「さっさと告白しちゃえばいいじゃない」 「今更できるわけないでしょ!」  頬が染まっているのはアルコールのせいか、それともこの話題が原因か。今にも泣きだしそうな表情のグローリアはダン、と叩きつけるようにグラスを置いた。  アートとの向き合い方が好き、デッサンする時の視線が好き、繊細な指先が好き、顔が好き──そんな話をかれこれ三時間、延々と聞かされているのだ。誰だってそう返したくなる。 「だってわたくしとカルロッタは犬猿の仲ってことになってるのよ、今更公然と仲良くなんて出来ないわよ…」  自業自得すぎる成り行きに、嘆いたグローリアが机に沈む。  ロストリバーデルタとアメリカンウォーターフロントを代表するファッションアーティストが水と油の関係だというのは有名な話だ。火花を散らした春の祭典を皮切りに、ファッションショーや展覧会でもことあるごとにお互いをライバル視している。  けれど同時に尊重していることも、二人を観察していれば分かることだし、とっくに周知の事実なんだけれど、これは黙っておくことにしよう。だって思い悩んでいる親友を眺めるのはなかなかに楽しいから。 「それなら頑張って隠し通しなさいな」 「他人事だと思って…」  少女のようにふくれる友人へゆるりと微笑んでみせる。本当に困ったときは助けてあげるから、安心なさいな。とは、言わずにおいた。 (不器用ね、そこがいとおしいわ) 2023.12.21
 ──また、目を覚ましてしまった。  重い身体をなんとか起こし、伸びをひとつ。あたたかな陽気が、今年も変わらずわたくしを迎え入れる。  まさかわたくしが取り残されるとは思わなかった。てっきり一番初めに花を散らすものだとばかり思っていたし、そのつもりでいた。けれど最初に機械人形が光を失い、人魚が泡となり、そしてついに蝶もその美しい翅をやつした。  わたくしだけがまだ、枯れずにこの地に根差している。  もう随分と長い時を過ごしてきた。たくさんのアートを残してきた。自分が生きた証は充分刻んだつもりだった。けれどこうしてまた芽吹いてしまったということは、まだやるべきことが残っているということなのだろう。  息を吸う。懐かしい春のにおいがする。あの三人と出逢った春。時にぶつかり、時に認め合ったあの季節が、今も変わらずわたくしを待っている。 「─…そうね、まだまだ手掛けたいものはたくさんあるもの」  誰にともなく呟いた言葉に応えるように、賑やかに吹き抜けた風がボンネットを揺らしていった。 (けれどいつまでもそこに) 2023.12.22
「お願いだから少し休んでちょうだい、お姉様」  なにを懇願されたのか分からなくて一瞬、思考が止まる。私の頭の中がどうしてだかお見通しなすぐ下の妹は、呆れたように深いため息をついた。 「体調悪いんでしょう。見ていれば分かるわ」  言われてようやく思い至る。そうだ、ここ数日体調が思わしくなかった。意識の外に飛ばしていたから自分でもすっかり忘れていたけれど、忘れていたからといって回復したわけではなく、身体のどこもかしこも重くて、正直立っているのもやっとだった。  不調の度合いを気取られないよう作った微笑みは、我ながら完璧に繕えていたはず。 「大丈夫よ、ありがとう」 「大丈夫なはずないでしょう、隠さないで」  だというのにすぐさま見破った妹がかごを奪い去っていく。 「買い物も料理も、私にもあの子にだって出来るわ。だけどお姉様の代わりはいないの。──お姉様がいなくなってしまうのは、嫌なの」  珍しく吐き出された素直な感情に胸が痛む。母を失った喪失感は妹たちにもしっかり刻み込まれているはずなのに、そんなことにさえ気が回らないだなんて。  心配そうに眉を下げる妹の額にくちびるを落とし、ごめんなさい、とひそやかに懺悔した。 (聞き遂げるのは妹ではなく、) 2023.12.22
 ボン、と大きな音を立ててフラッシュが焚かれる。四方八方から浴びせられる光に、目がおかしくなりそう。  記者たちのお目当てはきっと、先日掲載された根も葉もないゴシップ記事の件だろう。  今をときめく大女優が、懇意にしているアコーディオン弾きとただならぬ関係を育んでいる、とかそんなところ。たしかに件の演奏者と親密なのは事実だけれど、歌い手と奏者以上の関係にはならないであろうことは、側でお控えしていれば分かることだった。 「わたくしには想い人がおりますので」  サングラスをかけたその人は感情を排した声色で返答する。色恋に関する質問にはいつもこう返すのだ。恐らく船旅で出会ったのだという彼を指しているのだろう。 「その想い人とやらはもしかして彼女のことですか」  ちら、と小馬鹿にした調子で一人の記者が笑う。わたしみたいなちんくしゃなただのお付きが相手でないことくらい記者も分かっているのだろうけれど、その態度が、どうやら彼女の逆鱗に触れたようだった。  サングラスを外し、わたしにかけさせたその人は流れるようにわたしの腰を引き寄せ、冷たい一瞥を投げかける。 「ご想像にお任せいたしますわ」 (ああ、明日の一面がこわい) 2023.12.22
