるみたいに足を曲げている姿が小さいころのそれとまるきり同じで、思わず頬がゆるむ。姉さんと昔のようにまた一緒のベッドで眠れたらいいな、なんて。そんな願いを、もしかするとこのひとも持ってくれていたんじゃないか、って。
起こさないようそっと毛布を引き上げる。少しだけ身じろいだ姉さんがふわり、笑みを浮かべた気がして。
「─…おやすみ、姉さん」
頬に寄せたくちびるに、あたしだけに許された呼称を乗せた。
(どうかいつまでもこの距離で)
2022.7.17
あねさまってばどうしてこう意固地なのかしら。
「絶対にい、や」
拒絶をことさら強調したあねさまは再び本の世界に戻ってしまう。その額にほんのりにじむ汗。我慢は身体によくないって、お姉さまに説教されたばかりなのに。
あねさまが熱中症で倒れたのはつい三日前のこと。夏の盛りに、風も通らない部屋でじっとしてるんだもの、体調が崩れないほうがおかしいわ。それに血が薄いとはいえ、一応わたしたちは海の者を祖としてる。身体の奥底は海を欲してるのよ。たぶん。
「…私のことを心配するふりして、その水着を着せたいだけでしょう、あなた」
じとり。訝し気な視線はわたしが掲げたそれへ。海の向こうの高名なファッションアーティストが手掛けた水着なのだと、手土産として渡してくれたホックが言ってた。なんでもあっちでは最先端なんですって。たしかに身体にフィットするワンピース型は、このあたりでは見かけないかも。かわいらしいデザインに免じて、わたしたちのサイズを当然のように把握してることについては目をつむってあげた。
あねさまの分は、眸と同じ浅瀬みたいな澄んだ蒼色。あねさまによく似合うだろうし、あねさま自身もきっと好みの意匠だと思うんだけど、海への同行を頑なに拒むばかり。ホックセレクトなのもきっと首を縦に振らない要因ね。
なかなか連れ合ってくれないあねさまはなおも言い募る。
「大体、外だってあんなに日差しが強いのよ。海にたどり着く前に倒れるのが関の山よ」
「海岸なんてすぐそこじゃない」
「この私が陽光に負けないとでも思っているの」
「自覚してるなら運動のひとつでもしなさいな」
体力の無さを引き合いに出し始めたあねさまに刺さる鋭い一言。キッチンから戻ってきたお姉さまは、籐のかごを携え呆れたように息をつく。そんなお姉さまはもう水着にカーディガンと、ひとりだけ海水浴の準備が万端な状態だった。かごにはお酒やらパンやらが詰まってるに違いない。
反論しかけたあねさまが、お姉さまの出で立ちに目を見開く。その隙を見逃すわたしじゃない。追加の酒瓶をかごに詰めるお姉さまを横目に、あねさまへそっとささやく。
「こんな姿のお姉さまが、不埒な男のひとに声かけられないわけないわよねぇ」
「………お姉様なら不届きな男のひとりやふたり御せるに決まっているでしょう」
口ではそう言いつつも本を置き、深いため息とともにようやく重い腰を上げてくれた。作戦は大成功。だってみんな一緒のほうが楽しいもの。
あねさまの表情とは裏腹に、空はどこまでも晴れ渡っていた。
(It’s beach weather.)
