たとえばありきたりな日常であったとしても、
目覚めてまず視界に飛びこんできた顔にどきりと鼓動を跳ねさせることはもはや日常になっていた。 「…ほんと、心臓に悪いわ」 まぶたを一旦下ろし、深呼吸をひとつ、気持ちを落ち着かせる。 大丈夫。今日はまだ遠い方。昨日なんて呼吸が触れ合いそうなほど近くにいたんだから、それに比べればこんな距離。 自分に言い聞かせ、そろりとベッドを抜け出す。胸にしがみついていたエルを引き離す瞬間はいつも少し、肌寒い。 そんなエルとルドガーはといえば、ふたりして右半身を下にぐっすり眠っていた。 起きる気配がないのは昨夜、遅くまでトランプをしていたから。夜更かしはだめだって、いつもエルに言ってるのに。 勝つまで終われないと意地を張ったわたしもわたしだけれど。 同じ寝相のふたりが微笑ましくてつい、口元が綻んで。親子みたいな姿をしっかり焼きつけてから台所に向かい、朝食の支度を始める。 たしか昨日、マンションの管理人が魚をくれたから、メインは焼き魚にしよう。それから豆腐のお味噌汁に、まっしろなごはん。 もう一品欲しいところだけれど、それは作りながら考えるとして。 鍋に水と昆布を投入、沸騰するまでに魚に下味をつけていく。 「ふぁ…、おはよ、ミラ」 「おはよう、ルドガー」 炊飯器の炊き上がり終了の音とともに、あくびをしながらルドガーが起きてきた。目をこする彼はまだ、眠気が完全には抜けていないように見える。 そんな仕草がなんだか子供みたいで、思わずくすりと笑った。 「もう少し寝てるかと思ったんだけど」 「ちょっと、寒いなと思って。そしたらミラがいなかったから」 真顔でそんなことを言うものだから、呆れればいいのか照れればいいのかわからなくてとりあえずそう、とだけ応えてみた。 あくびがひとつ。 昆布に代わりかつお節が入った鍋を覗きこんだルドガーは、うれしそうに頬をゆるませる。 「今日の朝ごはんは」 「焼き魚と豆腐のお味噌汁と…、あと一品、なにかないかしら」 「おひたし、とかどうかな。ほうれん草があったはずだから」 ルドガーの言う通り、冷蔵庫にはほうれん草が入っていた。 おひたしのレシピを頭から引き出し、うんと頷く。これならそう時間はかからなさそう。包装紙を外し、ボールに置く。 あくびはまた、隣から。 「できたら起こしてあげるから、二度寝してきたらどう?」 「いや、でも」 「たまにはわたしにも作らせなさいよ」 「ミラがいなくて寒いし」 「エルでも抱いてなさい」 「…じゃあ、お願いしてもいいかな」 くしゃりと、笑った顔がとてもまっすぐで。 思わず目を逸らして、ほうれん草を洗いながらいいから早く寝なさいと言葉を向ける。背中でルドガーが笑った気がしたのが、なんだか癪だ。 やっぱりなにか言ってやろうと振り返りかけて、 「ぬくもり、もらうよ」 一瞬のことで対処できなかったわたしを置いて、さっさと部屋へ戻っていく。キッチンにはルドガーがこぼしたあくびだけが残されて。 遅れて頬に熱がやってくる。 「─…なんなのよ、ばかっ」 水にさらしたばかりの両手を当てても、熱は下がってくれそうになかった。 (いつもいつもあなたにしてやられてばかり)人の多さに思わず酔ってしまいそうだ。 「はぐれるなよ、ミラ!」 声をかけてはみたものの、この喧騒の中だ、どれだけ届いているのかはわからない。 振り返ればすぐそこに、金色の髪がふわふわと舞っていた。はぐれても見つけやすそうではあるけど。 カラハ・シャールでのタイムセールはいつもこうだった。一体どこにここまでの人間がいたのかというくらい、人であふれていく。 だけど怖気づいているわけにもいかない、俺の、俺たちの生活がかかっているんだから。 決意を固め、マンションを出ようとしたのが朝食を食べ終えてすぐのこと。 わたしも行くわと、なぜだか朝食中、目を合わせてくれなかったミラが同伴することに。 危ないからエルは留守番。