わたしにとってのはじめてはすべて樹だった。
恋に落ちたのも、キスをしたのも、身体にふれたのも、いとおしさを覚えたのも全部。恋愛というものに興味がなくて、この先もきっと誰を愛することもなく生きていくんだろうと思っていたのに、樹との出逢いがわたしのすべてを変えた。
きっとわたしは恋を知ったんじゃなく、樹だから恋をしたんだろう。彼女以外を愛せるとは到底思えなかった。
でもきっと、樹は違う。手を繋ぐのも、ハグもキスもセックスも、わたしがはじめてではないはず。大丈夫だよ、わたしに任せて。優しくリードされるたびに安堵して、けれどどうしようもなくじくりと胸が痛む。誰も彼もに愛される樹に恋人がいなかったはずがない、わかってる。それでも樹のはじめてをもらった知らない誰かを想像するたび、さみしさとやるせなさに襲われる。
「ねえ、いつき」
わたしの髪を飽きもせず梳いていた樹が、ん、と首を傾げる。やわらかな笑みを前に、なんだか無性に泣きたくなった。
「…ううん、なんでもない」
せめて樹の最後はわたしだったらいいのに。身勝手な願いを呑み込み、混ざり始めた体温をぎゅうと抱きしめた。
(これからのあなたのすべてを、)
2024.2.20
この子にも性欲があるんだな。したたかに打ち付けた後頭部に鈍い痛みを覚えながらぼんやり思ったのはそんなこと。
もちろん付き合ってたころは隙あらばお互いを求めてた。飽きることなくふれてキスして愛をささやいて、この子の身体でふれてないところなんて無いとまで思ってた。
だけど再会した元恋人は、昔の愛らしさとあどけなさはどこへやら、孤高と高潔さで武装していた。もうあなたは必要じゃないの。そんな視線でわたしを射抜いていた。彼女の中にはもう、わたしが埋めるべきスペースはどこにもないんだと、今度こそ諦めをつけようとしてた。
乞われたような気がして、スカートのチャックを下げていく。じ、とわたしを見下ろす冬雨はまたたきひとつしない。まるでわたしの動作すべてを品定めするみたいに。
きっと旦那さんの代わりなんだろう。ひとりで満たせない欲を、わたしに発散させようとしてるんだ。
じくり、胸がにじんでいく。いいように使われることに対してではなくて、この身体にわたし以外の誰かがふれたという事実に、ともすれば喉が締め付けられそうになる。
「ねえ、」
降ってきた声に思考を引き上げられる。夜をまとった眸はただじっと、浅ましい女を映してる。
「──手、とめないで」
(せめて今だけはわたしを、)
2024.2.20
「─…どうしたの?」
暗闇から現れた声にびくりと肩を震わせる。てっきりもう眠っているものとばかり思っていた。
「…べつに。眠れないだけ」
「昔はあんなに寝付きよかったのに」
言い返そうとしてごろり、身体の向きを変えて、けれどすんでで文句を呑み込む。あの頃はあなたがいたから、なんて口が裂けても言えなかった。
今は逆に、このひとがいるから。隣のベッドでかつての恋人が横たわっている状況に、心がざわついて一向に眠気が訪れないのだ。
控えめな衣擦れの音に続いて、少しばかりの重みが腕を越えて背中に触れる。ぽんぽん、と穏やかなリズムを刻む手が、私を夢へ誘いこもうとする。
──あの頃はこのぬくもりがあったから。私が眠るまで、そうして目を覚ます瞬間まで片時も離れない体温があったから安心してまぶたを閉じていた。いつまでも包み込んでいてくれるものだと無邪気にも信じていたから。だからこの身を、すべてを委ねていたのに。
「寝れそう?」
あの頃と寸分違わない声が早くもぼんやり霞んでいく。ずるいよ。子供じみた非難が淡くほどけていく。
どうか目覚めてもまだこのぬくもりがありますように。らしくない願いはまぶたの裏に閉じ込めた。
(ようやくひとりで眠れるようになったはずなのに、)
2024.2.20
鈴の余韻が消えてもまだ、息苦しさはしつこく喉にまとわりついてた。