2022.7.18
「はは、およめさんみたい!」
「みたい、じゃなくて本当にお嫁さんなんだよ」
キラキラと目を輝かせるアーニャと、訂正しながら娘と一緒に覗きこんでくるロイドの視線に耐えかねたヨルはつい、試着室のカーテンに縋るように身を隠してしまった。
注目されるのは苦手です。顔といわず首筋までも朱に染め上げた彼女は、もう何度目かの嘆きを心のうちでこぼした。
『ヨルちゃんの結婚式はどんな感じだったの?』
仕立て屋の女主人の一言がそもそもの発端だった。
いつものように仕事用のドレスの修繕を頼みに行ったところ、世間話の一つといったふうに投げかけられたのだ。なんでも針子の一人が最近結婚したらしく、先程まで挙式の話で盛り上がっていたのだという。
あの旦那さんだからきっと華やかなものだったんでしょ、と色めき立つ店の主人を前に、ヨルは申し訳なさそうに眉を下げる。
『うちは挙げてないんです』
『嘘、どうして』
『ええと、その、私は後妻ですので…』
たとえばここにロイドがいれば、仕事の都合がつかなくて等々上手く取り繕えたのだろうが、彼女は生憎咄嗟の嘘に慣れていなかった。いかにしてこの会話を切り抜けようかとしどろもどろになっているところへ、もったいないわねえ、と腕を組んだ女主人が追撃する。
『だってヨルちゃんにしてみれば初婚じゃないの。式を挙げるのが普通よ』
普通。その単語が彼女の心に深々と突き刺さる。世の夫婦というものは式を挙げるのが普通なのでしょうか。帰路につきながら延々と考えるのはそればかり。タキシードに身を包んだ夫。意気揚々とフラワーガールを務める娘。咽び泣きながらバージンロードを共に歩く弟。そして純白のドレスをまとう自分自身。いま身を置いている偽装の結婚生活よりもさらに実感が湧かない光景だった。
と、昼間の出来事を話したところ、ふうむと逡巡するように唸った夫は普段の真面目くさった表情でさらりと言ってのけた。
『それじゃあしましょうか、結婚式』
『………え、』
「あらぁいいじゃないヨルちゃん! とっても素敵よ!」
夫曰く、疑念の芽は一つでも潰しておいたほうがいいでしょう、とのことで。あれよあれよと言う間に見立てられお仕着せられ、気付けば外見だけは立派な花嫁が試着室で震えていた。
花嫁の心境なぞ露知らず、上機嫌に両手を合わせた女主人はやれ健康的な肩甲骨だの綺麗なくびれだのと絶賛する。それでも彼女は頑なにカーテンから離れようとしない。
「このドレス、背中がガラ空きです…」
「ははいつもでなかでてる」
それに彼女が必死に隠そうとしている背中は、背面の鏡で丸見えなのだが、優しさ故にその場の誰も指摘せずにおいた。
娘の言葉に、ヨルはなおも言い募る。
「そ、それに私、真っ白な服はちょっと…汚れが目立ってしまうので…」
「汚れないようボクが気を配りますよ」
にっこりと笑顔を返す夫にそれ以上の言い訳ができるはずもないのに、えっとえっと、となんとか反論の糸口を探す。もう少し露出の少ないドレスがいいだとか、いっそ白いドレスにアレルギーがあるとでも言ってみようか。
レールから引きちぎらん勢いでカーテンに取り縋りぐるぐると考えているところへ、ふと覗きこんできた瞑色の眸。常にない近さに、瞑色にとかしこまれた女は息を呑んだ。
「とても似合ってますよ、ヨルさん」
──夫はいつも真意の読めない目を微笑で隠す。笑顔の裏できっと自分には到底思い至らぬ考えを巡らせているのだろう、と彼女は思っている。それでいい、と納得もしている。彼が張り巡らせた思惑で、この偽装生活は成り立っているのだから。
けれどいま、至近距離で彼女を映している眸はいつもと違い、やわらかな色を灯している気がして。どこかはにかんだように相好を崩している気が、して。
そっと視線を落とす。視界いっぱいに広がるまぶしい色。返り血を浴びていない衣装。夫が選んでくれた白。
「─…ロイドさんがそう、おっしゃる、なら」
俯いたままの彼女はおずおずとカーテンを手放す。ようやく解放されたそれが文句をつけるように軋み声をあげる。
羞恥が消えたわけではない。実感が湧いたわけでもない。それでも彼の隣に並び立つまっさらな自分が少しだけ想像できた彼女は、恥ずかしさで朱に染まった指先でつ、とドレスの刺繍をなぞった。
(ひとかけの非日常)
2022.7.26
困ったものね、どうしようかしら。
あら、聞いていたのね。いえ、大っぴらに話すことではないのだけれど。
そうね、お隣のよしみで。ここだけの話にしてちょうだい。
最近このあたりで風邪が流行しているでしょう。ええ、角の家のおじいさんもまだ寝込んでいるみたいだけれど。
…あれ、ね、どうやらただの風邪じゃないみたいなの。
私も噂を耳にしただけだから真偽の程はわからないの。
なんでも、海の底から這い上がったのろいだとか怨念だとか。
やあね、鵜呑みにしているわけじゃないわよ。のろいや怨念だなんて、今時お伽噺にだって出てこないもの。
…だけど、考えてもみなさい。
実際この風邪は治るどころか広がる一方。明日は我が身とみんな家に引きこもっていて。いつもあれだけ活気にあふれていた港も市場も、日に日に人が減っているわ。
のろいとまでは言わないけれど、人智を超えたなにかの力が働いている、って、ねえ、あなたもそうは思わない?