 最悪ですわ! そう叫びたかった。  なにもわたくしは好き好んでこんなジャングルに足を踏み入れたわけではありませんの。ちょっとした…そう、敵情視察というやつですわ。しばらくカルロッタの姿を見かけていないから心配になったとか、そういうことではありませんのよ、ええ。  けれど居所を訪ねてみれば主は留守。モデルたちが言うところには朝方、森の奥深くへ行ったきり戻らないとのことだから、彼らの制止も聞かず分け入って、不気味な神殿に入ったところで背後から口を塞がれ暗がりに連れ込まれた。 「シッ! 静かにしてちょうだい。奴らがまだ徘徊してるのよ」  声色からして恐らく探していたカルロッタその人のようだけれど、聞きたいことがありすぎた。あなたどうしてこんなところにいるの、奴らってだれですの、どうして隠れなくちゃいけませんの。  何一つ把握できない状況にも関わらず、鼓動がやかましく跳ねていた。だって吐息がかかるほど近くにいるだなんて。  ええい、落ち着きなさいグローリア! 「怖がらなくても大丈夫よ、グローリア。私がついてるから」  努力も空しく、耳元に落ちた声に今度こそ呼吸が止まった。 (ところでいつになったら出られますの!) 2023.12.23
 路地裏で立ち止まり、上がった息を整える。  ここまで来ればもう大丈夫でしょ。安心したのもつかの間、差した影に心臓が跳ねた。逃げ出すよりも早く響いた歌声に動きを縛られる。そんなの卑怯よ。非難は声にならず、ずるずると引きずられ── 「魚は、イヤーッ!」 「好き嫌いせず食べなさい」  再び連れ戻されたダイニングで叫ぶも、呆れた様子のお姉さまは許してくれない。無理よ、だって生臭いし、骨があるし、食べてる間ずっと目が合ってる気がするし。 「大体これ共食いじゃない! お姉さまたちは平気なの?」 「こんな魚と一緒にしないでちょうだい」  救いを求めた先で完食したあねさまが、ごちそうさまでした、と手を合わせる。身どころか頭まできれいに食べてる。あんなグロテスクなもの、よく食べられるわね。 「なんでも食べないと大きくなれないわよ」 「じゃああねさまにあげるわ」  言い残してまた席を立つ。こら待ちなさい! 声が追いかけてくる。  ごめんなさい、お姉さま。魚以外ならおいしく頂くから。駆け出しながら懺悔を投げた。 (だってわたしもう充分大きいもの) 2023.12.23
 場内が明るくなってもまだ、余韻に包まれていた。  試写は盛況だったようで、周りの関係者たちは口々に感想を言い合っている。きっと今作も彼女の代表作の一つになることだろう。 「どうだったかしら」  間近に落ちた声に思わず耳を押さえて振り返る。ついさっきまでスクリーンの中で愛を囁いていたその人が、わたしの隣に座りにっこりと微笑んでいた。 「あ、ええと。とても素敵でした。わたしまで恋に落ちてしまいそうで」  この人はなぜか、ただの付き人であるわたしの感想を求めてくる。もっと言葉を尽くして称賛してくれる人間はたくさんいるだろうに、わたしの拙い感想ににこにこと嬉しそうに耳を傾けてくれるのだ。 「恋に? 私に、かしら」 「ええ、あなたに。それくらい素晴らしい演技でした」  にやり、ふいに悪戯に笑ったその人が肘掛けに身を乗り出す。わたしの耳にくちびるを寄せ、ふ、と吐息を洩らす。 「恋、してくれてもいいのよ」  ──それは劇中、ヒロインであるこの人が想い人へ投げかけたセリフだった。  思わずずり落ちたわたしを楽しそうに見つめるその人にはとても敵いそうになかった。 (お戯れが過ぎます) 2023.12.23
 縋るような声音に一瞬、息を呑んだ。  ホテルのフロアを丸々貸し切ったパーティーには、ニューヨークの新聞社が勢揃いしていた。新年を迎えるこの機会に互いに顔を売ったり牽制したり──と上役は忙しなく立ち回る一方で、下っ端の記者や事務員たちはすでに挨拶回りを終え、値の張るワインを浴びるように飲み、異性に片っ端から声をかけてはそこかしこでカップルを成立させていた。  テレーズも例外ではなく─そもそも彼女の年不相応な佇まいに、普段から惹かれている者が多く─今夜は何人もの同僚に言い寄られていた。角が立たないよういなすことにもいい加減うんざりしていたところへ、ホテルのスタッフに呼び止められたのだ。なんでもホテルへ直接テレーズ宛の電話があったのだとか。  