やさしすぎるあなたにどうか幸あらんことを。

 死後の世界とはこんなにも殺風景なものなのだろうか──それが最初の印象。  あの時、つまり彼らの世界のマクスウェルと入れ違いに、暗い穴の底へと沈んでいった時。  雨で字が滲むように、少しずつ薄れていく意識が感じたのはただ、漠然とした消滅だった。この、どこへ通じているとも分からない穴の先に精霊界が待っているとは到底思えるはずもなく、そもそもどこかに着地点があるとして、そこへたどり着く前に、姿も意識も、わたしという痕跡を残すことなくまるごと消えるのだと。そんな確信にも似たなにかがあった。  ならせめて、目を閉じているうちにすべてが終わっていてほしい。そう、眠ることと変わらない、覚めない夢に落ちるだけだと、言い聞かせる。こわいだなんて、口に出したらわたしはわたしでいられなくなってしまいそうだから。最期くらい、意地っ張りなわたしのままで。  まぶたの裏に浮かんだいとしい少女とやさしすぎる青年に小さな別れを告げて、意識を手放した。  はずだったのに。  そうして次に目を覚ました時、わたしはひとりきりだった。  これは一体どういうことだろうか。身体から意識がするりと抜けていく感覚が確かにあったのに。なのに今、わたしは見たことのない真っ白な空間にひとり、座っている。何の気配も感じ取れないことから、ここが精霊界でないことは確実だ。なにより殺風景すぎる。  或いはこれは夢だなんて言うのだろうか。頬をつねってみても、痛みはあまり感じなかった。ゼロ、というわけじゃない。半分だけどこかに置いてきてしまったような、そんな風に。  佇んでいても仕方がないので、注意深く歩みを進めてみる。けれどどこまでも純白な空間が続くばかりで、東西南北どころか上下の境界もよく分からない。果たしてわたしは本当に歩いているのだろうか、そんな疑問を抱いてしまうほど。雲の中をひたすら進んでいる、とでも表現した方が近いかもしれない。それほど曖昧な感覚。  時間の感覚さえどこかに置き忘れてきたみたいに、どれほど歩いたのかも分からないけれど、そのうち足を動かすことにも飽きて、目覚めた時と同じようにその場に座り込んだ。ふわふわとした頼りないものが身体を包み込んでいるようで少し、居心地が悪い。 「なんなのよ、ここ」  試しにぽつり、呟いてみる。何事もなく口からすべり出た言葉は確かにわたしの音で構成されていて、けれどどこにも反響することなく消えていった。  ──本当に、ひとりきりなのね  ようやく掴んだ事実は一つ。  不思議なものだ。自分の世界が壊されてからというもの、わたしはずっとひとりきりだったはずなのに、そんな事実を改めて感じたのは随分と久しぶりな気がする。あそこはわたしの生きた世界とは違うと分かっていたはずなのに、あの世界が、少女の傍が、彼の隣が、わたしがいてもいい世界なんだと。そんな風に思っていた、なんて。  ふいに視界が歪む。不明瞭な世界がさらに形を崩していく。  こんなことを知るくらいなら、やっぱりひとりきりだったなんて自覚するくらいなら、あのまま消えてしまいたかった。こんな寂しい場所にひとりでいるくらいなら、いっそなにも残さずいなくなってしまいたかった。  ぼんやりと映る自分の身体を見ていたくなくて、眸を閉ざす。白い世界は姿を隠して、代わりにすべてを覆う闇が訪れた。声も、音も、なにも聞こえないそこは本当に、わたしひとりだけの世界で、 『ミラっていわないでよ!』  声が、頭に響いた。  咄嗟に目を開く。けれど目の前に広がっているそれはさっきとまったく変わりない。立ち上がって周囲を見渡してみても、求めた変化はなかった。けれど確かに聞こえたのだ、見知った少女の声が。本物のマクスウェルに託した、いとしい少女の声が。空耳ではなく、本当に。  聞こえた、というより、感じた、と言った方が正しいかもしれない。