いつかのあなたへ、

 誰かに呼ばれた気がした。 「──…あ、気が付きましたか? 気分はいかがですか…?」  馴染みのある声、けれど覚えのない口調。  声を辿って視線を動かしたラーマは、けれど後頭部に走る鈍い痛みに顔をしかめた。  ぼんやりと記憶が浮上する。山ほど積み上げた書類を運んでいた。これくらい持っていけるわよ、と同僚の手伝いを断り、そうして彼らの心配したとおり階段で足を滑らせて──迫り来る床と衝撃を最後に、記憶は途絶えていた。  痛みでぼやけた視界に、人らしき影が現れる。先ほどの声の主だろうか。産業医でも、知り合いの研究員でもない気がする。穏やかで、どこか安らぐ声の持ち主は一体どんな人なのだろうかと、まぶたを閉じて、開いて、 「─…ア、アイセメル…?」 「あの…どうして、私の名前を…?」  咄嗟にラーマの口を突いて出た名前に、ベッドサイドに座っている女性は眼鏡の奥の眸を驚きで丸めた。  思わず呼んでしまったものの、目の前で動揺している女性はラーマの知るアイセメルとは似ても似つかなかった。鼻にちょこんと乗った眼鏡に、乱雑にまとめられた髪、化粧っけの薄い顔。いつも寸分の隙もないアイセメルがこんな格好をするとは到底思えない。  けれどレンズの奥に光る眸の色も、少し癖のある髪質も、膝の上で丁寧に揃えられた指の形も、記憶にあるアイセメルと瓜二つだ。  そんなことありえない。導き出した結論を、ラーマは否定したくなった。だって目の前にいるのが──若かりし日のアイセメルだなんて。  一度、二度、三度とまばたきを繰り返す。それでも目の前の人は姿を消すことも変わることもない。  浮かんだ推論を頭では否定しているくせに、彷徨う視線に留まるのはアイセメルとの共通点ばかり。表情が形のよい眉に表れるところ。縋るように裾へ指先を絡ませるところ。上背があるくせに人の顔を覗き込むように上目遣いになるところ。  夢。そう、これは夢よ。一番あり得る可能性は、けれどリアルすぎるリネンの手触りと、鼻を掠める消毒液のにおいに打ち消されていく。  確かめないと。埒の明かない思考をまとめたくて、ラーマは上体を起こそうとする。しかし直後に襲ってきた眩暈に眉間を押さえた。 「まだ安静にしていたほうが…」 「……ねえ、今って何年?」 「え、」  ぐらりと傾いだラーマの身体を支えようとしたのか、伸びてきた女性の手首を掴む。間近で見つめた眸が驚いたようにまたたく。 「ええと…N.F.103年ですが…」  戸惑いつつも返された回答に、眩暈が酷くなった気がした。なおも心配そうに見つめ返すその人が嘘をついているとは到底思えない。これがすべて演技だとしたら主演女優賞ものだろう。  けれど、だとしたら本当に。ラーマは固く目を瞑る。ありえない結論に、心臓がばくばくとうるさく脈打つ。  ──あたしは本当に、過去にタイムスリップしたっていうの?  沈黙が落ちる。ラーマが吐く荒い息遣いだけが、カーテンで仕切られた空間に満ちていく。  細い手首を捕らえたままだったラーマの左手を覆うように、やがてぬくもりが降ってきた。恐る恐るまぶたを開いたラーマの目の前で、金糸雀色の眸がやわらかく細められている。まるで安心させるかのような表情に、ラーマの心が自然とほどけていった。 「私に合わせて呼吸をしてみてください。息を吸って…吐いて…」  言われるがまま、たどたどしく息を吸い、細く息を吐く。それを何度か繰り返すうちに、うるさかった鼓動もいつの間にか落ち着きを取り戻していた。 「君、階段の踊り場に倒れていたんですよ。階段から落ちたのか、体調不良で意識を失ってしまったのかと思うのですが…覚えていますか?」  