「ぼくのおよめさんになってください!」  大事に差し出されたおもちゃの指輪は、心をときめかせるには充分。  三等客室あたりの子供だろうか。質素な身なりの彼は、けれど甲板にいる誰よりも眸を輝かせている。見たところ十歳かそこらだろう、まったく最近の子供はませている。 「私に求婚するだなんて、お目が高いわね」  屈み込み、視線を合わせる。一世一代の─恐らく人生初の─告白で緊張しているのか、少年の頬は赤く色づいている。 「残念ながら私には心を寄せている人がいるのだけれど…そうね、」  少年がまっすぐ捧げている指輪を受け取る。ガラス玉で飾られた右の薬指は、それだけで特別輝いて見えた。 「もしあなたが大人になってもまだ、私を好きでいてくれたら。その時はまた、私に愛を誓ってくれるかしら」  少年が理解したかは分からないけれど、それでも満面の笑みを浮かべた彼は、指輪の上にキスをひとつ、大きく手を振りながら去っていった。 「本当、最近の子は大人びているのね」  前途洋々な少年の背に、ボンボヤージュ、と呟いた。 (あなたがそのまままっすぐ成長してくれますようにと) 2023.12.18
 壁にもたれてようやく一息ついた。  そろそろ真夜中近いっていうのに、大広間の客人たちは盛り上がりを失わない。楽団は相変わらず素敵な音楽を奏でているし、手を取り合い楽しそうに踊る人たちもいるし、真っ赤な顔でもう何杯目かもわからないお酒を呷る大臣もいる。  みんな元気よね。他人事のようにそう思う。あたしだってパーティーは大好き。毎日パーティーを開いたらいいのにって、扉が閉ざされていたあの頃は夢見てた。だけど実際、ホスト役って大変。招待客をもてなしたり挨拶したり相手をしたりと目まぐるしく動いてるものだから、自分が楽しむ余裕なんてどこにもない。  そもそもあたしはまだ生身の人間に─お城で働いてる人以外って意味で─慣れてない。だって数ヶ月前まで、話し相手といえば甲冑かアヒルかジャンヌ・ダルクくらいだったんだもの。顔を覚えるだけで精一杯よ。  給仕から水を受け取り、乾いた喉に流し込む。大広間の熱気に浮かされた身体が少しだけ落ち着いた気がする。  視線の先に、数時間前と変わらない様子で談笑する女王がいた。あたしよりも人と接する機会が少なかったはずの姉さんは、今では一国の主として臆することなく言葉を交わしてる。不出来なあたしとは大違い。やっぱり姉さんは、国を背負うに足る人間なんだろう。  吐いたため息が音楽に揉まれていく。  本当はこのまま大広間の壁になっていたいところだけどそうもいかない。そろそろ姉さんと一緒に、お開きの挨拶に回らなくちゃいけない時間だ。重たい足を叱咤して、ドレスを翻す。 「─…本当に優れたお方ですね、貴女は」  音楽の合間を縫って会話が届く。きっと女王に対する賛辞を並べてるんだろう。当然よ、だって姉さんは完璧だもの。  ほんの少しだけ目を伏せた女王は、いいえ、と微笑む。よく知った笑みだ、と思った。社交の場で浮かべるものじゃなくて、あたしとふたりきりのときによく見せる表情。 「私ではダンスのお相手さえ務まりませんもの。けれど妹が──アナがいてくれるから。だから私は、どこであっても、誰といても、胸を張って立っていられるんです」  言葉が、微笑みが、にじむ想いが。だれに向けられているものだかわかって。たったそれだけで足取りが軽やかになる。 「ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません」  姉さんの隣に並び立ち、ドレスの裾を持ち上げ礼をひとつ。息を吸う。喉につっかえていたなにかはもうどこにもない。 「アレンデールの──エルサの妹の、アナと申します」  あたしを見つめる氷色の眸が、嬉しそうに細められた気がした。 (あなたといるだけで) 2023.12.18