耳にではなく、頭に直接届くような、そんな雰囲気だった。  もしかしてと、もう一度眸を閉じてみる。 『ミラは、お前を守りたかったのだ』  今度はわたしとよく似た、少し低音の入った声が響いた。直接顔を合わせたのはただの一度きりだったけれど、直感が告げていた、これはマクスウェルであるミラの声だと。しかしそれもすぐに、もやがかかったように不鮮明になってしまった。  意識を研ぎ澄ませる。音を、辿るように。  そうして再び音が戻ってくるとともに、視界が急に開けた。  まぶたを開けたわけではない。それなのに、目の前にはどこかで見た覚えのある景色が、色が、映りこんだ。 『エル。私は、お前に誓う』  あの、どうしようもなくやさしい青年と同じ、浅葱色の眸が揺れている。まるで泣き腫らした後みたいに。あれほど泣くまいと強がっていた少女が、雫を湛えた眸でわたしをじっと見つめていた。  エル、と。呼ぼうとしたのに、名前が音にならなかった。  それどころか、強がってばかりの少女の頭に手を置いてばかねなんて慰めることさえ出来なかった。  いつの間にか引き抜いた剣の柄を、少女に捧げるように掲げる。 『もうひとりのミラの生を、無駄にしないと』  まぶたを開ける。  浅葱色の眸も、潮の匂いも、聞き飽きた声も、そこにはなく。わたし以外にはなにもない、ただただどこまでも白い世界が広がっていた。  姿の見えないマクスウェルの言葉にあったもうひとりのミラ、とは、“わたし”のことなのだろう。ということはやはり、わたしは消えたのだ。あの世界から、みんなの前から、わたしは確かにいなくなったのだ。  どういう仕組みなのかは分からない、ついさっき見た光景が今、彼らの世界で繰り広げられているのかどうかも定かではない。けれどあれはきっと、マクスウェルと通して見た世界なのだと、どこかで確信していた。わたしがいなくなった後の、彼らの世界なのだと。  世界が動いている。それは当然のこと。わたしひとりいなくなったくらいで、世界は歩みを止めはしない。そもそもあの世界にわたしは存在してはいけなかったのだから、本来の“ミラ”に戻った今こそ正常なのだ。  さみしくはなかった、もう、十分すぎるくらい実感したから。  今はただ、どうか人一倍強がりな少女の涙がこぼれないようにと。きっとわたしのせいであんなにも霞んでしまった少女の浅葱色が元の色を取り戻すようにと。そればかりが、わたしの願いで。 「─…エル、」  それからたびたび、眸を閉じるようになった。  この世界でできることと言えば、精々歩き回るくらいだから。もしかすると見落としたなにかがあるかもしれないと気まぐれに散策してみるけれど、目が痛くなるくらいに真っ白なだけで、人影も物陰もない。どこかへ通じる入口があるかもしれないなんて甘い希望は持たないようにした。  そうして飽きたらその場に腰を下ろして、視界を閉ざして。みんなが続けている世界を、マクスウェルの視点から見つめる。  それはとても奇妙な感覚だった。  もちろんわたしの意思で身体を動かすことはできない。けれどお腹は空くし、食感もする。おいしそうなご飯の匂いも、指先に触れる柄の冷たさも、目に鮮やかな浅葱色も、すべて感じることができるのだ。まるでその場にいるかのように。違うと言えば、すべてがすべて、半分だということ。満腹感も、傷の痛みも、片割れをどこかに残してきてしまったみたいにおぼろに感じること。  置いてけぼりにされたのは、わたしだけじゃないみたい。  ひとり呟いてみても、虚しいだけだった。  わたしがひとりで眸を隠している間にも、彼らの世界は回り続ける。  最後の道標がある分史世界で、少女の父親と対峙した。その父親の正体は、あのやさしすぎる青年の分史世界の姿で、少女もまた、分史世界の存在で。  少女がいなくなったのは、そのすぐ後だった。  あんな小さな身体で、一体どれほどの悲しみを背負えばいいのか。