「あら、身支度が早いわねぇ」
ようやく毛布から顔を覗かせたその人が、からかうような口調で目を細めていた。
誰のせいで、と内心毒づく。ベッドに通う回数と比例するように、わたしの着替えのペースが速くなっていた。事だけ済ませて足早に去るだなんて、まるで泥棒猫だ。
まぁ、間違ってはいないけれど。
「お風呂はいいの?」
「そんな時間ないので」
「残念。一緒に入りたかったのに」
嘘にまみれた言葉にももう慣れた。甘えたように願望を口にするくせにただの一つだってかなえられたことはないのだから。
時計の金具をぱちりと留める。これでもう纏うものは何もなくなった。
彼女と関係を持ってかれこれ数年になるけれど、この瞬間にかけるべき言葉をいまだ見つけられずにいる。
床に投げ捨てたままのカバンを拾おうとして、けれども毛布から這い出た指がわたしの手首を掴む。
思わず持ち上げた視線の先、いつも飄々とした笑みを浮かべているはずの顔がなぜか少し揺らぎを灯しているように見えて。真意を探るよりも早く、眸が隠れる。
「─…また、来てちょうだいね」
消え入りそうな言葉はくちびるで呑み込んだ。
(弱くて卑怯なあなたはいつも、わたしに委ねてくる)
2025.9.4
子供のころの記憶というのは曖昧で、中でもあの夜の出来事はいっとう夢の現の境だった。
女のひとが三人。ふらりと浜に現れたわたしを見とめ、手を振ったのか、手招いたのか。
そもそもどうしてあんな夜中にベッドを抜け出していたのかさえ思い出せない。誰かの声に誘われたような気もするし、単に夜の港を冒険したかっただけの気もする。
一歩、一歩とつま先が勝手に行き先を定める。あの日はまだ夏の気配が残っていたはずなのに、身体に染みこむ海の冷たさだけはいまも鮮明に覚えている。
「あら。まだほんの子供じゃないの」
綺麗なおねえさんが驚いたように呟く。
「んもう。わたしおなかぺこぺこなのに」
背の高いおねえさんに覗きこまれ、びくりと足が止まる。
「ねえお姉様、今『連れていく』のはもったいないと思わない?」
その背後から投げかけられた微笑みに、呼吸さえ奪われた。
目の前に歩み出たそのひとが、両手でわたしの顔をさらう。上向かされた視線が否応なしにおねえさんの眸と鉢合わせる。
「ねえお前、よく聞きなさい。美しくなること。この港いちの美女になって、ここへ、私たちのもとへ帰ってきなさい。いいわね」
水底に似ている。ふと、そう思った。
波ひとつない水の底。揺らぐことのない底に堕とされたわたしがただ頷く。
「いい子ね。素直な子は好きよ」
綺麗に可憐に艶やかに。満足そうに弧をえがいたくちびるを、わたしは──、
***
──おそろしい、と、思った。
年を経て、あの夜の記憶がおぼろげになっていってもなお、しんと凪いだ水底色が幼い日のわたしを捉えて離さない。
結局あの後、どう家路をたどったのか記憶にない。夢か現実かも判別つかない。けれどこれだけは強く願った、美しくなりたくない、と。醜くあれば次もきっと見逃してもらえるはず。そんな思いとは裏腹に成長していく己に恐怖を覚えた。真珠のような眸が、しなやかな肢体が、きめ細やかな肌が、すべてがあのひとののろいに思えて仕方なかった。
最近はずっと自室に引きこもっている。だというのにあの波音が耳にこびりついて離れない。呼んでいる気がした、誰が、あのひとが、あのひとたちがわたしのことを、
「──やっぱり。私の見込んだとおりね」
涼やかな声に、記憶がずるりと顔を出す。
「あら。意外と見る目あるのねぇ、あなた」
綺麗なおねえさんがあの日と変わらない姿形で、やっぱり同じように驚いてみせる。
「これなら『連れていって』いいんじゃない?」
