救いの手は差し伸べられず、
──見惚れていた、なんて
「どしたの、ミラ」
拙い呼び声で現実へと引き戻される。
声のした方へ視線を下げれば、眉を寄せたエルの顔がすぐそこに迫っていた。その顔のど真ん中には、心配だ、とありありと書かれている。
なんて分かりやすい子。
なんでもないのと首を振ってみせるけれど、それでもエルは引こうとしない。じ、と。浅葱色の眸にわたしを映し込むみたいに、見つめてくる。
或いはそのまっすぐな浅葱色がわたしの視線の行方まで見透かしているようで、思わずどきりと鼓動が跳ねた。
「なんでもないことない。最近ヘンだもん、ミラ」
「ヘン、って。失礼ね」
「そーゆーヘンじゃなくって、ええと…」
内心を気取られないようにいつも通りの返しをしてみせれば、腕を組みうーんと首を捻るエル。
その様子が真剣そのもので、わたしはつい、笑ってしまいそうになった。可笑しいから、ではない。わたしのことをそんな風に真剣に考えてくれる人がいるんだと、嬉しくて。
うまい表現が見つからないのか、エルはまだ唸っている。
「遅くなってごめん」
「あ、ルドガー!」
名前に反応するようにまた、跳ねた。いやな跳ね方。
腕組みしたままのエルの視線を辿れば、申し訳なさそうな表情で頭を掻くルドガーが、ロビーの隅に佇むわたしたちの元へと歩み寄ってきていた。
右手にはホテルの部屋の鍵を一つ提げている。
ん、なんで一つなのよ。
「あのね、ミラがなんかヘンなの」
「ちょっ…ヘンじゃないってば」
「どうしたんだ、ミラ」
エルの言葉を聞いた途端、眉をひそめて距離を詰めてくる。その表情、さっきのエルとそっくり。顔にはやっぱり、同じ文字が浮かんでいる。
なんて分かりやすい人。
これまたエルと同じ浅葱色の中に映るわたしは、なんだか赤く染まっているように見えた。
じ、と。目線がたいして変わらないから、エルよりも大分近くにある。鼓動がうるさい。
目を逸らそうとするのに、伸びてきた手がそれを許さなかった。額に当てられた手の平はあたたかい。
子供体温。
そんな単語が浮かぶも、口にする機会はついになかった。
「体調なんて、悪くない、わよ」
まぶたを固く閉じて洩らした言葉は妙にたどたどしかった。
「けど、最近ヘンだからな、ミラ」
「あなたまで」
「なんていうか、ひとりで悩んでるみたいだ」
「そう、それ! ぜんぶ抱えちゃってるかんじ!」
元気な声で同調するエル。ようやく適当な言葉が見つかって嬉しそうだ。目はまだ開けていないけれど、軽く跳ねている様がまぶたに浮かぶ。
指が離れていく。額がもう、子供体温を恋しがっていた。
おそるおそる目を開けば、至近距離にあるのはやっぱり浅葱色。
いまのわたしは一体どんな表情をしているのか、どんな色をしているのか。見たくなくて、ようやく視線を逸らした。
「別に、なにも」
「でもミラ、ウプサーラ湖から帰ってきてからなんか、塞いでないか」
エルと、同じ。わたしをちゃんと見てくれていて、そんなやさしさがけれどわたしには、
「そ、そんなことより! 一つしかないように見えるけど、鍵」
身体ごと背けて、さっき浮かんだ疑問をぶつけてみた。少し無理やりな話題転換だったかもしれない。
どうか不自然さに気付きませんようにとの願いは届いたようで、指摘されたルドガーは、あー、と。なんとも気まずそうな声を洩らした。
「その。今日、宿泊客が多いらしくて、一つしか取れなくてな、部屋」
「…ベッドは」
「ダブルベッドが…一つ」
「ってことは!」
口を開いたと同時、幼い声が割り込んできた。勢いをつけ始めた文句の行き場をなくしてしまい、とりあえず飲み込む。
隣を見ればエルが、きらきらと輝いた目をルドガーに向けていた。
この子の期待に膨らんだ目はいつでも眩しくて、少し、うらやましい。
「川の字ができるよ!」
「川の、字…?」
「パパが言ってたの。エルがちっちゃいとき、パパとママとエルで、川の字でねてたんだって」
「ちょっと待って、じゃあその三人ってエルと、」
「そ。エルと、ルドガーと、ミラ!」
純粋な眸で見上げてくるエルの視線が痛い。
ちらりと横を窺えば、ルドガーはぽかんと呆気に取られていた。目が合ってしばらく、ルドガーの頬が突然染まる。音が聞こえてきそうなくらい勢いよく。
けれどきっと、わたしも似たような色をしているのかもしれない。
だってわたしとルドガーとの間を、見比べるみたいに視線を行き来させているエルが、どしたのふたりとも、暑いの、なんて。原因はあなたよ。
反論しようと言葉を探してみるけれど、こういう時に限って顔を出してこない。それにエルの母親まで持ち出されてしまっては、正面切って断ることなんてできるはずがなかった。
エルに甘いルドガーのことだ、二つ返事は早すぎるから、三つ返事とか四つ返事とか、たぶんそんなあたりで了承しそう。ミラがいいなら、とかそんなところでしょ、きっと。
それもいいかも、なんて考えがちらりと頭を覗かせる。別に減るものじゃないし。
いやエルはまだしもルドガーにまで寝顔を晒してしまうというのは自分の中のなにかが確実に減ってしまいそうではあるけれど。
けれど少し、魅惑的な誘いではあった。
──本当にいいの?
