いつも元気を有り余らせている末の妹が珍しくうなだれていた。
「…あんなこと言うつもりなかったのに」
机に左の頬を懐かせてどれくらい経っただろう。ぽつり、懺悔にも駄々にも似た呟きが背中に宛てて転がっていく。
「ここは告解室じゃないのよ」
「ただのひとりごとよ、牧師さま」
ふてくされた口調の反論にさえ覇気がない。ここまで元気がないとこっちまで調子が狂ってしまう。それほどまでにさっきの口喧嘩が堪えているんでしょうけれど。
ため息をひとつ。仕方ない。今回ばかりは助け舟を出してあげましょうか。
「もうじき夕飯だっていうのに出てこないわね、あの子。料理が冷めるじゃない」
スープをよそいながら大きめにこぼしたひとり言に、がたりと勢いよく椅子を引く音。
「も、もう、あねさまったら! 仕方ないからわたしが呼んできてあげる!」
「あらそう。じゃあお願いしようかしら」
食器片手に振り向けば、先ほどまでの落ちこみようはどこへやら、好機とばかりに目を輝かせた末の子が駆けていく。まったく。次いで聞こえたふたり分の声に苦笑した。いつまでも手のかかる妹たちだこと。
(忙しない子羊たちへ)
2022.11.3
「あなたもお母様と同じものがすきなのね」
その言葉も、表情も、もう何度目だろう。
夕暮れがすきだとつい、呟いた。夕食の材料が詰まった紙袋を抱え直してふと見えた景色があまりに美しかったから。鬱陶しいほどまぶしい太陽が水平線に呑まれる瞬間が、闇が日なたのものすべてを覆うひとときがいとおしいのだと。
並んで歩いていた姉が笑みをこぼす。あんまり嬉しそうに笑うものだから思わず理由を尋ねれば、先ほどの言葉が返ってきた、ふんだんの慕わしさとともに。
姉は私のそこかしこから、いまもあいしてやまない母の影を見出す。そのたびじわりとにじむ感情の名前を、私は知っている。私たちのそばにいることより海の底に安寧を求めたひとなのに。姉にすべてを押しつけ無責任にもいなくなったひとだというのに。なぜここまで執着できるのか理解に苦しむ。
「お姉様は本当、大好きよね、お母様のこと」
「ええ、当然よ」
皮肉のかたまりにすぐ打ち返された想いは揺るがない。
「だって私をあなたたちの姉にしてくれたんだもの」
夕陽の最後の足掻きを受けた姉の表情がまぶしくて、私はそっと、夜を願った。
(黄昏に乞う)
2022.11.3
たまにはおねだりしてみるものね。
「─…で。いつまで歌っていればいいのかしら」
「もう少し聴いていたいの。おねがぁい」
「子守唄で目が冴えるなんて逆効果じゃないの」
珍しくあねさまに歌声を乞うたら、これまた珍しく─もちろん渋々ではあるけれど─了承してくれた。ため息をつきつつもう何度目かのフレーズを口にしてくれるんだから、あねさまも大概わたしに甘いわよね。
遠い波音を伴奏に紡がれる旋律。お姉さまのものとはまた違う響きにあふれる安らぎ。お姉さまに頼みなさいよ、なんてあねさまはぶつくさ言うけど、わたしがどれだけあねさまの歌声がすきかってことをきっとこのひとは考えもしないんだろう。わたしも取り立てて伝えはしないけど、それでもこうしてあねさまの音色に浸りたい夜もある。
まぶたを閉じる。口実にした睡魔が心地よく伺いを立ててくる。
「やっぱりすきよ、あねさまの声」
「お姉様の次に、でしょ」
そんなの比べられるわけがないのに、なんて。素直に言うのはなんだか悔しいから、返事の代わりに笑みをにじませた。
(夜更けの子守唄)
2022.11.3
はらりと視界の端で舞う白に、水槽色の眸が子供みたいにきらめいた。つられて空を見上げる。もうそんな季節なのね。過ぎ行く季節に息をひとつ、白く煙ってとけていく。
一方で小さく歓声を上げた隣人は、なにかを期待するようにちらと視線を向けてきた。
「どうりで寒いと思いましたわ」
こんなに冷え込んでいるというのに手袋もしていない手をすり合わせ、はあ、と息を吹きかける。あからさまなサインに気付かないほど私も鈍感ではない。なるべく自然な動きで華奢な手をさらう。かわいそうに、先までかじかんでいる指をそのままコートのポケットにいざなった。
「………なによ」
反応の無さについ不平を洩らせば、真横の水槽色がまばたきを繰り返す。もしかしてなにか間違えたのかしら。胸中で焦る私をとっくり見つめた彼女は、それから花が綻ぶように笑った。一本一本確かめるみたいに握りこまれる指。混ざり合うぬくもりに指先がじんわりと甘くしびれていく。肩先が勢いよく触れてくる。
