波のさざめきが心地よい夜だった。
手に馴染んだ蛇腹を広げる。潮の香りを存分に吸いこんだ我が相棒は今宵も思い通りの音色を響かせた。甲板でめいめいに過ごす人々が耳を傾けている様子が伝わってくる。ある者はワインをくゆらせ、ある者は微笑みを交わし、ある者は手を取りリズムを刻み始める。風さえもワルツに誘われているように思えた。
ここに彼女の歌が加わればもっと──夜空に鎮座する月のようにきらびやかな歌声を思い浮かべつつ顔を上げて、ふと、船首の方に覚えのある色を見つけた。芽吹く若草色のボレロは間違いない、今まさに脳裏をよぎったカトリーヌその人だった。しかしなぜあんな場所に。つまびきながら目を凝らす。
揺らぐライトのもと、美丈夫に片手を捧げ持たれた彼女は寸分の隙もない微笑を浮かべていた。彼女お得意のあの笑みは、要約すれば「お呼びじゃなくってよ」だ。興味のない相手に言い寄られた時、決まってあれを貼りつけている。大方、一曲所望されでもしているのだろう。人目を引く容姿なのも困りものだ。
あんまり積極的に迫られるとかえって冷めるのよね。いつだったか、尋ねてもいない恋愛事情を勝手に語り聞かせられたことを思い出す。そうであるなら、あんなふうに手を取るのは逆効果だろう。などとあの伊達男にわざわざ教えるつもりもない。
さて今回はどうかわすのだろう。興味本位で遠巻きに眺めていれば、件の彼女と目が合った。視線の重なる先でもなお鮮やかな紅がに、と弧をえがく。あれはなにかを思いついた顔。そしてそれは大概、こちらにとってあまり喜ばしくないひらめき。
ヒールが甲板を打ち鳴らす。一、二、三、一、二、三。ワルツを乗せた足音の主は、隣に並び立つと演奏の邪魔にならない程度に腕を絡ませてきた。
「申し訳ないけれど私、先約がございますの」
艶やかに、晴れやかに。稀代の女優渾身の方便に、あわれ優男はあからさまに落胆し、哀愁漂う背中を残して歩み去った。見られていないのをいいことにひらひらと手を振る隣人に深いため息をひとつ。
「…誰と先約がおありで」
「べつに誰とも言ってないわ」
悪びれもせず頬を緩める彼女を前に、流石に先程の彼へ同情した。したものの、彼女が惹かれなかったのならば仕方がないとも思っていた。やはり彼女は、追いかけられるよりも追いかける方が性に合っているのだろう。
手癖のように弾き続けている曲に、上機嫌な彼女が鼻歌を寄せる。あまりにも馴染むその音に、つられて微笑む自分がいた。
(ダンスの代わりに歌声を、)
2023.1.27
これはおもしろ…ううん、大変なことになったわね。
「お、お姉さ、え、なん、え、どうして、」
「気持ちはわかるけど落ち着いて、あねさま」
絶句するあまり言葉にならないあねさまの背中を叩く。
お姉さまの部屋の真ん中で、お姉さまの寝間着に埋もれた猫がこちらを見上げてた。
部屋を覗くに至った経緯はシンプル。いつまで経っても起きてこないお姉さまの寝顔を見ようとあねさまを誘って─あねさまは心配っていう体だったけど─扉を開ければ、見知らぬ猫とご対面したというわけで。
部屋に猫が紛れこんでるだけならまだ納得できる。家の近所が彼らの巣窟になってるから、そのうちの人懐っこい子が暖を求めてやって来たのかもしれない。だけど部屋の主の姿はなく代わりに猫が一匹。お姉さま愛用の寝間着の襟部分から顔を出すその子があんまりお姉さまに似ていたものだから、ふたりしてありえない想像をしてしまった。お姉さまは猫になっちゃったんじゃないか、って。
もはや唖然と口を開くばかりのあねさまがふらふらと猫に近付く。不審者でしかないあねさまに怯えるでもなく、猫はただわたしたちを見つめる。
