段々とはっきりしてきた頭が真っ先に考えたのは、さてどうやって起きようかということだった。
覚醒したのは少し前のこと。眠りを誘うやわらかなぬくもりと感触にまだ身を委ねていたいと一度は夢へ帰還して──しかしそれが枕でもソファでもないことに思い至り、急いで意識を引き上げた。
頭上から聞き慣れた一節がこぼれ落ちてくる。この子守唄を口ずさむ女性などただのひとりしか思いつかない。角度的に恐らく膝枕をされているのだろう。細い指が前髪をさらっていく。気恥ずかしい状況を打破する道はただ一つ、狸寝入りを続けるのみだ。
「─…私の膝よりも、ベッドでお休みになられた方が良いかと思いますわ」
「………いつから気付いてたんだ、イェレナ」
子守唄がやみ、代わりに控えめな笑い声が降ってきた。観念して目を開ければ、存外至近距離から覗き込んできていた翡翠色とかち合い思わず息を呑んだ。目敏くも動揺を悟ったその人が、今度は困ったように笑う。
「どうやって起きたものかと、しかめっ面をされていたところからでしょうか」
前髪から離れた指が去り際、眉間をやわく揉んでいく。つまりは最初からこの猿芝居は見通されていたらしい。
「それなら早く声をかけてくれれば…」
「だって起きてしまったら、あなたはまた仕事へ駆り出されてしまうでしょう?」
彼女の言うとおり、業務は山積みだ。ここ数日立て続けに発生している襲撃事件は何一つ解決の糸口を掴めていない。居眠りしている暇なんか無いというのに。
だというのに枕の主は、手のひらでこちらの視界を覆い隠す。まるで夢の続きへ誘うように。
「寝不足では、せっかくの明晰な頭脳も鈍ってしまいますわ」
歌うように、誑かすように。耳に落ちた言葉がするり、意識を底へと引っ張っていく。異能力でも使っているかのようなそれに抗う力が果たして己のまぶたに残っているのか。答えは明白だった。
「きっとあと数十分もすればあなたの副官さんがやって来るでしょうから、それまではどうか、ゆっくりお休みくださいな」
「…でもイェレナ、あなたは…体勢が…」
「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですわ」
言葉が、意識が、ほどけていく。ぼやけた翡翠色がふ、と笑みの形に細められる。
「─…おやすみなさい、私のいとしい子」
(愛し子に束の間のまどろみを)
2025.3.5
後悔したところで、音になった言葉は帰ってこない。せめて聞こえていませんようになんて願いも空しく、ドアノブを握ったまま振り返ったグローリアは数回またたいた。
「…え、ええと、そう、うちの温室で採れる野菜は絶品なの。都会じゃあきっと滅多に食べられないわね。それに自慢じゃないけれど私、料理の腕もなかなかなのよ」
明らかに喋りすぎだ。これではみずから動揺しているのだと白状しているようなものなのに、よく回る口を止められない。
苦しい言い訳にじっくりと耳を傾けたグローリアは、それでもなお私の言葉を待つ。思わず自身の手を握りしめる。いつになく汗ばんだそれを自覚しつつ、覚悟を決めた。
「…だから、その。─…朝食でもどうかしら、一緒に」
数瞬の間を置いてゆっくりと広がっていく笑みを前に、自身の敗北を悟る。
「それはつまり、泊まってもいいということですのね」
「そうは言ってないわ」
「まあ。わたくしに野宿しろとおっしゃるのね」
どうやらこの子は、一から十まで言葉にさせなければ気が済まないらしい。
「遭難なんかされたら面倒だわ。…仕方がないからここにいてもいいわよ」
かわいくない誘い文句に、それでもグローリアは心底嬉しそうに笑った。
(ええと、寝間着とタオルと…)
(すべて用意してまいりましたの。お気遣いは無用ですわ)
(なんでそう準備がいいのよ)
2025.3.6
まるで芸術のようだった。
枕に散らばる金糸の髪。眸を隠す細かなまつげ。彫刻のように澄んだ肌。ともすれば生の気配を感じない部屋の主に近付く。かすかに上下する胸元に、知らず安堵した。
「起きてください、イリナ。もう正午近くですよ」
声をかけても目覚める様子はない。恐らく昨夜のパーティーで飲み過ぎてしまったのだろう。彼女にしては珍しい。大方ジナイーダに言い負かされでもしたのか。
