きっと、ゼロではない。

 眼下に広がるヴェネツィア風の街にはもう、人影は見えなかった。それもそのはず、この世界はもう、外界から切り離されているのだから。  恐らくここにはもう、わたくしたち人ならざる者しか、残されてはいないのだろう。  タワーオブテラーのすぐ傍に位置するセイリングデイの明かりが煌々と灯っている。彼女たちはそこで、別れを惜しんでいるはずだった。顔を出してはいない、だってそうしたら、夕陽のように真っ赤な髪をした彼女とも言葉を交わさねばならなくなってしまうから。  最後に、したのだ。彼女に触れることも視線を合わすことも、そのやわらかな髪の一つだって目にすることさえも。永遠なんてどこにもないことを、一年前、嫌というほど知ってしまったから。幸いにも件の彼女は今日、最後のリクルーティングに出かけていたので、朝から顔を合わすことなく過ごせていた。  手袋を外せば、鉛色に染まった指が嫌でも目につく。  これでいい、これでよかった。来年もまたこうして人の姿を取れるともわからないのだから、後悔もなにもかもを残さずひとりで消えていければと。あの人を見とめてしまえばきっと、未練が残ってしまう。もっといたいのだと、誰よりもいとおしい彼女に寄り添っていたいのだと。あるべき姿ではなく、人間として。  そんなの、到底叶わない願いだと知っているのに。  唐突に。鐘の音が、鳴り響く。  世界を揺るがすこれが十二回打ち鳴らされた時、わたくしは元いた場所に帰るのだろう、一年前と同じように。  ごおん。二つ目。 「──やっぱりここにいたのか」  鐘の余韻がとける中、耳に馴染んだ、けれど今夜ばかりは聞きたくなかった音が響く。振り返らなくたってその声の持ち主が誰かということくらいわかるのに、愚かなわたくしは瞬時に首を巡らせてしまった。  ああ、やっぱり。 「…ホック、さん」 「どうやら、私の勘は当たったようだな」  宵闇の中で微笑みさえ浮かべてみせて、彼女が踏み出してくる。逃げてしまいたいのに、視線の届かないどこか遠いところへ駆けていってしまいたいのに、身体が言うことを聞いてくれない。  ごおん。これで三つ目。  彼女がまた一歩、近付いて。距離が詰まっていく、空間が狭まっていく。  そうして五つ目が響いたと同時、上半身がぬくもりに包まれていた。必死に拒絶していたはずなのに、わたくしの身体はいとも簡単に受け入れてしまう。  六つ目、七つ目、八つ目と、どれだけ抱きしめられていただろう。ぬくもりに促され視界が歪み始めたところで、ふ、と。わずかに離れたかと思えば額がぶつかり、視線が絡まる。九つ目の鐘。 「あなた、を、忘れたかったの」  ああ、ついにこぼしてしまった、涙を、心を、ひた隠していたのに、悟られてしまわぬように、どうか忘れてくれますように。人ならざる女など記憶から消し去って、あなたはあなたのしあわせを、と。  だというのにこの人はなおも笑ってみせる、くしゃりと目元を崩して、そんなこと、と。 「無理に、決まってるじゃないか。君を忘れるだなんて」 「ど、して、」 「だって君は教えてくれたから、いとおしい気持ちを、愛するということを」  これで、十一回。 「君が好きだ、君がいなくちゃだめなんだよ、ヴェール」 「…っ、わたくし、だって、」  同じ気持ちだというのに。あなたがいなくてはなにもできない、あなたから与えられた愛を、心を、どうすればいいのかわからない。向ける相手はただ一人、あなたしかいないというのに。わたくしにはもう、そのすべてを伝える時間は残されていなくて。  名前を、紡ぎたかったのに。  十二回目の、鐘が、消えて。 「──…え、」  ぬくもりは、そのまま。  閉じていたまぶたを開けば、変わらず微笑んでいる彼女と目が合って。試しに一度、おずおずと腕を伸ばし抱きしめ返してみれば、たしかな感触がそこにはあって。  ああ、わたくしは。 「どうやらこの世界の主に、私の願いを聞き入れてもらえたみたいだ」  つ、と。目の前の眸から流れた涙はどう見たって現実のものだった。この感触も、においも、声も心地も額の熱さだって。夢なんかじゃなくて。わたくしにかけられた魔法はまだ、とけてはいなくて。 「っ、ホック、さ、」  音になってくれなかったから、代わりに思いきり抱きしめた。止まらないいとおしさを伝える言葉なんて最初から持ってはいなかった。わたくしはただ、この心のままに、彼女に触れることしかできなかったから。  くちびるが近付く、瞬間、触れて。やわらかな感触にまた、世界が歪んでいく。それでも彼女の姿が消えることはなくて。 「──あいしているよ、ヴェール、ずっと、ずっと」 「わたくし、も、」  息を、一つ。 「あいして、いますわ」 (これからも、わたくしのこの身が続く限り、ずっと)
 2016年11月1日午前0時、タワーオブテラーにて。  2016.11.1