最近グローリアの様子がおかしい。  いいえ、その表現は語弊があるわね。けれど顔を合わせるたびに雰囲気の変わる彼女に相応しい言葉を、生憎と持ち合わせていなかった。  たとえば水底のようにきらきら光る眸に惹かれるようになった。淡く色付いた頬も、綺麗に巻かれた髪も、洗練されたファッションも、私を見つめるまなざしも。日ごとに焦点が合っていくような、そんな感覚。以前のグローリアだってもちろん付け入る隙がないほど美しい令嬢ではあったけれど、最近の変化は特に顕著だった。 「どうなさいましたの、人の顔をジロジロと」  スプーンに乗った生クリームが、真っ赤なくちびるにさらわれていく。 「もしかして、かわいいわたくしに見惚れていらして?」  ふわり、ご機嫌に笑うグローリアの言葉でようやく合点がいく。かわいい──そうよ、かわいくなったのよ、彼女は。甘い微笑みもとろける視線もやわらかな言葉尻もなにもかも、出会ったころの印象とまるで異なっていた。  いとおしさについゆるんでいく頬を見咎められたくなくて、目の前の紅へ手を伸ばす。それまで得意そうな表情を浮かべていたグローリアがきょとんと目を丸める。 「クリーム。口の端についてるわよ」 (果たして変化したのは彼女か、それとも私の心か) 2024.7.12
 茶器から立ちのぼる湯気をすんと吸いこみ、思わず頬がゆるむ。  紅茶の適切な淹れ方が分からず最初は苦戦したものだけれど、今となっては手慣れたものだ。  そろそろかしら。時計に視線を向けたと同時、ノックも無しに扉が開け放たれた。 「聞いてくださいまし、カルロッタ!」 「挨拶のひとつも覚えられないのかしら、あなたは」  当たった予想に弾む心を抑え、いつもの仏頂面をどうにか取り出す。憤慨した様子のグローリアは私の文句に聞く耳を持たず、我が物顔でソファへと腰を下ろした。仕方ないふうを装うのもいつもどおり。淹れたての紅茶と今朝焼き上げたお菓子を差し入れる。  弾丸のように喋り始めた彼女曰く、クライアントから求婚されたのだとか。自身の腕に惚れ込んだのならまだしも、容姿しか見ていないその男はぜひとも家庭に入ってほしいと抜かしたのだという。  怒りのまま言葉を継ぎ、呼吸の合間に紅茶を飲んだグローリアが、あら、と目を丸める。 「おいしいですわ。茶葉はどこのものを使われてますの?」 「うちで採れたやつを適当に使っただけよ」  用意していた返答に、ふ、と彼女が微笑む。まるで花が開くように可憐な微笑みは、怒りもなにもかも忘れてしまったように見えた。  紅茶をもうひと口。はふ、と息をつく。 「あなたみたいな人に想われたら素敵ですのに」  この鈍感。毒づきながらも何食わぬ顔でカップを取った。 (全部あなたのためだけ、なんて言ってやらない) 2024.7.13
 綺麗な人だな──ありきたりだけど、素直にそう思った。  淡い藤色の浴衣をまとうその女性は、カップビール片手にレンガ塀へ腰かけ、道行く人を楽しそうに眺めている。  人待ちの気配はない。それじゃあひとりでこのビールフェスに来たんだろうか。わざわざ浴衣を着て。  見ず知らずの女性への勝手な憶測を広げているところへ、ふ、と彼女が首をめぐらせたものだからつい視線が重なってしまった。  ぱちり、またたいたその人が、やがておもちゃを見つけた子供みたいな笑顔で手招きをする。  思わず周囲を見て、また視線を戻して。あなたよ、あなた。そう言わんばかりに指を差された。  疑問符を浮かべながら、数メートルの距離を縮める。 「あなたはビール飲まないの?」  開口一番、初対面時には決して聞かないであろう言葉を向ける女性にはあ、と答える。 「炭酸が苦手なもので」 「じゃあこれあげる。いい感じに炭酸抜けてるよ」  先ほどまで口にしていたであろうカップビールを差し出されて、さすがに驚いた。  見知らぬ浴衣美人は、私の反応を楽しむようにからからと笑った。 (あなたと夏のはじまりに) 2024.7.23
