ねえカルロッタ、あなたもう少し愛想よくできないかしら。
アーティストに愛想は必要ない、ええ仰るとおり。けれどね、いい服を作るためにはまず顧客を獲得しなくちゃいけないのよ。
いいわ。率直に言うとね、こわいのよ、顔が。さっき会った奥様、あなたの機嫌を損ねたんじゃないかって怯えていたのよ。フォローしておいたから安心してちょうだい。元々そういう顔ですので、って。
感情表現が苦手なことはよく知っているわ。だから落ち込まないで。上辺だけの付き合いを快く思わないところは、あなたの美点でもあり、わたくしの憧れでもあるのよ。
けれど不思議なのよ。ねえカルロッタ、あなたわたくしの前ではよく笑っているじゃない。それをそのままお客様にも向ければいいだけの話なのよ。
そんな嫌そうな顔しないでちょうだい。あなたってば、どうしてこういう時だけ雄弁なの。それとももしかして、わたくしにだけ笑顔を見せるのは、すきだから、なんてことはないわよね。
…ちょっと。ねえ、本当に?
首を振っているけれど、ね、真っ赤よ、顔。
うふふ、ふふ。ごめんなさい、嬉しくてつい。掴みづらいと思っていたのだけれど、案外分かりやすいのね、あなた。
愛想よく、って言ったけれど、もう少しひとり占めしていてもいいかしら。
(わがままの代わりに、顧客対応は引き受けてあげるわ)
2024.6.2
あれは明らかに失言だった。後悔しても目の前のくちびるは留まることを知らない。
魅力的な人ですもの、きっと大勢の方に言い寄られてきましたわよね。なぜだか肩を落とすグローリアの言葉にすぐさま否、と返答した。陰気で人付き合いの悪い私の一体どこからそんな影を見つけたというのだろう。恋人どころか友人だって数えるほどしかいないというのに。
誤解を解くというよりは事実を伝えた私に、そんなことありませんわ、と今度は語気を荒げて反論された。曰く、人脈に頼ることなく作品のみで渡り歩ける実力があるのだと。曰く、寡黙の裏に秘めた情熱とのギャップがたまらないのだと。曰く、
「おだてるのもそれくらいにしてちょうだい」
これ以上は顔から火が出てしまいそうだった。だけど制止の言葉だけでこのお嬢様が止まるはずもない。思ったとおりなおも言い募ろうとするグローリアのくちびるを自身のそれで塞ぐ。効果はてきめん。口を押さえた指さえ真っ赤に染まっていく。なるほど、たったこれだけでおしゃべりを封じることができるのね。知見を得たのも束の間、わなわなと震えたグローリアが、信じられない、といった表情で目を見開く。
「も、もしかして言い寄られる側ではなく、攻め落とす側だったんですのね…!」
ああこれはまた面倒な誤解が生まれたと、頭を抱えても後の祭りだった。
(だってこんなに手慣れているんですもの、いろんな方を惑わせてきたのでしょう!?)
(あなただけよ、決まってるでしょ)
(それが常套句ですのね…!)
(いい加減にしないとまた塞ぐわよ)
2024.6.4
彼女と数える夜も、これで三度目だった。
きっかけはよく覚えている。人気の無くなったオフィスで、手を出したのは私、けれど手を出すよう仕向けたのは彼女。私が好意を寄せているのを知っていて、必死に耐えているのを承知の上で、甘く囁いてみせたのだ。
余韻も冷めないうちに響いた衣擦れが終わりの合図。
終電はとうに無くなっている。きっとタクシーでも拾うつもりなのだろう。彼女は決して、私と朝を迎えない。
その背に手を伸ばすことができたなら、あるいは楽になれるのだろうか。行かないでと縋れるなら、胸の締め付けも少しはマシになるのだろうか。
「──だめよ」
わずかな希望で伸ばした指を、けれど言葉ひとつで押し留められる。
彼女は振り向かない。振り撒いた香水が、私のにおいを覆い隠していく。熱も、香りも、狂おしいほどの恋情でさえ、彼女の身体にはきっと欠片も残ってはいない。
それならどうして抱かれるんですか、そう叫びたかった。愛を囁くことさえ許してくれないのにどうしてそんなに優しく肌に触れるのか、と。
「また来週、会社でね」
名前さえ呼ばせてもらえないまままた、ホテルにひとり残された。
(そうして私にばかりあなたが残る)
2024.6.4
アイスティーはとっくの昔に空になっていた。
ランチにパスタを頼んで、食後にティラミスを平らげて、紅茶で喉を潤して、それでもまだ話し足りない。
彼女となら毎日一緒にいたって話題が尽きない。そう思っているのはきっと、私だけじゃない。
「あ、そろそろお迎えが来る時間じゃない?」
けれど無情に過ぎる時は、私たちを見逃してはくれない。
「17時からでしょ、顔合わせ。少しは緊張ほぐれた?」
いつも私を気遣ってくれる彼女はけれど私の心の奥底までは見抜けないようで、机の上で組んだ手にそっと指を重ねてくる。
婚約破棄しちゃえばいいじゃん。ただ一言、そう言ってくれたら──冗談でもそんなことを口にする人じゃないけれど。引き留めてくれないかと、説得してくれないかと、連れ去ってはくれないか、と。
彼女の肩越しに、カフェに入ってきたばかりの婚約者の姿を捉えた。
のろのろと荷物をまとめる私に、向かいの席のその人はふ、と笑う。
「迎えに来るのが、あたしだったらよかったのに」
(冗談を言う人じゃない、そうでしょう?)
