夜域におちる
人の体温がこんなにも心地いいことを、はじめて知った。
「ったく…だから飲み過ぎるなって言ったのに」
「あなたに小言を言われるほど飲んでないわよ」
いつもより随分と離れた場所にある浅葱色をじろりと睨んでみても、はいはい分かったよとため息交じりに返されるばかり。
全然分かってないじゃない、なんて口をとがらせるのもこれで何回目だろう。
きっと四回目のやり取りを終えたと同時、ホテルの一室にたどり着く。器用にカードキーを差し込んだルドガーは、薄暗い室内に身体を滑りこませた。
屋上のバーからここまである程度距離があったはずなのに、少し早く着きすぎじゃないかしら、そうは思うものの口にはしないまま、大人しくベッドに横たえられる。
首に回していた手を仕方なしに離せば、隙間に吹き込んできた冷気にふるりと身体を震わせた。
「大丈夫か、ミラ。気持ち悪いとか、吐きそうとか」
「…水、飲みたい」
「ん。持ってくるから、ちゃんと横になって待ってるんだぞ」
まるで子供にでも言い聞かせるみたいな口調に、ルドガーの背に向けて伸ばしていた手をぴたりと止める。
もしかして彼は、エルと同じようにわたしを扱っているのだろうか。小さな子供のように、年の離れた妹のように。
わたしの方が年上なのに、とは思うものの、その程度でへそを曲げてしまうわたしの心は本当に子供じみているのかもしれない。子供扱いしてほしくない、なんて。
ならどう扱ってもらえたら不満が消えるのかと尋ねられてもすぐには答えることができないけれど。
けれどせめて妙齢の女性を横抱きにしたんだから、頬を染めるとか、動揺するだとか、なにかしらのアクションがあってもいいじゃない。
それなのにわたしばかり、
「ミラ、」
冷たさが思考に割り込んできた。
ふてくされて背中を向けていたわたしの頬にコップの底をひたりと当てたルドガーは、きっと驚いた顔をしているわたしを見て唇の端をゆるめる。
薄暗闇のなかぼんやりと映るその表情は少し意地悪く、けれどなぜだか幸せそうにも見えた。
「水。持ってきたよ」
「…普通に渡しなさいよ」
不平を洩らしてみても、ごめんごめん、と悪びれもせず笑うばかり。頬があつそうだったからさ、なんて。
この男はわたしをなんだと思っているんだろうか、本当に。
伸ばした指先がルドガーのそれに触れても表情は変わらないまま、わたしばかりが動きも思考も止めて、水滴の浮き始めたコップを見つめる。
ぴくりとも離れようとはしない指はコップの中身の影響で少し、冷たい。
「…ルドガー」
「なに、ミラ」
返ってきた音はどこまでもおだやかに、わたしの耳をくすぐっていく。
けれどどんどん熱を失っていく指が場所を譲ることはなく、逆にもう片方の手でコップごと包みこまれた。身体が腕から順にこわばっていく。
もう冷たいのかあついのか分からなくなってしまった。
「ちょっと、」
「俺がなにも感じてないと思ったのか、ミラ」
ふ、と。消えた微笑みに動揺を隠しきることができなかった。
「なん、で」
「さっきつぶやいてたから」
理解が遅れたのは一瞬。空いた左手で口元を押さえても後の祭りだなんてことは重々承知していた。
その合間にコップを奪い去ったルドガーは水を一口含み、左の手首を捉える。
露わになった正直すぎる唇に、わずかに潤ったそれが重なった。舌でこじ開けられた隙間から冷たい液体が流れ込んでくる。
重力に従って落ちてくるそれをただ受け入れることしかできなくて、必死に飲み下した。
それでもすべてを嚥下することは不可能で、口の端からこぼれていってしまう。
息が苦しくて思わず、ルドガーの胸元を掴んだ。
酸素が足りなくてなにも考えられなくなってきた頭は、けれど離れたくないとせがんでいるようでもあって。
唇が名残惜しそうな音を立てて距離を置いたのは、もう息さえ飲み込まれてもいいと思い始めた時だった。
「…俺、さ。一応、我慢してたんだ」
「…どう、し、て」
「酔っ払ってる女の子にこういうことするのは、フェアじゃないから」
息も絶え絶えに言葉を続けるわたしに、なんだかやけに縮こまったルドガーはぽつりとこぼした。
ああ、やっぱりあなた、全然分かってないわ。だってわたしはあなたの話を聞くのに夢中で、お酒にはほとんど口をつけていないんだもの。
いつもとは違う距離の先にあるあなたの顔を見て、頬を染めていたんだもの。
本当になんにも、分かっていないのね。
しばらくぽかんと、間抜けなくらい呆然としていたルドガーは、やがて泣き出す手前みたいに顔をくしゃくしゃに歪めて笑う。
「全部、聞こえてるよ、ミラ」
そのまま落ちてきた唇を受け止める。今度は恋人の真似事みたいな、触れるだけの口づけを一つ。
「聞こえるように言ったのよ」
(さっさと気付きなさいよ、この鈍感)
ルドミラ夜域導入話。
2014.4.30