たった一度だけ、
なにかを考えている余裕は、なかった。
「ふぁ、ぁ、あ…っ、」
揺さぶられた勢いで思考がどこかへ飛んでいく。いまのいままでなにを思っていたのか、欠片だって浮かばなくなってしまう。きもちいい、もっと、もっときみを、と。じわりじわりと快楽に支配されていく脳みそはただそんな、本能にも似た意識だけを取り上げて。
それでもまだ身を委ねたくはなくて、必死にかき集めた。
鮮やかな銀糸の髪が頬を掠める。汗で張り付いた前髪をかき分ければ、雫で歪んだ眸がようやく姿を現した。
「や…、見ないで、ください」
どうして彼女はいまにも泣き出してしまいそうなのか、どうして手が震えてしまっているのか、どうして、どうして。しあわせであるはずなのに、彼女の腕の内に留められて、体温を分け合って、こんなにも、こんなにも胸が張り裂けそうだなんて。
もっとみていたい、と。紡ぎたかったのに、再び指を埋め込まれてしまえば言葉は簡単にのどを滑り落ちていってしまう。今日の彼女はずっとそうだ、名前の一つだって吐き出させてはくれない。音にしたいのに、ヴェール、と。もうあとどれだけ奏でられるかわからないその名を。
私のなかをかき回す指がそんな願いさえもぐちゃぐちゃととかしていく。
近付いてきたくちびるが胸に触れて、瞬間、鋭い痛みが走る。吸われているのか、噛まれているのか、それさえも判別つかないほどにびりびりと電流が駆け抜けていく。
ふ、と。距離を置いた彼女と視線が合ったと思えばすぐに逸らされてしまう。噛み締めたくちびるが白く染まっていく。
「─…ど、して、」
もっとたくさん訊ねたいことはあったはずなのに、息を整える間もない私がこぼしたのはたったのそれだけ。
けれどそれだけですべてを悟ってくれたらしい彼女は微笑んだ、今日はじめて、それはそれは寂しそうな笑みを。
「これで、最後にいたしますわ、」
最後、なんて。
いままで意識して口に出さないようにしていた言葉を、選んで。彼女は言った、最後だからと。こうして触れるのも、言葉を交わすことも、視線を絡めて微笑み合うことも全部、
「──ホックさん」
名前を紡ぐことさえも。
(彼女が私に痕を残したのは、最初で最後だった)
あと一日、
2016.10.31