酷薄な笑みに見下ろされると同時、海へずぶずぶ沈みゆき、そうしてあっという間に酸素が掴めなくなってしまった。
もがくわたしの顔を両手でさらい、じゅ、と口づけをひとつ。海よりもまだ冷たいくちびるに全身が総毛だつ。
けれど不思議なことにふ、と。途端に呼吸が戻ってきた。水を掻き、尾びれをはためかせ、膜の張った眸でぱちりとまたたく。
綺麗に可憐に艶やかに。鮮明になった海の底で、そのひとは笑う、ひどく嬉しそうに。
「ああ、本当に──素直で美しい子ね、お前は」
***
──うつくしい、と、思った。
年を経て、あの夜の記憶がおぼろげになっていってもなお、しんと凪いだ水底色が幼い日のわたしを捉えて離さない。
結局あの後、どう家路をたどったのか記憶にない。夢か現実かも判別つかない。けれどこれだけは強く願った、美しくなりたい、と。あのひとの望んだとおり港いちの美しい女になればきっとまた出会えるはず。
坂道のランニングを日課とし、長い髪を丁寧にとき梳かし、スキンケアを怠らず。己の努力によって身体が磨かれていくたび、あのひとにまた一歩近付けているようで嬉しくなった。
最近はずっと夜の海辺で走り込みをしている。もう間もなく会えるはず。根拠のない予感に胸が高鳴って仕方なかった。
耳を澄ませて目を閉じて。聴こえる気がした、誰の、あのひとの、あのひとたちの声が、
「──だからって本当に来る奴がありますか」
呆れたような声に、記憶がするりと顔を出す。
「あら。すっかり懐かれたわねぇ、あなた」
綺麗なおねえさんがあの日と変わらない姿形で、くすくすとおかしそうに笑みをこぼす。
「もう『連れていく』しかないんじゃない?」
からからと愉快そうな表情に見下ろされると同時、海へずぶずぶ沈みゆき、そうしてあっという間に酸素がこぼれ落ちたけれど、不思議とこわくはなかった。
呆れ果てた顔はすぐ目の前。肩を竦めたそのひとは、いつかの夜と同様わたしの顔を両手でさらい、ちゅ、と口づけをひとつ。ふ、と途端に戻る呼吸。水を掻き、尾びれをはためかせ、膜の張った眸でぱちりとまたたく。
綺麗に可憐に艶やかに。鮮明になった海の底で、そのひとは破顔する、ひどく嬉しそうに。
「ああ、本当に──正直でかわいらしい子ね、お前は」
(La notte delle Sirene.)
2025.9.10
「申し訳ありません、蒼乃風」
ようやく向けられた視線にびくりと身体が震える。
穏やかな表情、けれど記憶の中で微笑む姉様とはどこか違う。すぐそこにいるのに掴めないような、そんな笑み。
「お送りいたします」
勘解由小路さんの言葉を合図に、ふいと視線が逸らされる。こうなればどんな話題であっても相手にはしてくれないと──その眸に再び私を映すことはないと知っていた、痛いほどに。
「また…また、伺いますわ、姉様」
返事は来ない、知っている、知っていますわ、そんなこと。
足早に執務室を退室した私の後を、宣言どおり律儀な足音が追いかけてくる。
「─…あなたは、姉様に必要とされていますのね」
エレベーターを待つ間の空白を埋めるようにぽつり、言葉がこぼれた。背後でひとつ、ため息。
「私の価値を決めるのはあの方です」
諭すような、宥めるような口調はどこまでもまっすぐだった。
どうしてそんなひたむきに付き従えるのだろう。ああそうだ、この人は在りし日の姉様をご存じないのだわ。おかわいそうに。
「お見送りは結構です」
ようやくやってきたエレベーターに乗り込む。
「あなたほどの方ならお力添えはできるかもしれませんけれど──でもあなたでは、正しい道を照らすことはできませんもの」
頭ひとつ分ほど離れた眸が疑問を灯してぱちりとまたたいたのが最後。私の決意を乗せて、扉が閉まった。
(姉様は迷っているだけ、怯えているだけ、そうでしょう?)