長話が過ぎたわね。いつまでもこんなところにいては身体に障るわ。あなたも早くお帰りなさい。
ね、あなた。
さっきの話、私とあなただけの秘密にしておいてね。
(とある娘のひとり語り)
***
…なあ。あんただよ、そこのあんた。
そんなところで店広げたって誰も買いに来やしねえよ。
なんで、って。あんた知らねえのか。
─…この港はな、のろわれてんだよ。
はじめはよくある風邪だった。みんなそう思ってた。
だけどな、一ヶ月経ち、三ヶ月過ぎ、半年を迎えても完治したやつはひとりもいない。ただただ港の奥へ奥へと蔓延していくばっかりだ。
そのうち誰かが囁き始めたんだ、これは海ののろいだ、ってな。
馬鹿にしただろ。いいさ、別に信じなくても。
けどな、周りを見てみろ。ひとっこひとりいやしねえ。
みんな恐れてんのさ、あんたがいま鼻で笑った海ののろいをな。
悪いことは言わねえから、さっさと店仕舞いした方が身のためだ。だぁれもいないんだ、どっちにしろ商売あがったりだろ。
…のろいを受けたやつはどうなるのかって?
そんなの俺が教えなくったって、今に分かるさ。
次はあんたの番なんだからな。
(とある噂のひとり歩き)
***
高熱に浮かされ霞む意識の中、それはやってくる。
なにかに呼びかけられるのだと人は言う。返事をしたが最後、海に沈むようにすべての音が反響し曖昧にほどけ、それでもなお続く問いかけに、ついには自分が何者かさえ見失うのだと。
─ おまえは だれだ ─
「─…なぁんて。よくもまあここまで浸透したものよねぇ」
すっかり寂れた町を眺める末の妹がどこか感心したようにからからと笑う。
「お姉様が流した噂ひとつでこの有様だもの。人間の想像力も大したものだわ」
呆れをため息に乗せた次妹は、興味なさそうにつま先を海へ浸している。
妹の言うとおり、私自身もまさかここまでの結果になるとは予想していなかった。
流行り風邪に侵されていたのは事実。おそらく海の向こうから船員とともに運ばれてきたのだろうそれは、熱が引いても症状がゆるく糸を引くのだという。
話に尾ひれをつけたのはほんの思いつき。
──これは海の底からやってきたのろいかもしれない。
私が口にしたのはたったそれだけ、それが今や、港町ひとつを恐怖に陥れている。
あるいは私たちの『声』に宿る力も少しは作用しているのかもしれないけれど、ここまで広めたのは人間たち自身だ。
「あら、団体様のご到着だわ」
係船柱に飛び乗った妹が楽しそうに目を細める。つられて視線を向ければ、ぞろりと近付く人の波。のろいという暗示にかかり、自身の姿を失った彼らは代わりに海の色をまとっていた。ある者は迫害されたものを、ある者はとうに朽ちたものを。
「いよいよ始まるのね」
うごめく波を見つめる次妹の呟きには覚悟がにじんでいた。
太陽の季節と闇の時節が交わる今日。思いつきから始まった計画は最終段階に入った。彼らに『声』が聞こえているうちに、『のろい』が消えないうちに、すべてを終わらせなければならない。
息をひとつ。ふいに通り過ぎた潮風が髪をさらっていく。
私には『声』は聞こえない。誰も語りかけてはくれない。それでもやり遂げなければならない、この子たちにかけられた『のろい』をとくために。
「──皆様、ようこそ」
(とある葉末のひとりよがり)
2022.8.4