ふてくされた表情に思わずいいよと言ってしまいそうになった自分をなんとか抑えるのには苦労した。 「ルドガー、そっちじゃないわ!」 再びエルへ謝罪の念を送っているところへ、ミラの声が届く。 かと思えばぱしりと左手が掴まれ、そのまま逆方向へ引っ張られていった。俺の目の前で金色が跳ねる。 「ミ、ミラ、」 「なにぼーっとしてるのよ。食料品はこっちでしょ」 口調は弟を叱る姉のように厳しく、けれど捕らえられた手は離すまいと固く握られていて。 子供じゃないんだからとぶつぶつ文句を呟いている彼女の、素直じゃないやさしさに自然、ゆるんでしまう頬を隠しきれなかった。 指を組み合わせるように手を握り直す。 途端、びくりと震えが伝わり、先陣を切っていたミラが勢いよく振り返ってきた。 にやり、と。自分でも意地悪く笑えた自信がある。 「はぐれたら困るだろ」 しばらく固まっていたミラのくちびるが、やがて何事か動いて再び前を向いた。あとで覚えておきなさいよ、とか、そんなところだろう。 言葉こそきついけど、あんなに朱を浮かべて言われてもただ虚勢を張っているようにしか見えなかった。 一心に歩き始めた彼女についていきながら、気付かれないようこっそり笑みを洩らす。 指はまだ、繋がれたまま。 (ミラの手はあったかいんだな、なんて、そんなことを)
「もっと押してよ、ルドガー!」 影がうんと小さくなる。まるで宙に浮いているかのような感覚に、ひそかに心を躍らせる。 地面とほぼ水平になったところで一瞬動きを止めたブランコは、けれど振り子の要領ですぐ、もと来たルートをたどり降下していく。 ルドガーの手が背中に触れる。 鼓動が乱れたのも束の間、さっきのエルのリクエストに応えるように、思いきり押してきた。 「すごーい! ミラ、空がちかいよ!」 わたしの膝の上に座っているエルがはしゃぐ。 片手を離し空中で手を握る仕草は、なんだか空そのものを掴もうとしているように見えた。危ないわよと、手首をやんわり引き戻し吊り紐を握らせる。 振り幅が少し、伸びる。 勢いづいてきた身体が再び押され、徐々に空へと近付いていく。夕闇の空には、ぽつりぽつりと星が浮かび始めていた。 そろそろ頃合いかしら。 「ルドガー!」 わたしのかけ声に、背中越しのルドガーはそれまで以上の力でブランコを押した。 エルの身体をしっかり抱きしめ、片膝を立てる。なになに、と興味津々に見上げてくる少女に笑みをひとつ、頂点に達したところで、思いきり踏み切った。 高く高く、夜空に転じ始めたそれに向かって跳ぶ。 くるりと宙返りをしてみせれば、エルが腕の中で歓声を上げた。 「ほらエル、捕まえなさい!」 光の精霊術を空に向かって放つ。小規模なそれが弾けて、花火のように霧散した。 視界いっぱいに広がる光の粒を捕らえようと、小さな両手が伸ばされる。 ぱしりと手が合わさる音と同時、地面に着地した。 「ルドガー! あのね、エル、つかまえたよ!」 「どれどれ」 興奮気味のエルは、目線に合わせてしゃがみこんだルドガーの目の前で合わせた手を開く。 ふわりと、たくさんの光が宙に舞った。 「ね、すごいでしょ!」 自分のことみたいに誇らしげに笑うエルにつられて口元が綻ぶ。 「また明日もしようね、ブランコ!」 自然に明日の約束を取りつけてくれる少女に、わたしとルドガーが同時に笑った。 (三人で過ごす当たり前の毎日が明日も明後日も続くようで、)
