嫌い嫌いも好きのうち。
「ほんっと信じらんない!」
クッションを抱き潰し、ポテトチップスを頬張りながら、ラーマ・ヘルツフィールドはもう何度目かの悪態をついた。
「仕方ないよ。今日は大学の模擬授業だって言ってたし…」
シャーシャは歌詞カードを目で追う片手間にラーマを宥める。
彼女たちの推しであり、人々に愛と勇気をくれるアイドルことファルルの新曲がつい先日リリースされたばかりだった。来たるべき新曲発売記念ライブに向け、一刻も早く歌詞を頭に入れなければならない。少女の海馬はフル回転していた。
「技術検証よりも、模擬授業のほうが大事だって言うの!?」
「わたしたちだけの所長じゃないからねぇ」
床に並べたライブTシャツを吟味しているエニアは、あやすような口調でそう言った。
やっぱり前回のツアーTシャツがいいかな、いやでも去年の周年Tシャツもかわいいし、などと考えを巡らせている様子は、もしかすると研究に参加している時よりも真剣かもしれない。ひとつひとつのイベントに本気で取り組むのが彼女たちのポリシーだった。
真面目に取り合ってくれない友人二人を前に、ラーマは不機嫌を露わにポテトチップスを食い荒らす。件のアイドルの新曲が延々流されているものだから、ラーマでさえ口ずさめるほどになっていた。そのことが余計彼女の神経を逆撫でする。
アイセメルの不在は今に始まったことではない。ブラックリング研究所の所長と連合大学の教職を兼任している彼女は何かと多忙なようで、最近では若き研究者たちと顔を合わせるほうが稀だった。そのうえ研究資金の出資者との会合にも参加しているというのだから、実験に毎度立ち会えるはずもない。
彼女の事情はラーマも充分理解している。しかし科学者の本分は研究であるべきだ。仮にも研究員を統括する立場にあるのなら研究所の業務を優先するべきよ、というのがラーマの言い分である。
がさり、ラーマの指が袋の中で空を切る。どうやらほとんど一人で食べきってしまったらしい。
「ラーマは本当に所長のことが好きだよねぇ」
「は?」
のほほんとした表情で新しい菓子を差し出すボルに、ラーマはあんぐりと口を開けた。突拍子もない言葉に驚きすぎて、菓子を受け取りそこねてしまう。
「好き? あたしが、あの女を? どこをどう見たらそうなるのよ」
「だってきみ、いつも所長の話ばっかりしてるし。話の熱量が、ぼくたちがファルルのことで盛り上がる時と同じだし。それ、好きってことなんじゃない?」
「あんたたちはファルルに対して怒ったことなんてないでしょうが!」
「ラーマが一番所長のこと見てるの、ボク知ってるよ」
相変わらず歌詞カードに視線を落としたままのシャーシャが追撃する。
「所長がちょっと痩せたとか、化粧でクマを隠してるとか、晩ごはんは珈琲だけだったとか…ボクは気付けないもん…ていうか普通分かんないし…」
「そ、それは…倒れられでもしたら、迷惑を被るのはこっちだもの…!」
「心配してるってこと、素直に認めたらいいのに」
ラーマの代わりに菓子を受け取ったエニアは、袋を開けながらやれやれと嘆息する。まるで覚えの悪い教え子を見ているかのような三人の態度に、ラーマはいよいよ憤りで顔を真っ赤に染めた。好きだとか心配しているだとか、見当違いにも程がある。激務による体型の変化も、青白い顔に居座るクマも、夕食という体を成していない食生活も、少し観察すれば分かることなのに。しかしその『少し』が言葉どおりではないことを、同僚たちは知っていた。そもそも普通は、好きでもない相手の観察などしない。自覚がないのは本人ばかりである。
ボルはサイリウムを光らせる。煌々と輝くピンク色の光を受けた少年は、純粋そのもののように笑った。
「好きなものがたくさんあるのはいいことだよ。それに、好きっていうのは、その人に気持ちを預けてるってことだから。所長とラーマが良い信頼関係を築けてるなら、ぼくは嬉しいよ」
その言葉で証明終了とばかり、三人は再びそれぞれの推し活に精を入れる。ボルは曲に合わせてサイリウムを振り、シャーシャは歌詞カードを目で追いながら鼻歌を歌い、エニアは再びTシャツたちと向かい合う。
取り残されたラーマはクッションを握りしめ、今にも噴火しそうなほどぷるぷると震えた。
「だから! アイセメルのことなんて好きじゃな──」
「私がなんだって?」
「みゃっ!」
反論を口にしかけたその時だった。背後からかけられた声に、ラーマはその場で飛び上がった。振り仰いだ先にはやはりというか、今しがた話題の中心にいたアイセメルその人が、書類を片手に立っていた。
「い、い、いつから、どこから、なんで、」
「エニア。今朝の実験の分析結果だが、異常データをもう三件洗い出した。あとで確認しておいてくれ」
「えっ、もう確認してくださったんですか? ありがとうございます!」
ラーマの疑問には答えず、アイセメルは持ち込んだ書類をエニアへ手渡した。ぱっと顔を上げたエニアの表情が驚きと喜びで輝く。
あの量の分析データをもうチェックしたというのか。傍から見ていたラーマは動揺していたことも忘れて感嘆し、しかし素直に感心してしまった自分に憤慨した。この所長様も一応は研究の監督者なのだ、忙しかろうが何だろうが実験のフィードバックを行うのは当然の責務である。そうは思いつつも嬉しく感じてしまうのは、もはや仕方のないことだった。アイセメルがともに研究に携わることが、ラーマの望みでもあるのだから。
手短に用件を済ませたアイセメルが足早に引き返す。どうやら長居している暇は無いらしい。
けれども横を通り過ぎる間際、ラーマの肩にぽんを手を置いた。不思議そうに見上げた少女へ、アイセメルはいつもの淡々とした口調で話しかける。
「君にもう少し気持ちを預けてもらえるよう、私も努力しよう」
かあっと頬に熱が灯る。聞いていたのだ、この女は。ボルの言葉を、これまでのやり取りを。そのうえでこんなに涼しい顔をしているのだから、本当に憎たらしい。
「──あんたなんか大っ嫌いよ! アイセメルの馬鹿!」
投げつけたクッションは、無情にも閉まった扉にぶつかりあえなく墜落した。
(真っ赤だね、ラーマ。かーわい)
(うるさいわよ、外野!)
傍から見ればラーマちゃんの好意は駄々洩れだといい。
2026.8.17