どうせ戻ることはないのだから、
「ねえさ、」
最初に飛び込んできたのは夜闇にとけた浅葱色。細められたそれがわたしを映し込む。或いはそれは碧の檻に閉じ込められた風にも見えて。
またたきを一つ、二つ。目尻が少し、熱い。
「大丈夫か、ミラ」
うなされてたみたいだけど。
声変わりに失敗した少年のような、高さを残した音が鼓膜に張り付く。ばくばくと尚も波打っている心臓が更に速度を上げた気がして思わず耳を塞ぎたくなったけれど、寝起きの身体はまだ夢の中を彷徨っているのか言うことを聞いてくれそうにない。
この声を発するたび、この音がわたしの名前を紡ぐたびに。まるで人間みたいに芽生え始めた感情がどうしようもなく揺らぐことをきっと彼は知らない。知りようがないし、知ってほしいとも思わない。
なんでもないわよ、と。伝えられたらよかった。少し低めのトーンで機嫌が悪い風を装って、苦笑した彼がなんだそれならよかったって。けれどようやく開いた口から声が顔を出すことはなく、代わりに喉を締め付けられたような、掠れた呼吸音ばかりが耳を突いた。
息が苦しい。酸素を求めているのに、うまく取り込んでくれない。別の誰かに乗っ取られたみたいに、身体が反応してくれない。
そ、と。前髪をかき分け、額に大きな手のひらが当てられる。反対の手はわたしの両手をまとめて取って、存在を確認できる程度の力で握りしめてくる。冷たく感じるのはわたしの身体が熱を孕んでいるからだろうか、判別できないけれど、冷えたそれは確かにわたしを落ち着かせてくれた。
「ゆっくり息を吸って、」
言われるがまま、肺に酸素を満たす。
「吐いて」
胸がぎこちなく上下する。さっきまでのことが嘘みたいに、ゆっくりではあるけれど自由が利くようになっていた。本来の生命活動を取り戻したわたしを見とめ、安堵の息を一つ、額から手を離した彼はその流れで目尻を拭っていく。雫が奪い去られていく感触にふるり、身体が震えた。
「大丈夫か、ミラ」
「なんでもない、わよ」
もう一度向けられた質問に今度こそ返答して、けれど声はまだうまく発せなくて途切れ途切れになってしまった。これではなにかあったと言わんばかり、心配してほしいわけじゃないのに、知ってほしいわけない、のに。
そう、なんでもない、ただの夢。
終わりはいつも決まって姉さんが、もうこの世界のどこにも存在しない姉さんが登場する。優しかった頃の姉さんが現れることはなく、眸を固く閉ざした彼女は毎回わたしに問い掛けるのだ。何故お前が、お前だけが存在しているの、と。
そんなの、訊きたいのはこっちの方だった。わたしがいるべきではない世界で、わたしがこわしたたくさんのものが溢れる世界で、何故わたしは生きているのか、どうして姉さんとともに消えることが出来なかったのか。
「…本当に、なんでもないのか」
存在していたかもしれない彼を、少女を、ころしてしまったわたしがどうして、なんて、
僅かに距離を詰めてきた碧がわたしを捉える。混じり気のない、澄んだ眸がどこまでも忠実にわたしを映す。牢獄に閉じ込められた薄桃紫色の眸を持つ女がこっちをじっと見つめてきていた。精霊としての力も、気高さも、心さえもなくしてしまった、ただの人間を。
ようやく感覚を取り戻してきた身体を起こし、その勢いのまま彼との体勢を入れ替える。ぐるりと世界は反転し、浅葱色を見下ろす格好になった。両手を彼の首に添えて。碧は揺るがない。
「いいよ」
言葉が落ちる。静寂を破ってしまわないように、ひっそりと。いつもと違う、アルトの声がわたしの身体に響く、いいよ、と。子供に言い聞かせるみたいに、もう一度。
浅葱色が姿を隠す。映り込んだわたしを刻むように、残像を追いかけるかのように。
「──俺が、君の世界をこわした」
指に力をこめる。喉仏がゆるく抵抗しつつも沈み込み、ぐ、と苦しげな音が洩れる。それでもまぶたは開かれることがないまま。早く開けてほしいのに、早く解放してほしいのに、わたしを、なにもかもを失ってしまったただの浅ましい人間を。
いつからわたしは囚われてしまっていたのだろう。夢に見るほどに、彼と少女と、共に過ごす日常を夢見てしまうほどに、一体いつから、わたしは、
そ、と。手を離す。途端に咳き込み始めた彼はついに眸を向けてきた。少しだけ褪せた碧は泣き出しそうにも見えて。
「ころすわけ、ないじゃない」
絞り出した声は自分のものじゃないみたいに低く、低く。
「あなたは逃げたいだけよ」
世界をこわすという重責から、世界をこわしているという現実から。
ぐらりと碧が揺らいで、色の中心にいるわたしの像が僅かに乱れた。臆病な人間に成り下がってしまったわたしは、わたしをとかしこんだ浅葱色を消すことなんてできない。自分自身の存在ごところせるほど、強くはない。
「あなたはこわすの、これからも。こわして、こわしてこわしてこわして、そうして確かめなさい。この世界が本当に、犠牲を払ってまで守る価値のあるものなのか」
そうして犠牲を払ってまで守りたいものを見つけて、なんて、祈りにも似た願いは胸に留めたまま。
伝った雫を彼みたいに奪い去ることは、わたしには出来なかった。
(世界も、わたしも)
女の世界をこわした男と、男の未来をころした女と。
2015.1.28