ひとまずいつもどおり近況報告を、と思ったところで、そういえば今のプロジェクトが始動してから一度も帰省してないことに気付いた。里帰りする暇がないほどいろんなことがあったのももちろん事実だけど、お母さんにどう話しかければいいものか考えあぐねてしまうから、というのが一番の理由。
今だってそう。手を合わせてしばらく経っても、切り出すきっかけを見つけられずにいた。
重ねた両手に額を押し当て押し黙るわたしになにかを察したのか、おばあちゃんは静かに隣の居間へ去っていった。
天女世界のプロジェクトはようやくプロトタイプ版が完成した段階だった。
ヴィンセント社からもなんとか合格点をもらったので、今はデバックチームと共同で、ボス相手にプレイヤーキャラクラーの動作確認をしてる。計画はまだ始まったばかり。これからプレイアブルキャラクターやアクションを実装して、粗い仕様を調整して、と業務は山積みだ。順調とは言い難いけど、進行不能になるほどの大きな問題はなかった。
ここまで来るのほんとに大変だったんだよ。ようやく会話の糸口を見つけ、心のうちで語りかける。
呂麻美の露骨な妨害工作を、なんとヴィンセントへ移籍した莉沙ちゃんがすべて録音して本社へ報告していたのだ。彼女の振る舞いが上層部へ伝わったおかげで、呂麻美は帰社し、ほどなくしてプロジェクトから外されることになった。その時の苦労を思えば、今の激務なんてかわいいものだった。
冬雨はといえば、今はDD社に出向という形を取っていた。このプロジェクトの終了と同時に転籍する予定だと聞いたのは二週間前のこと。事情を汲み、裏で各所へ奔走してくれた安藤部長には頭が上がらない。
覚えてるかな、冬雨のこと。本題にたどり着いたところで恐る恐る顔を上げる。遺影の中のお母さんはいつもどおりの笑みを浮かべたまま。
ほら、大学のときよく話してた女の子。色々あってね、五年ぶりに再会したの。元々美人な子だったんだけど、あのころよりうんと綺麗になってた。もうわたしは必要ないんだなって思った。彼女はもう、自分ひとりで歩けるようになったんだって。ほんとはわたしのほうが彼女を必要としてたのに、支えにしてたのに、行動のすべてを彼女のためだって誤魔化してたの。
「わたしね、」
声に、出す、だけどそれ以上を紡ぐ勇気が出ない。笑顔の瞬間を切り取った写真はわたしを叱ることも窘めることも許すこともしてくれずただ在りし日の幸せをそのまま残してた。
「…おばあちゃんに、話そうと思うの」
ぽつり、呟いた決意がひとりきりの仏間に消える。
ずっと隠してきた、言う必要もなかった。別に話さなくてものらりくらりとかわし続けていけばいいやと思ってた。だけどこれからの人生を──冬雨とともにある未来を歩んでいくためには、誰よりもまずおばあちゃんに話さなくちゃいけないと、思った。
たとえばお母さんが生きてたらなんて言うだろう。考えても仕方のないことが頭の隅に居座ってる。怒るだろうか、嫌悪するだろうか、それとも、そうなのねって笑って受け入れてくれるだろうか。今となっては自分に都合のいいようにしか想像できないけど、写真の中でやさしく微笑むそのひとはきっと、冬雨を気に入るはずだと、それだけは確信してた。
最後にもう一度目を閉じて、開いて、迷いを押しこめる。仏壇の真ん中で、まるで背中を押すみたいにお母さんが笑ってた。
居間に戻ると、おばあちゃんがほうじ茶を淹れてくれた。
湯呑みを両手で包みこむ。陶器越しに伝わる熱が手のひらをじんわりとあたためていく。
最近庭に居ついてる野良猫の話、三軒隣の飲み友達と一昨日もスナックをはしごした話、三宅さんちのおばあちゃんが腰を悪くした話。おばあちゃんの語る日常にうわの空で相槌を打つ。きっとおばあちゃんも気付いてる、だけどわたしから切り出すのを待ってくれてるんだろう。
震えそうになる手を、湯呑みを握りしめることでなんとか堪える。
「おばあちゃん」
「なんだい、樹」
目元にいくつも皺を刻んだ顔がわたしを真正面から見つめる。
