車を降りてすぐ、ぐるなあ、と響いた声に自然、頬がゆるんだ。 「おいで、ともや」  茂みに向かって呼びかける。ほどなくして、そこだけ闇を切り取ったみたいに真っ白な猫が現れた。迷いのない足取りで近付き、靴に顔をすり寄せてくる。しゃがみこんであごを撫でれば、ぐるる、と満足そうに首を反らすものだからまた顔が綻んだ。  最近よく見かけるこの猫は、どうやらうちの庭がお気に入りらしい。昼間は日なたで存分に昼寝して、仕事終わりの私に撫でろとねだるのだ。ねこ、と呼ぶのもなんだから、咄嗟に浮かんだ名前を勝手につけた。特に他意はない。ただ本当に、ふと思い浮かんだだけ。それに目元だけほんのり黒いところが、なんだか眼鏡をかけているようだから。  この子を見ていると、あの日──鈴芽を追いかけて東京まで行ったあの時、東京の子が走らせる車の後部座席に当然のように丸まっていた白猫を思い出す。あの不思議な夜以降姿を見ることはなくなったけれど、もしかしてこの子も、あの白猫や大きな黒猫の知り合いだったりするのだろうか。 「ともや、今日はなにしよったん」  耳のふちを指先で掻く。耳をぱたりと倒したともやが、やがてぷるると顔を振る。猫相手になに話しかけとるんよ。おかしくてひとり笑う。  家と職場を往復する生活の中で、この子が癒やしのひとつになっていた。さみしいっちゃろうな、と思う。鈴芽が東京の専門学校に進学してからというもの、住み慣れた家が異様に広く感じてしまうから。姪の一人立ちは喜ばしいことのはずなのに、ぽっかり空いた穴をいまだ埋められずにいる。  ごろん、と横になったともやに促されるままおなかを撫でる。痩せていないし毛並みも綺麗だ。人慣れした様子からはじめは飼い猫かとも思ったけれど首輪は見当たらない。んなあ、とともやが気持ちよさそうに鳴く。 「─…ね、ともや。私と、」 「なーにしてんすか、こんなとこで」  ふいにかけられた声に驚いて振り返れば、コンビニ袋を提げた芹澤くんが立っていた。玄関先の明かりに照らされた顔はいつもどおり少し気だるげだ。そういえば借りていた本を返しに行く、と昨日連絡があった。残業で遅くなるし休日でもいいと言ったのに、俺も遅くなるし、と答えになっているのかいないのかよく分からない返答をされたものだから、まあいいか、と了承したのが今朝。仕事に忙殺されてすっかり忘れていた。  芹澤くんの乱入に起き上がった白い毛並みがごろな、とひと声、そのまま暗がりへと去っていく。私はといえば、猫との会話をまさか聞かれていなかっただろうかと跳ねる鼓動を宥めるのに必死だった。大丈夫、そんげ大声で話しとらんっちゃね。  誤魔化すために勢いよく立ち上がる。ぱき、と関節が不平を洩らす。 「猫撫でとっただけよ。それよりわざわざありがと」  何事もなかったかのように向き合い、手を差し出す。彼がこうしてやって来た目的を果たそうとしているのに、対する彼は扉のほうへ視線を彷徨わせ、あー、と頭を掻いた。 「それがですね。本、忘れちゃって」 「そんじゃなにしに来たんね」 「宅飲み。環さんも明日休みっすよね」  がさ、と鳴らしたコンビニ袋の中身はどうやらお酒のようだ。たしかに明日は土曜日。休みを持て余していたことを、もしかして察していたんだろうか、なんて。 「…仕方ない子っちゃね。付きおうてあげるわ」  途端、笑みを広げる彼に苦笑する。毎度突然の誘いに乗ってしまうのはきっと、この笑顔に弱いからなのだろう。彼もあの猫同様、私の癒やしになっているのだ。 「ところで環さん。さっきの猫の話聞かせてよ、名前とかさ」 「やっぱ帰りいね、芹澤くん」  ひっで、と気にした様子もなく笑う彼にため息をひとつ、家の鍵を開けた。 (たとえば猫のきまぐれにも似ていて、) 2022.11.30