 バドワイザー、ハイネケン、黒ラベル。みんな違ってみんないい。 「はい、没収」 「なんでよぉ、まだ三杯しか飲んでないのに」  口をつけようとした矢先、カップビールが奪われていく。  私が飲むはずだったビールが、代わりに彼女の喉を潤していく。なんていい飲みっぷり。お酒が奪われなければもっとよかったのに。 「だってあなた、もう顔まっかっかじゃないですか。そんな人にお酒飲ませられません」  伸びてきた指先が襟から忍び込み、そっと鎖骨に触れる。 「気持ちいい…ひんやりしてるね、指」 「いや、あなたが熱いだけですからね」 「むう。言葉まで冷たいなあ。せっかくのフェスだっていうのに」 「せっかくのフェスで倒れたら元も子もありませんよ」  この子の言うことももっともだけど、もっとアルコールを入れて盛り上がりたいという気持ちのほうが勝っていた。  だってこのフェスは、この子と出会ったお祭りだから。  あの時も飲めなくなったビールを持て余して人間観察をしていた。視線を感じて振り返った先、目が合ったその子の狼狽えようったら。かわいくてつい呼び寄せちゃった縁が、まさか一年続くだなんて。 「そういえばまだ感想聞いてないんだけど」  ぴら、と浴衣を広げてみせる。あの日と同じ藤色の浴衣。  途端に真っ赤になった彼女が、自分のビールまで飲み干した。お酒のせいにしたいんだろうけど、順番が逆だよ。一年前と変わらずかわいい女の子に笑みがやまない。 「─…綺麗です、とっても」 (君と夏のはじまりに) 2024.7.23
 意外と目の色が薄いんだよね、この子。 「で。さっきからなんで見つめてきてんの」 「その柄、面白いなあと思って」  ひとしきり眺めてた同居人はふっと口角を持ち上げる。  どこぞのお土産だと言って渡された歌舞伎柄のフェイスパックを早速使ってみたっていうのに笑うなんて、一体どういう了見なのよ。  いまだに顔を覗き込んでくる相手の頬を掴み、そのままくちびるへ一直線。わざと音を立ててみせれば、一瞬呆気にとられたその子が、やがて渋面を作った。 「苦いんですけど」 「だってキスしてほしいのかと思って」  ふてくされた風を装ってるけど、赤く染まってる頬に気付いてないのかな。  くすくす笑う隈取り顔の私を、じとり、色素の薄い眸が睥睨する。 「…それ、早く取ってくださいよ」 「そんなこと言ったって、まだ五分しか経ってないよ。せっかくのお土産を無駄遣いするわけにはいかないし」  白を切る私に焦れた指が隈取りを剥ぎ取り、その勢いのままくちびるを奪い去った。 (仕方がないから君が潤してよ) 2024.8.26
「なぁに、もしかして骨フェチ?」  からかうように降った声に顔を上げる。悪戯に緩んだくちびるがすぐ目の前に現れて、知らず心臓が跳ねた。肩越しに振り向いたそのひとがふ、と吐息をこぼす。 「だってさっきからそこばかり」 「…ほくろがあるんです、ひとつだけ」  今しがたくちびるで愛でていた肩甲骨を、今度は人差し指でやわく押す。  まっさらでシミひとつない彼女の背中に、けれどぽつりとひとりきり、右の肩甲骨の真上に散っていた。まるで誰かの忘れ形見みたいなそれが、なぜだかいとおしくて仕方がない。 「前世にもあなたみたいな子がいたのかしらね」 「前世?」 「聞いたことない? ほくろは前世でキスされた跡だって。きっとあなたに似た物好きに愛されていたのね」  どこか嬉しそうな声色が面白くなかった。自分以外の誰かがここを慈しんでいる光景を想像してしまいじりじりと胃の腑が焼けるようだった。  じゅ、と。わざと音を立てて肌に吸い付く。紅の剥がれたくちびるがなお艶やかに弧をえがく。 「来世の私はほくろでいっぱいになりそうね」 (前世も来世も今生も、わたしだけに愛されてほしい) 2024.8.31
 血の気が音を立てて引いた、なんて比喩をこんな場面で体感したくなかった。  芸術もかくやというほど綺麗に浮き出た姉の鎖骨に咲く紅。あんなところ、虫に食われるはずがない。姉は気付いていないのかはたまた気に留めていないのか、お寝坊さんね、と私に笑いかけながら朝食の支度に取り掛かる。まったくいつも通りの姉に対して妹は、落ち着かない様子で姉を窺っては慌てて視線を逸らしていた。  どうして勘付かないでいられようか──姉と妹は、遂に一線を越えてしまったのだ。  痛む頭を抱えつつ椅子を引く。大仰に震えた妹が、ようやく私の起床に気付いたように恐る恐る振り返る。こういう時、どんな言葉をかけるのが正解だろうか。怒るべきか、祝福するべきか。迷った末に口を開いて、 「ごめんなさい! お姉さまのこと、寝ぼけて?んじゃったの!」  ぱん、と両手を合わせ頭を下げる妹の謝罪に理解が追い付かない。姉はといえば手を止めることなく、これ見よがしにため息をついてみせた。 「食いちぎられるかと思ったわ、まったく…。一体どんな夢を見てたんだか」 「そろそろ許してちょうだいよぉ、お姉さま」  ひたすら許しを請う妹の背中に、深い深いため息を投げつける。そんなことだろうと思っていたわとさも言わんばかりの顔で。 (おいしいお魚を食べる夢を見てたの) (魚臭いって言いたいのかしら) (お姉様ならきっと高級魚になれるわ) (フォローになってないのよ) 2024.9.12