いま相対してるおばあちゃんは、記憶にあるよりも年齢を重ねてるように見えた。おばあちゃんもお母さんもわりと若くして子供を産んだから、おそらく同世代と比べて早くに孫ができたんだろうけど、それでもやっぱりおばあちゃんはおばあちゃんで。わたしが大人になった分だけ、おばあちゃんにも確実に老いが蓄積してた。
「あのね、」
泣くな、泣くな、泣くな。念じるほど視界がにじんでいく。次の言葉が怖気づいて喉の奥へ引っこもうとする。今日こそは話そうと決めた。逃げてばかりいた自分へのけじめとして、決意として。冬雨のために、わたしのために。
「──すきなひとが、いるの」
嗚咽を呑みこみ、代わりにどうにか引っ張り上げた言葉は情けないほど掠れてた。
「大学のときの同級生で、…女の子、で。ずっとすきで、誰よりも大切で、大事にしたくて、わたしがしあわせにしてあげたくて。─…一緒にしあわせに、なりたくて」
向かいに座るおばあちゃんはなにも言わない。ただじっと、言葉を促すようにやわらかい視線を向けるだけ。
「ふゆ、っていうの。すごく綺麗で、かわいくて、仕事はバリバリ出来るんだけど家事はさっぱりで。…その子の隣にずっといたいって、思っちゃったの」
「ふゆちゃんって、あんたがよく話してた子よね」
思い出したようにおばあちゃんが目を丸める。そうだ、当時のわたしはおばあちゃんに電話するたび冬雨の話をしてた。そうしておばあちゃんからすればある日突然、冬雨の話題に触れなくなった。冬雨をひどく傷つけた、あの日から。
「…樹が五年生くらいの時だったかねえ」
お茶をひと口飲んだおばあちゃんがやがてぽつりと話し始める。障子から差しこむ陽光を透かすように、眼鏡の奥の目を細める。
「ゆきちゃんっていたじゃない。ほら、参観日に一度も親御さんが来れなかった子。あんたってばあれだけ毎日ふたりで遊んでたのに、ある日ピタリと家に呼ばなくなって。喧嘩でもしたのって聞いたら、ゆきちゃんにはもう友達がたくさんできたから、なんて言ってね。小さいころからそうだったよ、樹は。自分のことは後回しにして、人のことを一番に考える子だった」
ランドセルを背負った女の子がぼんやりと浮かぶ。もう随分と前の話だ。わたしが鮮明に呼び起こせなくなった記憶でさえ、おばあちゃんは事細かに覚えてる。わたしの友達も、わたしが小さいころ添い寝をしてた熊のぬいぐるみの名前も、わたしがどういう性格かということも、全部。
「あたしはね、正直言ってすべてを分かってあげることはできないよ。結婚して、子供を産んで、孫もできてここまで生きてきたから。…だけどね、」
そ、と。年月を重ねた手が、湯呑みをかたく握りしめるわたしの手にそっとふれる。これまでずっとそうしてきてくれたのと同じように。わたしを守り、育ててくれた手が、わたしにたしかなぬくもりを伝えてくる。
「あんたの隣に、あんたを支えてくれる誰かがいてくれるようにって。ひとりで心を抱え込もうとするあんたが、願いもわがままも素直に言える相手ができるようにって。それだけを願ってきたんだよ」
熱が頬をつたっていく。目の前に浮かぶ微笑みはお母さんそっくりで──ううん、お母さんがおばあちゃんに似てて、そしてきっとわたしも、おばあちゃんによく似てる。その事実が、今はなぜだか嬉しかった。たしかな血縁関係に、これほどまでに救われていた。
おばあちゃんの両手がしっかりとわたしを包みこむ。
「自分のしたいように、思うように生きなさい、樹」
「うん、…うん。ありがとう、おばあちゃん」
引きつる喉からなんとかそれだけを絞り出す。それだけでよかった。
ふたりきりの居間に、春の日差しが降り注いでいた。
***
窓の外をぼやけた光が通り過ぎていく。
日本へ降り立って一時間。いまだに続く浮遊感にわずかな眩暈を覚え、けれど眠る気にもなれないまま、雨に煙る夜の都市を見るとはなしに眺めていた。
今回の帰国の目的は、本社へのプロジェクト進捗報告と、夫との離婚手続き。まだ細かなやり取りは残っているものの、月の親権も含めひとまずの決着はついた。私が請求したのは一ヶ月に一度の面会、それだけ。過去はどうであれ、不貞を働いたのは私だ。娘の将来のためにも、距離を置くべきは私のほうだった。
