どうせまたくだらない噂に踊らされているのだろう。 「くだらなくなんかないわよ、ふわ、あぁ…」  桟橋に腰かけた妹が大欠伸をする。まだ一時間も経っていないのにもう飽きているじゃないの。大体この子は駆け回る方が性に合っているのだから、同じ場所で何時間も釣り糸を垂らすなんてこと出来るはずもないのだ。  眠気を堪えるためか、とつとつと事のあらましを語り始める。曰く、最近難破する船が増えたのだとか。からくも生き延びた者が語るには、突如現れた渦潮に呑まれたのだという。渦潮の中心には龍に似た怪物がいた、と。 「龍に似た怪物、ね…。たとえいたとして、こんな釣り竿で釣れると思っているの?」 「何事もやってみなくちゃわかんないじゃない」  それにしても釣れないわねぇ。つま先で水面を撫でた妹がため息をつく。そんなに海を揺らしては怪物どころか小魚一匹だってかからないでしょうに。知識もないのに行動に移すところがいかにもこの子らしいというか、勢いばかりで実が伴わないというか。いい機会だからこのあたりでお説教をしても、 「かかったわ!」 「嘘っ!?」  妹の声に勢い込んで振り返る。竿のしなり具合を見るにかなりの大物のようだ。水面が激しくさざめいている。さっきまでそんな気配、欠片も窺えなかったのに。  慌てふためく妹と並び、竿を握りしめる。二人がかりだというのに引き上げられないどころか、徐々に引っ張られていく。獲物は大洋を目指しているのだろうか。つま先が滑る。このままでは妹もろとも海へ引きずりこまれてしまう。 「っ、手を離しなさい!」 「あねさ、」  妹の叫びは半ばで途切れ、どぶん、と気付けば海に身を沈められていた。  水を掻きながら目をしばたたかせる。昼間だというのにひどく薄暗い。一緒に落ちたはずの釣り竿もその原因もどこにも見当たらない。もう遠海へ去っていったのだろうか。  行方を気にしながらも海面を目指し、ふ、と。視線を感じた気がして振り返った先、にわかに渦巻くその中心からひたと見つめる、妖しく光る一対の眸と目が、合った。 「あっ、あねさまっ、大丈夫? まさか怪我してないわよね…!」  肺に満ちる酸素に思わず咳き込んだ。青ざめた表情の妹が伸ばした手を取りつつ振り仰いでみても、いっそ神々しいまでの『あれ』の気配はどこにも窺えない。 「怪物が、──龍が、いたわ」 (それは寝物語で聞いた伝説のいきものにも似ていて、) 2023.8.20
 小さな港町は今日も呆れるくらい平穏だ。 「やあお嬢ちゃん。いつもありがとな。おまけしとくから、また来てくれよ」  微笑みとともに受け取った紙袋には、リンゴがこれでもかと詰め込まれていた。馬鹿な人間ね。心の中で嘲笑する。私たちの思惑も知らず優しくするだなんて。赤く熟れたリンゴをひと口かじる。適度な酸味に思わず頬を緩めれば、気に入ったかい、と店主が満足そうに笑う。まあこの美味しさに免じて、海の仲間に迎え入れてあげなくもないわ。 「ようやく来たね。あんたのためにとっておきを用意しておいたんだよ」  促されるまま差し出した首を飾るネックレス。涙にも似た真珠が一粒下がったそれは、私の胸元を彩るに相応しかった。まあこの美しさに免じて、露店は残していてあげるわ。 「はい、これ。あなたをイメージして作ってみたの!」  視界を埋め尽くすとりどりの花。深い海の底のような青こそ私に似合うというのに、花屋の娘は赤青黄すべての色をあますことなく集めて花束にしていた。気に入ってもらえたかしら。上目遣いで窺ってくる娘につい微笑む。 「─…まったく。ここはお人好しばかりだわ」  すん、と顔を寄せる。とりどりの香りが胸を満たす。まあこの花に免じて、かのひとを復活させる計画はもう少し保留にしておいてあげてもいいわ。 (…で?いつ魔王様を復活させるつもりなの、お姉様) (………来年には) (去年と同じこと言ってるわよぉ、お姉さま) 2023.11.15