 四十三歳の誕生日だった。  芹澤くんとふたりでのお誕生日会はこれで三回目。今日は全部俺に任せてくださいね、との言葉どおり、ディナーやらケーキやらプレゼントまで毎年きっちり用意してくれる。もうこんげ歳なのに、なんて恥じらいは一年目にあっさり封じられた。いくつになっても生まれた日に感謝するもんでしょ、とは彼の弁。そんな言葉に甘え続けてもう三年。時の流れの早さにおなかを抱える。どうやら先ほど平らげたタルトが若干胃にもたれているらしい。最後までおいしいままでいさせてくれない己の身体が恨めしい。  久しぶりに口にしたタルトを反芻しているところへ、きゅ、と指先を包んだぬくもりに隣を振り仰ぐ。もう片方の腕でジャケットを抱えた芹澤くんは、私の視線を受け止め楽しそうに目を細める。 「ちょっと酔いさましていきませんか」  ええねえ。つられて口の端が綻ぶ。やさしく引かれる手。彼はどうやら手を繋ぐのが癖らしい。はじめて指を取られたのは確か東京へ一人旅した時だったか。都会の雑踏に揉まれる私の手を探り当てた彼が、はぐれると大変っすから、と。迷いのない足取りに流石都会っ子と感心したけれど、人混みだろうといまみたいに人っ子一人通らない夜道だろうと手を伸ばしてくるから、単にそういう子なんだろう。  緩い坂道をのぼった先には海を見渡せる公園がある。小さな鈴芽の手を引いて遊びに来ていたのはいつのことだったか。いまは自分より一回りも大きくてがっしりとした手に誘われ、背中を押すばかりだったブランコに腰かけている。あのころと逆の立場なのがなんだかおかしくてくすくす笑みをこぼせば、ご機嫌っすねえ、と楽しそうな声音。手が離れる。そろそろ本格的に夏が始まるというのに、手のひらが体温を恋しがった。  ヒールで軽く地面を蹴る。ぎい、と風を切るブランコ。酔いをまとった頬を撫でる夜風が心地いい。目の前の柵に腰を下ろした芹澤くんのまなざしがやわらかい。  彼の隣が居心地いいと感じるようになったのはいつからだろう。徐々に高度をつけるブランコに身を任せながらふと、考える。彼との飲み会でお酒の量を抑えなくなった。手を引かれるのも悪くないと思えた。彼の前では保護者でも総務部長でもなく、ただの岩戸環でいられた──だって彼が、私を岩戸環として見てくれるから。  環さん。それまでブランコを見つめていた彼がふと、落とした声が風にさらわれる。 「環さん」  今度はしっかりと、私の眸を見て。ブランコが速度を落とす。腰を上げた彼が近付きながらジャケットのポケットを探る。ブランコがゆっくり元の位置に戻る。彼がすぐ目の前にひざまずく。汚れるちゃ。言葉にする前に、街灯を受けた手のうちが鈍く光る。 「岩戸環さん、──俺と結婚してください」  眼鏡の奥の真剣なまなざしと、リングケースに鎮座する指輪に交互に視線を向ける。ケッコン。けっこん。…結婚? ようやく知っている単語へ変換されたものの、理解が追いつかなくてまばたきを繰り返す。この子は、いま、なんて。  ひたむきに見つめてきていた彼は、けれど段々と眉尻を下げていく。ええと、と気まずそうに目を逸らして。ぱた、と閉じられたリングケースがさみしそうに鳴く。 「やっぱ、早かったっす、かね」 「ち、違うんよ芹澤くん! 嫌とかじゃないけんど、その、…段階、飛ばしちょらん?」 「………は?」  今度は彼がまたたく番だった。怪訝そうに眉を寄せて、なに言ってんの、と。 「付き合ってんじゃないの、俺たち」 「………え?」  ほとんど息がかかりそうな距離で顔を見合わせる。付き合ってんじゃないの。いましがたの言葉が頭をめぐる。言葉どおりに捉えればつまり恋人同士というわけで。だれとだれが。文脈どおりに解釈すれば彼と、私が。いつ。どうして。いつの間に。すっかり酔いのさめた頭が、けれどひとつだけ心当たりを探し当てた。  あれはたしか去年の誕生日。