「なぁんでも! なんでもございませんわ!」
笑顔の真意はわからないけれど、きっと不正解ではなかったのだろう。安堵のとけた息は白くほどけていった。
(っくしゅん、)
(手袋してこないからよ)
(あなたがあたためてくださるから問題ありませんわ)
(看病まではしないわよ)
2022.11.13
ようやく見つけた息継ぎの合間につい口を挟んでしまった。
「もしかして私はあなたの小言を聞くために呼びつけられたのかしら」
「小言だろうとなんだろうとちゃんと聞きなさい!」
サロンの扉をくぐってからずっとこの調子で、語気を緩める気配もない。止まない言葉にいい加減痛み出した頭を抱えれば、わたくしは真面目に話してるのに、と今度は呆れ声。原因は、まあ、わかってはいるけれど。
「あんなにいい話を蹴るだなんて、貴女という人は…」
彼女の言うとおりたしかにブロードウェイの主演は今の私に相応しい舞台だった。最高の相手役に悪くない脚本。それならデザイナーも最高の人材を、と。
「だってわたくしはまだキャリアが、」
「ねえグローリア。却下されただけなら私だって大人しく引き下がってたわ」
そう、それだけなら納得したのに、あろうことか高慢ちきなプロデューサーは彼女の出自を馬鹿にしたのだ。デザインさえまともに見たことないくせに。オファーを断るには充分すぎる理由だった。
なんて。この子に言うつもりはないけれど。
「ならどうして」
「─…私も仕事が選べる身分になったってだけよ」
(仕事と同じくらい大切なのよ、知らないでしょうけど)
2022.11.13
いの一番にタラップを駆け下り地元の人々で賑わう市場を抜け、慣れた密林を足早に進みようやくたどり着いた温室の手前、年季の入った樫のベンチで冊子を広げる主の姿を見とめ、どうしようもなく弾む心と足を止められなかった。
「ご覧になってカルロッタ!」
「そんなに近付けられたらご覧になれないんだけど」
夕暮れ迫る庭園で、小脇に抱えていた雑誌を開き眼前に押しつける。それまで読んでいた冊子をベンチに置いたカルロッタは、突然の来訪にも動じた様子は見せず、代わりに深い深いため息をひとつ、雑誌の上から物言いたげな眸を覗かせた。
おっしゃりたいことはわかりますのよ、ええ。けれどこの記事をだれよりもあなたに読んでほしかったわたくしの気持ちも少しは汲んでいただきたいものですわ。言い訳は心の中でだけ。渋々ながらも雑誌を受け取ったそのひとに笑みを広げる。
はじめての単独インタビューだった。これまでにも他のアーティストとの抱き合わせだったりどこぞのショーへ出展した時の簡単な紹介文だとかで掲載されたことはあったけれど、自身の手掛けた衣装や信条について語るのはこれが初。感じのよい記者に緊張もほぐれ会話も弾み、仕上がった記事も写真も想像以上に出来がよかったものだから、発売日に本屋に並んだそれを手に一直線にここまでやって来たというわけで。
こんな未開の地ですもの、発売が遅れるどころか市場に出回るかどうかも怪しいからこうして持参したけれど、雑誌をめくる指はどうにも興味がなさそうに見える。折角の晴れ舞台ですのにどうしてそう無反応なんですの。断りもなく押しかけたくせにまたも勝手にへそが曲がっていく。
「あら。写真だと随分お淑やかに見えるわね」
「まるで普段はお淑やかでないような言い草ですわねっ」
落胆のままに隣へ腰を下ろす。ぐしゃり、不服そうな音はわたくしとベンチの間から。よれてしまった冊子のカバーを直そうと足の下から取り出して、ふと、わずかに覗いた表紙に一度二度、またたいた。なんだかやけに見覚えのある装丁ですわ。
「…っ、グ、グローリア、返しなさいっ!」
急に押し黙ったわたくしへ視線を向けた隣人が、完全にカバーが剥ぎ取られた雑誌に慌てふためいて手を伸ばす。ひらりとかいくぐり今日発売の雑誌を胸に抱いて、ああ、つまりそういうことですのね。だってわたくしなんにも連絡しておりませんのに。通りがかった市にはまだ並んですらなかったのに。成すすべなくベンチに座るそのひとは、いたずらを見つけられた子供のようにばつが悪そうで。あんまりにも嬉しくていとおしくて思わず雑誌ごと抱きしめたら、読めないわ、となけなしの非難があがった。
