「そういえば最近姿を見せませんね、彼」  演奏の合間にふと、思い出したようにベンが言った。  彼、と指しているのは私にしつこく言い寄ってきていたお坊ちゃんのこと。名前さえ知らないけれど─名乗っていたような気もするけれど生憎と記憶にない─その身なりから察するに、恐らく一等客室の住人だろう。  今までにも口説いてきた男は何人もいたけれど、彼はその誰よりも粘着質だった。いいえ、まとわりつくだけならまだいい、どうせここでしか縁のない人間だもの。  けれど彼がある日こう言った──どうしてあんな楽器を弾くことしか能が無い人間を側に置いているのですか、と。いつまで経っても靡かない私に業を煮やしたのでしょうけれど、その言葉だけは見過ごせなかった。とびきりの音色を奏でる彼を愚弄する者は、誰であろうと許せなかった。  だから少しだけお灸を据えてやった、それだけ。 「もっと好みの女性でも見つけたんじゃないかしら」  私の適当な返事に、眼鏡の奥の理知的な眸がまたたく。本当ですか、そう問うように。 「ねえ、それより一曲弾いてちょうだいな。歌いたい気分なの」 「…お望みとあらば」  耳馴染みの良い音色が甲板に響く。なにものにも代えがたい音に、ひっそりと笑みを広げた。 (この音があるだけで、今は) 2023.12.24
 慣れない光景に一瞬、思考が止まる。ともすれば疲労困憊した脳が見せた幻覚かと、もたげた疑問を首を振ることで逃がす。これは紛れもなく現実。  寝室を満たすふたり分の寝息。娘の寝かしつけを買って出てくれたそのひとは、月の隣で同じくゆるやかに呼吸をしていた。  この奇妙な共同生活が始まって今日で三日目。  そもそもは家事がからっきしの私を見かねて炊事掃除洗濯、果てはこうして娘の世話までしてくれるようになったわけだけれど。とうに失くしてしまったはずの彼女との生活にはまだ、慣れない。  ぎし、と。私の体重を受け止めたスプリングが不平を洩らす。  身体に触れてしまわないようそろりと距離を詰め、背中側から覗き込む。ふたりともぐっすり夢に沈んでいるようで、まぶたが開く気配はない。テーブルランプの淡い光に照らされた寝顔は、記憶にあるそれとなにひとつ変わっていない、憎らしいほどに。  いっそ起こしてやろうかとも思った。そこ私のベッドなんだけど、と。けれどやわらかく緩んだ顔を前に、恨みも憎しみもほどけていってしまった。  どうしてここまでしてくれるの。この三日間ずっと頭の隅にいる疑問が夜にとけていく。なにも出来ない母親と生活しなくちゃいけない月を憐れんで?それとも──続きを考えるのは、やめた。都合のいい夢を見てしまうのはきっと、眠いからだ、そうに違いない。  顔に垂れた髪をそっと後ろに流す。指先に触れたイヤリングがちゃり、と存在を主張するようにかすかな音を立てる。  あの頃は──彼女を中心に世界が回っていた頃は、服も、イヤリングも、ネックレスでさえ同じものを身につけていた。ずっと一緒にいようと笑っていた彼女は、けれど指輪だけは揃いにしなかった。永遠の証を私にくれることはなかった。つまりそういうことなのだろうと、今なら分かる。結局彼女は一生を共にするつもりなどなかったのだ。  ずきり、痛む胸は見ないふりをして身体を横たえる。これでいい。今の私たちは、これでいいの。  シーツに身を委ねた途端、待ってましたとばかり睡魔が襲いかかってきた。まぶたが重い。明日のスケジュールを組まなくてはならないのに、思考はすでに夢に落ちようとしている。視界に見慣れた石が映る。数日前、自身の足で粉々に砕いたそれを否応なしに思い出す。もう手に入らないのならせめて今後の人生のよすがにすればよかった。もう何度したか分からない後悔さえ曖昧にほどけていく。  そ、と。回した手の先にふれる熱は、娘と彼女、どちらのものなのか。 「─…おやすみ、」  くちびるが勝手に口にした名前を聞き遂げることもなく、意識がゆるり、ふたりと同じところへ落ちていった。 (夢は寝ている間しか見ないの) 2024.2.13
