Another world.
見上げた顔が今にも泣き出しそうに見えた。
彼は今、二つの選択を迫られている。わたしの手を離さずにいることか、エルの元に向かうことか。
前者を選べばエルは確実にリドウに襲われ、後者を選べばそれはつまりわたしが消えるということ。この世界のマクスウェルを召喚するための生贄になるということ。
そのどちらかを取ることが出来なくて、彼は今、揺れている。
わたしを映す濃い浅葱色が頼りなく揺れる。そのくせ繋いだ手にはしっかりと力をこめていて。
「しっかりしろ! 誰がエルのスープを作るんだ!」
気持ちとは裏腹に手を離してと懇願するわたしに、いつかの約束事を叫ぶ。一番の座をなかなか渡そうとしないのにやたらとスープを欲する少女の名を紡いで。
ミラはミラだと言ってくれた少女の顔がふと、浮かぶ。
「…ごめん。あなたが作ってあげて」
ふわり、微笑んでみせた。うまくいったかどうかは、あまり自信がないけれど。
笑みとともに、秘めていた想いを唇に乗せて。思いきり手を振り払えば、浅葱色がふいに見開かれた。
「お願い! エルをっ!」
途端に感じ始めた重力に従う直前、最期に見えた顔に、少女を託した。
深い深い穴の中に、逆さまに落ちていく。
ルドガーの姿が見えなくなるのは一瞬だったのに、真っ暗になった途端降下する速度が落ちた気がした。こんなところまで非情だなんてと、一人きりの世界で思うのはそんなこと。
考えてみたら、一人きりになったのは随分と久しぶりな気がする。
自分の世界にいる時も、正史世界に連れてこられた直後も一人きりだったというのに、傍らにエルと、それからルドガーがいることがいつの間にか当たり前になっていたのだ。隣にあたたかさがあるという事実に、慣れてしまっていたのだ。
そのせいで今、温度も何もない世界がこんなにも、寒い。
いっそすぐに消えてしまえれば、何も感じなくて済むのに。願ってみても、現実は変わらなくて。
目を背けたくてまぶたを閉じようとした瞬間、ふと、何もない空間に見慣れた影が映った。
いや、見慣れたなんてものじゃない。それはわたし自身──正確に言えば、ルドガーたちの世界のミラ=マクスウェルだった。
憎たらしいくらいに同じ顔をしているはずなのに、どこか違う、強い意志のこもった眸。わたしがマクスウェルだった頃はきっと持っていた、どこまでもまっすぐなそれ。
悔しいけれど多分、彼女にならば、ルドガーたちを救うことができる。悔しい、けれど。
「…やっぱり…嫌な女」
すれ違い際に言葉と、それから想いを託して。
今度こそまぶたを、閉じた。
「──その意思、まだ受け取るわけにはいかないな」
初めて、女の声を聴いた。
落下の感覚とは明らかに違うそれに驚いて目を開けば、見たくもない顔がすぐ傍ら、揺らぐことのない眸で見つめてきていた。
言葉を出せないまま身体ばかりが上へ上へと昇っていく。
張った膜を破るような、強い抵抗感。
それを過ぎれば、吹き荒れる青い光とともに眼下に広がる見覚えのある光景。
一気に上昇したかと思えば、ふわりと軟着陸、靴底が地面に触れる音が静かに響く。それはいつだか覚えのある、シルフの感覚だった。
気味が悪いほど静まり返っている中央ホールで最初に目が合ったのは、浅葱色の眸。頬に流れた雫を残したまま、呆然と口を開ける様は、きっとわたしをそっくりそのまま映している。
その傍らにはエルが、わたしの剣を抱えたまま同じ表情で座り込んでいた。さっき吹いた風によって、飛ばされてきたのだろうか。傷一つ負っていない様子に知らず安堵する。
「ミラ、が、二人」
呟いたのはジュードだった。
視界の端に、柱の側で立ち上がった少年の姿が見える。術式が解かれたのだろうか。それならばなぜ、