あの夜も心地よく酔いが回っていた気がする。いとおしそうに目を細めた彼が私の指を取って、──俺といようよ、来年も、その先も。そうだ、たしかにそう言われた。ひとつ思い出せば数珠繋ぎによみがえるもので、熱いくらいの体温も、私をとかした眸も、わずかに震える指先も、こんなにも鮮明に刻まれていた。  はああ、と盛大に吐かれたため息に思考が引き戻される。髪を乱雑に掻く彼は、まじかよ、とか、鈍いとは思ってたけどまさかここまでなんて、などと。そのすべてが私に向けられていると理解して、む、と口を尖らせる。君とおると毎日飽きんやろうねえ。そう返した記憶はある。けれどそれがイコール承諾だと受け取った彼にだって非はある。大体告白するならもっとはっきり言葉にするべきだ。  顔を上げた彼としばらく無言で見つめ合って、ふは、と同時に吹き出した。ふたり分の笑い声が、彼と私しかいない公園に響いてとける。 「ね、芹澤くん。もう一回、言ってくれんね」  甘く持ち上げた語尾に、仕方ないなあ、と目の前の眸がやさしく緩む。このひとならいいと思った。考えるべきことはたくさんあるけれど、このひとがいい、と思った。  再びまみえた指輪がきらりと光る。岩戸環さん。取られた左手が熱い。 「すきです、環さん。──俺と、結婚してください」 (今週も来週も再来週もずっと、) 2022.12.3
 きっと冗談だったんだろう。わかってる、このひとが俺のことをそういう対象として見てないことくらい。わかっていながら、こみ上げる衝動を抑えられなかった。  彼女が車に乗りこんできた時から、なにかが違うとは思っていた。いつもと雰囲気が異なっている。髪形も服装も仕草だっていつもどおり、じゃあなにが。とりとめもない話で笑う彼女を横目でずっと窺い、駐車場に停めたところでようやく気付く。くちびるだ。いつも鮮やかな紅に彩られているそこが、今日は淡い桜色に縁取られているんだ。  口紅変えたんすか。サイドブレーキを下ろしながら尋ねれば、一瞬目を丸めた彼女がふわり、嬉しそうに顔を綻ばせる。よう分かったねえ。少しの驚きが混ざった言葉に、そりゃわかるに決まってんじゃん、と呟くのは心のなかでだけ。どれだけ俺があんたのこと見てると思ってんだよ。冬になって少し髪が伸びたことも、季節感を意識した爪の色にも、全部全部気付いてるんだよ。  もしかしてそれ、俺のためとか。シートベルトを外しながら冗談めかして口にする。いつもの戯れのつもりだった。自意識過剰だと笑ってくれるはず、そう思っていた。 「きみのためやけど」  は、と間抜けな声が洩れた。顔に出てたのか、視線を向けた彼女が苦笑する。桜色のくちびるは、いつも隙の無い彼女の、俺だけに見せた気の緩みみたいに思えて。  気付けばくちびるを、重ねていた。  口と口を触れ合わせるだけの中学生みたいなキス。一瞬だけの口づけが、俺には永遠のように感じた。至近距離で俺を映した眸が不思議そうにまたたきをひとつ、ふたつ。わずかに開いたくちびるは口づけた時のまま。口紅の色のせいだろうか、仕草も表情も普段より幼く、無防備に見える。  ちゃんと段階を踏むつもりだった。きちんと告白して、異性として意識してもらって、恋人としてキスをするつもりだった。そのはずなのに、このひとがたった一言でなにもかもを踏み越えてきたから。だからこれは、あんたのせい。  ようやく理解したのか、彼女の頬がくちびるよりもなお赤く色づく。今更顔を逸らすものだから右頬に手を添えて無理にこちらを向かせた。手のひらが熱い。 「俺のためなんでしょ、だったら、」  鼻先が触れる。だめ、と桜色が掠れた声をこぼす。制止されたってもう止まれるはずがない。潤んだ眸がかたく閉ざされる。それ、一般的にはオッケーの合図なんだけど。おそらく無意識であろう仕草にさえかき乱される。全部全部、あんたのせいだ。 「─…もっと味わわせてよ」  俺を狂わせた桜色を呑みこむみたいに、やわなくちびるに噛みついた。 (最初のキスはコーヒーの味がした) 2022.12.4