腰かけたベッドが文句を垂れる。眠り姫が寝息を絶やさないのをいいことにそっと頬に触れてみた。眠っているからだろうか、常よりも高い体温が手のひらをつたう。
少女のように穏やかな姿を永遠に留めておけたら、と。願いを口にしたことはない。
どれだけそうしていただろうか、ふ、と。まどろんだ眸が顔を覗かせた。
「あ、と。ポポーヴィッチが心配していたので、それで、」
突然のことについ言い訳が口を突く。まだ覚醒しきっていないのだろう彼女は緩慢な仕草でまばたきをひとつ、ふたつ、不意に僕の腕を取り、ぎゅうと胸にかき抱いた。
「ごめんなさい…もう少し…」
言葉が曖昧にほどけていく。肌に当たる寝息に、やれやれ、とわざとらしく呟いても、忙しない鼓動は治まってくれそうになかった。
(祈りごと夢にとかせたら、)
2025.3.6
扉をくぐった途端、もはや慣れ親しんだ香の匂いに包まれた。身体を優しく抱き留められるかのような安堵感に思わず深く息をつく。
「あら、ようやく会いに来てくださったんですね、局長さん」
カウチでくつろいでいた部屋の主がゆったりとした調子で笑った。
今回は長期の滞在のようだった。ディスを訪れるたび律儀に提出される研究報告書に、FACや外邦事務局もようやく警戒を解きつつあるようだ。今回の一ヶ月のフィールドワークも、特に厳しい制約も無く受け入れられたらしい。
本来なら彼女を出迎える予定だったが、急を要する案件で結局夜の訪問と相成った。
東州風に飾られたこの部屋は、もはや彼女専用の客室となりつつある。そんな室内にすっかり馴染んだ杜若は相変わらず読めない笑みを浮かべたまま。
「やっと私に会えたんですよ、もっと喜んでください」
「あなたこそ、本当は私に会いたくて来たんじゃないのか」
「そうですよ」
打ち返した皮肉になんとまっすぐなボールが返ってきて思わず目を瞠った。うっすら眸を覗かせた彼女は、新緑色の眸に私をとかしこむ。
「あなたに会いたかったんです、たまらなく」
(嘘か真か方便か、あるいは天変地異の前触れか)
2025.3.6
屋外エリアのベンチで空を見上げるその人は、もはや見慣れた先客だった。
「こんばんは、局長さん。今夜も残業ですか?」
視線を落としたイェレナの声は、まるで夜風にとけていきそうなほど密やかだ。だというのにきちんと鼓膜へ届くそれに、答える代わりに肩を竦めてみせる。
密会と呼べるほど甘やかなものではない。ただ先日偶然にも鉢合わせたのをきっかけに、恐らく私の仕事が終わるまでここで待ってくれるようになり、そうして私も彼女と言葉を交わしたくて足を運ぶようになってしまった、それだけだった。
特段話題があるわけでも、約束をしているわけでもなかった。彼女の故郷にまつわる話だとか、遠征先で出会った人々の話だとか、好きな本の一節だとか。とりたてて話の種がなければ人差し指で夜空をなぞりながらあれはなんという星だろうかと私が尋ね、手を重ね顔を寄せ同じ道筋をたどるイェレナが教師のように優しく答えを教えてくれる、そんな夜をもう何度も重ねていた。
あるいは癒やしを求めているのかもしれない。仕事尽くしで気の休まる暇のない心が無意識に彼女を欲し、ここへ来てしまうのかもしれない。局長に就任してから─つまりこの記憶の始点から─誰かに寄りかかることなく駆けてきたはずなのに。すべてを受け止めてくれる包容力を、赦しを与えてくれる慈愛を求めてしまっていた。
隣に腰を下ろすのと同時、右肩にストールがかけられた。視線を向けた先で、隣人が悪戯に微笑む。ストールの片端はイェレナの左肩へ。一枚の防寒着をふたりで分け合う形になっていた。私にばかり気を遣っていたらあなたが風邪を引いてしまうじゃないか、と以前進言したことを守ってくれたのだろう。
琥珀色の眸がじ、と私をとかしこむ。底の窺えない琥珀に落ちていくような錯覚にはまだ慣れない。とらわれているような、沈み込むような、そんな感覚。
「…ああ、今夜は満月か。どうりで綺麗だと思った」
先に逸らしたのは私だった。でっぷりと太った月が、夜更かし中の悪い大人ふたりを咎めるでもなく見下ろしている。以前はこうして空を眺める余裕さえなかったのに。