もうすぐ閉店時間だけれど、窓際のあの人にはとても退店を促せそうになかった。
私が働き始めるより先にその席を陣取っていた。朝番の先輩によれば、開店と同時に訪れたのだとか。
待ち合わせですの。三杯目の紅茶を頼まれた際、彼女はそう答えた。けれど待ち人は姿を現さないまま、ついに陽が沈んでしまった。日中はスケッチブックと熱心に向き合っていた彼女も、いまはぼんやり外を眺めている。
ペン先がページを叩く音が不規則に響く。時折通り過ぎる車のライトが横顔を照らし出す。役目を失って久しい氷がからりとさみしさをこぼした。
ちらと腕時計を見る。閉店五分前。ホールは私ひとり。忍びないけれど、そろそろ声をかけなくちゃ。
一言目を探しあぐねている間に、視線の先の彼女が弾かれたように立ち上がった。一度机に引っかかり、よろめきながらも入口へ急ぐ。その背を追う前に扉のベルが鳴った。
「もう! 待たせすぎですわ!」
聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、閉店間際のだれもいない店内に彼女の声はよく通った。憤慨しているような口調に反して、にじむ安堵が手に取るように伝わってくる。
対する待ち人はすらりとした女性だった。片目を覆う前髪に阻まれて表情は窺えない。その人は声を落としているけれど、おそらく平謝りしているのだろう。
そんな待ち人を前に、彼女の相好が崩れていく。
「今日は特別に許してさしあげますわ」
言うが早いか腕を取った彼女は、お邪魔いたしましたわ、と軽やかな声を残し夜の街へと吸いこまれていく。さて席に置き去りにされた荷物たちは、明日サロンへ届けに行くとしよう。
(待ち人来たりて)
2022.8.17
これは誇張でもなんでもなく、十五分前の選択は人生で最大のミスだった。
「もうっ、おばけよりもあねさまの叫び声のほうがこわかったわよ」
「だ、だれも、叫んでなんか」
掠れた声が半ばで喉に張りつく。姉の腕に縋りついたまま言い返しても説得力なんてまるで無いことくらい、自分が一番わかっていた。
涼みに行きましょ、と提案したのはもちろん妹。なんでも曰くつきの旧家の館を外観はそのままにおばけ屋敷へ改装したのだとか。あきらかに不穏な場所なんて死んでも行くはずないのに、あろうことか姉まで興味を持ってしまった。思えばあの時、留守番を買って出ればよかった。ひとりで家に残った方が後悔は少なかったはずだ。たとえ前日、妹に散々怪談話を聞かされ、ひとりきりの空間に恐怖を感じていたとしても、だ。
「よしよし、こわかったわねえ」
姉の右手が髪を、左手が背をやさしく撫でる。それだけで恐怖も震えも強張った全身の痛みも和らいでいくから不思議だ。子供をあやすような手つきは不満だけれど、頬をふくらました妹がいい気味だから良しとしよう。それにしても肩の重いこと。
「あー、わたしもとってもこわかったなぁ」
「笑いすぎて逆におばけを怖がらせていたのはどこのどなたかしら」
「いろんなお客さんへの対処法が学べるいい機会でしょ」
あれはこの子の笑い声だったのね。いましがた私に恐怖を植えつけたうちのひとつの正体に安堵と苛立ちが湧く。屋敷に響き渡っていた甲高い笑い声は、こういうところに免疫がない女を震え上がらせるには充分すぎた。
