夜の帳にベルがなく。

 今日一日の役目を終えたころ、西洋を模したこの世界にも闇が降りてくる。灯火が作る影を揺らしながら追いかけるのは、いつもそのかたちを変えないわたくしよりも大きなそれ。 「お待ちなさい!」 「待つ義理などないな」  呼びかけたってなんのその、歩調を崩すこともないまま靴音を響かせ緩やかな坂を下っていく、その影は振り向かない。いつだってそう、後ろを見やることはない彼女はまるで己が主のように水平線でも見はるかしているみたいで、ただ前だけを見据えて。  はしたないとはわかっていながらも坂の勢いに任せて追い抜き、目の前に立ちはだかればようやく、その漆黒の眸がわたくしを映す。またたきを一つ、ほら、だなんて。 「待たなくたってお前はいつも、私の前にやって来るじゃないか」 「そんな、こと、」  あなたが待ってくださらないから、無理やり視界に割り込んでいるのですわ──そう言ってやりたかったものの、切れた息はなかなか戻ってきてはくれなかった。  いつもは名前を呼ぼうと肩を叩こうと見向きもしてくれないその人がこういう時ばかりは待っていてくれるのだから本当、興味がないのかあるのか分からない。わたくしとしてはもちろん後者であってほしいのだけれど、老若男女関係なく無意識に魅了してしまう彼女のことだ、きっとわたくしだって周りと大差ないに違いない。  それで、と。息が整ったころを見計らって彼女は口を開く、続きを促すように。 「…どうして見てくださらないのですか、わたくしを」  ちりん、聞き慣れた音とともに洩れたのは抱えていたそれ。  善良な市民たちを闇の世界へと誘う役目を負ったことも忘れたように誰彼構わず話しかける彼女の笑顔はけれどわたくしに向けられたことは数えるほどしかない。綺麗な顔だとかいい子だとか、そんな甘い言葉一つかけられたこともなければ、目配せ一つ送られたことだってない。他の仲間たちにはかけられるそれらが一体何故、わたくしにはないのか。どうしてわたくしと向き合ってはくれないのか、と。  一言にこめた意味を汲み取ったのかそうでないのか判別はできないけれど、ぱちくりと、なんとも子供染みたまたたきを一つ、その口元が綻んでいく。片手ほどしか向けられなかった表情が目の前でかたち作られていく。 「なんだ、そんなことか」 「──っ、そんなこと、って、」 「そんなに深刻そうに持ちかけることでもないだろう、だって、」  ともすればお腹を抱えて笑い出しそうな彼女はわたくしの言葉を遮って続ける、とても楽しそうに。 「お前の音は、いつだって聞こえているんだから」  いつだって傍にあるんだから。  今度はこちらがまたたきを一つ、二つ。視線の先を辿ってみれば、手にしたベルに行き当たった。自身の分身であるこれを手離したことなどただの一度もない。  その音が聞こえるから、いつだって耳に届くから、私は振り返らずともお前の存在を感じているんだと、口を鉤爪とそっくりそのまま、いいえ、それよりもやわらかなかたちに変えて、彼女は笑う、うれしそうに。  まったく幼子のようなその姿にそれまでの怒りも悲しみも忘れてただため息をついた。くるりと方向転換、坂道を下へ下へと降りていく。 「おい、なにを怒っているんだ」 「怒ってなんていません、呆れているだけですわ」 「呆れられることをした覚えがないんだが」 「それが問題だというのです」  まるで逆転してしまった立場にひっそりと頬をゆるませて、彼女の声に、靴音に追いかけられるまま、足を進めた、ちりちりと軽快になくベルと共に。 (そうして夜が近付いてくる、まるであなたみたいに)
 鉤に振り回される鈴ちゃんかわいい。  2015.9.20