そして零時の鐘はなる。

「ハッピーハロウィン、ハッピーヴィランズ」  もう口に馴染んだその言葉を小さく転がす。昨日の余韻はとうに冷め切って、いまは心にぽっかり穴が開いたようだ。  仮にもヴィランズだというのに心、だなんて、私も随分とこの世界に染まってしまった。こんなにも痛むものだってことを知らなかった、こんなにも重いものだってことがわからなかった。けれど知ってしまった後悔よりもいまは、 「ホックさん」  かけられた声に振り向くよりも早く、両頬が冷たさに包まれて思わず身体を縮める。  ふふ、と。鈴が鳴るようなかわいらしい笑い声。ちりちりという耳に残るその音とともに、若い女の、ともすれば少女にも見える成りをした彼女が隣にすとんと腰を下ろした。  寒いのか、口の前で重ねた両手に息を吹きかけて、けれどその息に色はついていなくて。息を一つ、私のそれが白く立ち上る。 「…もう月も高い」 「申し訳ありません、ハーデスさんに引き止められていましたの」 「怒ってないよ」  皆今日が最後だから、とは言わなかった、口にせずとも彼女も重々承知しているだろうから。眸に雫を湛えつつもそれでも冥界の女らしく炎で蒸発させて見送ってくれたというから、まったくハーデスらしい。彼女の気遣いに感謝するも、礼の言葉を伝える術をもう持ち合わせていなかった。  もうすぐ日付が変わる、私の願いが通じることもなく。またたきを一つ、まっすぐ月だけを見つめているのももう限界だった。 「…ヴェール、」 「ホックさんにも見せてあげたかったですわ、ハーデスさんのあの表情」 「ヴェール、」 「ファージャさんだって。あの人は我慢しようともしませんでしたけれど、」 「ヴェール!」  手首を引いてかき抱いた。もう体温を持たない彼女に少しでも熱が移るようにと、かけられた魔法がどうかとけてしまわないようにと。  そ、と。背中に腕が回される。  目に鮮やかな手袋を取り去った生身の指が鉛色に侵食されていることなんて、こうして強く抱きしめても熱どころか感覚さえ伝わらないことなんて、確認しなくてもわかっていた。  目頭があつい。たとえば私にも炎が扱えたなら、この心ごと燃やしてしまうのに、生憎と私は魔法を持たない人間だった。いとおしい彼女にどうか666年後まで共にとも誓えない、どうしようもないほど、ただの人間だったのだ。 「…タワーオブテラーからのこの景色も、もう見られなくなるのですわね」  終わりを予感させる言葉に震える、残された時間はもう、少ない。悲しみに浸る暇さえ与えられない。それでもまだ彼女の身体を、すべてを感じていたくて、解放することはできなかった。  だというのに彼女は胸を押して距離を開ける、夜に染まったその眸に私を映して。 「すきでしたわ、あなたのこと」 「…やめてくれヴェール、私は、」 「とても。他の誰よりも。人でないことを忘れてしまうくらいに」  耳が、痛い、心が、叫んでいる、やめてくれと、聞きたいのはそんなことではないのに、過去形にした想いなど欲しくないのに。彼女は続ける、まるで気持ちを置いていこうとしているみたいに。  そんなの許さない、私と一緒に残していこうなんて、そんなこと。 「わたくしは、」  紡ぎ続けようとするくちびるを奪った。ぬくもりも冷たさもなにもないところでただ一つ、やわらかさだけはまだ自身のそれに残る。ゼロ距離で洩れた息さえ逃してしまいたくなくて、呑み込んだ、深くまで。  普段は聞こえるはずのない鐘が鳴らされる、これは魔法がとける合図。鳴り終わってしまった時のことなんて考えたくもない、いまはただ、胸に常にあったこの想いを、心を、目の前の彼女に渡すために。 「あいしてる、ヴェール、これからもずっとだ」 「…っ」 「忘れさせるものか、離れさせるものか。どこへ行こうと見つけ出してやる、必ずだ」 「…ずるい、ひと、ですわ、本当に」  ぽろぽろ、ぽろぽろ。またたきと一緒にこぼれていく雫があごから落ちては地面に辿り着く前にかたちをなくしていく。  鉛色の手で顔を覆ってしまった彼女の声がくぐもる、あなたはずるいですと。置いていこうとしたのに、未練などなにもなくしてしまいたかったのに、どうして思い出させるのかと。 「ヴィランズだからな、私は」  ゆっくりと打ち鳴らされていく鐘の音に負けてしまわないように、耳元で。そう、私は海賊、気に入ったものは必ず手に入れなければ済まない性分なのだ。不格好ながらもなんとか浮かべた微笑みにつられたのか、彼女も頬をゆるませる、私の一番好きな表情を。  音は十一回を数えた。  額を合わせて、くちびるを寄せて。内緒事でも打ち明けるみたいな距離で、彼女が眸を隠す、まぶたの裏に私を閉じ込めるように。 「…わたくしも、ね、」  十二回目の鐘が、鳴った。  またたきを一つ、その余韻が消え去るよりも早く、微笑みが消えた。重ねていた額が、伝わっていた息が、ちりちりと存在を主張するそれが、彼女の、姿が。魔法は、とけてしまったのだ。この世界の主はどうやら、数秒の猶予さえ与えてくれないようで。  けれど最期に残された言葉はたしかに、この耳に残されていて。  雫が流れていく、耐えていたものが支えを失ってとめどなくあふれてしまう。 「…ヴェール、」  応えてくれる者はもういないけれど、私の手の届かないところへ去ってしまったけれど。彼女が伝えてくれた心はきっと、私の中に残り続けるから。 「─…あいしてるよ、私も」  どうかどうか、この想いが届きますように。 (わたくしもね、あいしていますの、あなたのこと)
 0。  2015.11.2