「─…だれかを本当に愛したことがないんだ」
協議を終え、ふたりきりになった部屋でぽつり、ひとり言のように浩宇が落とした言葉がまだ頭をめぐっている。
「素敵だとか、慈しむとか愛でるとか、そういう気持ちはあるよ。だけど、他人に愛情を注ぐようになる原理が分からなかった。どうして人はみんなそういう感情を持つのか、不思議でたまらなかった」
眼鏡越しの眸が少しだけ揺らいでいる気がした。そういえば彼とこうしてきちんと顔を合わせて話すのは久しぶりだと、思ったのはそんなこと。
「だから僕は、なんて言えばいいのかな、…君とあのひとが、とても羨ましかった」
嫌味でも嫉妬でも非難でもなく、ただ素直に本音を吐露する彼はまるで昔の私を見ているようだった。樹と出会う前の私。愛というものを知らなくて、きっとこの先も特別に誰かに情を寄せるでもなく生きていくのだろうと漫然と過ごしていたあの頃の自分と、机の向こう側で穏やかに笑う彼が重なる。
「だけど、月が生まれて、月を育てて、初めていとおしいって思えた。無条件の愛っていうのを初めて知ったんだ。全部君と月のおかげだよ」
「…私は、あなたになにもできなかったのに」
「ううん、それでもありがとう」
差し出された右手を、戸惑いつつも握り返す。しっとりと汗ばんだ手は、けれど不快ではなかった。
握手はこれまでの敬意と労い、それから娘のこれからを託す儀式のようでもあった。娘を安心して委ねられるのは、娘が安心して身を委ねられるのはきっと、世界で唯一彼だけだろう。
「だから僕は、時間をかけてゆっくり教えていくよ、月に。人を愛することを。僕と、そして君がどんなにか、月を愛しているかってことをね」
私が働いた不義理を、月もいつか知るだろう。軽蔑するかもしれない。もう会ってくれなくなるかもしれない。けれどどうか愛していることは伝わりますようにと、そんな身勝手な願いを、彼の言葉が容易くすくっていく。この五年間で夫婦としての愛はついに育めなかったけれど、ともに親として、それぞれの形であの子に愛を注いできたことは紛れのない事実だったから。
浮かべた笑みは少しぎこちなかったかもしれない。
「祝?幸福」
私の顔を見た浩宇が目尻の涙を拭いながらそう言って、久しぶりに笑った。
タクシーが見慣れた路地に停まったのは、日付が変わって少し経った頃だった。
支払いを済ませ、マンションの玄関口へと足早に進む。夕方から降り続いているらしい小雨が上着を撫でる。そろそろコートの季節も終わりを告げようとしていた。再びこの地を踏んだあの冬には、まさかこうして樹の家へ向かう日が来るなんて思いもよらなかった。もう決して動くことはないと錆びつかせていた針をまた、樹とふたりで進める日が来るだなんて。
ようやくたどり着いた部屋のインターフォンを鳴らす。合鍵はもらっているけれど、今夜はなんとなく、樹におかえりと迎え入れてほしかった。
「おかえり、ふゆ」
数秒と待たずして扉を開けた樹に抱きつく。首筋に顔をうずめ、息をひとつ。数日ぶりの樹のにおい。私を抱き留めた樹は、風邪引いちゃうよ、と耳元でやさしく囁く。ほんの少し掠れた声。身体を離して見つめた目元は若干赤く染まっていた。
おばあちゃんちに行くね、とメッセージが送られてきたのは今朝のこと。それ以上は書かれていなかったけれど、どんな用事かはなんとなく察しがついた。だからどうしても今日のうちに、ここへ帰ってきたかった。
「長旅お疲れ様。疲れたでしょ、お風呂沸かそうか、それともごはん?」
「ううん、大丈夫」
コートをかけてすぐ床へ腰を下ろした私の髪を、タオルを持った樹が拭いていく。丁寧な手つきに、堪えていた疲労がうっかりあふれてしまいそうになる。まだ、もう少しだけ、眠るわけにはいかなかった。
「今日ね、おばあちゃんと話してきたんだ」
雨に紛れるようにひっそりと声が落ちる。うん、とだけ返して続きを待つ。
「いつかふゆに会ってみたいってさ」
「…いつきのおばあちゃんと仲良くできるかなぁ」
「ふゆのいいところも悪いところも全部話してるから大丈夫だよ、きっと」