(つめの先まで甘いひと)
2022.11.13
熟考に熟考を重ねてようやく花屋を後にしたころにはすっかり陽が傾いていた。花束を抱え直し帰路を急ぐ。選びきれなくて結局端から端まで一輪ずつ買っちゃったけど、仕方ないわよね、だってどれもふたりが喜びそうな色合いだったんだもの。
市場を抜けて小路へ入り、さてどう言い繕おうか考えているところで当のあねさまとばったり遭遇した。肩で息をするあねさまは、呼吸を整えながらわたしが抱えたそれに目を走らせ、じとりと睨み据えてくる。予想どおりの反応。だけどあねさまだって腕のうちにこんもり紙袋を積んでるくせに。まさか見えないとでも思ってるのかしら。
「…やっぱり私が買いに行くべきだったわね」
「その調子じゃ花屋にたどり着けないでしょ」
重そうに抱え直された紙袋をいくつか引き受けて、並んで家路をたどる。事前に話し合って決めた量より全然多いじゃない。いくらわたしでもこんなに食べられないわよ。指摘は大人しく呑みこんだ。面倒くさいなんて言いつつあねさまも楽しみにしてたってことだものね、仕方ないから今日のところは知らないふりをしててあげる。
家々に明かりが灯る。そこかしこで響く楽しそうな声に心が弾む。だって今日は、
「あら、思ったより早かったわね。おかえりなさい」
白いブラウスと真っ赤なスカート姿のお姉さまに出迎えられて自然、頬がゆるんだ。
(結局全部食べ切っちゃったわねえ)
(成長期だもの)
(去年も聞いた気がするわ)
2022.11.13
どこまで走っても海へ行き着くこの町が嫌いだ。
きっかけは思い出すのも馬鹿らしいほど些末で、けれど私にとっては頭に血がのぼるほど大きな原因だった。姉が私にだれを重ねているか知ってしまったから──いいえ、本当はずっと昔から知っていた、ただ知らないふりをしていた。
珍しくソファでうたた寝していたのだ。風邪引いても看病してあげないわよ。いつもこのひとが妹にかけている言葉をそっくりそのままかけつつ揺り起こした。ゆるり、私を見とめた深海色の眸がやわく微笑んで、お母様、と。ねだるような、甘えるような、聞いたこともないほど幼い呼び声がいまも離れない。
母によく似ていると姉は言う。姉妹の中で一番面影を残しているのが私だと。あんなひとに似ているなんて反吐が出る。私たちを置いて、母としての責任もなにもかもを姉ひとりに押しつけ海に心を捧げた、あんなひとなんかに。
母も、母がなによりもあいした海も嫌悪しているはずなのに、家を飛び出した私の足は自然、通い慣れた桟橋に向いていた。
さざ波が優しく耳に寄せる。母の声が、姿が、言葉がよみがえる。海はすべてを受け止めてくれるから。姉の口癖が母の受け売りだったことを思い出す。
「─…きらいよ。海も、あなたも、」
(無意識に救いを求める私自身も、)
2022.11.14
画面に表示されたのは珍しい名前だった。
「もしもし。どんげしたん、電話なんて」
『お。よかった、まだ起きてた』
こんばんは、と続いた声はやっぱり聞き馴染みがなかった。
車の修理費諸々の件もあり連絡先を交換してから細々とメッセージのやり取りをしていたものの、電話で会話をしたのはおそらく今回が初めて。あの日ぶりに耳にした彼の声は、どこかふてくされているように聞こえた。
『環さんさあ、なんで俺に教えてくれなかったんすか』
「なにをね」
主語のない責めにひとり首を傾げる。はあ、と電話越しのため息がひとつ。
『今日、誕生日だって。鈴芽ちゃんからさっき聞いたんすけど』
たっぷり間を置いてもたらされた答えに、今度は私がはあと返す番だった。
彼の言うとおり、今日は私の誕生日だ。といってももうこんな歳だから、件の鈴芽に朝一おめでとうと笑顔を向けられても一瞬なにに対してのお祝いなのか考えるほどには頓着していなかった。もう一年経ったんか、と年々速度を増す時間経過に驚いた程度。夕食を奢りたいという稔くんの誘いを、もうそんげ歳じゃないっちゃねとやんわり断り、それ以外はいつもどおり残業までして、いつもどおりの日常を送った。
いつものとおりじゃないのはこの電話。なにが不服なのか、子供みたいに拗ねているようだ。それを言うなら私だって彼の誕生日を──いや、そういえば草太くんにお祝いされている最中のこの子の写真を、鈴芽が見せてきた気がする。