 夢を、見ていた。近ごろよく見る夢。卒業後も変わらず恋人同士の私と冬雨が、同僚の目を忍んで鼻にキスを送ったり、小さなベッドにふたり向かい合って眠ったり。大学生のときのまま歳を重ねたような、そんな光景を、未練がましいわたしは未だに夢見てしまう。  だからまぶたを開いてすぐ、これも夢の続きなんだろうと思った。  夢ならいっか、とくちびるを近付けて──いやいや待って。重なる直前、ぱちりと目を見開く。どこかの鳥が告げる朝。穏やかに差し込む陽のもとで、綺麗な顔が小さく寝息を立てていた。  そうだ、昨日月ちゃんを寝かしつけてそのまま寝ちゃったんだ。おぼろげな記憶をたどる。たしか月ちゃんの方を向いてたはずなんだけど、いつの間にか寝返りを打ってたんだろう。だけどまさか、起きたら冬雨が目の前にいるなんて。  よくよく考えてみればここは冬雨のベッドなんだから、彼女がここに身体を横たえるのは当然だ。認識した途端、ふわりと香る持ち主のにおい。ぎゅうとまぶたを一度強く閉ざして、意識の外へと無理に逃がす。起こしてくれてもよかったのにそうしなかったのは、月ちゃんの安眠を妨げたくなかったから、だろうか、そうに違いない。  腰あたりに回された手にそっと触れる。  久しぶりに見た寝顔はちっとも変わっていなかった。意識があるときはいっそこわいくらい美人なのに、寝顔はどこか無防備であどけない。大学生のわたしがこの寝顔を見たくて早起きしてたことをきっと、冬雨は知らない。  あのころはわたしだけが見つめることを許されていたのに、今はわたし以外にもこの幼い表情を知ってる人がいる。当たり前の事実にじくり、胸が痛みを覚える。  んぅ、と目の前のくちびるがふいにこぼした吐息に思わず肩を揺らした。  まぶたがゆっくり開く。言い訳をかき集めようとするも、焦った思考はなにも絞り出してくれない。べつに焦ることも言い訳する必要もないけど、鼻先が触れ合うほどの距離にいるのが、どこかやましい気持ちにさせていた。いや、実際やましいことをしかけたんだけど。  おはようの挨拶さえ取り出せないわたしを見るでもなく、まばたきをひとつ、ふたつ──ふ、と。くちびるに重なる、やわらかな感触。それはまるでついさっきまで見ていた景色の再現みたいで、ぶわり、鼓動が速度を上げる。  触れていたのはきっと一瞬。小さなリップ音を残して離れた薄桃色のくちびるはまた、規則正しい寝息を吐き出した。そうだ、冬雨は寝起きが悪かった。  ぎゅうともう一度、まぶたをきつく閉ざす。これは夢、そうに違いない。必死に言い聞かせても、忙しない心臓もふれる吐息も腰にまとわりつく体温も、なにひとつ遠のいてはくれなかった。 (またこんな朝を迎える日が来るなんて) 2024.2.13
 どうしてこうなったんだろう。セーターを脱ぎながらふと我に返る。  わたしと元恋人とその娘との共同生活も今日で五日目。この奇妙すぎる暮らしにも慣れてきたなあ、なんて思いながら食器を洗うわたしを、ちょんちょん、と月ちゃんがつついた。 「ねぇねぇいつきちゃん、今日もいっしょにお風呂はいろ」  かわいらしいお誘いに思わず顔がゆるむ。だってこの子、冬雨にそっくりだから。この子のおねがいを断るなんて、わたしにはどうにも出来そうにない。  手を拭い、しゃがみ込んで目線を合わす。大きな眸が期待に輝く。 「いいよ。洗い物ちゃちゃっと終わらせちゃうね」 「やったぁ!」  ぴょんと跳ねた月ちゃんは、その勢いのままリビングへ駆けていく。  リビングでは冬雨がダイニングテーブルを拭いてくれていた。家のことはなに一つしてないって言うものだから、机くらい拭いてね、って台拭きを手渡したのが初日。それからというもの食後は自発的に拭いてくれるようになったのだ。  そんな母親の腰元にしがみつく月ちゃんに、いいなあ、なんて率直な気持ちが浮かんで消える。いいな、あんな無邪気に抱きしめられて。実の子供なんだから当たり前なんだけど。それでもやっぱり少しだけ、羨ましさを覚えてしまう。  冬雨は困ったように眉を寄せながらも、口元を綻ばせる。