彼女の言葉は、先ほどの困惑した様子と打って変わって穏やかだった。  やわらかな問いに、ラーマはぐっと口を閉ざす。目の前にいる女性が十三年前のアイセメルであることを確信したところで、自分が未来から来たと証明できるわけではなかった。あるいは真摯に事情を話せば信じてもらえるかもしれないが、過去に飛んでしまったのか、それとも平行世界に迷い込んでしまったのか等、詳細な状況が分からない以上、無闇に身分を明かさない方が得策な気がした。  押し黙るラーマがまだ混乱しているとでも受け取ったのだろう、女性は優しく微笑みかける。 「無理に思い出そうとしないほうがいいかもしれません。もうすぐ産業医の方が来られますので、その時に適切な処置をしていただけるかと思います」 「…あんたは、どうして」 「たまたま通りがかりまして…あそこは人通りが少ないので、もし発見が遅れていたかと思うと…」  言葉を切った女性は表情を曇らせ、目を伏せた。  ラーマもつられて視線を逸らした先、サイドテーブルにファイルの山が積み上がっていた。互い違いに組まれた背表紙の中に、アイセメルの名前はない。もしかして他の教授の雑務でも背負わされているのだろうか。行き着いた結論に、ラーマは思わず歯噛みした。  アイセメルの経歴は一通り頭に入っている。103年といえばようやく研究チームの末席に名を連ねたところだろうか。一般家庭出身のアイセメルには、有力者の後ろ盾も、権力者に取り入るための財力もなかった。それでもこの若さで研究チームへ登用されたのは、ひとえに彼女のひたむきな努力と科学への純真なまなざしがあったからだろう。  だからこそ、周囲にいいように使われている姿に、どうしようもなく憤ってしまう。優秀な芽を使い潰そうとしている周囲の人間にも、それを当然のように受け入れている彼女自身にも。  思わず手に力がこもる。爪を食い込ません勢いで握りしめているラーマを宥めるように、細い指先がラーマの手の甲を撫でていく。  覚えのある仕草に顔を上げると、思ったよりも近くにいた女性がふわりと笑った。 「…不思議ですね」 「…え?」  どこか遠くを見つめるような視線に、ラーマはつい毒気を抜かれてしまった。 「君とは初めて会ったはずなのに、名前も知らないのに、…何故だろう。どうしてだか、懐かしい気持ちになるんだ」  ひとりごとのように落ちた言葉に、ラーマは何も返すことができなかった。変化した口調に、細められた眸に、ラーマのよく知るアイセメルの片鱗を見た気がした。  胸の奥がぎゅっと締めつけられる。この人はまだ知らない。この先に待ち受ける苦難も、そこで味わう絶望も。彼女の残した足跡がラーマの道しるべとなり、いつか出会うことも。 「……ねえ」  気付けば彼女の手をほどき、逆に握り返していた。 「あんたは、自分のことをちゃんと信じてあげてるの?」 「…え?」  吐息のような困惑がこぼれる。過去を変えないほうがいいだとか、未来を示唆することは言わないほうがいいだとか、分かっていながらも飛び出した言葉をもう呑み込むことはできなかった。ただ目の前でまたたいているその人に気付かせたかった。 「あんたは優れた科学者なの。誰よりもまっすぐで、誰よりも真理に近い人なのよ」  他の誰よりも、ラーマが憧れ追い続けた科学者であることを。 「だから、…何があっても、自分自身を信じ続けて。科学者としての使命を忘れないで」  握った手に、少しだけ力をこめる。 「─…ちゃんと見てるから、あんたのこと」  見知らぬ少女がどうしてこんなことを言っているのか、彼女には理解できないだろう。それでもいい。いつか彼女が絶望に苛まれるその時、たった一度でもいいからこの言葉を思い出してくれますようにと祈りをこめて。  