鼻を突く硝煙の匂いは、纏った香水よりも馴染みの深いものだった。  初めてグリップを握った時の感触はよく覚えている。護身用にと父から貰ったハンドガンは手のひらに収まるほど小型だった。どこへ行くにも護衛や従者が張り付いていたあの頃は無用の長物だと思っていたけれど、まさか今になって役に立つだなんて。妙な因果もあるものね。  イヤーマフを外すと同時、控えめな拍手が響いた。 「あらぁ、珍しいお客様ね。射撃の練習にでも来たのかしら」  管理局の長は並び立つと、撃ち終えたばかりの的に視線を投げて苦笑する。 「そうだな、少しはあなたに習ったほうがいいのかしれない」  攫われることも少なくなるかもしれないしな。自虐のこもった冗談に思わず口の端を緩める。彼女はなにかと連れ去られる場面が多いけれど、どうやら自覚はあるらしい。  二丁の拳銃を構えた彼女がひたと真正面を見据える。姿勢は申し分ないけれど、果たして撃ち出された弾は的の中心から大きく外れた。不服そうに肩を竦めた彼女の手からそっと銃を抜き去る。やはりこの子にこんな小道具は似合わない。 「安心なさい、囚われのお姫様になったらアタクシが連れ戻してあげるから」  額に口づけをひとつ、件のお姫様は納得がいかない表情で息をついた。 (アナタのためなら騎士にでも) 2024.4.21
 荒れ狂う海。暴れる船。慌てふためく人間たち。後悔先に立たずとよく言うけれど、やっぱり船になんか乗るものじゃないと思わずにはいられなかった。  そもそも今日は呆れるほど退屈で穏やかな船旅になるはずだったのだ。見慣れた景色を眺めつつ、観光客へこの港に伝わる神話やら伝説やらを適当に解説して駄賃をもらう、それだけの仕事だったはずなのに、まさかクラーケンに遭遇するだなんて。  舳先にまとわりついた巨大なそれはどう見ても怒り狂っている。自身の縄張りを侵されたことが気に食わないとか、そんなところだろう。無力な人間であればこのまま成す術なく海の藻屑となるのみだけれど、ここには我が姉がいる。図体ばかり大きくなった神話の成れの果てなど、お姉様の歌声ひとつで難なく撃退できるに違いない。  そんな期待をこめて振り返った先、手すりから身を乗り出しているのは姉そのひと。ようやく向けられた顔は、この悪天候の中でもそれと分かるほど青白い。冗談はよしてお姉様。嫌な予感が背中を滑り落ちていく。 「ちょっ、と、調子に乗って飲みすぎ、ぅえっ、」  口を押さえ再び海へと屈み込んだ姉は、とてもじゃないけれど歌うどころではない。 「お酒は控えてちょうだいってあれほど言ったのにっ!」  私の全力のお小言を、呆れ果てた嵐が散らしていった。 (二日酔いにはご用心) 2024.4.29
 重いまぶたを開くのと、右手を握られたのは同時だった。 「…具合は、どうだろうか」  恐る恐るといった様子の声は右側から。身体を起こそうとして、つきり、太腿に走る鋭い痛みに思わず眉を顰めた。まだうまく回らない頭でゆっくりと記憶を辿っていく。  局長に差し向けられた刺客はどう見ても三下だった。本来であれば傷一つ負わず撃退できる相手は、けれど逃げ惑う劇場の観客を人質に取ったのだ。ようやく蘇ってきた全貌とともに、痛みも揺り戻される。幸いにも人質や、今こちらを見つめている彼女にも怪我はなかったけれど、不覚を取られた悔しさに変わりはない。  恐らくずっと付き添っていたのであろう彼女の顔が歪む。管理局を束ねる長ともあろう人が、たかがコンビクト一人が軽傷を負ったくらいでそんな顔してどうするの。いつもみたいに軽口を叩こうとして、やめた。局員だろうと仇なす敵だろうと、その痛みや苦しみを一身に背負ってしまうのが彼女という人であり、だからこそ惹かれたのだから。  自由なほうの手で後頭部を引き寄せ、目尻に口づけを落とす。今にも泣き出しそうな表情にそっと微笑んでみせた。 「仕事を放り出すなんて、悪い子ねぇ」 「…あなたの傍にいられるのなら、悪い子でも構わない」  絞り出すような声音に、たまらず頭を抱き込む。優しいこの子がどうか他人のことでこれ以上傷つかないようにと、柄にもなく祈りをかけた。 (アナタの長所であり弱点でもあるそれがどうかアナタを苦しめることがありませんようにと) 2024.5.1