「ふふ…。遠く東の国の話、局長さんはご存じでしょうか」
不意にこぼれた笑みが耳をくすぐる。含みのある言い方に思わず視線を戻せば、子供みたいに相好を崩した彼女が秘密を打ち明けるように声を落とす。
「愛しているという言葉を、『月が綺麗ですね』と訳した人がいることを」
「あい、………えっ」
間抜けにも口を開け言葉の意図を探っていた私の顔はさぞ滑稽だったろう。ようやく思い至った私を、月は呆れるでもなくただ煌々と美しく輝くばかりだった。
(中らずと雖も遠からず)
2025.3.14
まだ陽がのぼったばかりだからだろうか、霧だか湯気だか判別つかない曖昧な視界の端で、けれどたしかに水面が波立った。
「誰かと思えば…。あなたも朝風呂?」
ちゃぽん。見知った声が水音を縫うように届く。
不明瞭な世界でようやく像を結んだのは、やはりというか、同期の深月詩織だった。普段は一つに束ねている髪をバンスクリップで無造作にまとめた姿はなんだか新鮮だ。
かけ湯をして、つま先をそっとひたす。指先からふくらはぎ、太ももからおなかへ、そうしてようやく肩まで浸かった途端思わずはふぅ、と息がこぼれた。心地よい温度に、寝不足の身体に溜まった緊張がほどけていく。
「…目が冴えて? ふふ、もしかしてあなた、枕が変わったら眠れないタイプでしょ」
隣人の言葉尻がどこか弾んでいる。そういえば声の調子もいつもより二音ばかり高いかもしれない。朝の澄んだ空気のなか、ほとんど貸切状態の露天風呂に身を委ねているのだ。いくら冷静沈着な彼女といえど、さすがに気分が高揚するのだろう。
ゆるゆるととろけていく思考でそんなことを考えていると、そ、と。二の腕に触れるこれは──人の肌、彼女の肌、だ。いつの間にやらすぐ隣にまで距離を縮めていたその人が、肩口をぴたりとくっつけどこか子供みたいに頬をゆるめる。
「こうしているとなんだか、修学旅行みたいで楽しいわね」
あどけない、なんて表現をまさか彼女相手に使う日が来るとは思わなかった。的確に、厳格に、粛々と。普段の深月詩織という人を表す言葉は、お堅く真面目なものばかり。ともすればとっつきにくい印象さえ与える彼女のこんなかわいらしい表情を知っている人間が果たしてどれだけいるだろう。
「…ちょっと。あんまり見つめないでよ」
──わたしだけだったらいいのに。自然に浮かんだ想いを驚きとともに飲み下す。
頬に朱が差しているのは茹だっているのか、それとも単に恥ずかしがっているのか。じとりと視線を投げた彼女が、けれど今度は訝しむように目を細めた。ごめんなさい。そう前置きして伸ばされた指が、目の下をなぞっていく。そわり、背筋に走る甘やかなしびれ。左頬を包む手のひらの感触に耐えられなくてぎゅう、とまぶたを閉じる。
「…眠れないのは今日だけじゃないでしょ、あなた」
確かめるように、確信したように。細い指先がもう一度、目の下を掠めていく。恐る恐る開いた視界に飛び込む、まっすぐな眸。思えば出会った時からそうだった。海の底のように凪いだ眸を前にすると、嘘がつけなくなる。もっとも、聡い彼女にはごまかしなんて端から通用しないのだけれど。
やっぱり、と落ちたため息に、呆れや幻滅の色が混ざっていないことに内心安堵する。
原因は言わずもがな、最近出向解除になって戻ってきた上司だった。大方出向先でも不遜な振る舞いをしていたのだろう。彼の態度は容易に想像がつく。
眠れなくなった。明日を迎えるのがこわくなった。社会人になってもう何年も経つというのに情けない話だけれど、それでもあの上司と明日も顔を合わせなければならないのだと考えただけで足が竦み胃が悲鳴を上げるようになった。
そんなこと、彼女にだけは知られたくなかったのに。
「…じゃあ、こういうのはどう?」
ちゃぽん。また、声が近付く。
「眠れない夜は、電話して。ほら、人の声を聞いてると眠くなってくることあるでしょ」
だから、と。あやすように頬を撫でるぬくもりに縋りつきたくなった。どうしようもないほど泣きたくなった。出会った時からそうだった。この人はいつだってわたしを気にかけて、手を差し伸べてくれていた。