「ひゃっ、」  口から飛び出た甲高い悲鳴に、なによりも自分自身が驚いた。熱が触れた右の薬指を庇うように咄嗟に左手で包む。対する彼は、眼鏡の奥の眸をきょとんと丸めている。 「すみません。なんか手伝おうと思って」 「え、ええから、きみは大人しゅう座っといて!」  納得いかないといった様子で首を傾げつつ、大きな背中がすごすごとダイニングへ戻っていく。テーブルについた彼に気付かれないよう、ひっそり息を吐いた。  すきですよ、環さん──告げられたのはつい一週間前。週末恒例の飲み会のあと、家まで送り届けてくれた芹澤くんが、扉を閉める間際に落とした言葉はまるでさよならの挨拶みたいに自然だった。おやすみ、ちゃんと鍵かけてね。笑顔を残してがちゃり、扉が閉まる。いましがたの言葉がまだ噛み砕けなくて、玄関でしばらく立ち尽くしたのち、慌てて追いかけたころには彼の姿は見えなくなっていた。  すきですよ。やわらかな声が耳から離れない。すきですよ、環さん。まっすぐな眸を思い出す。果たしてどういうつもりで言ったんだろう。からかうためにそんなことを口にする子じゃないことは、短い付き合いではあるけれど知っている。だけどその後の彼の様子を見るに、あれは戯れだったんじゃないかと思わずにはいられない。  だっていつもどおりなのだ。ねみいけど頑張って起きました。昼飯食い損ねちゃった。学生ってなんであんなに体力あるんすか。仕事の合間に送られてくるメッセージは以前となにひとつ変わらない。まるであの夜の言葉は夢だったのかと錯覚するくらいに。  明日何時に行ったらいいですか、と連絡が入ったのは昨日の夜。最近まともな食事を摂ってないとこぼした彼に、それなら作っちゃるがね、と提案したことをようやく思い出す。自分から誘った手前、断るわけにもいかず結局、十一時ごろの約束を取り付けた。  顔を合わせてもやっぱり普段と同じ。ペースを乱されるのは私ばかり。おいしそうなにおいだと笑う表情に、手際いいっすねえとやさしく細められた眸に、そうしてふいに触れた指先に、いちいち鼓動が跳ねてしまう。  肺をからっぽにして、大きく吸って、また吐き出しながら鍋の火を止める。あの夜の言葉はきっと聞き間違いだ。無理やりだと思いつつもそう結論づける。私の願望が生み出したただの──待って、願望?  自問自答していたせいで、ダイニングテーブルから姿が消えていることに気付かなかった。背後から回された両腕にびくりと身体が震える。ふ、と耳元に落ちる熱っぽい吐息。環さん。いつもと変わらない呼び名が私を絡め取る。 「さすがに意識してくれたでしょ、俺のこと」 (きっととっくに、) 2022.12.5
 ふいにぼやけた視界に思わず頬がゆるむ。 「これじゃ環さんのかわいい顔、見えないんだけど」 「むぞらしゅうないし、見えんでよか」  むぞら?と首を傾げる。察した環さんが、かわいくないわ、とそっぽを向いた。その仕草がかわいいってこと、わかってやってるんだろうか、きっと無自覚なんだろうな。  このひとがキスをねだるとき、決まって俺の眼鏡を外す。背伸びして、両指でそっとつるをつまんで、時間をかけて丁寧に折り畳む、まるで焦らすみたいに。眼鏡ばかりにかまける指をさらえば、ふ、と色素の薄い眸が俺を映した。  揺らぐ眸にふらふら誘われ口づけてしまう俺が、今日ばかりはぐっと堪えた。だってたまには、環さんからしてほしいし。キスしたいって思ってるのは俺だけじゃないんだって、ちゃんと教えてほしい。  いつまで経っても背を屈めない俺に、目の前の綺麗な顔が困ったように眉を寄せる。 「俺、いまどこに口があるのかも見えないから。だからほら、」  もう片方の手で自身のくちびるを指す。迷うように一瞬視線を彷徨わせた環さんは、観念したのかぐ、と踵を上げる。仕方ない子。触れる間際のくちびるが精一杯の年上の矜持をこぼす。かわいすぎるから、そんなに視力悪くないことはしばらく黙っておこう。 (見えてるよ、あなたのぜんぶ) 2022.12.5