「悪いところってなに」
「雨に降られたっていうのにお風呂にも入らないところとか、かな」
くすくす、背後から洩れる笑い声にそっと安堵の息をつく。多くは語らないけれど、少なくとも悪い結果にはならなかったんだろう。私といることを選んだせいでたったひとりきりの家族と決別することにならずに済んでよかったと、今はそればかり。
それで、と。窺うように言葉が続く。
「ふゆのほうはどうだったの」
「一応は落ち着いたよ。ちゃんと話し合ってきた」
「ん、そっか。よかった」
夫婦関係や親権は話がついたけれど、ママだけはまだ納得していなかった。離婚の話を切り出してからずっと面会を拒絶されているのだ。きっとこの先も受け入れてもらえない気がする。それでも諦めたくはなかった。是が非でも認めてもらいたいわけでも、許しを乞いたいわけでもなくて、ただわたしを知ってほしかった。あの日、わたしのしあわせを願って恋人と引き剥がしたママに、わたしのしあわせがどこにあるのかをちゃんと見てほしいだけだった。
たぶん言外のすべてを汲み取った樹はタオルドライの手を止めて、つむじに口づけを落とした。ほのかなぬくもりがくすぐったくて身体をよじる。追撃するように耳の縁に、頬に、頤にふれるくちびるが自然、身体の奥を燻ぶらせていく。
とさり、流れるように横たわった私に覆い被さるように覗きこむ樹の頭を両手で引き寄せ、くちびるがふれる寸前で見つめ合う。
「ありがと、樹」
「ん? どうして」
首を傾げた樹が微笑む。耳から流れ落ちた髪が私の頬をくすぐっていく。
言いたいことも、言わなければならないこともたくさんある。ちゃんと家族に話してくれたこと。疲れているだろうに深夜まで起きて待ってくれていたこと。他にもいっぱい。
「─…私を見つけてくれて」
けれど口から滑り出たのはその一言だった。樹と出会ってからずっと伝えたかったことはただそれだけだった。あの日、大学でひとり途方に暮れていた私に声をかけてくれたから。私にあなただけの名前を授けてくれたから。一緒にいたいと願ってくれたから。だれよりも、なによりも愛を捧げてくれたから。だから私は今またこうして日本で、樹の家で、大好きな眸を見上げている。
針がコチコチと時を刻む。くしゃり、泣き出すみたいに樹が相好を崩す。わたしこそ、と。涙に濡れた声が雨音にとけていく。
「ねえふゆ、すきだよ、出会ったときからずっと」
嘘偽りのないまっすぐな愛が胸に染みわたる。たまらずゼロにした距離をくちびるで受け止めて、呼吸の合間にあいしてると何度も愛をあふれさせる。
針が進む。待つことも速度を上げることもなく、平等に刻まれる時を噛みしめながら、もう何度目かの口づけを送った。
(きざんでいく、あなたとともに)
2024.2.20
見上げた先のその人が背負う街明かりは、まるでスポットライトのようだった。
「ご苦労様、ハニー。今日は早いのね」
「あなたをお待たせするわけにはいきませんので」
それでも十五分の遅刻だ。差し出された手を取り、タクシーを降りる。
「そのドレス。やっぱりアタクシの見立てに狂いは無かったわ」
何重にも巻いたネックレスを整えながら、贈り主は満足そうに微笑む。
今身にまとっているものはすべて彼女からのプレゼントだった。といっても頂戴したのは随分と前。多忙を極めていたため機会を逃しに逃していたが、遂に今夜、夜の光を浴びることになったのだ。
ちらと隣を盗み見る。深紅のドレスに真っ白なショールは私に合わせたコーデだろう。大きく開いた胸元を飾る一粒の真珠は、私にまとわりついたどの真珠よりも輝いている。
腕を差し出しながらもまだ迷っていた。果たして自分はこの役目を担うに相応しいのかと。彼女のエスコート役なら掃いて捨てるほどいるだろうに。
「せっかくの観劇よ、もう少し肩の力を抜きなさいな」
そんな私の心中を見透かすように、身を寄せた彼女がふっと口角を緩める。
「アタクシはただのお人形にドレスなんて見繕わないわよ」
(Nightfall soiree.)