「これは、一体…わたしが消えないと、あなたは戻って来られないはずじゃ…」
「質問は後だ」
自身の口元に人差し指を当てて、あふれ出る質問を途切れさせる。
それから振り仰ぐのは、唖然とした顔で立ち竦むリドウ。怒りからか、それとも驚きからか。身体をわずかに震えさせ、武器を持った手を握りしめる。
「何故だ、何故マクスウェルがここにいる! ニセ者を贄に捧げなければ、お前は現れることができないはず!」
「贄、とは」
この場にいる全員が抱いているであろう疑問を投げつけるリドウの言葉を受け、隣に立つマクスウェルはす、と目を細めた。息を一つ、はき出すように。
「愚かな人間の考えだな。昔から何も変わっていない」
しかし、貴様に答えを与えても無駄だろう。
ごう、という凄まじい音とともに顕現するのは四体の大精霊。四大と呼ばれる、彼女の、そしてわたしにもいた、同胞だ。
地水火風の精霊を付き従え、現マクスウェルは言い放つ。
「答えの代わりに、皆を陥れた相応の礼をさせてもらおう」
それが号令であったかのように、四大が一斉に相対する敵へと術を放った。遅れてジュードとアルヴィン、それから再び骸殻化したルドガーがそれぞれの武器を手に続く。
先ほど剣を交えた感触では、リドウの戦闘能力は多対一でも及ぶだろうかというほどだったはずなのに、形勢は明らかに逆転しているようだった。不慮の事態に対応できていないのだろうか。ルドガー側も、マクスウェルという戦力に勢いをもらっているように見える。
「ミラ!」
幼い声にふと我に返った。
振り向けば、いつの間に近付いてきていたのか、エルがこちらに両手を掲げていた。手には剣。自身が残していったものであり、先ほどまで幼い少女が小さな手で敵に振るっていたものだった。
差し出された柄を握りしめる。
状況が整理できなくても、今は戦わなくては。この少女を守るためにも。
ようやくまみえた少女にふうわり、微笑んでみせる。今度は多分、うまく笑えたはず。
「行ってくるわ」
言葉を残して、背中を追った。
***
腰の辺りにしがみついたまま離れようとしないエルの頭を、撫でるでもなくただ手を添えた。ミラ、ミラ、と。小さな声は確かめるように何度も名前を呼んでくる。
リドウを退けて一旦マクスバードに戻れば、一様に驚きの色を浮かべる皆と再会した。わたしとマクスウェルを見比べて、それでも無事に帰ってきたことに喜んで。
自分でも今、ここにいることが俄かには信じられなかった。もしかすると都合の良い夢でも見ているのかと頬をつまんでみたけれど、やっぱり痛い。
「これはどういうことなの、ミラ」
目の前ではジュードが、彼女に質問を投げかけていた。
それはこの場にいる全員の疑問。どうして分史世界のミラがいるのに、同じ存在であるマクスウェルが現れることができたのか、と。
いたって真面目な質問であるというのに、当のマクスウェル様はといえば、エルみたいにしがみ付いているエリーゼの頭を撫でつつ当然だと言わんばかりに答えを一つ。
「どういうことも何も、彼女とわたしは同じ存在ではないからな」
「………え、」
思わず漏らした疑問符に、彼女は更なる答えを付け加える。
「正史世界には、同じ存在が二つといられない。しかし彼女はマクスウェルではなく、ただの人間だ。君たちと同じ、な。故にこの世界に、ミラ=マクスウェルは存在していない」
わたしを通して状況を見てきたという彼女は、いとも簡単に述べてみせる。
「でも、じゃあなんでミラは、すぐにこの世界に来れなかったの」
「ああ、出口が見つからなくてな。下手に動き回るよりも、じっとしていようと考えたんだ」