ちゃんと母親の表情をしてることにつきりと、痛みと寂しさを感じる自分から目を逸らしつつ、残りの食器を洗ってしまおうとシンクに向き直りかけて、 「ママもいっしょに!」 「「え」」  どうしてこうなったんだろう。何度目かのため息がとけていく。  ママとは一緒に入れない、なんて月ちゃんに言えるはずがなくて結局、三人でお風呂に入ることになってしまった。自分の迂闊さにため息が止まらない。  ふと視界に入った洗濯かごへ投げ込まれた下着を見つけてしまい、慌ててタオルで蓋をする。家事は全然って言うから代わりに洗濯してあげたことはある、あるけど、その持ち主が扉を挟んですぐ向こうに、しかも裸でいるかと思うとやっぱり違うじゃない。  ──ママぁ、目、いたい…。  ──えっ、ちょ、ちょっとこすらないで。  先に浴室に入ったふたりの声が響く。  そういえば冬雨、ちゃんと洗ってあげられるのかな。今更心配になる。ここ数日は冬雨の帰宅が遅かったこともあり、わたしがお風呂に入れてあげていた。家事も満足に出来ないどころか娘の着替えの収納場所ひとつ知らない彼女が、シャンプーハットを使いこなせるとは思えない。  ええい、ままよ。深呼吸をひとつ、浴室の扉を開けた。  むわ、と立ち込めた湯気が消えてしまう前にしゃがみ込めば、最初に月ちゃんが見えた。 「月ちゃん、おめめぱちぱちして」  両手でお湯をすくい、顔のあたりに掲げる。まばたきをひとつ、ふたつ。うん、大丈夫そう。  視線を持ち上げてすぐ、ほんのり染まった肌に行き当たってしまい、不自然じゃない程度に目を逸らす。心臓がばくばくとうるさい。裸なんて、学生のころ何百回と見たはずなのに。 「ちゃんとシャンプーハット使ってあげたの?」 「…使い方わからないから、教えて」 「…仕方ないお母さんだねえ」  お母さん。口にすることで改めて自分に言い聞かせる。ここにいるのは恋人じゃなく、この子のお母さんだと。  三人横並びで入った湯舟は、それでもまだ余裕があった。  月ちゃんのアヒルが冬雨のアヒルとごっつんこ。そのたびに上がる無邪気な笑い声。いつもより長く浸かっているのはきっと、母親とお風呂を共にしているのが嬉しいからだろう。冬雨もどこか顔が明るい気がする。  そんなふたりの様子を、浴槽の縁に肘をついて見るとはなしに見つめる。  少し?せたかな。学生時代は─もう何年も前だけど─もっと健康的な身体つきだったように思う。仕事が多忙だからか、それとも別の原因があるのか。ここ数ヶ月の彼女しか知らないわたしにはわからない。  アヒルをつまむ細い指、赤く色づいた二の腕、浮き出た鎖骨、髪をまとめ上げたうなじに、やわらかそうなくちびる── 「いつきちゃんのアヒルもいるよ」 「あっ、え、と、ありがと! 探してたんだよね、アヒルちゃん」  無垢な声で我に返る。差し出された三羽目のアヒルに、これ幸いとばかり飛びついた。  きっとのぼせてるんだ、そうに違いない。すぐそこにある柔肌に吸い寄せられていた自分へ言い訳する。  ふ、と。視線を感じて顔を上げれば、不思議そうにこちらを覗き込む眸にかち合った。首を傾げて、なにを言うでもなくじぃっと見つめるその姿が昔となにひとつ変わらなくて、ぐらり、自分の中のなにかが揺れ動く。  ──あなたはなにを考えてるの。なにを思ってるの。わたしのことを、まだ、 「またみんなではいろうね、お風呂」 「─…うん、そうだね」  子供の裏表のない言葉に微笑む母の声は、いつもよりやわらかく響いたような気がした。 (いっそわたしもアヒルになれたら、) 2024.2.13