2024.3.21
「局長」
我が副官の呼びかけに思わず背筋が伸びる。あまり気の乗らない話題であろうことは、冷たい声色から容易に察しがついた。
さて今回は何をやらかしただろうか。振り返りながら考えるものの、悲しいかな、思い当たることが多すぎる。
「今日は朝食を召し上がりましたか」
「え、いや、朝は食べない派だから」
「昨夜は」
「報告書を片付けていたらいつの間にか朝日がのぼっていたよ」
「あなたという方は…」
正直に答えたというのに、額に手を当てたナイチンゲールは呆れたように息をついた。食事や睡眠を抜いたとて、こうして頭も身体も動いているのだから私的には問題ないのだが、私の体調を慮ってくれている彼女に言わせれば問題だらけらしい。
深い深いため息が切れたころ、小脇に抱えた資料から一枚の封筒を抜いた彼女は不承不承といった様子で差し出した。本来封蝋が押されているはずの場所には、見覚えのあるルージュが残されている。
「033からです。つい先日封切りされた舞台のチケットと、彼女のことですから恐らくニューシティのレストランでも予約していることでしょう。残務は私が引き受けますので、局長はお早めに向かわれたほうがよろしいかと。でなければまた彼女の嫌味を聞かされる羽目になりますので」
早口でまくし立てる副官の様子を見るに、恐らくこれまでにすっぽかしてきた─もちろん故意ではない─件についても聞き及んでいるのだろう。外堀を埋める手法はいかにも彼女らしい。
「笑う暇がおありでしたら早くご支度を」
「分かったよ。君にはいつも苦労をかけるね」
「いえ。英気を養ってほしいという気持ちは私も同じですから」
ようやくわずかな笑みを浮かべた副官は、踵を返して去っていく。さてクローゼットの肥やしになって久しいドレスは果たして着られるだろうかと、夜への招待状を見つめてひっそりと苦笑した。
(有給休暇は突然に)
2024.3.25
どうかしてるわ、離れた熱を恋しく思うだなんて。
「手が止まっていてよ、ハニー」
跨る彼女の顎を、膝で軽く押し上げる。上向いたその人はまるで叱られた子供のように視線を彷徨わせた。いつも小憎らしいほど不敵な局長様にしては珍しいわね。常とは異なる様子の彼女に微笑んでみせる。
くちびるが距離を置く寸前、肌に強く押し付けられたのを見逃すアタクシではないの。その意図も躊躇いも全部拾い上げた上での笑みだと気付いた彼女は言い訳がましく呟く。
「…だってあなたはいつも、その、素肌がまぶしいから」
遠回しな表現に思わず吹き出しそうになった。堅物というか生真面目というか。彼女のこういうところが好ましくもあるけれど、今ばかりは聞いてあげられない。
そっと足を開き、付け根にほど近い左の内腿を指し示す。
「アタクシが誰彼構わず触れさせると思って?」
窺うような眸の底に、同じ欲が灯るのが見えた。逡巡を挟んだのち、屈み込んだ彼女が触れるだけのキスをひとつ、そうしてもたらされた鋭い痛みに身体が歓喜を叫ぶ。枷よりも脆く、けれどより貪欲な所有印を求めていたのは自分自身だったのだ。
「あぁ、──アナタのものになるのも悪くはないわねぇ」
(もっとふれて、奪って、アナタだけのアタクシにして)
2024.3.27
市場の朝は早い。
「ボンジョルノ、セニョリータ!」
「ボンジョルノ。今日のおすすめはどれかしら」
日が昇ってからまだそんなに経っていないのに、売り子の呼び声や主婦の談笑がそこかしこから聞こえてくる。かくいう私もその一人。この時間帯は荷揚げされたばかりの新鮮な魚が並ぶし、なにより早朝だと店主がおまけしてくれるのだ。早起きは三文の徳、という東洋のことわざは言い得て妙だ。
さて今日も今日とて足を運べば、恰幅の良い店主はけれど苦い顔をしていた。
「今朝は不漁だったみたいでな、おすすめと言ってもこれだけしかないんだ」
視線を移せばなるほど、いつもより並ぶ魚が少ない気がする。たまには次妹の好物であるサルモーネでも買おうかと思っていたのだけれど、この品揃えを見るに今日は振る舞ってあげられそうになかった。