 地元にもこんなにお洒落なラウンジがあったのかと、窓の向こうで静かにさざめく海をなんとはなしに見つめる。  流れるピアノ音楽へとける談笑。窓に映るのは若いカップルに、新婚夫婦に、老夫婦。やわらかなオレンジ色の光のもと、だれもかれもが笑みを浮かべひそやかに言葉を交わしている。そんな空間で、自分ひとりだけがどこにも属さず浮いているような気がした。 「やっぱ背伸びしすぎたかな」  苦笑交じりの声に我に返る。視線を戻せば、対面に座る芹澤くんが空になったグラスをことりと置いた。 「そんなことないっちゃが」 「でも環さん、俺以外のこと考えてるでしょ」  眼鏡の奥からひたと見据えられ、鼓動が跳ねる。色素の薄い眸はなにもかも見透かすようにただ私だけを映していた。口調は冗談めかして、けれどまっすぐな視線に申し訳なさが先に立つ。忙しい日々の合間を縫って時間を取ってくれていることを知っているから。  見つめ返せなくてふと、視線を逸らす。 「…きみはなんも悪くないんよ」  思い出すのは昼間のこと、といっても取るに足らない世間話だった。  気合い入っちょるね、彼氏でもできたと?──笑顔でそう尋ねた年上のパートさんは笑って誤魔化す私を特に追及することもなく、他の職員とともにすぐ食堂へ歩き去っていった。私ばかりが違和感とともにいまだ取り残されている。  きっと他意も悪意もなかったんだろうと思う。むしろ褒めてくれていたのだろうとも。けれど少しばかり浮ついた気持ちを咎められたような、みっともないと笑われたような、そんな感情がこびりついて離れない。  昨夜塗り直した爪が、視界の隅で所在無く握りこまれる。ニットもスカートもマニキュアも、今夜のために買ったわけじゃない。だけど普段職場では身につけないものを選択したのは事実だった。四十を過ぎた女が若作りしている風に見えただろうか。いくらも年下の男の子に食事に誘われ浮き足立っている姿が痛々しかっただろうか、なんて。  疲れをまとった女が窓越しに見つめてきている。この席に座るべきなのは、彼の目の前で笑みを交わすのは、私ではなくもっと若くてかわいい女の子であるべきだった。 「環さんはさ、」  ふ、と落ちた名前に視線を戻す。対面の彼はジャケットの裾で眼鏡を拭きながらも、眸はこちらに向けたまま、笑うでも茶化すでもなく真摯な表情を浮かべていた。 「世界一綺麗だって、俺は思うんだけど」 「…やっぱり眼科行ったほうがええよ、きみ」 「何回も言ってますけど俺、そんな目悪くないから」  ことり、眼鏡をテーブルに置き去りにした指がそのまま流れるように私の手を取った。爪のかたちをなぞるように触れる指先にそわりと背中が落ち着きを無くす。 「その服も、この爪も、その口紅も。俺のこと考えながら選んでくれたんでしょ」  人差し指、中指、と順にたどられていく様がまるで口づけを落とされているようで、なぜだろう、ふいに泣きたくなった。彼との逢瀬を年甲斐もなく心待ちにしていた自分を、何気ない一言に沈んでいた心を全部すくいあげてもらえた気がして。 「そういう環さん、すごくすきだよ」  それじゃ足りないですかね、足りないならずっと言い続けるけど。へらりと笑う彼がふいににじむ。こんなことでも泣いてしまう私でさえきっと彼は拾いあげてくれるのだろうと、安堵とともにはらりはらりとこぼれていく。 「─…まこつ、変な趣味やね、きみは」 「ええー、趣味いいほうだと思うけどなあ、俺」  私よりも高い体温をそっと握りこむ。窓に映る女はしあわせそうに笑っていた。 (今以上、それ以上にあいして) 2022.12.15