2024.6.4
アクセサリーは性に合わないと言っていた。
束縛されているみたいで好きじゃないのだと、時計もピアスも指輪も、私と肌を重ねる前にすべて外すのだ。
ひとつひとつ丁寧にジュエリーボックスへ収める姿はまるで私に見せつけているかのようで、指輪を手放した後はいつも、左手をさらってしまう。
ちゅ、と薬指に口づけを落とす私に毎回彼女は微笑む、あなたもアクセサリーになりたいの、と。
隣で眠る彼女が不意に寝返りを打つ。わずかなあどけなさを帯びた寝顔に胸が締め付けられる。いつも私に背を向けてばかりのこの人の寝顔を、きっと家で待っているであろう誰かは毎夜見つめているのだろう。
そ、と。彼女の左手を取り、しなやかな薬指の付け根に強くくちびるを押し当てる。
痕なんてつくはずがない。分かっている。分かっているけれど、それでも刻み付けられるようにと願わずにはいられなかった。
***
アクセサリーは性に合わない、それは本当。
ただでさえ仕事や家庭に縛られているというのに、その上他人から送られた時計に、ピアスに、指輪に、自身のすべてを囚われるだなんてまっぴらごめんだ。
枷をひとつずつ剥いでいく、この瞬間が一番好き。指輪の行く先を見つめるあの子の視線が、たまらなく好き。
あなたもアクセサリーになりたいの、って毎回尋ねてみるけれど、この子はなにも答えない。
あなたになら縛られてもいい、なんて。言外に含ませた想いにきっと、この子は気付いていない。
ふ、と。感じた鈍い痛みにまぶたを開く。今は空白の薬指に、静かに、けれど苛烈に歯が立てられる。
たとえ痕が残ったとして、朝になれば指輪で覆われてしまうのに。いじらしさにこぼれた笑みを、この子が拾うことはない。
どうかその痛みでいつまでも私を引き留めていてちょうだいね。詮無い願いは寝息にとかした。
(ひとつずつあなたに縛られていく)
2024.6.6
去年亡くなった猫のことを、ふいに思い出した。
猫の呼吸も鼓動も、人間のそれより早い。よくおなかに乗ってきていたその子に合わせて胸を上下させてみても、結局すぐに苦しくなってしまっていた。
「眠れない?」
暗闇の中、ふ、と落ちてきた問いかけが耳をくすぐる。
答える代わりにぎゅうと抱きしめ、やわらかな膨らみに顔をうずめる。トク、トク、トク。彼女が生きている証が、私よりも随分と速く脈打っていた。
いきものが一生のうちに打つ鼓動の回数は決まっているのだと聞いたことがある。彼女の胸に耳を寄せるたび、私よりも先に音を止めてしまう彼女を想像していつも、不安になる。
「大丈夫だよ」
ぽんぽん、と背中を撫でる手は、私の鼓動に合わせるようにやさしくゆるやかなものだった。
誘われるまま目を閉じる。彼女の体温と、背中をさするリズムと、生き急ぐ心音が、身体をつたってとけていく。
どうかこの音をずっと聴いていられますように。祈るように耳を澄ませた。
(けれどあなたは猫のように軽やかなひとだから)
2024.6.17
今夜で最後にしよう、そう思った。
だってこの人自ら「抱いてほしい」と言ったのだ。普段は「抱かないの?」と誘ってくるばかりで希望は一切口にしてこなかったこの人が、抱いてほしい、なんて、初めて乞うてきた。
言われなくても分かってる、これは終わりの合図。
私に飽きたのか、他に欲を満たしてくれる相手を見つけたのか、真意は知れない、知るのはこわい。けれどいつかの彼女は言っていた。幕を引くのはあなた自身だと。
だから私は彼女の意図を察して、聞き分けよく離れなければならない。だって私たちは恋人同士ではないし、彼女はきっと味見程度の感覚で私との関係を始めたのだろうから。
高望みしてはいけない。もう二度と彼女の肌に触れられなくなっても、上司と部下という繋がりにだけは縋っていたいから。