肩を落とす私に、すまないな、と店主は申し訳なさそうに続ける。
「漁師の話じゃあ、海が荒らされたらしい」
「海が…海賊でも出たのかしら」
「いや、じいさんが言うには、魔物か人魚の仕業だとよ」
「魔物だなんてそんな…っ!?」
「大方じいさんの与太話さ、どうせ鮫とかそんなとこだろうよ」
ヒュッと息を詰まらせた私が怖がっていると勘違いしたのだろう、宥めるように店主が表情を緩める。そんな彼の肩越し、数メートル先の海で、ばしゃり、なにかが大きく飛び跳ねた。尾びれが跳ね上げた水が綺麗な弧をえがく。二度三度と舞うそれの体表が、朝日を受けてきらめく。幻想的な光景だけれど、見惚れている場合ではなかった。
「あのあたりに出たって話だが、こんな近くにいるわけ…」
「メルルッツォ! ほらこれ、おいしそうね、三尾いただくわ!」
振り返りかけた店主を大声で呼び止める。驚いて視線を戻した彼は、わずかに訝しみながらも一尾おまけして渡してくれた。末の妹が苦手な魚だけれど、今日ばかりは我慢してもらうしかない。というより、文句は言えないはずだ。
挨拶もそこそこに魚屋を後にする。市場を足早に抜け、目指すは桟橋。早朝だからか、先客がいないことだけが救いだった。
ばしゃり、水音が徐々に近付いてくる。揺れる影は鮫でもイルカでも、ましてや魔物でも人魚ですらない。影が姿を消して数秒の間、ぷくぷくとすぐそこに浮かんだ気泡に深い深いため息をひとつ。
「………出てらっしゃい」
「ね、ね、わたしのジャンプどうだった?」
見間違いであれという願いも空しく─十中八九そうだろうと諦めてはいたけれど─海から顔を出し間髪をいれず話し始めたのはやはりというか、一番下の妹だった。
今でこそこうして陸地で暮らしているものの、海棲の裔である私たち姉妹の本来の居場所は海の中だ。ひとたび潜れば海を舞うのに相応しい身体へ立ち返る。私は水を浴びても人間態を保っていられるけれど、この子はそうではない。水に触れればたちまち鱗に覆われ、足の代わりに尾びれで波間を蹴るのだ。正体を知られた者の末路は目に見えている。だから日が高いうちは海に近寄らないようにとあれだけ言い聞かせていたのに。
「あなたねぇ…、誰かに見つかったらどうするつもりなの」
「だからわざわざ早起きしてるんじゃない」
しゃがみ込み声を落とす。きらめく鱗に輪郭を縁取られた妹は悪びれた様子もなく、むしろ興奮したようにぱしゃり、尾で水面を叩く。少し離れた泊地に、まばらではあるけれどまだ漁師が残っている。今にも彼らがこちらに顔を向けるのではないかと気が気ではなかった。
いいから帰りなさい──言い終わらないうちに、ぐん、と腕を引っ張られた。
「ぷは…っ、ちょっと、いい加減になさい!」
急いで浮き上がった時には、海へ引きずり込んだ張本人の姿はなかった。顔を沈め、周囲を窺う。呼吸も出来るしある程度泳げるけれど、やはりこの身体は海に馴染まない。ごぽり、泡となったため息が海面へとのぼっていく。
背後から顔を覗き込むようにしてようやく現れた妹がくすくすと笑う。
「ね、お姉さま、こんなにいい天気なのよ。存分に楽しまなきゃもったいないじゃない」
揺蕩う私を海がやさしく撫でる、まるで妹に賛同するように。これで何度目のため息だろうか。一日はまだ始まったばかりだというのに。けれど堪えきれずに疼く身体は、そう、妹のせいだ。この子があんまりにも気持ちよさそうに泳ぐものだから。
「これ。代わりに持って帰ってちょうだい」
「えー、またメルルッツォ?」
「自業自得よ、残したら承知しないから」
文句を垂れる妹に食材を預ける。不自由な足に代わり、優美な尾が海を掻く。不快な人肌を覆いつくす美しい鱗。一旦底へ潜り、角度をつけて浮上する。こんな速度で泳ぐのは久しぶりだ。身体が、心が喜んでいるのが分かる。きらきらと光る海面が近付く。膜を破るような感覚は一瞬──港をあまねく照らす陽を全身に浴びて思わず微笑んだ。
(私たちは誇り高きセイレーンよ、人魚なんかと一緒にしないで)
2024.4.8
この港の誰よりも美しい女は、男の自慢の恋人だった。