「ほら、早く引きなさいよ」 ミラの手札を掴んだままの俺に、彼女はそんなことを言う。なら指の力をゆるめてくれと俺は言いたい。 夕食後、エルの提案で始まったババ抜きはこれで三戦目。エルは早々にあがり、俺とミラの一騎打ちとなっていた。 ジョーカーは忙しなくふたりの手元を行き来している。いまはミラの手札の中だ。 二枚あるうちのたぶん左側が数字カードだと確信できているのは、さっきから強く持って引かせてくれないからだ。 「これ引きたいんだけど、俺」 「じゃあさっさと引いてよ」 「じゃあさっさと力抜けよ」 強情にも手札越しに俺を見ていたミラは、やがて諦めたように力を抜いた。 遠慮なく、左側のカードを引き抜く。 これでようやく俺の勝ちだと裏返せば、見慣れたジョーカーがえがかれていた。 一枚だけの手札を口元に当てたミラはふふ、と口角をつり上げる。 「かかったわね、ルドガー!」 「くそ、罠か!」 「ふたりとも、まだ終わらないのー?」 盛り上がる俺たちに対して、ミラの背後でルルとじゃれついているエルが呆れた様子で投げかけてくるが、構っている暇はない。ここまで一勝一敗の俺としては、ここでミラに勝たないわけにはいかないんだ。 後ろ手でカードを繰りながら戦法を練る。ここはあえてジョーカーを上にするか、それとも不自然なくらいに視線を向け続けるか。 そんなことを考えている間に、エルはねこじゃらしを掲げてルルと遊び始める。 左へ、右へ、追いかけてくるルルを面白そうに眺めながらおもむろにひょいと手を上へ、 「あ、」 ルルが。よく育ったおなかを持ったあのルルが、大きく跳び上がった。 思わず取り落としてしまったねこじゃらしを追って急降下したルルはそのままミラの背中へとダイブする。 「きゃあっ!」 「うわっ、」 バランスを崩したミラもろとも、床に倒れこんだ。 額と、それから手のひらにあたたかな感触。 ごめんねと慌てて謝ってくるエルの声に咄嗟に閉じたまぶたを開けば、すぐ近くにミラがいた。 いや、そうじゃなくて。 ミラのくちびるが、俺の額に触れていた。さらに言えば俺の手のひらが、ミラの胸を包みこんでいた。 「…あちゃー」 横から覗きこんできたエルが小さく呟く。その声でようやく硬直がとけた俺たちは慌てて距離を取った。 少しだけ離れたミラの顔は、これまで見たことがないくらいに紅潮している。 パーが飛んでくるか、それともグーが降ってくるか。どちらかはわからないが、このあとすぐに痛みがやってくることに違いはない。 もしかしたらチョキで刺されるかも。 恐怖で竦みあがり、土下座をしようと身を屈めたと同時、ミラの目から雫がこぼれ落ちた。 「あーあ、ルドガーが泣かせたー」 「ち、違うんだミラ! 不幸な事故だったんだ!」 俺の言葉なんか聞こえていない風で、両手で顔を覆ったミラは本格的に泣き始めてしまった。 まさかミラが泣くだなんて思ってもみなかったから、どう対処していいのかまったく見当がつかない。 エルに視線で助けを求めれば、少女はふんすと胸を張った。 「セキニン取らなきゃだね、ルドガー」 「そ、そうか! 俺が責任取るよ、ミラ!」 「よかったねミラ、ルドガーがおむこさんになるって!」 「………ん?」 おむこさん、なんて単語が聞こえた気がしたが、俺の気のせいだろうか。 エルを見てもにこにこと嬉しそうな表情を向けてくるばかり。ミラに視線を移しても顔を上げてくれそうにない。 けどどうやら、涙は止まったみたいだ。 ぶつぶつとなにやらひとり言を呟いているみたいなので、とりあえず耳を寄せてみる。 「………じゃない、」 「ミラ、ええと、聞こえないんだけど」 「──あなたの嫁になんか、なるわけないじゃない!」 俺の頬に思いきり繰り出されたのは、グーパンチだった。 (俺はなってもよかったんだけどな、なんて、くらくら回る頭が素直な感情をこぼした)
トイレから戻ってきた少女はふわあとあくびをひとつ、ベッドによじ登る。 ひとり身にしては大きなベッドではルドガーとミラが互いに距離を空け、背中を向けて眠っていた。 なにかを考えこむようにしばらくあごに手を当てていた少女は、やがてなにを思いついたのか、小さく手を打ち鳴らす。 熟睡しているふたりを内側に向かせ、間のスペースにごろりと寝そべる。 ルドガーの左手をミラの背中に回し、自身は彼女の腰に抱きついた。 「──エルのトクトーセキ!」 小さく呟いた少女はそうして満足そうにまぶたを閉じた。 (そんな小さなしあわせが、あるいはずっと続くことを、)