「お、お姉様…、お姉様なの…?」
んなあ、とひと声。まるで肯定してるみたいな鳴き声に、猫を抱え上げたそのひとは顔面蒼白になった。
まっしろで艶やかな毛並みにしなやかな尻尾、深海を思わせる眸。お姉さまが猫になったらきっとこういう感じだろうという要素を全部詰めこんだような子だった。
「きっとあの忌まわしい鼠のせいに違いないわ…」
低く呟いたあねさまはそうしてひしと猫を抱きしめる。
「心配しないでお姉様。私たちが絶対お姉様を元の姿に、」
「人の部屋でなにしてるのよ、あなたたち」
涙さえ流したところで、見知った声に咎められた。振り返った先に立つのは部屋の主。驚きにまた口を開けたあねさまは、抱えた猫とお姉さまとを交互に見つめるばかり。
「ど、どうしてお姉様が…、猫になったはずじゃ…」
「なにわけの分からないこと言ってるの。ちょっと市場に行ってただけよ」
そういえば今朝は安売りの日だったことをようやく思い出した。肩透かしを食らったようで少し拍子抜けする。まあ、ひとりで百面相してのけたあねさまを拝めたことだけは収穫かしら。
ついに思考停止したあねさまの腕の中で、ぐるな、と退屈そうに猫が鳴いた。
(ねこの子どこの子)
2023.2.26
カークさん曰く、この人はおばけがこわいみたい。
「おばけがこわいなんて一言も言ってないけど」
「モノローグに割りこんでこないでくれます?」
さっきからわたしの背中にぴったりくっついて歩いてる人に言われてもまったく説得力がないんですけど。
今回はべつにこわい話をしたわけじゃない。ユキがオススメしてたホラー映画をNetflixで見つけて、リビングのテレビで再生してたらタイミング悪く彼女が帰ってきた。完全に事故。家主のいない間に家主が嫌いな映画を見てたわたしにもまあ、非はありますけども。
強がりを言いつつも案の定ひとりで自宅を動き回れなくなったクン・サムは、どこへ行くにもわたしを連れ回す。おかげで今夜二度目のお風呂に入った。
髪を乾かしてあげて、ようやくベッドにたどり着いたのに立ち尽くしたまま。まったく、仕方ない人。
「ほら、なにもいませんよ」
毛布を上げ、中になにも──つまり彼女がこわがってるおばけも幽霊もいないから安心して、とぽんぽんシーツを叩く。腕組みをして何の気もないふうを装い一瞥を投げた彼女は、息をひとつ、こわごわ身体を横たえた。
「─…あなたのせいよ」
恨み節をこぼす彼女をぎゅうと腕のうちに閉じこめる。小さな子供みたいに怯える姿がかわいい、なんて言ったら余計拗ねちゃうだろうから、代わりにキスを降らせた。
(おやすみ、よい夢を)
2023.3.12
おかしなもので、私のデッサンなのにモデルが彼女というだけで、スケッチブックで躍るそのひとはアールヌーヴォー風のラフ衣装をまとってしまった。
「ちゃんと美人に描いてくれてるかしら」
ペンを走らせる私の視線の先、頼んでもないのにモデルを買って出たグローリアは、気取った様子でポーズを取る。
「ええ。さっきのかわいらしい欠伸までそのままに」
「ちょっと。変なところで切り取らないでちょうだい」
不機嫌そうにくちびるを尖らせながらもポーズは崩さない彼女に笑みをこぼす。その合間に完成したラフ画は、我ながら会心の出来だ。
私の表情に完成を悟ったのか、先ほどまでの不機嫌をするりと脱ぎ捨てたグローリアが椅子から腰を上げ、手元のスケッチブックを覗きこみ感嘆の息を洩らした。どうやら彼女のお気にも召したらしい。
「それじゃあ、次はわたくしの番よ」
