世界の境界線。

 食欲を誘う匂いは廊下にまで広がっていた。 「あら、おかえりなさい」  ドアを開ければ、少し驚いた風の薄桃紫色が向けられた。花でも活ける途中だったのだろうか、エプロン姿のミラは手に花瓶を携えていた。イフリートの紋が刻印されたそれはローエン曰く偽物らしいが─なんでも昔、似たような紛い物と遭遇したという─それでも純粋に模様が気に入ったのだと、いつだったかカラハシャールの市場でミラが買っていたのを思い出す。  偽物だからって処分するのはもったいないじゃない──ひとりごとのように呟いたミラの言葉が刺さったのを、覚えている。 「ただいま」 「今日は随分と早いのね。シエナブロンクに逃げられた、に一票」 「まあ、そんなとこかな」 「今朝あれだけ、今日こそ狩るぞーって意気込んでたのに。かっこわる」 「なら付いてきてくれればよかったのに」 「お腹空かしてくるだろうから夕飯頼むって飛び出して行ったのは誰かしらね」  花瓶を机の真ん中に置いた彼女は腕を組み、じとりとこちらを睨んでくる。その目は、せっかく作っておいてあげたのに、とでも言わんばかりだ。そうだったなと、頭を掻きつつ苦笑を返せば、大きなため息を一つ。幸せが逃げるぞ、なんて言葉は藪蛇をつつきかねないので止めておいた。  彼女がはき出した分の幸せを、代わりに俺が吸っておけば問題はないんだ。気持ち悪いなどと一蹴されそうだが、言わなければきっと気付かない。  深呼吸を一つ。幸せはチキンの香りがした。 「それで、今日のメインディッシュはチキンですか、シェフ?」 「ええ。お肉が食べたいっていう、エルのリクエストに応えてね。もちろん、お昼のタイムセールの戦利品よ」  タイムセールを殊更強調する彼女は、腰に手を当て胸を張る。所帯染みた習慣はきっと、倹約生活中の俺につられてついたものなのだろう。  エプロンの胸元にプリントされた猫が、窮屈そうに膨張した。  このエプロンは本来俺のものだった。以前エルの見立てに従い買ったものだが、着用しているところを一目見たミラが大層気に入ったようで、以来彼女専用となっている。おんなじの買えばいいのに、とはエルの言葉だが、ミラは依然首を横に振り続けている。どうやら俺とお揃いは嫌らしい。ならエプロンを共有するのはいいのかと尋ねたら一体どんな表情を見せるのか。興味よりも、その後の照れ隠し、もとい攻撃への恐怖が勝るので黙っておく。いや照れ隠しは見たいけれども、そのたびに重傷を負うのはごめんだ。 「…何か言いたそうな顔ね」  どうやらじっと見つめてしまっていたようで、不機嫌そうな表情を浮かべた彼女は再び腕を組む。白い猫にしわが寄って、なんとも不細工になっていた。いや、ルルに似たそれは元からそこまで可愛い顔はしてなかったけど。  問い詰めるようにじりじり迫ってくる彼女に、向けるのは笑顔。 「ミラは可愛いなーって」 「なっ…にを、突然」  途端、少しばかり下方の顔が一気に燃え上がった。  一緒に過ごすようになって気付いたことだが、ミラはストレートな言葉に弱い。今のように可愛いだとか、料理がうまいだとか、伝えればすぐに頬を染めてそっぽを向くのだ。それはもしかしたら、ミラがなかなかに天邪鬼な性格だからかもしれない。俺は反対に、思ったことをすぐ口に出してしまうタイプなので、そんな俺の発言一つ一つにいちいち反応を示してくれるミラは、見ていて飽きなかった。  そうして今回もいつものように視線を逸らして、相変わらず嘘つきね、なんて洩らしている。エプロン共有はいいのか尋ねた時の反応を想像していたのだから、あながち嘘でもないが。 「俺はもう、本当のことしか言わないんだけどな」 「それってどういう、」  意味なの、とでも続けようとした彼女は、しかし途中でどういう意味だか気付いたのか口をつぐむ。頬は上気したままではあるが唇をそっと噛むその姿に、ふと、笑ってみせた。君が気にすることじゃないんだと、そういう意味を込めて。 「チキンの他には?」 「…きのこのサラダに、コンソメスープ」  ようやく笑顔を取り戻し、今夜の料理を明かしてくれる。