いつもより呼吸の荒いその人をそっと抱きしめる。やわらかな身体からつたう熱にどうしようもなくあふれそうになる涙を堪え、息をひとつ。
「終わりにしましょう、私たち」
***
今夜で最後にしよう、そう思った。
身体だけの関係にもいい加減疲れてきた。この子が宝物みたいにわたしの肌に触れるたび、耳元で切なく愛を囁くたび、胸が締めつけられて仕方がない。
罪悪感だと思ってた、思いこもうとしてた、だけど違ってた。この子を愛してしまっていたのだ、どうしようもないほどに。
セフレだなんだと相手に言い聞かせながらその実、この子を手放せないのはわたしのほうだなんて、都合が良すぎて吐き気がする。
だけどこの子なら、わたしのそんな身勝手な部分も含めて愛してくれる気がした。
だからセフレ関係は今夜で終わり。心が求めるままにこの子を欲してねだって、そうしてこの子が最近いつも口にしてくれるように愛を囁こう、そう思ってた。
いつもより余裕のないセックスに息が絶えていく。
ようやく解放され、息を整えているうちにぎゅう、と。抱きつくその子が深く、深く、息を、吸う。
「終わりにしましょう、私たち」
(いつも、いつだって、手は差し伸べられていたのに、わたしは)
2024.6.20
「ご実家、帰らなくても大丈夫なんですか?」
月が低い夜だった。
電線の間でぼんやり浮かぶ満月を追いかけながらふと、尋ねてみた。
今日はお盆の中日。バイトの学生もパートのお姉さまがたも帰省やらなんやらで捕まらず、どうやっても店舗社員だけで回るはずがない、と本社へ泣きついたのだ。
店長経験があるらしい彼女は、ブランクを感じないほど立ち働いてくれた。おかげで締め作業もいつもより早く済み、時間を気にすることもないまま駅への道を歩いている。
わたしの問いかけに、首を巡らせた隣人がぱちりとまたたく。
たしか三つ上、だったか。社内報でのインタビューで地方出身だと答えていた覚えがあったんだけど、記憶違いだったか。
また前方へ視線を戻した彼女がようやく口を開く。
「特に帰る用事もありませんし。人も多いですし。やめました」
「たしかに。帰るだけで疲れちゃいそうですね」
語尾に混ぜた笑い声がとけていく。
あまり関わりのない─本社とのメールで何度かやり取りをした程度の─彼女との会話の糸口はなかなか見つからない。
駅まではまだ十五分はかかる。積極的に絡みたいわけではないけど、この沈黙に耐えられるとも思えない。
「─…今日、同級生の結婚式に招待されていたんです」
どうにか話題を探していると、ぽつり、夜に紛れてしまいそうな声は隣から。
一瞬理解が追い付かずに視線を向けても、彼女はまだ、空の真ん中に浮かべずにいる太った月を見つめている。
「え、それは帰ったほうがよかったんじゃ…」
「私も直前まで迷ってました。あの子のドレス姿を見て、きっぱり諦めたほうがいいんだろうなって」
カンカン、と警笛が静寂を切る。この踏切を越えれば駅だ。
先ほどの彼女の意図を読み解きたいのに、耳をつんざく警笛がそれを邪魔する。赤い明滅が彼女の横顔を悲しく照らす。
「…だけど、やっぱり無理だった。あの姿さえ見なければ、私の中のあの子はずっと、私だけのあの子だから」
電車が通り過ぎていく。彼女の口元がなにかを呟く。五文字。それだけは分かった、だけどそれだけ。
届かなかった音の行方を尋ねる暇も与えられず、こちらを向いた彼女がふ、と。なぜだか泣き出すような、笑みだった。
(その五文字を推測するのは、なぜだか憚られた)
2024.6.26
恋人の浮気に遭遇してしまった時、自分であれば嫉妬すると思っていた。こんなにも可憐な花がいながらどこぞと知れぬ花へ目移りした不届き者に怒りを覚えるのだろうと。けれど実際そういう事態に直面すると人は呆然としてしまうものなのだと、知りたくもない事実を学んだのはまさに今。