 アレンデールに冬が訪れた。  くしゅっ、と。妹のくしゃみに思わず顔を上げれば、窓の外が白く煙っていた。目を凝らせば、遠くの山稜も冬景色をまとっている。私の力に依らない自然の雪だ。どうりで朝からあの雪だるまの友人が上機嫌なはずだ。そうでなくても彼はいつだって陽気だけれど。 「気付かなくてごめんなさい、アナ。いま薪をくべるわ」  急いで席を立ち、暖炉に駆け寄る。朝方侍女が熾してくれていた火は、いつの間にか頼りなく燻っていた。自身が寒さを感じないものだからすっかり放置してしまっていた。  いくつか薪をくべ、しばらく様子を見守る。火は一向にやる気を取り戻さない。足りないのかと薪の束へ手を伸ばしたところで、隣へしゃがみこんだ妹が慣れた手つきで薪の位置を動かした。しばらくして、暖炉が徐々に勢いをつける。ほう、と洩れた安堵の息。やはり妹のほうが私の何倍も器用なのだ。  ふたりして暖炉の前に座りこみ、じっと火を見つめる。熱が肌を撫でる。両手を擦り合わせた妹が息を吹きかける。指先はかわいそうなほど真っ赤に染まっていた。  たとえば私が炎の魔法を扱えたなら。爆ぜた火の粉の行方をたどりながらふと、思う。いいえ、力を持たないただの人間だったなら──その手をあたためることが出来たのに。雪と氷の使い手である私の手は常人のそれよりもひどく冷たい。それを苦に感じたことはないけれど、妹が凍えているいまばかりは、魔法を捨てることができたらどんなにかと思わずにはいられない。 「ね。指を貸して、姉さん」  だというのに、かわいらしく小首を傾げた妹は私の体温を乞う。知らないはずがないのに。私の身体がどれだけ冷え切っているか。相手の熱を覆うばかりのこの冷気を。 「だめよアナ、だって、」  抵抗むなしく捕らわれる。私よりはるかに高い体温が指先を包んで、それから絡めるように組み合わさる。ぎゅう、と手のひらが重なる。馴染まないはずの熱が伝播する。あたたかい、と感じたのはいつ以来だろう。  妹が笑う、まるでこうすることが当然だと言わんばかりに。ぱち、すっかり朝の姿を思い出した火が勢いを増す。その熱よりもなお、重なった手のほうがあたたかいような気がした。 「やっぱりあったかいね、姉さんの手」 「─…そうね、とても」  きゅ、と。私だけに与えられた体温をようやく、握りしめた。 (冬を告げるはやさしい熱) 2022.12.18
 まったく、と。わざと声に出してみても、我が物顔でソファを陣取る来訪者の寝息が途絶えることはなかった。  市場へ買い付けに行っている間にやって来たグローリアは、私が帰ってきたころにはすでに夢の中。くつろぐグローリアも大概だけれど、主のいない部屋へ当たり前のように通すうちの子たちにも呆れたものだ。この子だから、というのもあるだろうけれど。  空いているスペースに腰を下ろす。そっと座ったつもりが、ぎしりとソファが静かに文句を垂れる。左側を下に、自身の腕を枕にしているグローリアの胸が上下する。座面に手を突く。あどけない寝顔に影が落ちる。呼吸がふれて、細やかなまつげが揺れて、 「…キスのときは目を閉じるものだって教えたはずだけれど」 「あなたの顔が見れないだなんてもったないじゃありませんの」  くちびるが重なる寸前、姿を現した水槽色の眸に深いため息を残して立ち上がる。 「あら、最後までしてくださいませんのね」 「くちづけはねむり姫限定なの」  どうせ狸寝入りするのならくちづけてから種明かししてくれればよかったのに。少しばかりふてくされた心を見透かすように、背後でくすくすとこぼれる笑み。今後絶対に私から顔を寄せるものか、と。誓いはきっとすぐ破られてしまうのだろう。 (ところでいつから起きてたの) 2023.1.9
