わたくしにはこの音しかないのですから。

 ゆうらりゆらり、ゴンドラが揺れる。冬の気配を含み始めた気持ちの良い追い風を背中に感じながらまぶたを閉じて。けれどそれに乗って流れてきた調子外れの音に顔をしかめた。 「…ちょっと。なんですの、そのお世辞にも上手とは言い難い演奏は」 「褒めるな。照れる」 「下手くそだと申しているのですわ」  ようやくアコーディオンを弾く手が止まる。なぜだと言わんばかりにしかめ面をして見つめてきたってフォローしようのないほど下手なのだから仕方がない。  そもそもせっかくの休日だというのになぜわたくしが彼女と過ごさなければならないというのか。優雅な一日を過ごそうとここを選んだのに、まさか突然乗り込んでくるだなんて。いいえ、その時点できっぱり断れなかったわたくしが悪いのですけれど。  ゴンドラの縁に背中を預けてため息を一つ、どうして息なんて吐くのだと問うてくるその人が原因であるのに。  ベルトから手を抜いた彼女は楽器を膝に置いて前髪をかき上げる。 「船員には好評だったんだがな、これでも」  船員、とは彼女の本来の仲間たちのことだろうか。船長の直属の手下なのだから、他の者たちが持ち上げないわけはないのに。そこに気付かない純粋なところも彼女らしいのだけれど。  本来と、自分で言っておいて心がずきりと音を立てる。彼女には帰るべき場所がある、待っている主がいる、それはわたくしも同様なのだけれど、それでもわたくしたちは仮初の仲間でしかないのだと、そう。  懲りもせずアコーディオンを手にする彼女に眉を寄せるのももう疲れた。 「ヴェールは歌が上手だったな、たしか」 「え、…まあ、人並みには」  謙遜なんて自分らしくもない、彼女もそう思ったようで、苦笑を一つ、楽器を構える。  詩をつけてほしいのだと、紡ぎ出したのはこのヴェネツィアを模した街にはよく似合う曲。先ほどまでの耳を塞ぎたくなるような演奏が嘘のようにしなやかに編み出される音楽は自然、リズムに合わせて身体を揺らしてしまいたくなるほどだった。彼女の音に苦笑いを浮かべていたゴンドリエさえも陽気にオールを漕いでいる。  息を吸って。  即興の詩を音楽に乗せるのは得意だった。わたくしは音を奏でるために生まれたものなのだから。  吐息が洩れ聞こえてくる、目の前のくちびるから。 「やっぱり、君の声はやさしいな」 「…あなたこそ。ちゃんと演奏できるのですね」 「昔からやれば出来る子だと言われてきたからな」  ふうわりと、純真に笑んだ眸の裏に映るのはそれでも昔の記憶ばかりのようで。  初めから割り込む隙間などなかったのだ、わたくしが、ただ鳴らされるしかない音が届くはずもなかったのだ、きっと。  世界が滲む、いまばかりは彼女に見つかる心配もないから。流れた雫を落とした、わたくしの中で唯一音がしないそれを。 「まーたあの二人一緒だわ。ちょっとからかってやろうかしら。やーい音痴ー!」 「そんな乗り出してたらパンツ見えるでハーデス」 (それでも紡いだ、彼女に伝わるようにと)
 休日を一緒に過ごす鉤鈴。  2015.10.10