 ほのかに香るアルコールにぐらりと、こちらまで酔わされそうになった。  月ちゃんを無事寝かしつけリビングへと戻れば、ソファでひとり、家主が船を漕いでいた。閉じたパソコンの横にウイスキーのボトルと、まだ半分ほど中身が残ったグラスがひとつ。お酒に弱い彼女がひとりきりで晩酌をするなんて、昔はありえなかったのに。またひとつ見つけてしまった過去との相違に苦笑がこぼれる。自分から手放したものに想いを馳せるなんて、身勝手にも程がある。  頭を振って過去を振りほどく。感傷に浸るより先にベッドへ移さなくちゃ。この大事な時期に風邪でも引いたら大変だ。 「ねえ起きてふゆ、二階あがろ」  そっと肩を揺する。むう、と抗議みたいなかわいらしい声がひとつ、緩慢に開いた眸がそうしてゆっくりとわたしを捉える。ひとつ、ふたつ、焦点を合わせるみたいにまたたいて──ぐるり、と、世界が反転した。背をしたたかに打ち付け一瞬、息が止まる。 「…っ、なにして、」  ようやく掴んだ酸素を、今度はくちびるに奪われた。しっとりと濡れているのはお酒のせいだろうか。突然もたらされたアルコールにちかちかと視界が明滅する。息も継がせぬ口づけに、疑問も戸惑いもなにもかもとかされていく。  口づけられた時と同じく、解放されるのも唐突だった。思わずむせるわたしの両手首がソファへ縫い留められる。にじむ視界になんとかそのひとを見つけたくて、まばたきを一度、二度、目尻をつうと流れる雫。  馬乗りになった冬雨は、上がる呼吸を整えもせずひたと見下ろしていた。また、あの顔。まるで捨てられた子猫のような、救いを乞うような、そんな表情。  なんでそんな顔するの?  ふと、怒りにも似た感情がこみ上げる。突き放したのは、忘れようとしたのは、あなたのためなのに。想いに蓋をしたのは、伸びそうになる指をとどめたのは全部全部、あなたのためなのに。あなたのためにすべてを諦めたのに。  ぐ、と力を入れて上体を起こす。手首を捕らえた指をするりと絡め取り、ついさっき離れたばかりのくちびるを重ねる。 「そんな物欲しそうな顔、しないでよ」  ぎゅう、と握り返される。縋るように、欲するように。言葉を閉じこめた彼女はただじっとわたしを見つめ返すだけ。 「ふゆが誘ったんだからね、─…もう、知らないよ」  まばたきを一回、二回、三回目は閉ざされたまま。仕掛けたくせに成り行きはわたしに委ねたずるいくちびるに?みついた。 (誘ったのはあなた、乗ったのはわたし、昔となにひとつ変わらないね) 2024.2.13
 髪を梳く指の心地よさについまぶたを閉ざす。もう何年もこの体温から離れていたはずなのに、まるで昨夜の続きみたいに馴染むそれに戸惑うよりも安堵を先に覚えるなんて。 「もう寝ちゃうの、ふゆ」  じわり、言葉が染み込んでいく。最初にこのひとが呼んでくれた名前。ずっと聴きたかった音。私の好きな、声。  寝ちゃうの、と咎めるような口調のくせに、やわらかな言葉尻は巧みに夢へと誘おうとする。私がまともに寝ていないことを、ここ最近の共同生活でとっくに知られているからだろう。  やんわりと首を横に振る。まだ、寝たくない。 「寝ちゃわないようにお話、して」  くすくす洩れる笑い声。  不意に過去が押し寄せる。翌日も一限から講義なのに、ふたりきりの夜更かしをねだっていたあの頃。もっとおしゃべりしたいと駄々をこねる私と、忍び笑いをしながら律儀に付き合ってくれていた彼女。幸せだった学生時代から随分と遠く離れた気になっていたけれど、私も、このひとも、あの夜からなにひとつ変わっていないような、そんな錯覚を覚えてしまった。 「そうだなあ…。じゃあ、恋バナでもしようか」 「え、」 「ほら、恋バナしようって言ってたじゃない、あの日」  あの日、がいつを指しているのかを思い出し、途端に後悔に襲われる。  そっとまぶたを押し上げれば、閉じた時と変わらず注がれるやわらかな視線と目が合った。シャンパン浴びせてごめんなさい。謝罪は喉の奥に引っ込んだまま。 「忘れられない相手がいるの」  暴言を吐き続けたこれまでを忘れたかのように──いいえ、すべて受け入れて赦しを与えるみたいに。そっと微笑む彼女は、滔々と話を続ける。 「すごくすきだったひと。だれよりも幸せになってほしかったひと。…わたしの手では、幸せにしてあげられなかったひと」  私に聞かせるようでもあり、自身の心をとつとつと形にしているだけのようでもある告解にただ、静かに息を呑む。 「これで良かったんだって、必死に言い聞かせてた。わたしじゃないひとが幸せにしてくれるはずだって、これがあの子の幸せに繋がるんだって。忘れようとした。