涙の代わりに笑みを取り出す。不格好なそれがどうか湯気に紛れますようにと。祈りが届いたかはついに分からないまま。親愛なる隣人がふ、と目尻をゆるめる。
「覚えていてね。─…私はずっと、あなたの味方でいるから」
(あなたに祈りは届かない)
2025.4.26
「─…一度にすべてのタスクをこなそうとしなくていいの。そうね、まずは午前の──」
角を曲がってすぐ。洩れ聞こえた声に思わず足を止めた。覚えのある声、けれどここではまず聞くことのないはずの人のそれだった。
踏み込みづらい雰囲気につい立ち止まってしまったものの、盗み聞きしているようで忍びない。オフィスに戻ろうか迷っているうちに足音がひとつ。涙目で脇を通り過ぎていったのは確か、秘書課に配属された新卒だったか。
「あ。…会社で顔を合わせるのは久々ね」
ようやく給湯室に踏み入れば、思ったとおり、同期である深月詩織そのひとがカップ片手に壁にもたれていた。秘書課は廊下を挟んで向こうのフロアだ。あちら側にも給湯室はあるから、こちら側で鉢合わせることはまず無いのに。
「あっちだと同じ課の人がいるかもしれないから。ほら、最近の子って弱いところ見せたがらないでしょ?」
ふう、とコーヒーを冷ましながら、わたしの疑問にぽつりと答えを与えていく。
新卒、か。紙コップをセットし、ココアのボタンを押しつつぼんやりと思い出すのは入社一日目のこと。懇親会に向かう直前、同い年とは思えないほど落ち着いた佇まいの彼女に声をかけられて、それから──そういえばどんな会話をしたんだったか。
「…もう部下がつくような歳になったんだね、私たち」
独り言じみた呟きが、サーバーの機械音に紛れていく。もしかしたら彼女も同じ日を思い起こしているのかもしれない。ひとりまたひとりと同期が辞めていく中、こうして同じ思い出をたどれるのはなんだか、秘密を共有しているみたいで嬉しかった。
ぽたり、最後の一滴が落ちる。今日も終電で帰れるかどうかの瀬戸際だ、早くデスクへ戻らないと。分かっているのに離れがたいのは、久々に同期の顔を見たせいだろうか。
のろのろと紙コップに手を伸ばしているところへ、そうだ、と。視界に飛び込んだチョコレートの箱に思わずまたたく。
「あなた今日、お昼休憩取ってないでしょ。チャット、ずっとオンラインになってたし」
顔を上げて、ふいに絡んだ視線でまた、あの日に巻き戻される。大人びたそのひとが、けれど年相応に笑み崩れたのを覚えている。告げられた名前の耳ざわりがよかったのを覚えている。優しそうと評されて、仕事がきつそうだと苦笑して──そこまで浮かんでもまだ、思い出せずにいた。やわらかな眸にわたしをとかしこんだそのひとが、なにを伝えてくれたのか、どんな約束を交わしたのか。いつかのわたしたちであるはずなのに、あの日笑い合ったふたりがこんなにも、遠い。
ありがと。受け取った弾みで触れた指が、かすかに震えた気がした。
(今はもううたかたみたいに掴めない)
2025.5.6
男の目が”それ”を捉えたのは、雲間から月が顔を覗かせたその瞬間だった。
腰まで届く髪に、揃いのまっさらなワンピース。淡い月明かりを浴びる三人の女は、ぱしゃりぱしゃりと海面と戯れていた。こんな夜更けに奇妙だな。首を傾げたのは一瞬。遣いの紙袋を取り落とした男は、一歩、一歩と海へ分け入る。
水音を聞き咎めた女が一斉に振り向く。月光の下でもそれと判別できるほど美しく、けれど同じ面の女たちは、やはり寸分違わぬ笑みを浮かべて男を輪の中心へ招き入れた。
こんな場所でなにをなさっているのですか──男が尋ねる。くつくつ、女のひとりが喉を鳴らす。あなた様をお待ちしていたのですよ──女のひとりが差し伸ばした手の首がきらりと鈍く光る。確認する間もなくざり、と頬を掠める感触に背筋が震える。女のひとりが男におぶさるように背後から腕を回す。肌を覆いつくす海色の鱗。伝承が頭をよぎるよりも先に、美しい、と。恍惚とした男が頬ずりをする。深海よりもまだ冷たい身体に熱を奪われていく。それでも肌はぬくもりを覚えない。
ともに参りましょうか──どこへ、などという問いも浮かばなかった。誘われるままに一歩、踏み出した途端、海へとずるり、引きずり込まれていく。男に続くように女がひとり、またひとりと沈む。最後に残ったひとりが甲高く笑い、とぷり、身を投げた。