金糸雀色がまたたく、ひとつ、ふたつ、真剣な表情で見つめる少女を眸にとかし込んで。 「…君は、一体…」  彼女の疑問を最後まで聞き遂げることはできなかった。  ぐわり、ラーマの視界が歪む。睡魔に襲われるかのように意識が離れていく。伸びてきた腕がラーマの身体を抱き留める。よく知った体温に包まれた少女は、アイセメル、と。口に馴染んだ名前を最後に、意識を手放した。  ***  誰かに呼ばれた気がした。 「──気が付いたか。気分はどうだ?」  馴染みのある声、覚えのある口調。  重いまぶたをこじ開ける。声を辿って視線を動かしたラーマは、傍らに佇むその人を見とめてそっと息を吐いた。腕を組み、容体を確認するように目を走らせる女性は、ラーマのよく知るアイセメルその人だった。  夢と断じるにはあまりに鮮明だった。手のひらに残る体温も、自分をとかし込んだ金糸雀色の眸も。だからここは、戻ってきた、と表現するほうが正しいのかもしれない。 「まったく…君も少しは、人の手を借りるということを覚えたほうがいい」  無事を確認し、いつものように小言を洩らすアイセメルの様子をそっと窺う。  見たところ、変化は無いように思えた。ラーマへの態度も、腹の内が読めない表情もそのままだ。ということは、いつかの彼女へ向けた言葉は届かなかったのだろうか。ラーマの願いは、彼女の道しるべにはなれなかったのだろうか。  どこかで予想していた結果に、胸の奥がつきりと痛む。胸の痛みを誤魔化すために上体を起こしたラーマは、けれどみたび襲ってきた眩暈に体勢を崩した。  再びベッドに倒れかけた身体を、伸びてきた腕が支える。ラーマの顔を覗き込んだアイセメルは、ふ、と。彼女には珍しく、無防備な微笑みを浮かべた。 「ああいや、すまない。随分と昔のことを思い出してね」  右腕でラーマの肩を抱き留めたまま、アイセメルの頬が綻んでいく。どこか懐かしむような笑みに、ラーマはいつかの面影を見た。 「私がまだ駆け出しの研究員だった頃の話だ。君くらいの年頃の少女と、ここで同じような状況になったことがあったんだ」  心臓が跳ねた。 「…その子って…」 「名前も聞けなかった。顔でさえ、今となってはおぼろげでね。…ただ、」  言葉を切ったアイセメルが目を伏せる。シーツの上では、アイセメルの左手がラーマの小さな手を包み込んでいた。ラーマよりも幾分低い体温が、少女の肌に馴染んでいく。 「『自分自身を信じ続けろ。科学者としての使命を忘れるな。ちゃんと見ているから』──彼女の言葉だけは、よく覚えている」  ラーマはもはや息をするのも忘れていた。言葉が浮かぶ先からこぼれ落ちていく。ラーマにしてみればほんの数分前に、背中を追い続けてきたその人へ掛けた願いだった。 「不思議だろう? もしかしたら白昼夢でも見ていたかもしれないのに、その言葉だけは幾度となく思い出してきたんだ」  ぬくもりを辿るようにぽつぽつと、アイセメルが言葉を継ぐ。  果たしてあの日の言葉が、彼女の歩んできた長い歳月でどれほどの意味を持ったのかは分からない。もしかしたら何の役にも立たなかったのかもしれない、ただの独りよがりな祈りだったのかもしれない。けれど、いつかの少女を思い出してやわらかく微笑む彼女が今、こうして目の前にいる。ラーマにはそれだけで充分だった。  口を開けたラーマは、しかし一度言葉を呑み込み、震えるくちびるを笑みの形に緩める。間近にある金糸雀色に、あの日と変わらない少女の姿がとけ込む。 「─…変な夢ね」  ラーマは笑った、今にも泣き出しそうな顔で。 (ちゃんと見てるから、あたしが、ずっと)
 どうかあなたの光となりますように。  2026.10.17