明け渡した椅子にグローリアが座り、代わりに彼女の目の前へ。ペンを構えた途端、研ぎ澄まされた空気と視線に鼓動が跳ねる。彼女は一体どんなデザインを私に纏わせるのか。少し先への期待に頬が自然と綻んだ。
(私の手に成るあなた)
2023.3.26
軒下で濡れそぼつ姉は、まるで陸に取り残された人魚のようだった。
「あら、よくここが分かったわね」
張りついた前髪を払った姉が、少し先で佇む私を見つけ朗らかに笑う。今しがたまで漂っていた憂いはどこへやら、相好を崩したそのひとは自身の濡れ鼠の様相などまるで気にする様子もない。
吐いたため息が雨に呑まれる。傘をすり抜けた雫が少しずつ服の色を深めていく。靴はとっくに雨水に侵されていた。
「雨が降るといつもここで雨宿りしているじゃない」
「そうだったかしら」
とぼけた姉が紙袋を抱え、壁に背を預ける。重たい前髪から覗く眸が試すように私を見つめる。残念だけれど今日はその手に乗ってあげない。今夜は珍しく妹が夕食の当番なのだ。姉の帰宅が遅れればそれだけ食材が無駄になる。まともな料理ひとつ作れない私が言えたことではないけれど、妹は下手なくせに手を出したがるからたちが悪い。
もうとうの昔に暖簾を下ろしたパン屋は、幼い姉のお気に入りだったらしい。おなかを空かせた姉を見かねた店主がしばしばパンの耳を分けてくれていたのだとか。店主が病に倒れ、息子もこの港を去った今、かつての面影を残すのは褪せた看板ばかり。
ざあ、と雨足が増す。手を伸ばせば届く距離にいるというのに、降りしきる雨のせいで遠く分断されているような錯覚に陥ってしまう。
姉は傘を持たない。面倒だからと本人は宣うけれど、それが建前だということになんとなく気付いていて、それでも本当の理由は聞けず仕舞いだった。こうして姉を迎えに行く口実になっているから、べつに明らかにならなくてもいいのだけれど。
「いいから。早く帰りましょう」
いまだ遠い姉に傘を差し出す。私と傘へ交互に移る眸はどこか雨に似ていると思った。静謐で、ともすれば呑まれてしまいそうなほど底が深い。柄を握りしめる指に知らず力がこもる。雨音ばかりが鼓膜を揺らす。
「もたもたしてたらあの子、全部平らげかねないものね」
またたきのうちに雨の気配を閉じこめた姉が、軽やかに水たまりを飛び越えた。差し出した傘には目もくれず、私の傘を奪い去る。私が濡れてしまわないよう傾けてくれているものだから、代わりにそのひとの右肩は雨にまとわりつかれていた。
物申そうと顔を上げて、けれど再びまみえた眸に言葉が詰まる。
「…夕飯食べそびれたら、お姉様のせいよ」
かわいげのない文句をこぼしつつ寄り添った身体は少し、冷たかった。
(In the rain)
2023.3.30
数週間前からお姉さまがたの様子がおかしい。なんならあねさまは一ヶ月前から挙動が変だ。ふたりで顔を寄せこそこそ話し合って、わたしが近付くと何事もなかったように笑顔を繕う。夜遅くまでキッチンの明かりが灯ってることに、わたしが気付いてないとでも思ってるのかしら。宵っ張りのあねさまならともかく、規則正しくがモットーのお姉さままで連日夜更かしだなんて。
わかっちゃったの、わたしの誕生日の準備をしてるんだって。
大体へたくそすぎるのよ。お姉さまはまだ会話のついでみたいにそれとなくいま食べたいものを聞いてきたのに、あねさまったらなんの脈絡もなく、欲しいものあるかしら、なんて。『そういえば』って前置きをつければ誤魔化せるとでも思ったのかしら。
もちろん知らないフリを続けたわよ、だってもう大人だもの。お姉さまがたが心置きなく打ち合わせできるよう早寝したし、今日だって飾りつける時間をあげるために早朝から家を空けてるし。姉に気遣いできるわたしってば、なんて出来た妹なのかしら。