中でもミラ自慢のスープは久々に食べるから楽しみだ。 「それと、ローエンから良いワイン貰ったの」 「パレンジワイン?」 「そ。だから一緒に飲みましょ。エルが寝た後に」 「明日こそギガントモンスター倒したいんだけどなあ、俺」 「とか言いつつ嬉しいくせに」 「分かる?」 「分かりやすいのよ、あなた」  食後に控えているワインに頬をゆるめているのか、それとも俺と飲むことを心待ちにしてくれているのか。シンクへと向かう足取りが弾んでいる理由はどうか後者であってほしいと、ひそかに願う。  かくいう俺も、ミラと酒を酌み交わすのは初めてだから、どうしたって気持ちが浮き立った。差し入れてくれたローエンには今後、足を向けて眠れない。 「それはそうと、その花は」 「ああ、これ」  再び机に戻ってきた彼女が手にしていた、目に鮮やかな花束。薄桃紫色で統一されたそれはどことなく、彼女の眸を思わせる。花瓶に差し入れ、少しだけ束を広げて。それだけで卓上が華やいだ。 「お昼にレイアが来たんだけど、部屋に入るなり、殺風景だって叫んで」 「それで花束を買ってきた、と」 「あの素早さには驚いたわ…」  女子って怖いわねと、呆れ混じりのため息を一つ。それでも口元はレイアの気遣いが嬉しいと言わんばかりに綻んでいることに、彼女は気付いているのだろうか。  ちなみにアルヴィンの見立てらしいわよと、彼女が付け加える。道理でさっぱりまとまっているはずだ。これが全てレイアセレクトだったなら、見栄え重視に、例えば薔薇なんかを買ってきそうなのだから。  俺と並び立った彼女は、机に咲く花の具合を確認し微笑む。以前はあまり浮かべることのなかった、やわらかな笑みだった。 「…まるで夢みたい」  そうしてふ、と。まぶたを閉じて、それこそ寝息のように静かに言葉を落とす。 「みんながいて、エルがいて、あなたがいて。この世界にはまだ、わたしがいて。もしかしたら夢なんじゃないかって、たまに考えるの」  呟きにも似たそれはゆっくりと、俺の心に刺さっていく。  今だってありありと、泣き出しそうな眸が、掴んだ手の頼りなさが、離してと叫ぶミラの声が残っていた。絡め取られたわけでもないのに、忘れはしないと、わざわざ内に留めていた。だって俺は、 「都合のいい夢を見てるんじゃないかって」 「ミラ、」  見上げてきた薄桃紫色の眸に、嘘つきな男の姿が大きく映り込んだ。  見ていたくなくて、肩に顔をうずめるように抱きしめる。動揺が肩を伝って身体を揺らした。 「ちょっ…何、」 「ミラはここにいるから」  表情を窺うことは出来ないが、きっとさっきみたいに頬を染めているだろう彼女の言葉を遮る。“俺”が言えなかった気持ちを、伝えられなかった想いをありったけ込めて。ともすれば夢みたいに、儚く消えてしまいそうな彼女を腕の中に捕らえていたくて力を強める。 「俺が抱きしめてる人は、夢なんかじゃないから」 「…変なの」  息をつくようにはき出された言葉はやさしさに溢れていた。おずおずと背中に両腕が回され、すがるように、確かめるように、シャツを掴んでくる。そこに確かに存在するあたたかさが、彼女が、俺が、夢を見ているわけじゃないのだと知らしめてくれる。 「どうしたのよ。なんだか、らしくないじゃない」 「…そう、かな」  例えば許可なくくっつくなだとか、早く離れろだとか。何かしらの非難は覚悟していたが、予想していた言葉が向けられることは遂になかった。らしくないのは彼女の方だ。小さな子供をあやすみたいに背中をさすられ、憎まれ口の代わりにふふ、と笑い声がこぼれる。吐息が首元をくすぐった。 「まるで酔った時のあなたみたい」 「酔った時の、俺」 「覚えてない…わよね。あれだけ酔っ払ってたんだもの」  楽しそうに言葉を転ばせる彼女が指しているのは、リドウに嵌められたあの一件の夜のこと、らしい。らしいというのはつまり、俺は何も“覚えていない”のだ。彼女の話から、無事に帰還した祝いとして酒を空けたのだと察することが出来たが、それだけ。 