他の誰かを好きになろうとした」  だけどダメだった。後悔が夜にとけていく。いつの間にか眠気もどこかへ消えていって、私を映す澄んだ眸をじっと見つめる。 「数年ぶりに再会して、確信したの。─…わたしはね、ふゆ、あなたがすき。あなただけが、すきなの」  ひとつ、ひとつ、染み渡る感情にまた視界が歪んでいく。今夜はどうにも涙腺が緩い。だってずるいじゃない、こんな明かし方。忘れられないのは私だけかと思っていた。どれだけ憎もうとしても上書きされない想いを抱えているのはもう、私だけなんだと。  指先が輪郭をなぞっていく。いつき。くちびるがいとおしいひとの名前を勝手に音にする。なに、とやわらかくもたらされる問いは昔となにひとつ変わってない。  ああ、積み上がったこの想いをすべて吐き出せたらどんなにか楽だろう。あなたに会うため必死で仕事に打ち込んできたことを、お揃いのイヤリングを今でもつけていることにどうしようもなく喜びを覚えてしまったことを、今でも私をふゆと呼んでくれることにこんなにも幸せを感じていることを。 「──あいしてるの、いつきだけを」  結局私が口にしたのはたった一言。それが精一杯だった、それがすべてだった。どこにいようと、誰といようと、ただこのひとだけをあいしていた。  足りなさすぎる私の言葉をだけど全部汲み上げるようにくしゃりと笑った彼女は、優しく身体を引き寄せる。ぬくもりが混ざっていく。目を閉じれば心音までとけ合うような気がした。  帰ってきたのね、なんて。同じリズムを刻む胸元で、そっと涙をこぼした。 (そうしてフィルムは回りだす) 2024.2.13
「おかえりママ!」  元気な声と足音に出迎えられた。  駆け寄ってきた娘を抱きしめる。勢いづいて飛び込んできた子供の体重は、疲れた身体に少し堪える。 「ただいま、月」 「今日はやいねえママ」 「うん、思ってたよりお仕事早く終わったから」  とは言っても、今日も保育園へのお迎えには間に合わなかった。  迎えに走ってくれたのはもちろん、最近この家に通ってくれている同僚。どうしても抜けられないミーティングだったことを察して、わたしが行くよ、と。彼女だってまだ業務が残っていただろうに、嫌な顔ひとつせず引き受けてくれたのだ。甘えきりの自分に腹が立つけれど、今は彼女の厚意をありがたく受け取る他なかった。  月に手を引かれてリビングへ踏み入る。途端、肉の焼ける香ばしいにおいが鼻をくすぐった。今晩はハンバーグ、だろうか。それまで意識していなかった空腹が、においに誘われぐう、と顔を出す。  ぺたりと床へ腰を落ち着けた月は、それまで描いていたのだろう絵を披露した。私と月と、恐らく今夜のシェフが、紙の上で並んで笑っている。 「…月はお絵かき上手だね」  素直に褒める私を見上げて、月が嬉しそうに頬をゆるめた。 「月ちゃーん! もうすぐごはん出来るから、お片付けしてくれるかな」 「わかったあ」  キッチンから届いた声に思わず肩が震える。お行儀よく返事をした月は、机に散らばる紙やクレヨンを片付けていく。どうやら手伝いは不要みたいだ。  そろり、足音を忍ばせ─自分の家なんだから堂々と歩けばいいのに─向かうはキッチン。じゅうじゅうと食欲をそそる音の中心で、エプロンをまとったそのひとは鼻歌を歌っているようだった。口ずさむ歌も、少し身体を揺らす癖も、機嫌よく跳ねる声も、なにも変わっていない。  閉じ込めたはずの過去に呑まれそうになって、息をひとつ。かかとを持ち上げ肩越しに手元を覗きこむ。ようやく私の来訪に気付いた彼女がくすくすと笑みをこぼした。 「おかえり、ふゆ」 「…ん」  ただいま。未だに返せない挨拶を、胸のうちでそっと呟く。 「なぁに。レシピでも盗みにきたの?」 「別に。焦がしてないか確認しに来ただけ」  可愛げのない言葉に腹を立てることもなく、彼女はただ頬をゆるめる。 「隣に来たらいいのに。辛いでしょ、その体勢」  ひとつふたつとハンバーグをひっくり返していく。器用なものだ。 「ふゆってちっちゃいから」 「馬鹿にしてる?」 「かわいいって言ってるの」  かわいい、なんて。