それを抜きにしたって、田舎のおばけ屋敷のわりに演出が凝りすぎていた気がする。斧を振り下ろす巨漢に、階段を逆立ちで駆け下りてくる少女、耳元で何事か囁きかける声、すえた肉のにおい。すべて今夜の夢に現れそうで嫌になる。ああ肩が重い。
どれもこれも思い出したくないほど恐ろしかったけれど極めつけは、
「入ってすぐの演出! あれはさすがに背筋が震えちゃったわ」
妹が自身の両肩を抱き、大仰に震わせてみせる。
この屋敷に足を踏み入れたおろかな四名よ──入館した直後、ざざ、とノイズ交じりに響いた声は、いま思えば人数確認の意味もあったのだろう。あの時はそう考える余裕もなかったけれど。
「わざとひとり増やして驚かそうっていう魂胆なのかしらね、あれ」
「…でもずーっとついてくるのはやり過ぎな気もするけど」
ふと。眉をひそめた妹が指したのは私のすぐ後ろで、そういえばさっきから肩が、
お い て い か な い で
(なんでも女の子ひとりを残してみんな─されちゃったそうよ)
(まあ恐ろしい)
2022.8.17
「青い空、白い雲、どこまでも続く海、そして太陽よりもまぶしい私…。ああ、こんなにも美しい季節が終わってしまうだなんて」
「あなたって人はどうしてそう大袈裟なの」
呆れ混じりのため息に耳を傾けてくれるのは風ばかり。デッキで両腕を広げた彼女は、降り注ぐ日差しを一身に浴びている。大仰な言葉も仕草も、大女優にかかればすべてが様になってしまうのが悔しいところね。
日帰りツアーのお誘いをいただいたのは一週間前のこと。開口一番、小型フェリーを貸し切ったのだと宣った受話器越しの彼女はなぜかこちらの休日を把握しており、その日一日空けておいてちょうだいね、と。かかってきた時と同様、突然切られた電話に、まあいつものことねと後日指定された船着き場へ向かってみれば、小型とは呼びがたい船のデッキから今をときめく大女優がひらひら手を振っていたというわけで。
「趣味にしてはお金をかけすぎじゃないかしら」
「こういう時のためのスポンサーよ」
海色のスカートがひらりと翻る。いっそ羨ましいほどの世渡り術に、もはやため息も出ない。わたくしにはここまでの度胸も思い切りもない。ないからこそ彼女の突拍子もない思い付きが新鮮ではあるのだけれど。
「グローリアも来てごらんなさいよ、とっても綺麗よ」
手招きされるままデッキへ足を進める。陽の下へ出た途端容赦なく降りかかる日差しに思わず腕をかざす。盛りを過ぎたとはいえ、まだまだ夏の陽気だ。たしか近々雑誌の撮影があるとこぼしていたはずの彼女はまっさらな肌を惜しげもなく陽光に晒し、舳先の手すりにもたれている。
隣に並び立ったところで、す、と長い指が伸びる。指し示された先できらめく水面。空を舞うカモメ。響く歌声。ゆるやかに流れる景色に知らず吐息が洩れた。こんなにも穏やかな空間に身を置くのはいつ振りだろう。
ちらと隣に視線を投げる。サングラスを頭に押し上げたその人は、微笑みを浮かべて歌を口ずさんでいる。澄み渡る空を背景に歌う姿は一片の絵画のようでもあって。
「─…そうね。とても綺麗だわ」
「やだ、照れるじゃない」
「賛辞はすべて自分のためにあると思ってるでしょ、あなた」
美術品のように整った横顔から一転、からからと豪快に笑う、まるで太陽みたいに。弾ける笑顔につられて頬が綻んでいく。きっと季節がめぐるたびに夏を背負った彼女の思い出すのだろう、となんとなくそう思った。
(Summer is over.)