 グローリア・デ・モードの名声は、遠くジャングルの奥地にまで届いていた。都会という荒波からのし上がった彼女のアートはとにかく華やかで、けれど洗練されている。私の信条とかけ離れているはずなのに、なぜか惹かれてやまなかった。  そんな彼女と顔見知りになれたのは僥倖だった。いくらか年上の彼女は自身の功績を鼻にかけることも、私を軽視することもなくにこやかに握手を求めてきた。雑誌や展覧会で見かけるたび興味をそそられ、いつかお目通りが叶うことを願っていたのだと──私とまったく同じことを、キャリアも知名度も上の彼女が思っていただなんて。  紙面では澄ました表情をまとっている彼女の実態は、少し抜けていて、愛らしくて、どこまでもアートに誠実な女性だった。知れば知るほどに好感を持った。募るばかりの想いの正体は分からなかった。分からないふりをした。彼女のひたむきな情熱に対する純粋な敬意だと信じていたかった。  けれど彼女が私宅を訪れお酒を酌み交わした夜、アルコールに任せ口走ってしまった、あなたがすき、と。彼女の眸が揺れる、まるで水槽を覗きこんだよう。答えを聞くのが怖くてくちびるを奪った。混ざる香りに思考が濁っていく。憧れていた。尊敬していた。隣に並び立ちたかった。それなのにみずから壊してしまうだなんて。  わずかに離れたくちびるが吐息とともに、カルロッタ、と呟いた気がした。  ふ、と。感じた肌寒さに、まぶたを開けた。  ひとりきりのベッド。ひとつきりの呼吸音。こみ上げてきた熱を長いまばたきで押し戻す。ただ彼女がいないだけの、いつもどおりの光景。  彼女がここに来ることはもう無いだろう。ふたりで会うことも、言葉を交わすことも、きっと。身勝手な涙が流れていく。私は彼女のことをこんなにも──、 「ちゃんと毛布にもぐっていないと風邪を引くわよ、カルロッタ」  ぬくもりが、あやすような声とともに戻ってきた。驚いて顔を上げた先、ふたり分のマグカップをサイドテーブルに置いたグローリアが隣に滑り込む。あなたって暖房入れないのね、などとぶつくさ言いながら腕のうちに閉じ込められる。  都合のいい夢を見ているのだろうか。でなければ私のひとりよがりな想いに付き合わされた彼女がまだここにいるわけがない、そのはずなのに。 「あれだけ言ったのに、あなた、もう忘れちゃったのかしら」  じわりと馴染む体温が、昨夜交わした熱を否応なしに思い出させてくる。慈しむように触れた指先も、いとおしむように落とされた名前も、私をとかす水槽色の眸も。  向かい合ったグローリアがふわりと笑う、私のなにもかもを包みこむみたいに。 「──すきよ、カルロッタ。あなたがすき」 (夢のあとさき) 2023.11.16
 今朝のラジオで言ってましたの、本日は雲一つない快晴でしょう、なんて意気揚々と。  だからわたくしそのつもりで身支度を整えましたのよ。傘に留守番を頼んで、薄手のコートを羽織って、ええ、これだってレインブーツなんかじゃありませんわ。  一時間も早く着いてしまったものですから、カフェでアイスコーヒーを飲みつつ逸る心を落ち着かせておりましたの。だって半年ぶりのデートですのよ、あなたは舞い上がりませんの?  けれどそのうち雲行きが怪しくなって、気付けばこのどしゃ降り。通り雨だと、カフェに逃げ込んだ方は口々に言うけれど、いつまで経っても止む気配ひとつございませんわ。  公園を散策して、ベンチに並んでサンドイッチをつまんで、それから──ね、わたくし、晴れ前提で予定を立てていたんですのよ。それなのにあんまりですわ。そうは思わなくて? 「そうねえ」  そうねえ、ではなくて。 「あなたとこうして一緒にいられるだけで嬉しいわよ、私は」  も、もうっ! いつもはそんなこと言ってくださらないくせに!  まあ、あなたに免じて、あのお天気キャスターは許してあげなくもありませんわ。 (雨も悪くありませんわね) 2023.12.3