 照明を透かす髪のやわらかな感触が手のひらをつたう。  違うんだ、と慌てて言い募る。隣に腰かける彼女の髪飾りが少しばかりずれていたから直そうとしただけ、手を伸ばしたのと同じタイミングで彼女が振り返ってしまったものだから手元が狂って前髪を撫でる格好になってしまっただけ──ああもう、いくら弁明しても言い訳にしか聞こえない。  当のその人はといえば、藍玉色の眸をぱちりとまたたかせていた。いつも飄々としている彼女のこんな表情も珍しい。  けれどそれもほんの一瞬。に、とくちびるが満足そうに弧をえがいたかと思えば、処遇を決めかねて額に添えたままだった手をぐいと引かれた。 「この髪をセットするのにとても時間がかかったのよぉ」  口調はまるで悪戯をした子供に言い聞かせるそれ。  それならば早く解放したらいいものを、手首を捕らえた指は意外と強い力で退路を断ってきていた。 「もし乱したら、責任を取って直してちょうだいね」 「…私が元に戻せるとでも」 「だから気を付けてちょうだいと言っているのよ」  手先の不器用さを嫌というほど知っているだろうにこの人は、挑発するように笑ってみせるのだ。  深いため息をひとつ、乱れてしまわないようそっと髪を梳く。 「あらあら。責任、取ってくれるのね」  白々しく言ってのけた彼女の、けれど言外ににじんだ喜色にそれ以上反論も出来ない私はただ指先にのみ神経を集中させた。 (夜街にて) 2024.9.13
 スピーカーの向こうからその声が届くのは随分と久しぶりのことだった。 『もうっ、家事ばっかりで嫌になっちゃう』  ちらと時計を見やる。頂点を大分過ぎていた。ようやく子供を寝かしつけ、夫も眠った時間帯なんだろう。容易に浮かんだ予想にじくりと胸が痛みを覚える。  電話越しに鳴り響く救急車のサイレン。彼女の架電はいつも非常階段から。いくら敷地内とはいえこんな深夜に出歩かないでほしいという心配と、話し相手に選んでくれたことへの喜びが相克して結局、両方飲み下した。 「どうせまたフライパン後回しにしてるんでしょ」 『どうして分かったの』 「あなたのことならなんでも」  よく知ってるねえ、とからかうように笑うその人はきっと、わたしとの会話なんて記憶にないんだろう。彼女の言葉は一言一句覚えている、忘れたことなんてない、頭を占めるのはいつだって彼女のことなのに、その半分だって彼女には届かない。 「フライパンくらいわたしが洗ってあげますよ」 『んふふ、きみはすぐ洗ってそうだね』  スマホを押し当てたままベランダに出る。吹きすさんだ風に思わず身体を震わせる。こんな空気に晒されて風邪を引かないだろうか。呑み込んだはずの心配が頭をもたげた。  ふ、と。ふいに洩れた吐息が耳をくすぐる。 『きみと暮らせたらいいのに』  ──ほんの少しだけ、想像してしまった。狭いキッチンで肩を寄せるふたりを。小言を向けつつフライパンを洗うわたしを。嬉しそうにわたしの手元を覗き込む彼女を。 「…フライパン洗いたくないだけのくせに」 『…そうだね、そうかも』 「早く戻って片付けて、たまにはゆっくり寝てください」  わたしの忠言に、けれど彼女は曖昧に笑う。遠くではまだ、救急車のサイレンが響いていた。 (おやすみなさいが言えなくて) 2024.9.17
 これほど目覚めたくないと思った朝ははじめて。 「………なーんだ、夢かぁ…」  寝覚め一番、ため息をつく。  ううん、夢を見てる時からきっとこれは夢なんだろうなって薄々分かってた。だって恋人いない歴イコール年齢のわたしに恋人がいて、しかもお相手はあの社内の高嶺の花。玉砕した同僚は数知れず、その美貌に反して浮いた噂はひとつもないその人が、わたしの腕を取り笑ってた。  いつもクールな表情のあの人の笑顔なんて見たことあったかな、いや一回だけあるかな。  いつかのお昼休み、会社近くの公園で猫に笑いかけてた。にゃーにゃーと話しかけるみたいに鳴きまねをしてる姿がかわいくてしばらく眺めてたら、やがてこちらに気付いたその人が頬を染めて、誰にも言わないでください、と足早に去っていったんだ。  あの時の彼女、かわいかったなぁ。そんな人と付き合える夢を、もう少しくらい見させてくれてもよかったのに。  のろのろとパジャマを脱ぎながら夢に浸っているところで、だけどはたと思い至る。 「…え。もしかしてわたし、あの人のこと」 (誰も知らない恋のはじまり) 2024.9.17