実にあっけからんとして、精霊の主は答えた。こちら側は散々迷い憤ったというのに、何なのだろうか、この釈然としない感じは。これが精霊を束ねる者なのだろうか。
そして釈然としないものはもう一つ。
確かにわたしは精霊の力を失った。しかし元は精霊マクスウェルとして生を受けたのだ、力を失ったとして、それは果たして完璧な人間だというのだろうか。
自問に反応するかのように、彼女は視線を向けてくる。何もかもを見透かしたそれを、ふと。
「君が、私が。ここにいるのが、確かな証だろう」
「そうだよ!」
それまで顔をすり寄せてばかりいたエルがば、と勢いよく顔を上げた。涙をこぼしたせいで赤く染まった眸でまっすぐに見つめてきて、しがみつく腕に力をこめる。
「ムズカシイことはわかんないけど、エルのミラはここにいるんだもん!」
「…そうね」
くしゃり。ルドガーがいつもエルにしているみたいに髪を撫でる。
少女の言ったことは真実だ。もう一人の自分に説明を受けた今でさえ、ここにいることが信じられないけれど、この手の平に感じるやわらかな感触は紛れもなく本物なのだから。わたしはまだ、この子とともにいられるのだから。
しばらくそうして撫でていれば、急に背中に重みを感じた。
首に回っている腕が、落ちるわたしを支えたそれと重なる。
「あ。ルドガーも、エルとおんなじだね」
見上げた少女が嬉しそうに顔を綻ばせる。
あとは二人でごゆっくり、と。何の気を利かせてか離れてゆく子供の体温を寂しく思いつつも、さらに圧し掛かってくる背後の体温に対応する方が先のようだった。
戻ってきたということは、ガイアスたちとの話を終えたのだろう。
指先を腕に触れさせて。ふと顔を上げれば、皆が興味津々といった様子でこちらを窺っていた。レイアやアルヴィン、エルは悪戯な笑みを、エリーゼとジュードは若干頬を染めて、ミュゼとマクスウェルはこれが愛の力ってやつねそうだななどと会話をしつつ。
頬に熱が集まったのが、自分でも分かった。
「ちょ、ちょっとルドガー! みんな見てるから、」
「よかった…」
引き離そうと押し留めようとした時、耳元で息と一緒に声が洩れた。よかった、と。
「ミラを、失ったかと思った」
俺が手を離したせいで、君を。
自身を責めようとする言葉に笑みをこぼして。
ばかね、と。呟いたのはやっぱりいつもの憎まれ口。
「離したのはあなたじゃない、わたしよ」
離してと再三言うのに、それでも指を開こうとしなかった彼の気持ちが嬉しかった。居場所のなかったわたしがいるべきところはここなんだと、確かに思わせてくれて。
だからこそエルを、ルドガーと同じくらい大切なエルを、守りたくて。
「――…ありがとう、ルドガー」
さらに強まった力に、わたしはまだ存在しているのだと、実感した。
***
あれからどれくらいの月日が流れただろう。
相変わらずエルが一番だと認めるようなスープは作れなくて、それなのに今日も明日もとせがんできて。あの事件からしばらくは離れて寝ようとしなかったのが、ようやく別々でも眠れるようになって。借金残高がいまだに減らないのだと魚が死んだような目で呟くルドガーを励まして。
そう、それだけの時間。
それだけ経ってもまだ、わたしがここに存在できていることが奇跡としか思えなかった。
わたしを取り巻く環境は、その間に少しずつ変わっていった。
一つは、ルドガーの家に一緒に住むようになったこと。
以前は近くにとった宿で過ごすことが多かったけれど、四六時中くっついてくるエルに付き合ううちに、自然とそういう流れになっていたのだ。いっしょにイソーローしちゃおうよ、と。きっかけを作ったのはエルだったけれど。
そしてもう一つは、ルドガーとの関係。中でも、一緒のベッドで眠るようになったことが、一番の変化かもしれない。響きだけはいかがわしく聞こえるけれど、間にはちゃんとエルが挟まっている。
