今日の天気は雪、もしくは吹雪かもしれない。
「あのー…姉さん? どうして固まってるの?」
だってアナが、ねぼすけな妹が、私よりも先に朝食の席に着いているだなんて。
毎朝七時にそろって朝ごはんを食べること。これはアナが決めたことだった。放っておくと食べ物を口にしない私を見かねたのだろうか、それとも単に私と過ごす時間を少しでも増やそうとしているのだろうか。
けれども朝に弱い妹が早起きできるはずもなく。十五分待っても現れない日は─つまり毎日─アナを起こしに行き、あっちこっち髪を跳ねさせた妹と笑いながら朝食を共にする、これが最近の常だったのに。
「ちょっとつねってくれないかしら、アナ」
「夢じゃないわよ、エルサ」
言われずとも分かっている、けれどなぜだか受け入れがたく思っている自分がいた。手のかかる子ね、と苦笑しながらも、妹の世話を焼けることがなによりも嬉しかったから。
ゴホン、と。わざとらしい咳払いに顔を上げる。
「今日はたまたま起きれたけど、毎朝続ける自信ないなあ」
顔を見合わせ、それからくすくす笑い合う。きっと半分は本音、半分はこの子の優しさ。
「もう。手のかかる子ね」
(もう少しお姉ちゃんでいさせて)
2024.11.20
「ねえアナ、最近思うのだけれど、」
改まった口調に思わず肩が震えた。まさかついに気付かれちゃったのかしら。ううん、そんなはずない。内心首を振りつつ、何事もなかった風を装い羊肉を切り分ける。
「姉さん、って。呼んでくれないのね」
窺うような、だけど確信に満ちた言葉の前で、あたしのカモフラージュは一瞬で崩れ去ってしまった。
往生際の悪いあたしはそれでもナイフを引くことに集中してるフリをする。なによこの羊肉、全然切れないじゃない。
「そう? 気のせいじゃない?」
「最後に呼んでくれたの、もう二ヶ月も前よ」
もう、こういうときのエルサってなんでこう勘が鋭いのかしら。
ちらと視線を上げれば、対面のその人はナイフとフォークを置いてじっとこちらを見つめてた。あたしの寝坊グセやイタズラや大抵のことは見逃してくれる姉も、どうやら今ばかりは言い逃れを許してくれないみたい。
ため息をひとつ。これは隠し通せなかった自分自身への。
「…だって子供みたいだから」
「…え?」
「姉さんって呼び方。姉上とか女王陛下とか、もっと上品に呼べればよかったんだけど、急に変えたらおかしいでしょ? だからその、少しずつ変えようかなぁって思ってて…」
語尾と一緒に視線も下がる。切り損ねた羊肉まで呆れてるみたい。
わかってる、その理由が一番子供っぽいって。だけどあたしはどうにかして大人になりたかった。一刻の女王である姉に相応しい妹になれるようにと模索した結果がこれだった。
「嫌よ」
しばらくして向けられたのはきっぱりとした拒絶。
恐る恐る顔を上げれば、言葉に反してやわらかい笑みがそこにあった。仕方のない子ねって、いつだってあたしを許してくれた、姉の微笑み。
「そう呼んでくれるのは、呼べるのは、世界で唯一あなただけなのよ、アナ。だから聞けなくなるのはさみしいわ」
ああもう、そんな目で見つめるの反則。せっかく二ヶ月頑張ったのに、エルサのせいにして止めてもいいなんて。どこまでも優しいこの人は、五歳で成長が止まったあたしごと受け止めてくれようとする。
息をひとつ、少しだけのどが震える。
「その言い方はずるいわよ、─…姉さん」
「ふふ。そうね、もう少しずるい姉でいさせてちょうだい」
(だけどあなたのずるさにあたしはいつも救われてるの)
2024.12.18
朝顔さんの朝は早い。
朝顔さんというのは僕のお隣さんであり、もちろん本名ではない。
今どき一人暮らしのアパート住民は表札を出さないし、なんなら部屋番号だって書いてない。引っ越しの挨拶に行ったことがないどころか、階段で鉢合わせしそうになったらわざと遠回りする始末。現代のご近所付き合いなんてこんなものだ。
そんなお隣さんは、ベランダで朝顔を育てている。小さな鉢植えに支柱が立っている光景は、小学生の夏休み研究を思い起こさせる。
毎朝5時15分。カララ、とベランダへ出る朝顔さんは、毎朝欠かさず水をやる。
朝顔さんが部屋へ戻ったのを見計らい、交代するようにベランダへ出て、日に日に太陽に近づく植物の成長を見るのがいつしか僕の日課となっていた。
サンダルが遠ざかる足音を聞き付け十秒、音を立てないよう網戸を開け、ベランダの柵に寄りかかる。
支柱にツルを巻き付けた彼らはもうすぐベランダの高さを追い越そうとしていた。それだけ夏に近付いているのかと、着実に早くなっている日の出を前に欠伸する。
「──あ。朝型くんだ」
ふわあ、とのぼった三度目の欠伸は、陽気な声を前に引っ込んだ。
慌てて声をたどれば、右隣のベランダに同じく柵にもたれた女性がひとり。
「あ、朝型くん…?」
「そ。いつも朝早いから、朝型くん」
オウム返ししかできない僕を面白がるように、夏の日差しみたいに爽やかに朝顔さんが笑った。
(はじめまして、お隣さん)
2025.1.9
おはよー、あんたいつも一番乗りだね。
また朝マック食べてんの?