 覚えの無い姿に一瞬、訪問の目的を忘れてしまった。 「あらぁ、今夜はもう来ないかと思っていたわ」  入り口で佇む私を見つけた部屋の主が、レンズの向こうの眸をやわらかに細めた。読書中だったのだろうか。ゆったりとカウチに身を委ねていた彼女が上体を起こす。 「どうしたの、ハニー。まさかアタクシの顔が見たかっただけ、なぁんてことはないでしょう?」 「あ、ああ、すまない。あなたが購入申請を出していた本が届いたから持ってきたんだ」  いつまでも突っ立っている訪問者を不審に思ったのか、足を組み直した彼女が覗き込むように首を傾げた。卓上ランプに映し出された影がゆらり、揺らめく。ゆっくり距離を詰める私を迎え入れるように閉じられた本がサイドテーブルに置かれる。 「…眼鏡、かけるんだな」 「ええ、本や資料に目を通すときはね」 「初めて見たものだからつい、見惚れてしまった」  レンズ越しの水晶色の眸が不意を突かれたようにまたたく。それもまた初めて目にする表情だった。思えば彼女と出会ってまだ日が浅いのだから、知らない一面ばかりなのも当然だ。たとえば彼女がジャンルを問わず小説を読むことも、意外と恋愛物を多く嗜むことも、つい最近知ったのだ。けれど詰めすぎた距離につい、すべてを分かったふうになっていた。  驚きをまばたき三つで逃した彼女は、見慣れた、けれどいつもより親しみのこもった微笑みを浮かべる。 「いつものアタクシのほうがお好み?」 「─…いいや。どんなあなたでも好ましく思うよ、私は」  ふ、と首をもたげた拍子に、金縁眼鏡がきらりと光を放つ。  私の返答に、件のその人は満足そうに口の端をゆるめた。 (ひとつずつでいい、なにせ時間はたくさんある) 2024.5.1
 抜かりの無い計画のはずだった。  口当たりが良いワインはどうやら彼女のお気に召したようだ。局内にアルコールは…と最初はぶつくさ言っていた管理局の長は、こちらの勧めを断り切れずにひと口飲み、そうして目を輝かせた。  度数が高いとも知らず何杯もおかわりをした彼女は、ほどなくして顔を真っ赤に染め上げた。  ここまでは想定どおり。  グラスを取り上げ、ソファへ押し倒す。胡乱な視線で見上げてくる彼女のなんとかわいらしいこと。思えばこの眺めも久しぶりだった。最初のころは手解きと称して主導権を握っていたはずなのに、いつの間にやらベッドに沈められる夜を多く数えるようになっていた。嫌いじゃないけれど、黙って組み敷かれるだなんてアタクシの性に合わないのよ。  頬から顎へと輪郭をたどる。ぱちりと緩慢にまばたきをした彼女が手を伸ばして──ぐるり、世界が反転した。 「なっ、」 「かわいい」  照明を背にしていてもなお顔の赤さが目立つ彼女は、陶酔したような表情でそんなことを言う。かわいい。いとおしい。たべちゃいたいくらいだ。おおよそ似つかわしくない言葉が口づけとともに次から次へと降ってくる。  押し返そうとして、けれどやけに力が強くてそれも叶わない。細い身体の一体どこにこんな力があるというの。抵抗しながら、自身の失策にようやく気付いた。 「どうか逃げないで。私に愛されてくれ。すきだ」  まっすぐな愛情表現に顔を逸らすことも許されず、熱いくちびるが喰らいついてきた。 (のまれたのは一体どちら) 2024.5.1