2025.9.25
灯りを吹き消し、布団にもぐったところでようやく一息つけた心地がした。
思い返せば忙しない一日だった。遠方の親戚が寝泊まりする部屋を整え、会食を手配して、お寺様と段取りの最終確認を行い──女中の手伝いがあったとはいえ、次から次へと舞い込む準備に目が回りそうだった。そういえば夕食を逃していたことを、微かに鳴った腹の音で思い出す。
ふ、と。暗闇の中ひとり、笑みを吐く。最愛の人を亡くしたあの日、生きる気力さえ失ったはずが、どうしてだか世界は回っているし、おなかは空くし睡魔もやってくる。変わらず巡る人としての営みが酷く滑稽で、ひどくさみしかった。
明日は四十九日。あの人にもとうとう審判が下されるのだろうか。あの人の行く末がせめて極楽浄土であるようにと願いながらも、どうしたって浮かぶのはあの憎き妹の顔。
卒業してすぐ家を出たきり便りさえまともに寄越さなかった妹が、あの人の婿入りを機に頻繁に帰省するようになった。妹の腹の内は読めている。大方、あの人に懸想していたのだろう。昔からそうだ。妹は私のものを欲しがる悪癖がある。双子だから好みが寄るのだろうか、それにしたって妹は私のおもちゃを、お菓子を、果てには恋人までも貪欲に欲した。いっそ無邪気なまでの横恋慕に恐怖を覚え、これまでは身を引いていたけれど、夫だけは、他の誰よりも愛していたあの人だけは奪われたくなかった、だから、
──だからこそ、恨めしかった。同じ顔のつくりをしているはずの妹に言い寄られて満更でもなく頬を赤らめていたあの人も、同じ顔を利用して近付いたあの子も。妹の手に堕ちてしまう前に留めておきたかった。私のものとして、永遠に。
かたり。静寂を這うような物音は隣室から。物思いから引き揚げられた反動でつい、上体を起こす。草木も息を潜めるこの時間にまだ起きているのだろうか、あの子は。
葬儀も初七日にも出席しなかった妹が顔を出したのは今日──日付が変わって昨日のこと。見るからに泣き濡れた眸を閉ざし、両手を合わせ、仏前から動こうとしなかった。自分がこの世で一番悲しんでいるとでも言いたげなあの顔。思い出すだけではらわたが煮えくり返る。追い返せばよかったと、悔やんでも後の祭り。仏間で夜を明かすことを許したのは温情ではなく、突如来訪した妹の客間を設えるほどの余力がなかっただけに過ぎない。かつて妹の居城だった部屋は、私が当主となった際に真っ先に物置へ変えてしまっていたのだから。姉さんのそばにはもう、わたしの居場所はないのね──初めて実家へ帰ってきた夜、あの人の晩酌に付き合っていた妹がふとこぼした翳りと、数時間前に見た眸が重なる。いつだって真っ直ぐ私を見つめる眸が、真っ直ぐ追いかけてくる声が、嫌いだった、昔から、心底。積年の恨みに駆られて思わず化粧棚に伸びた手を、留める。薬はまだ残っている、けれどあの人のところになんて行かせてあげない。
かたり。仏間からまた、あの音。こんな夜半に一体何をしているのか、まさか遺骨を盗むつもりだろうか。嫌な予感に心臓が冷える。妹ならやりかねないという確信に、指はついに化粧棚へ隠していた小瓶を捉えた。
かたり。立ち上がろうとした、刹那。襖を挟んだ先の廊下に、なにかの気配があった。妹だろうか、それにしては上背がある。覚えのある姿に記憶をたどるよりも早く、襖を開けた影が音もなく忍び込んだ。月光もない闇の中、けれどその影は、あぁこの人は、
「あぁ、…ぁあ、あなた…!ようやく迎えに来てくださったのね…!どれほどあなたを恋しく想っていたことか…あの子と不貞を働いていたなんて女中が噂していたけれど、あなたが愛していらっしゃった女は、ねぇ、生涯でただひとり、私だけでしょう?ねぇあなた、後生です、どうか、どうかあなたの愛する女をお傍に連れていってください、あなたのいないこの世はあまりにさみしすぎます」
縋りついた影は何も応えず、ただ私の手元に視線を落とす。表情は見えない、けれどきっと、ひとり残された愛する女を憐れんでいるに違いない。伸ばされた指を絡め取り、口づけを求め顔を寄せて──視界いっぱいに差す陽光に、目を眇めた。身体を起こす。何の変哲もない朝。あれは夢だったのだろうか。ひやりとした指の感触がまだ手のひらに残っているというのに。首を傾げる暇もなく、女中の甲高い悲鳴が割って入る。
「奥様っ、妹様が…!」
(七七日の裁きが下り、けれどあとには女がひとり、愛もあはれも果てにけり)
2025.9.26
休日のカフェにはいろんな人が滞在している。映画前のお喋りに花を咲かせるカップル、ノートパソコンとにらめっこをしているおじさん、新作のフラッペの撮影に忙しいお姉さん。
思い思いの時間を過ごしているお客さんの中から、お目当ての女性を見つけるのはそう難しいことではなかった。
店内の一番奥の席。足を組み、雑誌に視線を滑らせているその人は、このカフェにいる誰よりも美しく映った。自然、鼓動が速度を増す。この瞬間はいまだに緊張を孕む。