「やっとエルが離れたと思ったら、今度はあなたがくっついてきたのよ」  引きはがすの大変だったんだから、と。思い出し笑いを洩らす彼女に、なるほどそんなこともあったかもしれないなと思う。彼女が言うのだから、きっとそうなのだろう。  つきりと、こめかみが痛む。針ででも刺したような痛みのくせして、頭の中はもやがかかったように曖昧で不鮮明だ。引き出すはずの記憶がどこに仕舞ってあるのか、そもそも目的の記憶は本当にあるのか、分からないほどに。 「…ていうか、そろそろ離れなさいよ」 「もう少し」 「調子に乗らないでっ」  胸板を押され、距離が開く。離れてしまったぬくもりがもう恋しかった。 「ご飯の用意、しなきゃいけないし」  今更ながらに朱に転じた頬を隠すようにそっぽを向いた彼女を見ていると、ついさっきまで探していたものなどもうどうでもよくなってしまった。元々記憶は曖昧なものなんだ、そんな不確かなものよりも、俺は今、“ミラ”といるこの瞬間が大切なのだから。  ──そう、“夢”は終わらせないといけないんだから 「…じゃあ出来るまで、俺は外の空気でも吸ってくるよ」 「なによ、手伝ってくれないの?」 「手伝ってほしいのか?」 「…べっつに」  まったくもって素直じゃない様子に自然、浮かんだ笑顔を返す。 「すぐに帰るから」  “ミラ”と約束して、俺はノブを回した。  ***  夢の終りはいつも唐突にやって来て、そして手を下すのはいつも自分だった。 「あ、ルドガー!」 「お疲れさん」 「様子は…いかがでしたか」  マンションから一歩出たところで、初めに俺を見つけたレイアがブランコから元気よく立ち上がった。その勢いのわりに表情に陰が差して見えるのは辺りが暗いからだろうか。片手を上げて労ったアルヴィンも、眼鏡の奥の目を細めたローエンも、みんな。まるで俺を憐れんでいるかのように見えて。  ただ一人エルだけが、柵に縋って夜のトリグラフを眺めている。俺が帰ってきたことに気付いているはずの少女はしかし、ただ夜風に結った髪を揺らしていた。 「ええと…やっぱり、その。原因は、ミラ…だったの?」 「まあ、街の人間の話聞く限りじゃ、ハズレじゃないだろうな」 「“ミラ”さんが存在している、ということですからね」 「でも、こんなのって…」  一言も発さない俺を抜きに、昼間何度も尋ねて回った話を繰り返す。見知った近所の人から聞いた、ミラと俺たちの話を。エルとともに買い物に出掛けていたミラの姿がフラッシュバックする。以前とは違う、やわらかな、とても幸せそうな笑顔が広がっていて。  いや、あれは夢の話だったか。それとも今、この時が夢なのか。そもそも俺は何をするためにここへ、 「ルドガー、」  少女の声が、届く。俺をそのまま映したような色の眸がまっすぐと、嘘つきな男を捉えていた。静かな、何もかもを見透かしているそれは揺れるでもなく凪いでいて。或いは少女は気付いているのかもしれない。やさしい世界の甘い誘惑に、現実に取って代わろうとする、夢に。夢──夢って、なんだ。俺の現実は、どれなんだ。  ああ、そういえば俺は約束をしていたんだ。すぐに帰ると、約束したんだ。チキンを焼いて、ミラ特製のスープをあたためて、レイアとアルヴィンからの花束を眺めつつ三人で夕食を食べて、食後にローエンからのワインを開けて。あのワインは一体、どのローエンからもらったのか、目の前の彼でないことは確かだった。  浅葱色がわずかに姿を隠す。そうして瞬きの間に再び、少女は背を向けてしまっていた。目を、背けるように。  かちん、と。それまで動いていた少女の時計が止まった気がした。そんなことよりも俺は早く、エルとともに“ミラ”の元へ帰らないといけない。 「…ルドガーさん、どうかされたのですか」 「おい、大丈夫か。なんか顔色わりーぞ」 「ルドガー…?」  俺は、 「──早く、夢から覚めないと、な」  指先に触れた柄が無機質に、鳴った。 (俺にとってはここが、現実だ)
 或いは彼の夢とどうにもならない現実の境目。  2014.1.19