 先日からどことなく様子がおかしかった。  と言っても表面上はいたって変わらない。恐らく私以外の誰も気付いていないだろう。それもそのはず、違和を覚えるのは彼女と過ごす夜でのことだから。  今夜は部屋を訪れた私を早々にベッドへ押しこんできた。こんな直情的な誘いも彼女らしくない。  押し倒される前にと、肩を押して彼女を組み敷く。シーツに沈む彼女がわずかに目を見開く。彼女が一瞬浮かべた表情を捉えたことで、違和感が形になった。すぐさまいつも通りの微笑みの裏へ隠されたが、間違いない、彼女は狼狽している。そんな感情が指すものはつまり、 「──主導権を握られるのが嫌か?」  私の問いに、暗がりの中で水晶色の眸が丸みを帯びる。常に無いその驚きをかわいらしいと感じるほどには彼女を好ましく思っていた。いや、好きでなければ忙しない業務の合間を縫ってこうして足を運んだりはしない。  しばらく押し黙っていた彼女は、やがて観念したように息をつく。 「…嫌ではないわ。ただ慣れてなくて、戸惑っているだけ」 「困惑しているあなたもかわいらしい」 「またそうやって大人をからかって…」  ふい、とそっぽを向く姿はまるで少女のよう。今夜は珍しいこと尽くしだ。こんな彼女をかわいいと言わずしてなんと形容すればいいのだろう。 「どうか身を任せてくれ、レディ」  ふ、と耳元で笑みをこぼす。耳朶がほんの少し、けれどたしかに色づいた。 (私だけのあなたをもっと、) 2024.5.1
 楽団の奏でる音楽が緩やかなワルツへ切り替わる。素知らぬ顔でホールに佇んでいるが、次はどの足を踏み出すべきかさえ分からずにいた。  だからパーティーになど出席したくなかった。いつものように業務を言い訳にして断ろうとしたのに、たまには各所へご挨拶に行ってください、とドレスとともに我が副官に送り出されてしまったのだ。それならナイチンゲールも道連れにと考えていた矢先、会議だかなんだかで体よく逃げられる始末。 「右足を一歩後ろに。身体はもう少し寄せてちょうだい」  そっと耳元に落ちた声が示すとおり、右足を下げ身体を密着させる。上出来よ。目の前のくちびるが満足そうに弧をえがく。  彼女を同伴者に選んで正解だった。社交の場に慣れている彼女は、行き惑う私をさりげなくフォローしてくれる。あれはどこぞの議員だとか、あれは出資者だから挨拶しておいたほうがいいだとか、あの娘は見境なく見初めるので近付かないほうがいいだとか。私も把握していない─覚えるつもりもない─情報をひっそり伝えてくれていた。  そうして今は、他の客に紛れてダンス指導を受けている。  ぶつかりかけた私の身体が自然な流れで引き寄せられる。招待客にも随分酔いが回っているのだろうか、女性ふたりで踊る私たちを気に留める者はいない。 「ダンスはどこで」 「幼い頃にね。一通り習ったの」 「どおりで。きっと引く手あまたなんだろうな、あなたは」 「アタクシの足を踏みたいのならお喋りを続けてもいいわよぉ」  からかうように向けられた言葉に慌てて動きに集中する。  ワン、ツー、スリー、ワン、ツー、スリー。ステップとターンを繰り返すことで、リズムが幾分身体に馴染んできた。飲み込みが早いと副官におだてられてきたのは伊達じゃない。  私の著しい成長を感じ取ったパートナーはくすりと微笑む。 「…そうね。たしかにこれまで、多くの人に手を取られてきたわ」  細められた眸はまるで述懐しているようだった。恐らく彼女が今の名を自称するよりも昔のこと。私の知り得ない彼女の過去。 「けれど誰も彼も一夜限り。だってここを訪れる人たちは皆、面白みに欠けるんだもの」 「だが私とはまた踊ってくれるんだろう? なにせ私は、あなたを退屈させたことがないからな」  視線を合わせた彼女がわずかに驚きを乗せる。随分な自信だと自分でも思う。けれど少し羨ましいと思ってしまった。枷を通して出会った人たちと過去が交わることはないし、当然のこととして特に気に留めてもこなかったのに、今ばかりは、彼女にダンスを申し込んだ誰も彼もに軽い嫉妬を覚えてしまっていた。  なんともらしくない自身の心境を誤魔化したくて、おどけた調子で言葉を続ける。 「次は私が男性役というのはどうだろう。あなたを完璧にリードしてみせよう」  胸を張る私に、ふふ、と。堪えきれないといった様子の吐息がこぼれた。添えられた指がつ、と背骨をたどる。 「アタクシに指導しようだなんて百年早いわよ」  楽しそうに笑う彼女につられてつい顔を綻ばせたのは、そう、私も酔いが回っているからだ。 (その手を取るのが私だけであるようになどと、) 2024.5.1