あとには女の楽しげな笑い声以外、なにも残らなかった。
(Anguana)
2025.8.17
花にも似た香りがふわり、くちびるを掠めた気がした。
まぶたが重い。なんとかこじ開けた視界に影が差す。まばたきをひとつ、ふたつ。像を結ぶよりも先にすっと光が戻った。
「あ…ごめんなさい、起こしちゃったわね」
気遣わしげな声はすぐ目の前から。まだむずがる目を擦り──ああ、やっぱり。隣の席にいたのは思ったとおり、同期の深月詩織だった。別フロアにいるはずの彼女がどうしてここに、こんな時間に。覗いた欠伸をそのままに、まだ夢へ沈み行こうとする頭がぼんやりと疑問符を浮かべる。
「帰ろうとしたらこっちのフロア、まだ電気がついてたから…」
よほど顔に出ていたのだろうか、疑問を汲んだ彼女がどこか申し訳なさそうに眉尻を下げた。ちらと視線を向けたパソコンがスリープしている。五分だけ、と言い訳みたいに呟きながら机に伏せたはずが、どうやら大幅に寝過ごしていたらしい。
ぐっと伸びをひとつ。肩からジャケットが滑り落ちていく。
「なにかいい夢でも見てた? 気持ちよさそうな顔してたけど」
次から次へと浮かぶ欠伸を噛み殺すわたしに、ふふ、とやわらかな笑みが向けられる。ゆめ、夢。さっき鼻先をくすぐった、心が休まるにおいは夢、だったんだろうか。
「そろそろ終電よ、途中まで一緒に帰りましょ」
拾い上げたジャケットを羽織った隣人が、自身の腕時計を軽く指し示す。二十三時を少し過ぎたころ。ネカフェで適当に仮眠を取るつもりだった、などという当初の算段は秘密にしておいたほうがいいかもしれない。彼女はどうにも心配しすぎるきらいがある。仕事上で直接的な関わりがなくなった今でも、こうしてなにかと気にかけてくれるのだ。もはや数えるほどになった同期だから、だろうか。彼女に尋ねたことはない。
「ほら。何時間パソコン立ち上げてるのよ。そろそろ休ませてあげて」
帰り支度を整え、カバンを手にしたところでふ、と。急かすでもなく注がれていた眸とかち合う。いつもは海の底のように凪いでいるはずのそれが一瞬揺らいだ気がして、けれどすぐまたたきに呑まれていく。なにを言いかけたの。確認する機会はきっと一生来ないのだろう──尋ねてしまえば、なにかが壊れてしまう気がしたから。
言葉の代わりにつ、と子供みたいに両手を差し出す。諦めのようなため息をひとつ、苦笑した彼女が手を掴み、やさしく立ち上がらせてくれた。ひんやりとした手のひらと、ふわり、ほのかに漂う花のような香り。
「─…本当、手のかかる子」
やんわりと指を離したそのひとが、少し紅の剥がれたくちびるに笑みを乗せた。
(秘密は夜だけが知っている)
2025.8.20
認めよう、今しがたの言葉は完全に失言だったと。
「─…あなたは自分の立ち位置をよく理解していると思っていたのだけれど、」
かり、と。爪の先が頤を掠めていく。皮膚を掻かれたのは一瞬。だというのに指先に導かれるように、気付けば顎を持ち上げていた。深紅の眸が愉悦をこめて細められる。
「罰を与える、だなんて。もしかしなくても、私に言っているの?」
甘く掠れた語尾が耳の奥へと忍び込み、背中を伝って痺れを孕む。これはマキアートの異能力だ、呑み込まれてはならない。だが理解をするのと、実際に抗えるかどうかはまた別の話だ。視線はすでに縫い止められたまま。彼女もそれを察知しているのだろう、お利口さんね、とくちびるの端をゆるめ眼鏡を外した。
いくら実直であろうと、危険性が低いとしても、その気質は彼女の身体に染み付いてしまっているのだ。うっかり洩らした一言でずるりと滲み出てくるほどに。
彼女という人を愚かにも把握できていなかった私をやわらかくとかした眸がちろり、揺らめく。灯に似たそれに誘われた私はさながら蛾か、それとも尻尾を振る犬か。
「素直になりなさい、─…おしおきをされたいのはあなた、でしょう?」
確信を含んだ問いに、我知らず頷く。局内唯一の女王様は、眼鏡を置いて満足そうに微笑んだ。
(La mia unica regina.)
2025.8.29