「ねえカルロッタ…焦らさないで、お願い…」  差し伸ばされた指を絡め取り、余裕たっぷりに微笑んでみせる。焦らなくても夜はまだこれからよ──そう読み取ってくれるようにと祈りながら。  シーツに沈むまっさらな身体。彫像もかくやというほど可憐な恋人を前に、内心焦っていた。だって私は、他人の下着のホックの外し方ひとつ知らないのだから。ファッションアーティストを生業としているからといって着脱もお手の物かといえばそんなことあるはずもないのだ。  言葉で巧みに意識を逸らしつつ、セーターとスカートはなんとか脱がせることに成功した。どうやらグローリアも私と同じく初体験のようだから、今のところ不手際には気付いていないようだけれど、「これからどうすればいいかしら」なんて間抜けなこと、尋ねられるはずもない。私にだって年上の矜持というものがあるのだ。  ブラの縁を指先でなぞる。たったそれだけで身を震わせる様のなんとかわいらしいこと。もっと暴きたいという思いは募れど一向に先に進めない。冷や汗がつたう。  指先を遊ばせているうち、ぐるり、不意に世界が反転した。月光を背にしたグローリアが、首筋まで真っ赤に染めて叫ぶ。 「もう我慢できませんわ、不格好でもお許しくださいませ!」 「………え?」 (先に大人の階段をのぼるのは、) 2023.12.19
 姉が酔い潰れているのも珍しい。  飲み方を知らない妹が家のいたるところで酒瓶を抱えて転がっている光景はよく目にするけれど、お姉様ともあろう人がソファで横になっている姿を見るのは久しぶりだった。 「お姉様、こんなところで寝ては風邪を引いてしまうわ」  さっきから声をかけているけれど、むにゃむにゃと形にならない音を呟くばかりで眸が覗く気配は一向にない。妹がいれば難なくベッドまで運べたものを、夜遊びにでも興じているのか部屋を空けていた。  ため息をひとつ。心苦しいけれど、私ひとりではどうしようもない。  ブランケットをかけたところで、深海色の眸がぼんやりと開いた。 「気分はどう? ベッドまで歩ける?」  これ幸いとばかり投げかけた問いに答えはなく、ぱちり、瞬いた姉が緩慢に腕を差し伸ばす。存外強い力で引き寄せられたかと思えば、右の頬にくちびるが押し付けられた。 「おやすみなさい…おかあさ…」  言葉が寝息に呑まれていく。  あどけない顔で夢に沈む姉を、初めて見た気がして。とうの昔にいなくなった存在に、どうしようもない嫉妬を覚えた。 (私の知らないあなた) 2023.12.19
 思えば海上以外で彼女の姿を見るのは初めてだった。  みんな口を揃えてこう言うの、百年に一度の逸材だって──彼女が常に豪語していた評価に、どうやら偽りはなかったらしい。幕が下りてもまだ拍手は鳴り止まず、それに応えるように花道から現れた主演が、恭しく一礼した。  終演後、彼女を訪ねて舞台裏へ足を運べば、事前に話を通してくれていたのかすんなりと楽屋へ案内された。 「あら、ベン。本当に来てくれたのね!」  つい先程まで舞台を制していた女王は、わずかに紅潮した頬をゆるめる。その様子は船上で気ままに音を奏でていたころとなんら変わりないはずなのに、圧倒的な演技を目の当たりにした後だとどうしても、自分の知る彼女と同一人物とは思えなかった。 「貴女こそ。本当に舞台女優だったんですね」  差し出した花束を前に、稀代の大女優は悪戯っぽく微笑んだ。 (けれどその笑みはどこまでも僕の知る貴女だった) 2023.12.19
 速達で届いた手紙にはただ一言記されていた。  普段は何枚にもわたって近況やら愛の言葉やらを書き連ねているグローリアにしては珍しい。  そういえば一ヶ月ほど前に受け取った手紙には、展覧会や大口の注文が重なったとかで多忙な日々を送っているのだと綴られていた。だからしばらく伺えそうにありませんわ、と。  今回の手紙から察するに恐らくもう色々と限界なんだろう。根を詰めすぎる子だから心配だ。  そろそろこちらから訪ねたほうがいいかもしれない。船旅の段取りを汲んでいるところへ、不意に来客の報せが舞いこんだ。 「まーったく! いつ来ても辺鄙な場所ですこと」  騒々しく入室してきたのは今しがた封を開けたばかりの送り主その人だった。よく見れば目の下にクマをこしらえた彼女は、けれど唖然と立ち尽くす私を見るなり顔を輝かせる。 「あら、わたくし今回はちゃーんと予告しましたわよ」  数分前に一言寄越しただけでしょ。山ほど浮かぶ文句を脇に避けて、ひとまず恋人を抱きしめた。 (I miss you.) 2023.12.20