それはここで暮らすことになった際、最初に決めたことだった。
わたしが泊まりに来ていた時は、ルドガーはソファを寝床としていたけれど、同じ家で暮らすとなればいつもとはいかない。ましてや彼は、借金返済のために日夜クエストに励んでいるのだ、寝床くらいちゃんとしてあげたい。
かといってわたしがソファで寝るといえば、女の子にそんな場所で眠らせるわけにはいかないよと譲らない。
ならみんなで寝ればいーじゃんと、打開案を出したのはやっぱりエルだった。
ベッドでの距離にはいまだ慣れることがない。
早起きな彼より少し早く目が覚めた日、あまりの寝顔の近さにしばらく動けないでいることはままあることだ。そんな朝は何とか起き出して、三人分の朝食を作って平静を取り戻す。
そうして少しずつ、奇妙な同居生活が形成されていく感覚はむず痒く、けれど嬉しいものだった。
目覚めたらエルがいて、ルドガーがいて、わたしがいる。描いてもいなかった幸せな生活に、顔の綻びを隠せない。こんなにも、こんなにも幸せでいいのだろうか、と。ルドガーには、口が裂けても言わないけれど。
そう、そのルドガーだ。
あの時、手を離す直前に告げた言葉。最期だと思って伝えたそれを今、思い出すのも恥ずかしい。最期にならなくて本当によかったけれど、やっぱり二人きりで面と向かい合うのは気恥ずかしいものがあった。
でも、それを感じているのはどうやらわたしだけのようで。
ルドガーはといえば、もしや人の一世一代の言葉が聞こえていなかったのではと思うほど、いつもと変わらない態度だった。いいえ、調子に乗っていつもと変わられても困るけれど。
けれど少し、以前よりも見つめてくる視線がやわらかくなった気がした。
もちろん以前が冷たかったなんてことはない。そうではなくて、わたしに向けていた罪悪感だとか後ろめたさだとか、そういった感情が少し、やわらいだような気がするのだ。世界を壊してしまったという事実に、苦しめられていたのだと思う。
それから少し、触れる機会が増えた。
ソファに並んで座っていれば、いつの間にか手が重ねられていたり。遠慮がちにそっと、寄り添うように肩が触れ合ったりだとか、そんな程度。エルがいない時にこっそりと、二人だけの秘め事のように。わたしが前ほど拒絶しなくなったのも、事実。
最近では憎まれ口がなりを潜ませていて、珍しく素直になってしまった自分に戸惑ってしまう。
それもこれも全部、大切な人たちを、守りたい人たちを実感したからなのだ、と。一人で考えて恥ずかしさに頬を染めるなんてばかみたいねだなんて、口元をゆるませながら思うのはそんなこと。
扉の開く音で、呆けていた思考が現実へと帰ってきた。
閉まる音の後、少ししてから姿を現したのはやっぱりルドガーで。
「お、おかえりなさい」
先ほどまでルドガーのことを考えていたからだろうか、口にした言葉はやけに詰まってしまった。
声をかけた途端、俯いていた顔が勢いよく上がって。キッチンに立つわたしを映した浅葱色が瞬間、丸くなった。そんな表情を見るのは初めてな気がした。いつも微笑むか意地悪く笑うかといった表情しか見たことがなかったのだ。
ほんのわずかな違和感はすぐに掻き消えて。窺うように見つめてきていたかと思えばふと、口を開く。
「…エル、は」
「ベッドに運んだわ。ソファで寝ちゃだめっていうのに、やっぱり子供ね」
急いで顔を逸らして、鍋のふたを開ける。こんなに慌てる必要なんてないというのに、気恥ずかしさからつい、早口になってしまっていた。
スパイスの香りが部屋に広がる。我ながら上出来だ。ついさっきあたため直したばかりだから、このままよそいでも大丈夫だろう。