どれほどの覚悟を持って、青年を救おうとするのか。一体どれほど、涙をこらえているというのか。わたしには分からない。撫でることも、抱きしめることも叶わないわたしには、なにも。  だからせめて青年が、わたしが少女を託した青年が、わたしの分まで伝えてくれたらと。ジュードやマクスウェル、そして自身の兄から未来を受け継いだ青年が、少女を救ってくれたらと。  カナンの地の最奥で剣を抜き去る。眸を閉ざしたわたしもまた、マクスウェルとともに、世界に入り込む。  そうして、 『エルを、助けてくれ!』  そうして、少女は消えた。  ***  まぶたを開く。  もう随分と前から見飽きていた白が、性懲りもなく視界に入ってきた。 『ばいばい、ルドガー』  最期に見た少女の横顔は、笑っていた気がした。見守ることしかできなかったマクスウェルが見たのはただ、笑顔だった。  誰が責められるだろうか、誰が言葉を掛けられるだろうか。青年はただひたむきだった。ただまっすぐだった。ただ必死だった。ただ、やさしかったのだ。誰よりも、やさしすぎたのだ。あの場にいた誰にも、そして眸を現すことで目を背けたわたしにも、問いただすことはできない、してはいけないのだ。  ごろりと寝そべる。身体を覆うふわふわとした感じにはまだ慣れなくて、 「やあ」 「──え、」  思わず飛び起きた。  この場所で、眸を開いた状態で、誰かの声どころか物音一つしたことがなかったのに。  片膝立ちになったわたしの目の前には、人影が立っていた。いや、人と呼んでいいのだろうか。確かに人の形はしているけれど、顔には何のパーツもなく、のっぺりとしている。肌の色は、目を凝らしていなければ周囲に溶け込んで見えなくなってしまいそうなほど白い。  けれど感じる雰囲気は、精霊のそれ。そして間違いでなければ、ついさっき目にした、大精霊。 「あなたは…オリジン、ね」 「こうして会うのは初めてだね、ミラ」 「その口振りからして、わたしが“見ていた”のを知ってるのね」  少年の姿をした大精霊は頷く。  彼はどうして、ここに姿を現したのだろうか。どうやってここを訪れたのだろうか。湧いてきた疑問をぶつけようと口を開いても、言葉になることはなかった。  そんなわたしの様子を見て、少年は微笑んだ、気がした。なにしろ表情がないものだから、よく分からない。 「僕は、君を迎えに来たんだ」 「迎え…どういうことよ」  表情どころか、言っている意味もよく分からなかった。 「行き先は、正史世界」 「なっ…!」  なにを言っているのだろうか、この大精霊は。わたしの聞き間違いでなければ確かに今、正史世界へ行くと言っていた。  驚きに声を発せずにいるわたしに、少年は淀みなく話を続ける。 「君は分史世界の存在だ。けれど正史世界で過ごすことで少しずつマナを、魂を定着させていたんだ。共有していた、と言った方が正しいのかもしれないね」 「共有…それは、正史世界のマクスウェルと、ってこと」 「そう。君たちは魂を半分ずつ持っていた。だから片割れとなった君は、消滅することなくここに来た」  すべての感覚が半分くらいしか感じなかったのも、マクスウェルと魂を共有していたから、だと言うのだろうか。つまりマクスウェルはわたしの魂の半身であり、わたしもまた、マクスウェルの片身であると。 「ここはどこなの」 「人間界と精霊界の狭間にある場所。僕にもよく分からないけど」  クロノスの力を少し借りたんだ、と。少年はどこかおかしそうに笑う。もちろん、そんな気がしただけ。  一度に多くのことを告げられすぎて頭が混乱してはいるけれど、わたしは消えてはいないということと、今まで見てきたことはすべて正史世界での出来事だったということは理解できた。 「君も見たはずだ、彼の選択を、彼の結末を。一人の少女が彼を救った、その瞬間を」  少年は告げる、少女がいなくなってしまったのだという現実を。