 三年か、それとも四年振りだったか。  とにもかくにもこのカフェに足を運ぶのは久しぶりのこと。  片道一時間半。引っ越しをしたから、ここはもう私の生活圏ではなくなっていた。  その事実も原因もきっとすべて承知の上でこの人は、数年前の続きみたいに私を呼びつけた。  組んだ指にそっとあごを乗せる。狙いは的中。私の手に視線を留めた彼女がふ、と。さみしそうに、ともすれば咎めるように笑う。 「そっか。待ってくれなかったか」  ひとりよがりな口調に思わず下唇を噛んだ。どの口が、と叫んでしまいたかった。だってあなたは「行かないで」とも言わせてくれなかった。三年と四ヶ月。あなたは私の前から忽然と姿を消していた。何も知らずに残された者の気持ちなんてひとかけらも分からないくせによくもそんな身勝手な恨み節を吐けるものだと罵りたかった、のに。 「─…結婚、おめでとう」  ぎゅうと握りしめた指にプラチナの輪が食い込む。  自ら幕を引いてしまった恋を知らしめるように、痛みだけが鮮明だった。 (とうに終わったはずの恋心が今も私を苦しめる) 2024.5.29
 逸る心に急かされた身体が、ドアの隙間をくぐり抜ける。  六両目の二番ドア。そこがあなたの定位置。  果たしていつもと変わらずドアのすぐ脇に立っていたあなたが、駆け寄るわたしを見とめ目を瞠る。  ボストンバッグが床に落ちる。あなたが一歩踏み出す間に三歩分距離を詰め、その勢いのまま抱きしめた。  黙っていなくならないでよ、わたしが気付かないとでも思ったの、ずっと待ってるから、だから──。  怒りも悲しみも願いも、伝えたいことはたくさんあるのに、発車を告げるベルがそれを許してくれない。  快速列車から特急列車へ、アナウンスに急かされた人々がまばらに乗り込んでいく。  無理やり身体を引きはがし、不格好に笑ってみせる。これがわたしの精一杯。  ドアが閉まる。ホームドア越しのあなたがなにかを言いかけて、けれど言葉を呑み込み代わりにふ、と笑った。 「ずるいひと」  ようやく絞り出した恨み言は、ホームを滑る電車に追いつけない。  誰もいなくなった駅で、ただあなたの表情だけがこびりついて離れなかった。 (待っていてほしい、って。それさえ言ってくれないのね) 2024.5.31
 とりどりの箱の上からひょいと覗きこまれたせいで危うく荷物を落としかけた。 「あらぁ、人気者も大変ね。手伝ってあげてもよくってよ」 「さっきも持っていったのにまだ欲しいのか、あなたは…」  からからと笑う彼女に思わずため息をつく。先程の──マキアートが始めた『チョコレート大作戦』とやらの最中、ガロファノから辛くもチョコを貰い受け一息ついているところへ、それじゃあ頂いていくわね、とどこからか現れた彼女に手持ちの半分も奪い去られていったのだ。おかげであわやドナルドと一週間を過ごすところだった。  首謀者であるマキアートに勝利したことで、この騒々しいイベントもようやく終焉を迎えたわけだが、賞品扱いされたことはともかく趣旨自体が嫌いだったわけではない。 「…あなたからもチョコを貰えるとばかり思っていたのだが」  有体に言えば、そうだ、拗ねていた。大いにへそを曲げていた。私と彼女の仲だからてっきり頂戴できるものとばかり思っていたのに。  分かりやすく不満をこぼす私に、件のその人は意地悪く口角を持ち上げる。 「ねぇハニー。チョコが欲しいのなら、その甘ぁいプレゼントを全部置いてアタクシの部屋へいらっしゃいな」  砂糖をふんだんにまぶした声音につられ、一も二もなく頷いた。 (なによりも甘いあなたを、) 2024.5.31