「まったく、貴女というひとは…」  蜘蛛の子を散らすように足早に去っていった男たちの背中を見送りながら、こぼれるのはため息ばかり。  男ふたりが女性にしつこくまとわりついているようだったからつい間に割って入ってしまったが、彼女はよく知った女優──船旅を共にしているカトリーヌだった。彼女は非力でか弱い女性とは真逆を行く存在だ。男をいなす術は心得ているし、第一自身よりも背丈の低い男に抗えないはずがない。恐らくは僕がいるのを知っていて、わざと抵抗せずにいたのだろう。容易くついた想像に呆れるばかり。 「ありがとう、さすが頼りになるわね」  面白がるように持ち上がった眉にこれ見よがしに息を吐く。 「もう少しで手が出るところでしたよ」 「あら、それはいけないわ。指は大切になさい」  自分が蒔いた種だというのに丁寧な忠告を置いて、ひらりと身を翻す。 「…貴女ならあんな輩、簡単にいなせたでしょうに」 「やぁね、こういうのは助けてもらってこそなのよ」  戯れに紡がれ始めた歌声にため息をもうひとつ、自身の相方を緩やかに奏でた。 (いつまでもよくわからないひとだ) 2023.1.23
 珍しく──と言ったら流石に失礼だ、訂正しよう。船上の歌姫が物思いに耽っていた。日中の明朗快活な様子は鳴りを潜め、物憂げに水平線を見つめる様はまるで深窓の令嬢。明るく社交的な彼女が、ともすれば他を寄せ付けない雰囲気さえまとっている姿が気にならないと言えば嘘になる。仕方ない。  蛇腹をそっと押しこむ。遠く波音だけが響くなか、相方の奏でた音色がとける。果たして振り仰いだ彼女が口の端を少し緩めた。どうやらAマイナーがお気に召したらしい。 「物悲しい曲調ね」 「この場に相応しいかと」  夕日というスポットライトに照らされた彼女は、けれどいつものように節を乗せたりはしなかった。ふ、と再び海へ引き戻された視線はどこかよるべない。 「またあの詐欺師に逃げられでもしましたか」 「失礼ね、奇術師よ。それに捕まえられないのはいつものことですもの」  彼女が肩を落としている理由が件の彼でないことは分かっていた。何事にも邁進する彼女のことだ、たとえ避けられようが逃げられようが本懐を遂げるべく追いかけ回すに違いない。けれどそれ以外の理由が思い至らなかった。  物寂しいため息がこぼれて消える。ねえベン、と。呼び名が吐息に混ざる。 「私は、どこへ行き着くのかしらね」  帽子のつばが表情を覆い隠す。  単に船旅の行く末を尋ねているわけではないことは明白だった。きっとこの先に続くであろう自身の帰結を案じているのだろう。意外な弱音に、気付かれないようそっと息をつく。稀代の女優として将来を嘱望されている彼女でも──いや、そんな彼女だからこそ、こうしてふと不安がよぎるのだろう。貴女らしくない、と笑い飛ばせば恐らく、もう二度と僕の前で本音をこぼしてくれなくなるのだろう。そんな予感がした。  メロディを紡ぎ続ける楽器はけれど答えを与えてはくれない。 「分かりません。僕にも、貴女にも、誰にも。─…けれどこの音色の続く先に、叶うことなら貴女がいてほしいと、僕は願います」  音楽を、舞台を、自分にまつわるすべてを愛し照らす彼女がどうか迷いながらもただひたむきに進むことができますように。この音楽が、彼女と共にあるように。  ふいに吹き抜けた海風に飛ばされぬよう帽子を押さえた彼女と視線が重なる。ふ、と。浮かんだ表情はいつもよりやわらかく、けれど泣き出すようにも見えた。 「すきよ、その歌」  そうしてようやく聴こえた歌は、波音に乗って夕闇を彩った。 (Where will it lead us from here?) 2023.1.25