青年の、過酷すぎる結末を。 「今度は君が、ミラが、彼を救えるかもしれない」 「わたしが、救う…?」 「選択肢は二つ。正史世界に帰るか、ここに残るか」 「ちょ、ちょっと待ってよ。正史世界にはマクスウェルが、」 「新しいマクスウェルはもう、精霊界へと戻っていったよ」  少年が言うには、わたしがまぶたを開いたその後に、正史世界の姉とともに精霊界へと帰っていったのだという。だから君は何の問題もなく正史世界へ行けるんだよ、と続けて。  そうして少年は両手を広げる。わたしに差し伸べるように。 「最後まで見つめ続けた君だからこそ、少女を救いたいと願った君だからこそ。彼を救うことが出来るんだ」  眸さえ見当たらない顔は確かに、わたしに向けられていた。どこか試すように。  そ、と。まぶたを閉じる。探し求めた浅葱色は見えない。世界はもう、映らない。そこにはただ、最後に見たやさしすぎる青年の横顔ばかりが残っていて。  わたしは、 「わたしは、ルドガーの傍にいたい」 「それが、君の選択だね」  少年が、世界が、光を帯びる。眩いばかりの光に包まれ咄嗟に、腕で顔を覆った。 「願わくばどうか、」  どうか青年に幸あらんことを、と。少年は呟くようにそう言って、  そうして気付けば、わたしはひとりきりだった。  真っ白な空間も、顔のない大精霊もどこかへ消えていて。或いは今までのことはすべて夢だったのかと思ってしまうほど、何事もなかったかのように、リビングに立っていた。  この見覚えのあるリビングは絶対、彼の家だ。このキッチンに立って何度もスープを作って、まだかまだかと催促する少女に自慢のそれを振舞って、なんて。昨日のことのように浮かぶくらい、ここは思い出が溢れている。  夢ではないだろうかと、そっと頬をつねる。痛みはやっぱり半分だけ。  一歩、足を進めてみる。さっきと違い、自分の意思で動かすことができた。ならやはりわたしは、少年が言っていた通り、正史世界に戻ってきたということなのだろうか。  もう一歩、一歩と進んで。  扉の前でふと、立ち止まる。  この中に彼がいる、そんな予感にも似たなにかがあった。きっとベッドの縁に座って、ただ中空をぼんやり眺めている、そんな様子がありありと浮かんだ気がして。  手を、握りしめる。  意を決して扉を開ければ、わたしが想像したのとそっくりそのままの姿の青年がいた。 「──…ミ、ラ」  物音に反応した彼がわたしを見て目を丸める。そうしてしばらく視線を交わして、ようやく音になった名前はしっくりとわたしの耳に馴染んだ。まるでそこが定位置みたいに、そっと。  名前を返そうとした、けれど、音を紡ぐよりも早く、彼の表情がくしゃりと歪む。 「夢でも、見てるのかな」  俺は逃げてるのかもしれないな、なんて。浅葱色を歪めて青年は自嘲気味に笑う。それとも責めに来たのか、とも。  彼を救えるかもしれない、そう言った少年の言葉がよみがえる。少女を失った彼を、なくしてしまった彼を、救えなかった彼を。  一歩、踏み出す。  そうして間近に迫れば、見上げてくる浅葱色は頼りなく揺れていた。いつかの少女と、同じように。  指を、伸ばして。びくりと震えた彼に構わずそ、と。身体を抱きしめた。 「もう、泣いていいのよ」  すべてを彼に背負わせたわたしが救う、なんておこがましいのかもしれない。けれどどうか、少女とよく似た色を持つ彼の心を軽くできますようにと。少女が願った未来に進んでいけますようにと。  むき出しの肩が雫で濡れる。  そうしてそっと、腕が回される。存在を確かめるように、縋りつく幼子のように。 「俺は、エルを…っ」  悲痛な叫びを上げるこの、やさしすぎる青年の背を撫でることしか、わたしにはできなかった。 (いっしょに背をなでているはずのあの子は、)
 或いは少女がえがいたしあわせの断片。  2014.2.18