単に容姿が整っているだけではない。穏やかな声、淑やかな所作、度量の深さ。そのすべてが完璧なのだ。自身のすべてを包み込んでくれる彼女はまるで母なる海のようだと、男は事あるごとに女のすべてを褒め称えていた。
男と女は将来を誓い合っていた。老いさらばえ息を絶やしその骨が海に撒かれるまで共にあろうと約束していた。
そんな彼女を、男の家族に紹介した夜のこと。あの人はやめておけ、と両親は言う。どうして、あんな素敵な女性は他にいないのに。息巻く男に顔を見合わせた父母は、声を潜めてこう告げた。彼女は魔物の眷属だから、と。父母曰く、夜な夜な海辺を彷徨う彼女は、海から顔を覗かせる魔の物と会話をしているのだとか。両親ばかりか男の友人もこぞってその姿を見たのだと口を揃える。あの女は人ならざるものに違いない、と。
俄かには信じられなかった。だが思い返せば違和感はあった。恋人になって随分経つというのに共に夜を明かしたことは一度たりとも無いこと。海に近付こうとしない女がけれど海の底深くまで熟知しているような発言をすること。女の自宅へ招かれたことが無いどころか、どこに住んでいるのかさえ知らないということ。心で結ばれていると思っていた女のことを、実は何一つ理解していなかったのだ。
男は悩んだ。悩んだ末、遂に別れを切り出した。別離を告げられるなど予期していなかったのだろう、女が愕然と目を見開く。わなわなと震える唇がやがて金切り声を上げ、外へ飛び出した。男も慌てて後を追う。陽はすでに沈み、夜の帳が落ちていた。
行き着いたのは人気の無い海岸だった。あなたと別れるくらいなら海に身を投げるわ。悲痛に叫ぶ女はじわじわ後退する。女の背後で荒れ狂う波が今か今かと待ち構えているようだ。危険だ、お願いだから戻ってくれ。男は涙声で懇願しながら距離を詰めていく。
刹那。一際大きく口を開いた波が、女と男を呑み込んだ。一瞬のうちに奔流に捕らわれていく。平衡感覚を失いながら、それでも男は女を探した。海中で必死に目を凝らす男の眼前に現れる三体の影。視界の端で魚に似た尾がひらめく。
男を取り囲んでいたのは、半人半魚の美しい女たちだった。そのうちの一人に視線を留めた男が目を見開く。そんな。絶望が泡となり消えていく。ざらりとした手のひらが愛おしむように男の頬に触れた。あなたと別れたくないの。魔物は囁く。見慣れていたはずの赤いくちびるが愉悦を込めて弧をえがく。だから私たちと一緒に暮らしましょう、海の底で、ね。聞き遂げるより先に最後の息を吐き出した男の身体が、為す術なく海の底へと引きずり込まれていく。
男と女が消えたのち、海は何食わぬ顔で穏やかな波音を奏でていた。
(だって誓ってくれたじゃない、永遠に共にって)
2024.4.9
暖炉の火が尽きて久しいのに、身体の熱は冷めることを知らなかった。
はふ、と彼女の吐いた息が肩に触れる。普段は雪原のように白く、氷のように冷たい彼女の肌が上気している様にこの上もない喜びを覚えた。一心に僕を求めてくれているのだと実感してどうしようもなく愛おしさがあふれた。
もうずっと昔──彼女をひと目見た時から惹かれていた。憧れと呼ぶには鮮烈で、恋と呼ぶにはあまりにも苛烈で。彼女の声が、髪が、指が、視線が、仕草が、くちびるが、そのすべてが僕を惹きつけてやまなかった。
「ドミ、トリー、っ、もう、わたし、」
低く掠れた声が限界を告げる。シーツを握りしめる指を絡め取り、背中へ導く。一瞬見開かれた眸は、けれどすぐ長いまつげの裏に隠れた。まだ終わりたくなかった、まだ離れたくなかった。この夜が明ければ恐らく永遠の別れが待っている。ならば今は、今だけは、目の前にいる彼女だけを感じていたかった。吐息に混ざる熱を、背中に縋る指を、やわらかなくちびるを、必死に僕を呼ぶ声を、そのすべてを己に刻みつけたかった。
額に張りついた前髪に口づけをひとつ。幾度も囁いた愛の言葉に混ぜてそ、と。彼女の名をこぼす。今までただの一度も音にしたことのない、彼女の本来の名前を。
ふ、とまぶたを開けた彼女が、涙を溜めた眸を細めてやさしく笑った。
(この夜をとめて)
2024.4.21