「なして君に教えんといけんの」
『俺と環さんの仲じゃん』
「きみは行きずりで同情した人間に誕生日まで教えるひとなん」
ひっど、と向こう側で笑う彼は、けれど機嫌を持ち直したように笑っていた。
「じゃけんどこの歳んなったら、誕生日なんてそんな嬉しいもんじゃなか」
『じゃあ環さんはさ、鈴芽ちゃんが大人になったら祝わなくなるの? それとおんなじ』
律儀な子やな、とつられて笑う。知り合い以上ではあるけれど友人とも呼べないおばさんを祝うためにわざわざ電話までかけてくるなんて。それともこの子にとっては普通のことなんだろうか。きっと当たり前なんだろう、となんとなく思う。粗暴な言動とは裏腹に、意外とやさしい子だということくらいは知っているから。
『っと、話してたら日付変わりそうだな』
目的を思い出したように彼がひと呼吸置く。
『お誕生日おめでと、環さん』
しゅぽ、と続けて鳴る通知音。スマホ見て、と促されるまま確認すれば、まさに電話中のそのひとから電子ギフトが送られていた。最近はこんげこつ出来るんやなあ。詳細ページを開きながら感心する。遠く離れている相手にも瞬時にプレゼントできるなんて、便利な世の中になったものだ。
中身はお酒のカタログギフトだった。掲載されたお酒の中から好きなものを選べば、自宅へ届けてくれるというものらしい。
『それ、今度俺がそっち行った時一緒に飲みましょ』
「宮崎来るんね、きみ」
『行きますよ、もちろん』
なにがもちろんなのかさっぱりわからない。わからないけれど、それも悪くないなと思う自分もいた。人に贈ったお酒を飲みにわざわざ海を渡ってくるのがなんともこの子らしい、なんて。彼のことを少しも知らないのに、なぜだか納得もした。
「ええよ。きみがくれた物やかい、きみの好きなごつ使うても」
『よっしゃ、約束っすよ』
途端に上機嫌に響いた声に、おかしな子やねえ、とまた笑みがこぼれた。
(まこち来たん?)
(有言実行型なんで)
2022.11.28
綺麗とかわいいは共存できることを初めて知った。
「かわいいっすよね、環さんって」
『もう酔うちょると?』
スマホ越しの彼女がからかうように笑う、その表情がかわいいって言ってんのにこのひとは、酔っ払いの戯言だと思って本気で受け止めてはくれない。
リモート飲みもこれで何回目だろう。提案するのは俺ばかりだったのに、いつからか環さんも誘ってくれるようになった。月に一度あるかないかだった画面を挟んでの飲み会が二週間に一度、いまや毎週末開催されている。これを進歩と呼ばずしてなんと言う。まあこのひとはきっと飲み友が出来た、くらいにしか思ってないんだろうけど。
最初はほんのり化粧をしていた環さんが、そのうちすっぴんで現れるようになった。俺になら素顔を晒してもいいと思ってくれているのか、それとも単に面倒になったのか。前者ならそりゃあ嬉しいけど、後者であってもそれはそれでいいかもしれない。俺の前では繕わなくていいんだと、気を張らなくていいんだと心を緩めてくれている証だから。なんて都合のいい解釈。このひと相手だといくらでもポジティブになれるから不思議だ。
さて湯上がりなのかいつもより髪がしっとりしているそのひとは、ざらざらした画面越しでもそうと分かるほどまっさらな肌をしていた。
「かわいいですよ、知らないでしょ」
『かわいいって褒めていいんは三十代までっちゃよ』
「環さんはいくつでもかわいいよ」
『四十の私しか知らんくせに』
くい、とグラスを呷った環さんが、そろえた両膝の上にあごを乗せる。アルコールで揺れる眸。目尻に刻まれたたしかな年齢。ほのかに紅潮した頬。濡れたくちびる。どこを取っても綺麗でかわいくて、これが無自覚で放たれている事実が空恐ろしくもあって。
画面に食い入りすぎてまったく口をつけてないビール缶を置く。
「知らないけど絶対かわいかったってのは知ってる」
彼女はきっと全部全部本気にしてくれていない。それでいい。いまは、聞いてくれるだけでいい。冗談だと笑われたって、少しずつ少しずつ、彼女のなかに俺の言葉が降り積もってくれれば。
『相変わらず口の上手い子やねえ』
彼女が笑う、俺の知るだれよりも綺麗に、かわいく。
「環さん、かーわい」
『はいはい、ありがと』
(環さんかわいい。めちゃめちゃかわいい)
(きみ、もしかしてその言葉しか知らんと?)
2022.11.29