「あなたの夜ご飯も作ってあげたわよ。エルに合わせて甘口だけど。まったく、お子様なんだから」
「………てくれ」
「サラダいる? エルが作ったんだから、食べないとは言わせないわ」
夕飯の支度をしているところへ、エルも手伝う、と意気揚々とやってきた少女が作ったサラダを思い出して、冷蔵庫へと向かう。つぶしたゆでたまごとソーセージを混ぜただけのシンプルなものだけど、味付けはちょうどよかった。
ルドガーにもぜったい食べさせてねと、念を押されて、
「やめてくれ!」
後ろからの大声にびくりと身体が震えた。
常にない声音に振り返れば、彼は立ち竦んだままわたしを見つめていた。泣き出す前みたいに、顔をくしゃくしゃにして。
「もう…やめてくれ…っ」
しぼり出すように、ただそれだけを呟いて。
握りしめている拳が、真っ白になっている。
ルドガーの姿をしているはずなのに、ルドガーではない気がした。
「…君のいる世界はこんなにも、こんなにも素敵なのに、」
彼の言葉を聞いてはいけないと、どこかで警鐘が鳴り響いて止まない。それなのにおかしいくらい声が消えて、まばたきすら忘れてただ目の前で苦しそうに顔を歪める彼を見つめるだけ。
浅葱色に映った自分は間抜けにも、ただ呆然としていて。
「俺は、…俺、は」
「ミラ!」
ふいに、私と彼の間に立ち塞がった影。
見間違うはずもないその後ろ姿は紛れもなく、ルドガーだった。どこから走ってきたのだろう、広い背中は酸素を吸おうとしきりに上下している。
肩越しから見える浅葱色がふ、と。自分自身へ向けて細められる。泣き出しそうだった表情はどこへいったのか、すべての表情が消えているように見えた。
「お前は、」
「廊下に、エルと、レイアたちがいたから。もしかしたらって」
息を整えながら、途切れ途切れに言葉を口にする。
廊下にエルがいた、とはどういうことだろう。少女は確かにソファで寝息を立てていて、それをわたしがベッドまで運んだはずなのに。寝顔を確認して、毛布までかけたはず、なのに。
どうしようもないくらい身体が震えだして、思わず目の前のルドガーの手を握りしめる。大きくて硬い手はあの時と同じようにぎゅ、と。力強く握り返してきた。その指先でさえ、共鳴するように微動していて。
柄を持った右手に力がこもったのが見てとれた。
「お前だって、気付いてたんだろう」
「やめろ!」
「ミラが、」
「やめてくれ! これ以上、」
「ミラが、──時歪の因子だって」
世界が、色を失った気が、した。
目の前の男の深い深い浅葱色だけが、唯一残った色であるかのようで。
繋いでいない方の手をふと、かざしてみる。またたきの間に一瞬だけ、紫の光が見えたようで、背筋が震えた。
それはルドガーとともに行った分史世界で嫌というほど見た色。今はもう存在すらしていない姉にも見えた、時歪の因子である証。
この感覚を味わうのは二度目だった。
自分の信じていた世界が、存在が、自分自身が。すべてがニセモノなのだと知ってしまう感覚。変わるはずも、変わりようもないと思っていたものすべてが、ニセモノへとすり替わってしまう。もう二度と、体験することはないと思っていたのに。
いつから、だなんて、考えなくても容易に想像がつく。わたしが助かってしまったあの瞬間にきっと、この世界は分史となってしまったのだ。再びルドガーの姿を見とめて安堵した一瞬のうちに。
やっぱりわたしは、存在してはいけないものだというのだろうか。わたしという存在のせいで、この世界のルドガーとエルを消してしまうというのだろうか。
わたしの、せいで。
「違う!」
ルドガーが同じ顔の自分に言い放つ。わたしの思考さえも振り払うように、手にした剣を払いながら叫ぶ。