落ち着きをなくす鼓動を、長いまばたきひとつで鎮める。  彼女の意図が分からなかった。昔付き合っていたというだけで─しかも酷い態度まで取った元恋人に─娘の送迎をして、家事を引き受け、私にやわらかな笑みを向ける、その意味が。家庭のことは何一つこなせない私を見かねて手を差し伸べてくれたのだということは分かる、けれどその中に、同情や憐れみ以外も混ざっている気がして。 「そろそろ出来るからお皿を、」  ふ、と。振り返った彼女のくちびるがすぐ目の前にあって。  ──とうの昔に捨てたはずの夢をつい、見てしまいそうになる、樹も本当は私のことを、 「─…ごめん。お皿、出すね」  危うく重なりかけたくちびるを引き?がすように離れる。吐息の触れた頬がまだ、熱い。顔を冷ます時間を稼ぐためのろのろと食器棚を漁る私を、じゅう、と夕食が急かした。 (私のためなんかじゃない、分かってる、分かってるの) 2024.2.20
「後はこちらで片付けておくので早く帰宅してください、春本さん」 「えっ」  書類に伸ばされた手を跳ねのければ、プロジェクトリーダーは驚いたように目を丸めた。なんのこと、とでも言いたげな表情。あくまで隠し通そうとする姿勢に無性に腹が立つ。 「体調。悪いんでしょう、明らかにパフォーマンスが落ちています」 「え、そうなんですか樹さん」 「そういえばいつもより顔赤い…かも…?」  私の言葉に集まってきたメンバーが樹を取り囲む。そんなことないよ、大丈夫。へらへら笑う彼女に思わず舌打ちしそうになる。出社した時から目に見えて不調そうだった。普段より緩慢なまばたきに、時折洩れる熱を孕んだ吐息、染まった耳たぶと落ち着きなく回されるペン。どう見たっていつもの彼女ではないのに、どうして誰も気付かないのか。  樹の額に手を当てた七瀬さんが眉をひそめる。ちょっと。なに無遠慮に触れてるの。 「熱あるみたいですよ、冬雨さんの言うとおり帰った方がいいですって」 「だけどまだ、」 「今日はあなたがいなくても回ります。それよりこの大事な時期に風邪を移される方が迷惑です」  往生際悪く縋ろうとした言葉をぴしゃりと半ばで遮る。ああ、またこんな言い方。後悔はいつも遅い。  続く言葉を呑み込んだ樹は、はい、と力無くひと言。のろのろと帰り支度を始めた。  みんなみたいに素直に心配だと伝えられたらどんなにか楽だろう。モニターに視線を向けたままそっとくちびるを噛みしめる。誰よりも私自身が、彼女を案ずることさえ許してくれない。  頭を下げて謝罪した樹がようやくオフィスを去る。ほう、と知らず息をつく。  昔からそうだ。人のことは過保護なほど心配するくせに、自分のことになると途端に疎かにしてしまう。もっと自分を大切にして、と口を酸っぱくしていた当時を否応なく思い出す。あの日々を片時も忘れたことはないけれど、最近は──彼女が弱っている時は特に、記憶が鮮明に頭をもたげる。  力任せに叩いたエンターキーで記憶を押し留める。不審そうにこちらを窺う小松さんの視線は無視することにした。  いつもよりは気持ち早めに仕事を切り上げ、慣れない道をたどる。総務から聞き出した情報が確かなら、このあたりに樹の住むマンションがあるはずだった。  マップを頼りにしばらく彷徨い、そうしてようやくたどり着いた扉の前でふと、足を止める。彼女の自宅を訪ねて一体どうしようというのだろう。看病?まさか。それとも弱った彼女を嘲りに?…まさか。  そう、資料。明日の打ち合わせに必要な資料を届けに来た、ただそれだけ。メール一つで済む話なのに、そんな言い訳でもしないと私の足は動いてくれそうになかった。  息をひとつ、インターフォンを押す。応答は無し。呼び鈴をもう一度、けれど開く気配の無い扉を前に、緊張が解けていく。きっととうに眠っているんだろう、だって病人なんだから。顔が見たかった?まさか。あくまで同僚として、クライアントとして、具合が知りたかっただけ。そうしてなんだその程度なのねと、少し、安心したかっただけ。  