毎朝よく飽きないねぇ…。
あたしはその匂いだけでおなかいっぱいだよ…。
こら。食べながら喋んないの。
え?朝マックはバンズだけでも三種類あるから飽きがこないって?
ふわふわバンズのベーコンエッグマックサンドに、
もっちりとしたイングリッシュマフィン、
それに甘みと塩味の相性がクセになるマックグリドル…?
その話聞くと確かにおいしそ…
ってちょ、ちょっと!近いってばなになに!?
ひと口どうですか、って…
あんた、今朝はマックグリドルのソーセージエッグでしょ。
分かるよ、だってすごい甘い匂いするし。
あたしその甘さは苦手なんだよねぇ。
もうっ、分かりやすくシュンとしないでよ、ごめんってば。
ほら。さっさとちょうだい。
マックグリドルじゃなくて、こっち。
ごちそうさま、…やっぱり甘いね。
(例の朝マック台本)
2025.1.21
たとえばの話をしましょうか。
たとえばこの指に力をこめ続けたとして、こんなにか細い喉だもの、五分もすればあなたの息は止まるでしょうね。
一体なんて報道されるのかしら。痴情のもつれによる衝動的な殺人?それとも無理心中?それはあなたを手に掛けた後の私の行動に依るんでしょうけれど。
私としては無理心中のほうがいいわね。ねえ、そのほうが愛があると思わない?今生では結ばれないからせめて来世でと願った女が、誰よりも愛した女の子を道連れにするの。死さえも私たちを分かつことはできない。むしろ死ぬことで、私たちはようやく、誰にも邪魔をされることなく一緒になれるのよ。
ねえ、素敵だと思わない?
「離婚する度胸もないあなたがそんなこと、できるわけない」
あら、離婚するよりも簡単よ。だってその後のことを考えなくていいんだもの。
そんなに眉を寄せて…難しく考えないでちょうだい。それとも苦しくなってきた?私の手のひらの熱、ちゃんと感じてる?
たとえ話でこんなに興奮しているのよ、私。あなたと一緒になれるかもしれないって、そう思うだけで私、こんなにも昂ってるの、ねえ、もういいでしょう?あなたのこと愛してるの、愛しすぎてしまったの、こうするしか道がないの、あなたを手離すことも今の生活を壊すこともできない私に残されているのはもうこれしかないの、だから、
「一つだけ間違ってるわ、─…無理心中じゃなくて、心中よ」
(ひとりよがりでずるいあなたの思い通りになんてさせてやらない)
2025.1.27
後悔はしていません。
恨んでいました。憎んでさえいました。みずから関係を切ろうとしないあの人を、わたしにばかり選択を委ねようとする彼女を、なのに手放すつもりもなかったあの女を。
お互いにナイフを持った瞬間は確かに心中を図るつもりでした。だけど思ったんです、このまま死んでも同じ墓に入れるわけでもないことに。一緒になれないからと情死しても、わたしたちが交わした言葉も時間も感情もなにも残らないんだって、無かったことになってしまうんだって、気付いてしまったんです。
だから、──だから、殺してほしかったのに。
あの人の中に残っていたかった、消えない罪として刻まれたかった。そうすればあの人は一生涯わたしを忘れることはないから、わたしだけを背負ってこの先を生きてくれるから。
それなのに、…どうして、どうしてあの人はナイフを下ろしたんでしょうか。あの人の引きつった笑みも震える指先も段々と冷たくなっていく身体もなにもかも焼き付いてしまいました。名前を呼ぶ掠れた声が耳にこびりついて離れません。今もほら、聞こえるでしょ?