ぞくりと、背筋が震えた。なんの前触れもなしに、それはふと、襲いかかってきた。
「…じゃ、二人で仲良く寝てちょうだい。わたしは野宿でもするから」
「ミラ、」
呼び止めようと手を伸ばしてきたルドガーを振り払いたくて踵を返し、そのまま外を目指す。
外気は思っていた以上に冷たかった。それともホテルの過ごしやすい温度に慣れてしまったのだろうか。
身体を震わせる暇も与えたくなくて、あてもなく走り出す。大勢の人が行き交う広場を突っ切り、ただ闇雲に走った。
わたしはなにを考えていたんだろう。
エルとルドガーと一緒にいることに慣れてしまっていたなんて。それが当たり前になってしまっていたなんて。
わたしはこの世界にいてはいけない存在なのに、それなのにどうして。
気付けばイル・ファンの海停に着いていた。潮を含んだ風が髪をさらっていく。
全部全部、わたしの存在ごとさらっていってくれたらいいのに。最初からなかったみたいに、掻き消してくれたらいいのに。
そんな願いが届くはずもなく、ただ訳もなく風は通り過ぎていく。
疲れが一気に押し寄せてくる。倒れてしまいそうになるのをなんとか堪え、ビットの上に座り込んだ。
息を、一つ。流れていく呼吸の軌跡でさえ、わたしがここに確かに存在しているという証拠を残していく。
いつから、どうして、こんな感情を抱いてしまったんだろう。
なぜルドガーの背中の広さに気付いてしまったんだろう、エルの純粋な眸に魅入られてしまったんだろう、体温の心地よさを知ってしまったんだろう、どうして
「どうして…っ」
こんなにも、胸が張り裂けそうなんだろう。
胸元を押さえても、痛みが引くことはない。内側から、わたしを攻撃してくる。味方であったはずのわたし自身が、わたしを傷付けてくる。
憎しみを抱くことで自分を支えていた。それ以外を拠り所にしてはいけなかった。
当たり前だと無条件に信じていたなにもかもを失ってしまう恐怖を、絶望を、一度味わったはずなのに。
「…ねえ、マクスウェル」
行方の知れないこの世界の“ミラ”にそっと、呼び掛けてみる。もちろん返事はない。けれどどこかでわたしたちを、わたしを、見ている気がする。異物であるわたしを、見つめている気がする。
どんな気持ちでいるのか、なんて、同じ“ミラ”であるはずなのに、推し量ることができないけれど。
それならばと、願いを込めて。聞こえてるんでしょ、と。
眸が熱い。視界が歪む。
「早く、早く戻ってきなさいよ」
それが世界のあるべき姿。本物のミラ=マクスウェルが戻ってきて、そうして偽物であるわたしは、
「早く…わたしを消してよ……っ!」
この気持ちがもっと、もっともっと大きくなってしまう前に。抑えられなくなってしまう前に。消滅への恐怖に泣き出してしまう前に。
気持ちも姿も記憶も全部全部消し去ってほしかった。
わたしは姿の見えないマクスウェルに叫ぶ。自ら消える覚悟も強さもないわたしは、卑怯にもマクスウェルに願う。
「…早く、わたしを、」
ころしてよ。
自身を抱きしめる。震え出してしまわないように、泣き出してしまわないように。
マクスウェルは、現れない。
(或いはこれも罰だなんていうの、姉さんをころしたわたしへの、)
Chapter.11直前。
2014.2.21