行きがけに買ったゼリーと飲み物と漢方、それから取るに足らない資料を詰めた袋をドアノブにかけようとして──鍵が、開いてる。  心臓が早鐘を打つ。背筋を駆け下りる嫌な予感。まさか、まさか。震える手で扉を引いて、 「──いつきっ」  ***  ひどく懐かしい声で呼ばれた気が、した。  まぶたがやけに重い。なんとかこじ開けた視界に差し込む光がまぶしくて、まばたきをひとつ、ふたつ、それでも世界はぼんやり霞んだまま。 「いつき」  またこの声。ふ、と影が落ちる。ぼやけた焦点を合わせるより早く、頬に冷たいものが触れた。 「………ふゆ?」 「…まだ熱い。大人しく寝てて」  ああやっぱり冬雨だ。安堵が広がっていく。なんとか存在を確かめたくて伸ばした手を、体温の低い指が捕らえて毛布の中へ引き戻した。  前にもこんなことがあったなあ、なんて。うまく働かない頭がゆっくり記憶を呼び起こす。  試験前に風邪を引いてしまったわたしの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれたことがあった。ごめんね。謝罪を繰り返しながらも、汗を拭いてくれるやさしい手つきが、時間をかけて丁寧に作ってくれたお粥が、ずっとそばにいてくれることが嬉しくて。もっと長引けばいいのにと胸に秘めたひそかな願いさえ、昨日のことのように思い出せる。  だからきっとこれは、そんな過去の続きなんだろうと思った。よく見る夢だ。だって現実の彼女が──わたしを憎んでいる冬雨が、裏切り者の面倒を見に来るはず、ない。ああだけど、昔はあまり選ばなかった黒一色の服を纏って、四六時中見つめてたはずの眸はわたしを映してはくれなくて、あたためてあげてたはずの指は遠くて。五年ぶりに再会した冬雨は、わたしの部屋にいる彼女は、わたしの知らない女性になっていて。  ふゆ。振り向かせたくて、だけど喉に絡んで代わりに咳き込んだ。俯いてた冬雨が慌てた様子で顔を上げ、わたしの胸あたりを毛布越しにそっと撫でる。控えめに、ぎこちなく。わたしの知ってる彼女の仕草。 「ふゆ」  今度はちゃんと音になった。まだ撫でさすりながら、なに、と小さく返ってくる。 「─…寝るまでそばにいてくれたら、うれしい、な」  みるみるうちに下がる眉尻。ごめんね、困らせてる。だけどいまは、いまだけは、わがままを言いたかった。夢ならせめて、目覚めるまで消えてほしくなかった。  重たい毛布を押し上げ、手を伸ばす。迷うような間を挟んで、指先をそっと握られる。赤く縁取られたくちびるがふう、と息をつく。意識が絡め取られる寸前、いいよ、と、聞こえた気が、した。  ***  再び洩れ聞こえてきた寝息は、さっきよりも幾分穏やかだった。  溜めていた息を吐き出す。繋いだままの手はまだ熱を持っているけれど、とりあえずは峠を越えたのかもしれない。  玄関先で倒れ伏す樹を見つけた時は心臓が止まるかと思った。よっぽど救急車でも呼ぼうかとスマホを手にして、だけどうわごとのように何度も私を呼ぶ樹がずるずると縋りついてくる。いかないで、はなれないで、そばにいて。自分の希望なんて全然口にしなかった彼女の子供みたいなお願いに、足が縫い止められてしまった。  床にぺたりと座り、空いた片手で張り付いた前髪をかき分ける。  長居するつもりはなかった。お見舞いだけを置いてさっさと帰る予定だった。なのにまだ、熱を持った指が離れてくれない。じわりじわりと私の体温を侵していく。  もう何度目か分からないため息をひとつ、スマホを開き、今夜は遅くなるとだけ連絡する。  このひとが離れないから、名前を呼ぶから、息をするのも辛いくせにしあわせそうに笑うから、だから私は帰れないの。もはや誰に向けているのか分からない言い訳を胸に、頭をシーツに懐かせる。顔をうずめたベッドは持ち主のにおいが嫌というほど染み付いていて、なぜだか無性に泣きたくなった。 (さっさと治して。じゃないとあなたを剥がせない) 2024.2.20