これ幸いとばかり断りを入れ、会場の隅に設置されている受話器に耳を当てる。 『お楽しみのところごめんなさいね』  キャロルだわ──急いでもう片方の耳を塞いだ。喧騒がわずかばかり遠のき、電話の向こうで囁く声をようやく拾い上げる。  同居人である彼女も、今夜は得意先とのパーティーで家を空けているはずだった。だからこそテレーズも、来たくもない会に参加せざるを得なくなったのだ。  向こう側から響く賑やかな笑い声。どうやら帰宅したわけではないらしい。 「どうしたんですか、電話なんて」 『別にどうもしないけれど。あなたの声が聴きたくなって』  ざわ、と。胸のうちが落ち着きを無くす。夫婦ふたりで新年を迎えたことはなかったのだと、あの夜の言葉をふと思い出した。テレーズの髪を梳きながら鏡越しに笑う彼女は自嘲と、どこかさみしさをにじませていた。そういえばキャロルが新年会への参加を決めたのは、テレーズがパーティーの話題を持ち出した後ではなかっただろうか。どうやら新人はほぼ強制参加らしいと愚痴をこぼすと彼女は笑った、わたしも取引先との予定があるからちょうどいいわね、と。あれはきっと参加してほしくなかったのだと、自分とともに過ごしてほしいのだと──まったく彼女というひとは、いつも肝心な気持ちを微笑みの裏に隠してしまう。 『ねえテレーズ、──会いたいの、たまらなく』  いつだったかテレーズが伝えられなかった言葉を、電話の向こうの彼女はいとも簡単に口にしてしまう。不器用でずるくて身勝手な恋人が、けれどどうしようもなくいとおしかった。  ちらと腕時計に視線を落とす。急いでタクシーを拾えば日付が変わる前に帰りつけるだろう。受話器を握りしめる。電話越しの彼女にだけ聴こえるよう電話口を片手で囲み、くちびるを寄せる。 「帰ります、今すぐ」 『─…あいしてるわ、テレーズ』  電話の先で、ふ、と。たしかにこぼれた安堵の吐息に、ああこのひとにはきっと一生敵わないだろうなと、テレーズは笑った。 (I miss you.) 2023.12.23
「ところで。どうしてあなたは今日、わたくしを誘ってくださったのかしら」  チキンを平らげ、さあこれからケーキに取り掛かろうかというところでついに、ここ一ヶ月ずっと気になっていた疑問を口にした。  もし予定が無ければ一緒に食事でもどうかしら。そう誘われたのは一ヶ月前のこと。カルロッタのほうから伺いを立ててくれることは少ないから、たとえ予定が埋まっていたとしても首を縦に振るのだけれど。  指定された日付は12月24日。世間はクリスマスイブ。  家族や恋人と過ごすこの行事を、まさかカルロッタは知らないのだろうか。奥地には伝来していないとか。その可能性も十分ありうる。  などと悶々と考えながら、ついに迎えた聖夜。わたくしの居宅を訪れたカルロッタはいつもどおりでなんとなく尋ねる機会を逃してしまっていたけれど、だけど聞かなければ。わたくしたちの今後のためにも。 「どうして、って。今日はクリスマスイブでしょ。大切な人と過ごす日だって、グローリアが教えてくれたんじゃない」 「たい…っ、え、と、それは、」  大切な人。さらりと言ってのけられた単語に面食らう。  動転するわたくしをそっちのけで、ワインを注いだカルロッタはふわり微笑む。そのやわらかなまなざしについ、なにもかも忘れて見惚れてしまった。 「それじゃ、聖夜に乾杯」 (結局どういうことですのよ) 2023.12.24
 やっぱり外出なんてするんじゃなかった──家を出て一時間で、私はすでに全力で後悔していた。  聖夜を目前に、信心深い人間たちは港ごと落ち着きをなくしていた。市場は早々に店仕舞いをして、教会へ向かう者、家で豪勢な料理を囲む者、急ごしらえで番になろうとする者。どこもかしこも愛やら家族やらであふれていて眩暈がする。  これだからナターレは嫌いなのだ。私たちには無いものを──伝統や家族や故郷を見せつけられているように感じるから。  ようやく開いている一軒を見つけ、お目当ての物を探し出しとっとと家路を辿る。どこかの教会からミサ曲が洩れ聞こえてくる。へたくそな合唱ね。文句の代わりに正しい音程を口ずさむ。陽が追い立てるように沈んでいく。 「おかえりなさい。あれは見つかった?」 「なんとかね。まったく、欲しいならもっと早く言えばいいのに」 「きっと言い出しづらかったのよ」  くすくす笑う姉に宥められながらそっと妹の部屋を覗く。泣き疲れたのか、部屋の主はベッドでうつ伏せになって寝息を立てていた。  まったく。手のかかる子だこと。ため息をつきつつ、少し早めのプレゼントを枕元へ。 「…Buon Natale.」 (それでも私たちは家族、だから) 2023.12.24