「ほんとは姉妹じゃないんじゃないの、わたしたち」  まだ寝ぼけているのかと思った。  大体この子は夜更かしが過ぎるのだ。今日だって昼食のにおいを嗅ぎつけて起きただけに違いない。早寝早起きの癖が抜けないお姉様を少しは見習ってほしい。  小言を呑みこみ、代わりに深いため息をひとつ。今更言ったところで聞く耳を持つはずがない。 「ちょっとぉ、わたしは真剣に話してるのよ、あねさま」 「はいはい。いいからさっさと食べてちょうだい。片付かないでしょ」  わざわざ温め直してあげたスープを顎でしゃくる。  あの子にもちゃんと食べさせてあげてね、と言い残した姉は朝から出かけていた。用事があるなら私たちなど気にせず家を出ればいいのに、どこまでも母親代わりであろうとするのだ。 「あねさまは考えたことないの?」  スープを飲みながら、妹はなおも続ける。 「あねさまは父親を覚えてるの? そもそも病弱だったお母さまが三人も産めると思う? もしかしてわたしたち、別々のところから拾われてきたんじゃないかしら」  矢継ぎ早に繰り出される疑問を、今まで抱かなかったわけじゃない。けれどお姉様が私たちを妹として扱うのなら、それが真実でありすべてなのだ。  取り合わない私の前で、妹がふくれてそっぽを向く。 「─…血が繋がってないなら、お姉さまへの気持ちも受け入れられるのに」  からり、放られたスプーンが空になった皿の上で不平をこぼした。 2023.12.15
 蝶が舞い、花が芽吹き始める季節。 「無理よ…、絶対に無理…」  もう何度目かも分からない泣き言をブツブツ呟くグローリアは、とりどりの布地が占拠する机に突っ伏した。  そう、春は目前に迫っている。だというのに完成の目途は一向につかない。最後の一着がどうしても浮かばないのだ。  もう諦めてしまおうかしら。三徹目の頭が逃げの一手を講じる。他は仕上がっていることだし、もう一着は無かったことにしても…。  ぼんやり投げた視線の先、ひらり、窓の桟に降り立つ紫紺の蝶。  あなたのデザイン、楽しみにしているわね──夏ごろ交わした言葉がよみがえる。挑戦的な口調とは裏腹に、やわらかく細められた眸を思い出す。 「…諦めるなんて、許してくれそうにありませんわね」  身体を起こし、ぐ、と伸びをひとつ。  カルロッタを──同様に苦心しているであろうライバルたちを思い浮かべただけで、グローリアに再び火が灯る。彼らはいつだってアイディアの源であり、自身を奮い起こす好敵手であり、支えてくれる仲間でもあった。  ペンを取る。つい先程まで白紙だったノートが嘘のように埋まっていく。我知らず頬がゆるんでいく。 「さあ、休憩は終わりよ」 (春はすぐそこに) 2023.12.17
「おはようさん、今日はいい魚が入ったんだよ」 「よっ、今日もべっぴんさんだねえ」 「とっておきの話があるの、寄って行かない?」  市場は今日も喧騒に包まれていた。  露店から声をかけてくる人たちに応えながら目当ての物を購入する。飽きるほど繰り返してきた日常だというのに、いつからか違和感が這い寄るようになってきていた。  そう、一年前のあの秋の日。祝祭と称した仮装会場でなにかが──自身の存在を、在り方を揺るがすなにかがあった気がするのに、思い出せずにいた。  もうすぐ季節が巡り来る。  今年も開催される祭りに、妹ふたりを引き連れ参加する予定だった。纏うのはこの地に古くから伝わる海の精の衣。数ある海の生物の中で、なぜだかそれを選ばなくてはならない気がした。  つきり。覚えのない痛みが胸元に走る。秋が深まるにつれ、違和が広がっていく。私はここにいるべき者ではないと、誰かが囁いている。 「ね、きいてる?」  不思議そうに覗き込んできた友人に頭を振ってみせる。なにを考えているのだろう。生まれてこのかた、この港から一歩も外へ出たことのない、ただの人間であるはずなのに。 「なんでもないわ、─…なんでも」 (ここではないどこかに、居場所を求めている) 2023.12.17