 面白くない。なんにも面白くない。熱狂する観客の中ひとり、子供みたいに頬をふくらませた。  今日は学園祭。クラスの模擬店で一時間ほど売り子を務めた後はなんにも予定が入ってなかった。樹はといえば、リハーサルがあるとかで当番が終わってすぐ走っていってしまった。どうやら軽音サークルの友達に誘われてステージに立つことになったらしい。  感想聞かせてほしいな、と何度か家で披露してくれた。高校の時ちょこっとやったきりだから期待しないでね、なんて照れつつも数回の練習で完璧にマスターしてみせたのだから、やっぱり樹はすごい。音楽もダンスもスポーツだってそつなくこなすのに、どのサークルにも所属してないのがもったいないくらい。  よければ見に来てほしいと─よければ、もなにも喜んで行くけど─指定されたのは中庭。芝生に敷設されたステージでは、樹たちの一つ前のグループがちょうど歌い終えたところだった。  人混みをかき分け、ステージが見えやすい位置を陣取る。  ほどなくして袖から現れた樹は、紺のクラスTシャツ姿から一転、真っ赤なタンクトップにジーンズという出で立ちだった。秋晴れのもと、惜しげもなく晒されたまっさらな肌が目にまぶしい。樹のジーンズ姿に馴染みがなくてつい見惚れてしまう。どんな格好をしていようとわたしの視線は常に彼女を追いかけているけれど、それでも今日の樹は、なんて言ったらいいんだろう、すごくかっこよく見える。  チューニングを終えてふっと顔を上げた樹がすぐに私を見つけて、ふわり、笑う。いつもと変わらない笑みのはずなのに、大勢の中でただわたしだけに向けられたそれは、どんなものより価値があるように思えた。  ビートを刻むドラム。まぶたを閉じた樹が呼吸をひとつ、始めは静かに音を乗せる。何度も聴かせてくれた有名な洋楽。喋るときは舌の回りが甘いくせに、歌うと途端に耳触りのよいそれになるから不思議。  しん、と音の余韻が空気にとけて、次いで樹のかき鳴らすギターでガラリと曲調が変わった。そこかしこで湧き起こる歓声と手拍子。  ──かっこいいよ樹ー!  その中に混ざる明らかな黄色い声援に思わず振り返る。同じクラスの女の子、講義が一緒の子、全然知らない上級生。誰も彼もが樹を見つめ、きゃあきゃあと声を上げていた。  たしかに今日の樹はかっこいい、それは同感。汗で首筋に張りついた後れ毛さえ計算されたみたいに芸術的だ。だけど樹のファンが増えるのはよろしくない、非常によろしくない。  ふ、と投げられたウインクに、わたしの背後がどっと沸く。勘違いしないで、あれはわたし宛てなんだから。樹もファンサなんてしなければいいのに、アドリブを入れては観客を魅了していく。  面白くない、なんにも面白くない。またこっちに視線を流した樹に、抗議の意味をこめて頬をふくらませる。あとでうんとご機嫌なおししてもらうんだから。訴えは熱気に呑み込まれた。 (誰も彼も虜にしていく) 2024.2.20
 冬雨のにおいで目が覚めた、なんて言ってもきっとこの子は信じてくれないだろうけど、わたしの一日は冬雨で始まり冬雨で終わるのだ。  今だってそう。ほっとする香りに誘われまぶたを開いたら、かわいらしい寝顔と対面した。  冬雨は朝に弱いらしい。元々悪かった寝起きがわたしのせいで更に悪化したんだと、頬をふくらませ抗議を表明しつつもちっとも迷惑じゃなさそうな顔で言うのだから困りものだ。  ねむり姫はまだ夢の中。どんな夢を見てるんだろう、しあわせな夢だといいな、そのしあわせの中にわたしもいるといいな。子供みたいな願いをかけてしまうのはたぶん、わたしもまだ眠気に片足を引っ張られてるから。  ずれた毛布を肩まで上げる。少しだけ身体を縮こませた冬雨は、だけど起きる気配は無いまま、ぎゅう、と繋いだ指を握りこむ。無意識の仕草に、いとおしさがあふれて止まらない。  そっと左手を引き寄せて、空いた薬指にくちびるをふれさせる。どうか、いつの日か、他の誰でもなくわたしが、この指を埋める日が来ますように。幼稚な祈りが睡魔にさらわれる。冬雨の穏やかな呼吸がわたしを二度寝へと誘う。  再び目覚めてもどうかこの日々が続きますように。いつも願いを重ねるわたしをきっと、この子は知らない。 (祈る、朝に) 2024.2.20