そんなこんなで陽もとっぷり暮れたころ。そろそろ準備も整ったかと玄関をくぐれば、薄暗い部屋と静寂がわたしを出迎えた。ははあなるほど、明るくなった瞬間サプライズするって寸法ね。企みに緩む頬のまま明かりを灯す。ランプに照らされたキッチンには誰もいないどころか飾りのひとつもない。
まってまって、どういうこと。今日の計画を練ってたんじゃないの。それとも日付を勘違いしてるとか。ううん、お姉さまに限ってそんなこと。
当てが外れたことに焦りながら順に部屋をめぐっていく。リビング、物置、わたしの、
『サプラーイズ!』
部屋を開けた、途端。陽気な声とおいしそうな香りに迎えられ思わずまたたく。とりどりの飾りにキャンドルに、たぶんキッチンから運ばれてきた机に並ぶ料理。
「驚いたでしょう。やっぱりこの子の部屋にして正解だったわね、お姉様」
「そうね、あなたのせいで危うくサプライズにならないところだったけど」
「うっ…、それは、その、来年までに改善するわ…」
肩を竦めるあねさまをくすくす笑いながら歩み寄ってきたお姉さまが、後ろ手に隠し持ってた花束を差し出した。まっしろな花たちがにじんでいく。こんなのずるいわよ。今年こそ泣かないつもりだったのに。だってもう大人だもの、誕生日を祝ってもらったくらいでうれしくて泣くなんて子供のすることだわ。
花束を受け取ったわたしの頭を撫でる手つきは、生まれたときからなにも変わらない。お姉さまとあねさまの表情なんて、ぼやけてたってわかる。
「生まれてきてくれてありがとう」
(IRIS)
2023.4.17
女性相手に失礼すぎる感想ですけれど、でもね、あなたとわたくしの体力差も少しは考慮に入れてくださいまし。
「お、重いですわぁ…っ」
片腕を肩に担ぎ、ずるずると雑に引っ張っていく。当のそのひとは呑気にも夢の中。意識の無い人間ってこうも融通がきかないんですのね。わたくしもソファで寝落ちるのは控えますわ。といってもこのひとはいとも簡単に抱え上げてくださるんですけれど。
足を止め、息を整えつつ横目で窺う。深く眠っていても綺麗な横顔に、疲れも忘れ胸がときめいた。だってこんな無防備な寝顔、めったに見せてくださらないもの。
なんとか寝室にたどり着き、半ば落とす形で横たえる。
まったく。ここまで熟睡するほど疲労を溜めこんでいただなんて。わたくしには口をすっぱくするくせに。後でお説教ですわ。部屋の主へのお小言を浮かべながらベッドの端に腰を落ち着けて──ぐん、と引きずりこまれた。重力に従った身体がそのまま高い体温に包まれる。首筋にやわらかな髪がすり寄る感触。枕かなにかと勘違いされてるのでしょうか。嬉しい反面、こんなかわいらしいカルロッタにひと晩抱きしめられるだけだなんて拷問ですわ。人の気も知らずすよすよと寝息を立てる頬をそっとつまんでみる。やわらかな頬の持ち主はまるで起きる気配を見せなかった。
(高くつきますわよ)
2023.5.22
見渡すかぎりの海、海、海。
「なんだか歌いたくなる陽気ねえ」
ただの感想であっても、彼女のくちびるに乗るだけで旋律が流れるようだった。
やれやれ。肩を竦めるのは心の中でだけ。奏でるはとうに手に馴染んだ相棒。待ってましたとばかり歌詞を紡ぐ隣人。しっくりと嵌まる感覚はまるでパズルだ。思い当たって苦笑する。結局は僕も求めていたのだ、彼女が織り成す音楽を。
有名なジャズのナンバーに合わせ、気付けば周囲が手拍子を送ってきていた。手すりを離れた彼女が右へ左へタップを刻む。