「時々思うのよ。もしかしたら私、本当は女優じゃないかもしれないって」  彼女の突拍子もない発言には慣れたつもりだったが、適当には受け流せないような声色が含まれている気がして思わず視線を上げた。  縁に突いた左手であごを支える彼女は遠く水平線を見つめているようで、けれど何も見ていないようにも見える。まさに心ここにあらず、といった様子だった。 「だって、もしかしたら自称しているだけかもしれないでしょう。今をときめく銀幕スターなんかじゃなくて、ただの売れない歌手かもしれない。もしくは何者でもないかもしれない」  沈みゆく夕日が彼女の顔を照らす。影の差す横顔は、不安そうにも、泣き出しそうにも見えた。 「…何者でもいいんじゃないでしょうか」  同様に海の彼方を見つめる。ふ、と隣人が振り返る気配。 「僕の奏でる音楽に、貴女の歌声が重なり、船旅を彩る。ここではそれだけでいいんじゃないかと、僕は思いますけど」  嘘偽りはなかった。彼女が陸地では到底お目にかかれない人であろうと、ここでは自分と彼女の音楽がハーモニーを織り成している。それでけで、今はいいと思えた。 「…私のことを知らないなんて、貴方くらいだけれどね、ベン」  茶化すような口調にいつもの覇気を感じ、ひっそりと笑む。  航海はまだ、続いていく。 (僕と貴女の音楽も、) 2023.12.17
「拝啓、カルロッタ・マリポーサ様  ふふ、改まって書くと気恥ずかしいわね。あなたへ宛てた手紙なんて、もう何通も出しているのに。  だってあなた、いつまで経っても電話を引いてくれないんだもの。…なんて文句を垂れつつ呆れたふりを繕っていたこと、きっと気付いていたわよね。あなたとの文通が、実は日々の楽しみだったの。だって紙の上のあなたは、実際に言葉を交わすよりもずっと素直だったから。  ねえカルロッタ。わたくし、自分の人生にこれっぽっちも後悔なんてないのよ。自分の思うとおりのアートを形にしてきて、それに見合う評価ももらって。なにより孤高だと驕っていたわたくしに、ライバルと呼ぶに相応しい仲間ができたもの。  けれどね、たったひとつだけ。あなたがこれから織り成す作品にまみえることができないことが心残りなの。あなたをひとり残してしまうことだけが心配なのよ。  だからね、カルロッタ。春になったら毎年、わたくしのために服を作ってちょうだい。いつか必ず、あなたの作品に袖を通すから。いつかまた、あなたに会いに行くから。  それじゃあまた、いつかの春に。  グローリア・デ・モードより、愛をこめて」 (最後の約束よ、おねがい、守ってちょうだいね) 2023.12.18
 明日は雪、もしくは津波に襲われるかもしれない。  だって、あのお姉さまの膝に猫がいるだなんて。  例によってお姉さまが拾ってきた子だった。もう貰い手は決まってるから、今夜だけうちで預かることになったのだ。  お姉さまは猫をこの上なくあいしてるけど、なぜか猫からは好かれない。今回もきっとわたしかあねさまが世話をすることになるだろうって、いまさっきあねさまと話したばっかりなのに。 「…物好きな猫もいたものね」  わたしの隣で同じくお姉さまを見つめるあねさまがぽつりと呟く。  ていうか、ねえ、ちょっとまって。 「そこはわたしの定位置よ!」 「あなたの椅子になった覚えはないわよお」  反論するお姉さまの口調はふにゃふにゃして締まりがない。我が物顔でくつろぐ獣にすっかり骨抜きにされたみたい。 「私以外にもいるでしょ」 「やぁよ、あねさまってばやわらかくないんだもん」 「ちょっと。誰が固いですって?」 「スレンダーだって褒めてますのよ、あねさま」 「おねえちゃんたちこわいわねえ、ね、テュポーン?」  言い争うわたしたちなど意に介する様子もなく、まっくろなかたまりは眠そうに伸びをした。 (今夜だけ、いいわね、今夜だけよ) 2023.12.18