後悔はしていません、ええ、最初に申し上げたとおり。
恨んでいました。憎んでさえいました。けれど愛していました、どうしようもなく。弱くて卑怯で身勝手なあの人のわがままを許してあげられるのは世界中でただひとりわたしだけだから。あの人が他の誰でもなく唯一わたしに委ねてくれたから。
ああ、だけど本当に…最期まで、ずるいひと。
(被告人の最終陳述より)
2025.1.29
「先生。卒業したくないんです、私」
困らせてしまうだろうという予感はあった、むしろ困らせてしまいたかった。
果たして研究室の主は形の良い眉をほんの少し顰め、どうして、と問うように小首を傾げた。模範生が─自分で言うのもなんだけど─卒論の提出締切十五分前になっても原稿を渡そうとせず駄々をこね始めたのだ、誰だってそんな反応になる。
沈黙の落ちる研究室に、ふわり、レモンの甘やかな香りが広がっていく。
ここに足を運ぶたびに贈っている紅茶を、いつしか私が顔を覗かせるごとに淹れてくれるようになった。誰かのお土産だというお菓子をつまみながら評論するのが好きだった。口下手な私の話に耳を傾けてくれる先生のやわらかな視線が好きだった。先生とふたりきりのこの空気が大好きだった。
この論文を手渡せば、そのすべてを手離さなければならない。
「…それならもう一年、ここにいる?」
湯気を見つめてどれだけの時間が経っただろう。
甘美な提案に顔を上げて──私を見つめる表情は、寂しそうにも、諦めているようにも見えて、思わず返事に詰まってしまう。それはまるで最初から私がその手を掴み取らないことを悟っているような、そんな悲しい微笑だった。
「…卒業してもここへ来ていいのよ。いつでも歓迎するわ」
握りしめていたファイルが優しく奪い去られていく。その行先をただ見つめることしかできない私の対面で、教授がふ、と目尻を緩める。まるで私ではない誰かを透かし見るみたいに。私みたいな生徒をきっと何人も、何十人も見送ってきたのだろう。
「─…そうじゃないんです。そういうことじゃないんです、先生」
力無い声が届いたかどうか分からない。
カップに口を付けたその人は、やっぱりおいしい、と小さく呟いた。
(あなたを人生の通過点になんかしたくないのに、)
2025.1.30
浴室から出た時には、彼女はすっかり身支度を整えていた。
「あら。もう少しゆっくりシャワー浴びてきてもよかったのに」
左耳のピアスをつけながら、鏡の向こうの住人が苦笑する。さっきまで交わしていたはずの汗の片鱗さえ窺えない。もう片方のピアスをつけてしまえば、部屋に入った時とそっくりそのままの出で立ちとなるだろう。
背中からぎゅうと抱きしめる。首筋に顔をうずめ、息をひとつ。馴染んだ香水が鼻先を掠める。あれだけ肌を重ねたというのに、私の名残はなにひとつ移ってはいなかった。
「風邪引いちゃうわよ。早く乾かしなさいな」
ぽたり、毛先から滑り落ちた雫がセーターを濡らす。きっと困ったように眉を寄せているであろうことは、鏡を見ずとも明らかだ。数ヶ月に一度、たった数時間の逢瀬で、ふたりで湯船に浸かることも許されないのだ。このくらいの駄々は大目に見てほしい。首をもたげかけた罪悪感を、口に出せないわがままで覆っていく。
「…今度はお外でデート、しましょうか」
おなかに回した手の甲をやわらかくなぞっていた彼女が、やがてぽつりとそうこぼす。
「恩賜公園で今度イベントがあるそうなの。美術館を回ったあとに食べ歩きするのもきっと楽しいわ、ね?」
傾げた首が、私の頭にそっとふれる。別に好き好んでホテルへ直行しているわけではないことを、彼女もきっと知っているはずなのに。人目を憚り手を繋ごうとさえしないのは彼女の方だというのに。この人はいつも、叶いもしないいつかの約束を持ち掛ける。
「…台湾ビール、飲みたいです」
「いいわね、わたしもご相伴にあずかろうかしら」
きゅ、と指を握り込まれる。安堵のにじむ声にそっと息をひとつ。結局は私も、彼女の夢物語に縋るしかなかった。先の見えない関係を終わらせないために、ありもしない未来を夢想するしか術を知らなかった。
閉じ込めていた身体を解放する。途端に熱を恋しがる自分が恨めしい。鏡の向こう側で眉尻を下げるその人はきっと、こちらの苦悩なんてなにひとつ察してくれないだろう。これまでも、これから先も。
洗面台に伸びる腕を遮り、さみしそうに転がるピアスを拾い上げた。片割れの持ち主がふ、と口角を緩める。いつかの誕生日に一緒に選んだことを果たしてこの人は覚えているのだろうか、尋ねたことはない。
かき上げられた髪から覗く右耳に口づけをひとつ。せめてこの熱だけは残りますようにと詮無い祈りを込めながら、きゅ、とピアスを握りしめた。
(二時間だけの逃避行)
2025.2.1
あ、もしもし?