わたくしの遅い起床に小言を挟みながらも、カルロッタは毎回手の込んだブランチを用意してくれる。今だって、ふたり分の料理を並べ向かい合って座り、いつものように髪を束ねて──そうして覗いた首筋に咲く、赤い痕。わたくしが情熱に任せて残した痕じゃない。だってカルロッタとは一ヶ月ぶりの逢瀬で、昨夜はしたたかに酔いそのまま眠ってしまったんですもの。キスのひとつだってしてはいませんわ。
「いつもの食欲はどうしたの、グローリア」
手をつけないわたくしを不審そうに見つめる眸を直視していられなくて視線を下げた先、胸元に刻まれた鮮やかな赤に心臓が潰れる。誰と会ってらっしゃったの。わたくし以外の誰に肌を見せたんですの。浮かぶ詰問はひとつも形にならなくて、ただくちびるを噛みしめる。じわりと滲む鉄の味に、どうしようもなく泣き出したくなった。
ねえカルロッタ、自分がこんなに殊勝な女だったなんて、わたくし知りませんでしたわ。あなたが幸せなら身を引いてもいい、だなんて。
いくら待っても言葉を返さないわたくしの視線を追って、カルロッタが自身の胸元を見下ろす。あ、と上がる鋭い声。浮気相手に内緒でつけられたのかもしれない。だってカルロッタってば、わたくしが痕を残す時でさえあんなに、
「あなたねえ、見えるところにつけないでってあれほど…」
「………え? わたくし?」
呆れ交じりの文句が一瞬理解できなくてつい、間抜けな声が飛び出してしまった。
「あなた以外に誰がいるっていうのよ、まったく…。酔ったあなたってどうしてああも力が強いの、おかげで今日は起きるの大変だったんだから」
「お、お待ちになって。そんな甘い夜を、どうしてわたくしは覚えていませんの!」
「あれだけ酔ってたら、そりゃあ記憶のひとつやふたつ飛ぶでしょうね」
うなじに手を当てるカルロッタを前に、思わず机に突っ伏した。覚えてない。夜のお誘いも、キスをした回数も、おそらくきっと絶対にかわいかったであろう彼女の姿態もなにもかも、これっぽっちも思い出せなかった。
数分前の殊勝な気持ちはどこへやら、疑惑が晴れた今となってはうっかり飲みすぎてしまった自分と、そんなわたくしにだけ所有印を許すカルロッタに恨みを募らすばかり。
「そんなの、あんまりですわぁ…」
(だってあなた、もぐ、素面の時にはなかなか、んぐ、許してくれませんのに、あ、このパンおいしいですわ)
(泣くのか食べるのか恨み節を言うのかどれかになさい)
2024.7.10
神なんていない。少なくとも私の周りには。
「…昨日までは元気だったのに」
いつからそうしていただろう、しゃがみ込み身じろぎひとつしなかった娘の呟きが、潮騒にさらわれていく。
闇をそのまま切り取ったかのような猫だった。
凶兆だと見て見ぬふりをしていた町人の中で、私と彼女だけは彼をかわいがっていた。気ままにすり寄る毛並みを撫で、選り好みの激しい彼の好物をなんとか見つけ、日向で丸まる彼の隣に寝そべった。親の許可が下りたので明日には家に連れていけるはずだと彼女は笑っていた、とても嬉しそうに。
それが今朝、いつもの路地裏でひっそり息を絶やしていたのだ。
うちの庭に掘った穴へ、いまだ体温の残る彼を横たえる。祈るように、ともすれば懺悔でも捧げるように、彼女はまぶたを閉ざす。
「…きっと、」
ぽつり、言葉を発したのは無意識。
「きっと今ごろ、神様にかわいがられているわ」
神なんていない。もっとたくさんの愛を享受するはずだったいきものをこんなに早く連れ去ってしまったのだから。なにものにも慈愛を振り撒く彼女をこんなにも悲しみの淵に沈めているのだから。
気休めでしかない言葉に、ふ、と彼女が振り返る。
「…そうよね、きっと、そうだわ」
神なんていない。それでも笑みを繕う彼女を前にすると祈らずにはいられない。どうか彼女の悲しみが少しでも癒えますように、と。
(神よ、見ているならどうか)
2024.7.11