「俺は守ると決めた! もう二度と、この手を離さないと約束したんだ!」
握った手の感触が強くなる。
わたしを背中にかばうようにして、剣を構えて。自分自身へと向けて、いつだかのわたしに約束した言葉を告げる。いつどんなことになっても俺がミラを守るからと、約束したのだ。ずっと一緒にいようと、約束したのだ。
きっと早い段階でわたしが時歪の因子であると気付いていたはずなのに、それでもわたしを助けようと、守ろうとしている。大して背丈が変わらないのに、その背に何もかもを背負い込んで。
佇む彼が唇を噛みしめるのが見えたと同時、骸殻化した。
剣を構えるルドガーに迷うことなく相対し、変化した獲物で薙ぎ倒す。繋いでいたぬくもりが離れて、そのまま壁へと吹き飛んでいった。
小さなうめき声とともにくずおれたルドガーの服には、どこかを怪我したのか、じんわりと朱が染みつつあった。
「やめてルドガー!」
それでもなお立ち上がろうとするルドガーに向かう男の背に名前を投げた。足がその場で縫いとめられる。
ゆるり、振り向いた浅葱色は雨の後の露草みたいに濡れていて。それでもこぼすまいと必死になっているように見えた。
ねえ、ルドガー。
今度はそ、と。呼びかければ、身体を完全にこちらに向けてくる。
「エルは。あなたの世界のエルは、無事なのね」
その問いに、眸を細めて。やさしく微笑んでいるはずなのに、泣き出す前の子供にしか見えなかった。
「ああ。ミラが──君が。守ったんだよ」
その言葉で、表情で、見えないはずの世界が垣間見えた気がした。
きっと彼の世界のわたしは、あの時にあのまま消滅したのだろう。わたしが託した想いをそっくりそのままに、現れるであろうマクスウェルにすべてを任せて。
エルが無事であるということは、マクスウェルは願いを遂げてくれたのか。どの世界のマクスウェルもまっすぐで、そして少し、憎らしい。
そのエルを家に入れずに廊下に待たせているのは、二度もわたしの最期を見せたくないから。きっとレイアたちが事情を察して、引き留めているに違いない。
「…ばかね」
それでもあなただけは、二度も背負い込んでしまうというのに。
たった二歩、進むだけで距離が詰まる。
見上げなくてもすぐ傍にある顔は、やっぱりくしゃくしゃに歪められていて。ふわりと微笑んでみせる。これはきっと、うまくいったはず。そんな自信があった。
首に両腕を回して、いつだったか背中にしがみついてきたルドガーみたいに、ぎゅ、と。力をこめて、抱きつく。
肩にあごを置けばもう、彼の表情は見えない。代わりに床に横たわるルドガーの、青ざめた表情がよく見えた。
肩がしっとりと濡れる。
「ミラ! だめだ、ミラ!」
声を出すことすらきっとままならないだろうに、私の心中を察したルドガーは必死に床を這おうとして、失敗する。苦痛に顔を歪めて、見上げてくる表情はあの時と同じ。助けたいのに、守りたいのに、どうすることもできなかった、落ちる瞬間の顔。
そんな表情をさせてしまったことがひどく、申し訳なくて。
「ごめんなさい、ルドガー」
濃い浅葱色が大きく見開かれた。
「ねえ、ルドガー」
──────、
気付くのはいつも遅く、伝えるのはいつも最期の瞬間。下手な意地と見栄と孤独感のせいで、後悔してばかりいた。
それでも今は、告げることができてよかったと、思う。
過去形にした想いはどうか、わたしに縛られることがありませんようにと。あなたが何も背負わず、振り返らずに生きていけますようにと。ただそれだけを願って。
彼がいつも口ずさんでいる唄が聴こえた気が、した。
(世界が壊れていく瞬間、わたしを呼ぶ言葉ばかりが耳にこびりついて、)
あいしてたわ。
2013.10.29