うん、今ちょうどスタジオ出たとこ。
そう?今日はまだ短いほうだよ、だって5時間こもってた日もあるし。
大丈夫だってば。まだ人通り多いよ。
…人が多いから心配ぃ?
まーったく、君は心配性だなぁ。
こんなデカい女を襲う人間がいるんなら、逆に教えてほしいくらいよ。
…あー、ごめんごめん。
心配してくれてるのは分かってるから。
気を付けて帰るよ。うん、ありがと。
…んん〜、さむぅ…。今日風強すぎない…?
だーって、室内は暑いと思ったんだもん…汗かくのやだし…。
…あのねぇ、飛ばされるわけないじゃん。
もしかして私のこと妖精だとでも思ってる?
あーはいはいありがとよぉく分かりました。
…ん、分かってるよ。もうちょっとだけ待っててね。
…うん、私も。あいしてる。
(寒風吹きすさぶ夜に)
2025.2.21
玄関から届いた開錠音に、ぱちりとまどろみが弾かれた。
スリッパを引っかけ慌てて廊下に出るのと、同居人が左足のブーツを落とすのはほぼ同時だった。ごとり、重厚感のある音が潰れる。重りでも入っているのだろうか。
「ただいまぁ。…あ、さては起きたてほやほやだな。先に寝ててよかったのに」
頭一個分ほど上方にある彼女の口角がにやりと緩む。
平均よりも上背のあるこの人は、けれどヒールの高い靴を好んで履く。そんなに背が高いのにまだ高みを目指すのかと尋ねれば、だってカツカツ鳴らして歩くのかっこいいじゃん、となんとも子供みたいに宣うのだ。格好いいんだか可愛いんだか分からない。
しかしソファで少しうとうとしていただけなのに、どうして眠気を悟られたんだろう。見上げる私の疑問を汲むように、ようやく右足も地につけた彼女が頬を指す。
「よだれ。ついてるよ」
「うそっ」
「うーそ。わっ、タイミングいいねぇ、ありがと!」
廊下の途中にある浴室から給湯完了の報せが流れた。少しノイズがかった女性の声。きっとこの人が充てたほうがずっと聞き取りやすいだろうに、とお風呂を溜めるたびに考えてしまうのはもはや仕方のないことだった。なにせ彼女はすこぶる声がいい。
声優業に従事している彼女は、胸の隙間にすっと入り込むような透明感のある、それでいて余韻を感じる声を持っている。思わず身を委ねてしまいたくなるその声が、この世界のどんな音よりも好きだった。などと気恥ずかしい感想を、脱衣所に消えたその人に伝えたことはないけれど。
「ね、お風呂まだなんでしょ? 一緒に入ろうよ。今日はなにがいい?」
「んー…、ラベンダーかなぁ」
ぽちゃん、と波立つ音がかすかに届く。続いて脱衣所に入り、スウェットの裾に指をかけて、そうだ明日は久しぶりにふたりの休日が被るから、だからまだ眠りたくなくて──子供の駄々みたいな感情がぐるぐる巡る頭に、ちゅ、とくちびるが降ってくる。
「お風呂に浸かってベッドでぎゅうってして、明日はふたりで朝寝坊しちゃおうよ」
やわらかな誘いが耳に心地良い。彼女の声には不思議な説得力がある。この人が言うなら、と妙に納得してしまうのだ。そうしていまゆるりと眠気を手繰り寄せている私も、彼女の魅力的な提案に気付けばこくりと頷いていた。
「ん。じゃあコート置いてくるから先入ってて。まだ寝ちゃだめだよ」
いつもより甘い声。子供に言い含めるような口調に少しばかり抵抗したくて、背伸びついでに口付ける。またたいたその人は、かわいいなぁ、と目を細めて笑った。
(あなたと朝寝がしてみたい)
2025.2.21