この船旅が永遠に続けば──蛇腹を押しこみながらふと思う。海に囲まれた船上で、僕が曲をつまびき、彼女が歌を吹きこむ。単調な日々が、穏やかな非日常が、この先ずっと続けばいいと。日常に戻りたくないわけではないが、彼女の歌を耳にするとそんなことを考えてしまう。
終焉を飾る和音と扇子を閉じる音が綺麗に重なる。それさえ曲の一部としてしまうのだから、やはり彼女には敵わない。
「今日も暑くなりそうね、ベン」
振り返った彼女は、歌の続きでもくちずさむように軽やかに笑った。
(I got rhythm, music and)
2023.6.25
影を踏み抜く。そのたびにするり、靴裏からすり抜けていく。
「んもうっ。歩くの早すぎよ、あねさま!」
「あなたのペースに合わせていたら日が暮れてしまうもの」
紙袋を抱え直したあねさまは振り向かない。ぶっきなぼうな物言いに、見えないとわかってても頬をふくらませてしまった。早く家に帰りたいのよね、わかってるわ、だけどかわいい妹のことをもう少し気遣ってくれてもいいんじゃないかしら。あねさまよりも重い荷物を持ってるのよ、わたし。
文句の代わりに大きな大きなため息をひとつ。一番上のお姉さまだったらきっと歩幅を合わせてくれるのに。流行りの風邪に罹ったお姉さまの代わりに、こうしてあねさまと買い出しに来てるわけだけど、やっぱりなにもかもが合わない。
「ちょっ、待ちなさい!」
早足で影を追い越す。非難の声は人混みと一緒にすり抜けた。大通りを過ぎれば、あとは海沿いをまっすぐ進むだけだ。べつにあねさまと仲良く帰らなくちゃいけないわけでもないものね。
角を曲がる。人と肩がぶつかった拍子に、均衡を崩した果物が転げ落ちて、
「──危ない…っ」
ぐん、と腕を引かれた。よろめく身体を抱き留められた瞬間、荷馬車が猛スピードで走り抜けていく。さあ、と血の気が引く。あのまま果物を拾ってたらわたし、轢かれるところだったわ。
「だから私の後ろをついてきなさいって言ったのに…!」
言われてないわよ、あねさま。思いはすれど、いまばかりは口を閉ざしてたほうが賢明みたいね。
***
包丁の扱いが不安だからとふらつきながら居間にやって来た姉を無理やりベッドへ押し戻して数十分。穏やかな寝息に安堵の息をつく。どうやら今度は眠りにつけたらしい。
成人してもう随分経つというのに、いつまでも姉の過保護が抜けずにいた。火を扱うにしても包丁を取り出すにしても、気を付けなさいよと隣で目を光らせる。体調が悪くても、一家の長として家計を切り盛りする。その結果がこれだ。
りんごを乗せた皿をサイドテーブルに置く。張りついた前髪を払い手を当てれば、確かな熱が居座っていた。
「…そんなに頼りないかしら、私」
そっとこぼした呟きは届かない。
いまだ幼さの残る妹のため、姉が常に気を張っていることは知っている。亡き母に代わり妹たちを育てようと気負っていることも。ひとりですべてを背負う必要なんてないのに、呆れるほど真面目な姉は、私にさえ頼ろうとしないのだ。
姉のように料理上手ではない。りんごの皮だってうまく剥けない。頼りがいが無いのは承知の上だ。けれど私にくらい弱音を吐いてくれてもいいのに。
「─…本当に。手のかかるひと」
濡らしたタオルを額に乗せる。苦しそうに唸ったそのひとは、けれどいまだ夢に沈んだまま。どうかその夢が穏やかなものでありますようにと、タオル越しに口づけを落とした。
***
寝苦しさにまぶたをこじ開けた。
まばたきを二度、三度。まぶたどころか身体全体が鉛のように重い。それでも峠は越えたようで、後には気怠さと不快な汗が残るばかりだった。