2022.9.1
お決まりの文句ももう何人目か。
「はい、どうぞ」
小分けに包んだパイを手渡せば、海豚と海蛇の装いをした姉弟が歓声をあげた。お礼を言うが早いか元気よく駆けていう。携えたかごはもうあふれんばかりにお菓子を詰めこんでいるというのに、まだ集めに行くつもりなのだろう。
噴水の縁に腰を落ち着けひと息つく。
昼過ぎから子供たちの相手を始めて、気付けば陽は海の向こうへ沈もうとしていた。かごに詰めたパイも残り少ない。そろそろ引き上げたほうがよさそうね。
「お菓子くださいな!」
ふ、と。差した影からのおねだりに思わず苦笑する。
「散々味見したでしょ」
「あの程度でおなかがふくれるわけないじゃない」
返事も聞かずかごに手を伸ばした末の妹は、包みを開きザクロパイをひと口。あら、と目を丸め、次いでいたずらに口角を持ち上げる。きっとこめたまじないに気付いたのだろう。まったく目聡い子だこと。
だって今日は年に一度の祝祭。ひともまものも関係なくただ歌い踊ればいい。
人々が向かうは優美を浴びてきらめく海。一夜限りの祝祭に躍る胸を抱え、かごを手に立ち上がった。
(今年も美しい祝祭を)
2022.9.14
あてがわれた個室へたどり着き、ようやくひと息ついた。
閉め切った窓の外でさざめく虫たち。ここは密林のほど近く。ぽつぽつと夜に浮かぶ灯りはこの地域独自のものだろう。馴染みのない風習なのにどこか懐かしさを覚えて、つい窓辺に寄り、哀悼に飾られた町を見つめる。
海の気配がかけらも窺えない地にどうして滞在しているのか──話せば長いけれど、端的に説明すれば、憎き彼らに誘われたからだった。いろんな地方のハロウィンをいちどきに開催するから君もぜひ参加してほしい、と。
断ることは容易だった。手紙を破り捨てればそれでおしまいだった。誘いに乗ったのは、彼らの戯れに付き合ってやってもいいかもしれない、と。ただそれだけの気まぐれ。
妹たちには留守番を頼んだ。詳しくはわからないけれど、なんでも会場の関係でだれかひとりしか出演できないのだとか。それにこんな未開の地にあの子たちを連れてきて、万が一がないとも限らない。こういう行事に一番興味を示しそうな末の妹は、あっさりと留守番を承諾した。
この地方の風習に合わせ、祝祭は三日三晩開催される。明日はその一日目。船旅から来る疲労に思わず肩を揉む。どうやら知らないうちに気を張っていたようだ。
今夜は早めに休むとしよう。伸びをひとつ、窓際から離れて、
─…じょうぶかしら
ちょ、っ、押さな、
ひそひそ声が聞こえたかと思えば、どたばたがしゃん、と典型的な物音。盛大な音に慌てて振り返れば、開け放たれたクローゼットの前で妹ふたりが積み重なっていた。
「あ、あなたたち…っ、どうやってここへ」
「そりゃあお姉さま、みっこ、」
「あなたはどうしてそう口が軽いの!」
悪びれない末の子と叱責する次妹にこめかみを押さえる。つまりはこっそり乗船していたらしい。どうりで素直に引き下がったわけだ。この子を止められなくて、と次妹は言い訳しているけれど、おおかた私のことが心配だとかそんな理由だろう。
言い争っているふたりを前に、深い深いため息をひとつ。来てしまったものは仕方がない。どこまでも緩い彼らのことだ、妹たちの観光に付き合う時間くらいくれるだろう。
「…もう夜も遅いから、早く寝支度をなさい」
「ほら。お姉さまもこう言ってることだし、そんなにカリカリしないでよあねさま」
「だから誰のせいでこんなに怒ってると思っているのよ!」
収まりそうにない口喧嘩に頭を抱える。密林の夜はまだまだ深まりそうだ。
(秋の夜長に)
2022.9.19