 今日は朝から浮かれっぱなしだった。  仕方ないだろ、だってついに彼女が家に招待してくれたんだ。  今までは海際の散歩か酒場で食事するばかりの健全な仲を育んできた。俺はそれでも満足してたけど、三日前彼女が切り出した、よければ私の家に来ない?って。  妹さんたちにも紹介するって言ってたけど、それってつまり、そういうことだよな。思ってもみない急展開に頬がゆるんでいく。  小さいころから両親のいない俺は、家族というものに憧れてた。できることなら彼女と築いていきたいと幾度となく夢に見た。  柄にもなく花束なんて持って、事前に教えてもらっていた家を目指す。町から少し外れた場所にぽつんと建つそれが、彼女たちの居城らしい。  深呼吸をひとつ、扉をノックする。返事はない。何度か鳴らしたところで、鍵がかかってないことに気付いた。いくら田舎町だからって、少し不用心じゃないだろうか。  そろそろと扉を開ける。途端、むせ返るような潮のにおいに包まれ、頭がぐらぐらした。 「あらやだ、今度は男なのね」 「まあ飢えるよりマシだけど」  どこからともなく声が響く。揺れる視界に見知った──見知ったと思っていた顔が、ふ、と。憐れみをこめて笑う。 「ごめんなさいね、妹たちがおなかを空かせてるの」 (知っているはずの、知らないなにか) 2023.12.20
 たとえば彼女となら、ニューヨークの大劇場を満員にすることだって夢ではないだろう。自身を過大評価しているわけでも、彼女を過信しているわけでもない。けれど彼女の歌声は万人を魅了するし、そんな彼女につられた自身の音色も、これまで奏でてきたどんな場面よりも伸びやかに響くのだ。 「あなたと組むのも面白いかもしれないわね」  まるで歌詞の続きのような口調で彼女がこぼす。幾度となくえがいた夢を、彼女もまた思い浮かべていたのだろうか。  手に馴染んだ相棒を鳴らす。夜を静かに彩る音色が語りかけるまま、そっと目を閉ざす。  分かっていた。船上という閉鎖的な空間だからこそ波長が合うのだということは。見目麗しい貴婦人とただのアコーディオン弾きとい立場だからこそ生まれる音楽だということを。  きっと彼女も理解しているのだろう。それでも戯れを口にした真意は、僕には分からない。 「──貴女のお守りは大変そうだ」  再び視界を開いた先で、常夜灯に照らされた彼女は少しだけさみしさをにじませているような気がした。 (だからせめてこの船旅が続く限りは、) 2023.12.20
「今日も居残り? 熱心なのね」  背後からかけられた声に心臓が飛び出るかと思った。  振り返るより早くわたくしの肩越しに手元を覗きこんだその人は、満足そうに頬をゆるめる。完璧な横顔に見惚れるのももう何度目だろう。 「もう、先生! 驚かさないでくださいな」 「ごめんなさい。あんまり熱中していたものだから」  悪戯を咎められた子供のようにはにかんだ先生は再びわたくしが手掛けている作品へ視線を戻す。  そんなに頑張らなくてもいいのに、と皆が口を揃える。同級生も、両親でさえも良い顔をしない。当然だ。大半の者は花嫁修業の一環としてこの学校に通っているのだから。  けれどわたくしは違う。本気でファッションアーティストになりたいと──カルロッタ・マリポーサのようにファッション界を牽引していきたいと夢見ていた。  そんな憧れの人がいま、わたくしの拙い作品を鑑賞し、称賛してくれている。わたくしの行為を、想いを、志を否定せず、当然のように受け入れてくれる。だからわたくしはまだこの道を進んでいける。 「とても素敵な作品ね。完成を楽しみにしているわ、グローリア」 (あなたのおかげでわたくしは、) 2023.12.21
 あらあねさま、まだ起きてたの。  わたし? おじさんたちの話が面白くてついつい長居しちゃったの。  大丈夫よぉ、みんな気のいい人たちだし、わたしがただの人間なんかに力で負けないって、あねさまも知ってるでしょ?  …そういうことじゃない、ってどういうことよ。  わたしもう大人よ。お酒だって飲めるの。そんなに心配しなくたって、自分の身くらい自分で守れるわ。  なによ、あねさまだってフラッといなくなることあるじゃない。むしろ外泊しなかったことを褒めてほしいくらいだわ。  はいはいごめんなさい。もういいでしょ、わたしねむいの。  もうっ! しつこい口はこうしちゃうんだから!  …あら、真っ赤になっちゃって。あねさまってばそんなにウブだったの?  って、ちょっと、ねえ、あねさま?  こんなところで寝ないでよ、だれが部屋まで運ぶと思ってるの。  んもう! キスしただけで酔っちゃうなんて思わないじゃない!  お姉さまーっ、あねさまが酔っ払っちゃったわー! (わたしのせいじゃないわ、本当よ) 2023.12.21