上体を起こそうとして、けれど腕だけが妙に重くて視線を向ければ、すぐ下の妹が右腕に取り縋っていた。規則正しい寝息が夜の静寂にとけていく。どうやら床に座り上体だけこちらにもたれているらしい。寝辛いでしょうに。ぼうっとした頭でも心配は尽きない。
鍋に火をかけようとしたところまでは覚えている。そこへ次妹が割って入って、末の妹に担がれて。それからは記憶が曖昧だ。きっと熱に浮かされていたんだろう。無理を通して結局手間をかけさせるだなんて、姉として情けない。
夜闇に慣れた目がようやく妹の顔を捉える。暗がりでもそれとわかるほど残る涙の跡に胸が痛む。昔からそう。口では強がりばかり言うこの子が一番泣き虫なのだ。この子が泣かずに済むように、末の子とともに笑っていてくれるように、努力しているつもりだった、頑張らなければならなかった。
「─…ごめんなさいね、こんな姉で」
ぽつりと落とした謝罪は、夜だけが聞いていた。
***
仲睦まじい寝姿に、羨ましさよりも呆れが勝った。
起こさないよう抜き足差し足で距離を詰め、仲良く添い寝してる姉ふたりを見つめる。おおかたシーツを枕に眠るあねさまを不憫に思ったお姉さまが膝に寝かしつけてあげたとか、きっとそんなところね。自分が高熱で寝込んでたってこと、もう忘れちゃったのかしら。
ベッドを背もたれに眠るお姉さまの顔は、昨日よりは赤みが引いてるように見えた。呼吸も幾分落ち着いてるみたい。知らずに吐いた安堵の息が前髪を揺らす。
最悪の事態を夢に見そうで、おちおち眠ってられなかった。お母さまみたいにお姉さまもいなくなっちゃうんじゃないか、わたしたちを置いていっちゃうんじゃないか、って。お医者さまも呼べない、薬も買えないって状況でそんな想像をするなってほうが無理な話よ。
あねさまがんう、と小さく唸って身体を丸める。お姉さまの指があねさまの髪をやさしく梳いたのはきっと無意識。
ねえお姉さま、あねさまだってこんなに姉離れできてないのよ。だからお母さまの隣には行かないで、まだ、もう少し。
テーブルの上に忘れ去られたりんごをひと口。じゅわ、と広がる果肉と一緒になにもかも呑みこみ代わりに笑顔を取り出す。
「もう朝よ、お姉さまがた!」
(だからどうかいつまでも、)
2023.7.7
こういうのってなんて言うんだったっけ。
「この手はなぁに、あねさま」
わたしの視線をたどるように、あねさまのまつげが影を落とす。控えめに掴まれた服の裾。再びこちらを見上げたそのひとは大げさに顔をしかめてみせる。ねえ、その眸が潤んでることにまさか気付いてないとでも思ってるのかしら。
こわい話でもしましょうか。晩ごはんのあと、名案とばかり手を鳴らしたのは一番上のお姉さまだった。背筋が冷えれば寝苦しい夜も少しは快適に過ごせるでしょ、と燭台以外の明かりを消したときのあねさまの顔ったら。まるでこの世の終わりみたいな絶望をまとってたわ。そうよね、こわがりだものね。隠してるつもりだろうけど。
お姉さまはこの港に古くから伝わる怪談を、わたしは街のひとたちが噂してる怪異を。散々語って大いに盛り上がったころには夜がとっぷり更けていた。
発起人であるお姉さまは、あねさまの無言の訴えにも気付かずさっさと自室に戻ってしまった。だから今度はこうして手が出ちゃったのね、あねさま。
「………こ、こわいなら、一緒に寝てあげても、いいわよ」
たっぷり間を空けてようやくそれだけを絞り出したあねさまがくちびるを引き結ぶ。ぷるぷる震える指先にふと思い出す。この気持ち、嗜虐心、って言うのよね。
(なんだかそそられるのよね、あねさまの泣き顔って)
2023.7.9