人を避けながら狭い通路を進む。彼女はまだ気付かない。雑誌片手にカップに口をつけ──きっとブラックコーヒーだろう。砂糖無しでは飲めないわたしを、彼女はいつも面白そうにからかうのだ──ふ、と。視線が左手に留まった。
かちゃり。こんな喧騒の中で、ソーサーの音がやけに響いた気がした。色素の薄い眸がじっと自身の左手を見つめる。
右の中指が、薬指の根元をなぞる、ゆっくり、確かめるように。
「美咲さん」
は、と、持ち上がった眸がほんの少し揺れているように見えたのは一瞬。またたきのちに、いつものにこやかな表情が覗く。
「お疲れさま。遠かったやろ、ここ」
「いいえ。それよりお待たせしちゃってすみません」
カバンへ雑誌を仕舞うその人の手元をちらと盗み見る。薬指に光る指輪の意味を、最近ようやく理解したように思っていたけれど、彼女とわたしの感じ方は違うのだろう、きっと。その違いがひどく遠くて、ひどくさみしい。
「またココア? ほんま甘いもんが好きなんやねぇ、あんたは」
からりと笑う口元はわたしの知る彼女となんら変わりない。静かな憎しみのにじんだ眸は見間違いだったのだろうかと、そう首を傾げてしまいそうなほどに。
そ、と。捕らえた左手がひくり、震えた気がした。いつもは先に取られてばかりの指を、今ばかりは自分から絡める。
「じゃあ、行きましょうか。あなたとしたいことがあるんです、たくさん」
「─…ほんまに、落ち着きのない子」
くしゃり、わたしだけをとかした眸がやさしく細められる。
カップの中身はとうに空になっていた。
(今ばかりはわたしのことだけを、)
2025.10.6
冬が足音を忍ばせて近付いてきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
こうして貴女へ手紙をしたためるのもこれで何度目か、数えるのももうやめてしまったけれど、貴女からの返事はついぞ頂けないまま季節が巡ってしまいました。
貴女を恨む気持ちは一切ございません。むしろ私の優柔不断こそ、裁かれてしかるべきでしょう。
貴女と距離を置いたのは私の方なのですから。
許しを乞いはしません。言い訳も口にいたしません。
けれどこれだけは信じてほしいのです。
私が愛したのは生涯でただ一人、貴女だけだということを。
貴女以上に心を委ねられる相手は、きっともう一生現れないであろうということを。
どうか貴女が私の愛を疑うことがありませんように。
私に囚われたままでいてくれますように。
祝言の日取りを同封いたします。
かならず、かならずいらしてくださいね。約束よ。
あいしています。
(貴女だけは私をあいしていてね、ずっと)
2025.10.21
根が素直なのだと思う。
寒いかと問われれば身を震わせ、空腹かと尋ねられれば虫が鳴き、お前だけだと囁かれれば鎖骨まで朱に染め上げる。嘘のつけない体質だった。
「愛していたの、私を」
手が、止まる。
滅相もございません、畏れ多いことでございます。否定の言葉はいくらでも浮かぶというのにその一つだって喉から取り出せず、ただぶらりと細首に添えるだけとなった指先の震えが肯定を示す始末。
要らない感情を抱いていると気取られる前に主の命を果たさねば。それが使用人である私の役目だというのに、腹の内に秘めていた想いを見透かされた今、呼吸の一つだってまともにできない有様だった。
「愛していたのね、私を」
同じ言葉が、今度は確かな愉悦を持って吐き出される。
伸びてきた両の手が私のそれに重ねられ、ぐ、と後押しする。親指が喉に沈みこんでいく感触が恐ろしくてぼたぼたとあふれる涙を受け止めた主人が、心底嬉しそうに口角を持ち上げた。
(永遠にとけない楔となりました、これで満足ですか)
2025.10.21
アレンデールに冬が来た。
視界の端にちらつく白につられて顔を上げる。煙る窓。かすかに揺れる枠。侍女が今朝早々に暖炉に薪を焚べてくれていたけど、それだけじゃこの国の冬はしのげない。
諦めてペンを放り投げる。こんなに震えてちゃサイン一つまともに書けないもの。決してあたしの字が汚いわけじゃないわ。
手を擦り合わせながら窓辺に寄る。そ、と。拭ったガラスからつたう冷気に身体が拒絶を示す。
これがエルサの魔法だったらよかったのに──知らず洩れるため息。同じ性質を持つはずの姉の力は、けれど雪とは思えないほどあたたかい。幼いころから姉の作り出す雪景色が好きだった。
だけどここいあs金、姉の魔法を目にする機会がめっきり減った。理由は明白。単に顔を合わせる回数が少なくなったというだけ。
あたしは女王として、エルサは森を守護する精霊として、新しい生活を送っている。慣れない公務に追われ、いつしか書簡の往復さえ覚束なくなったのは当然の成り行きだった。
すぐに白く染まった窓を再びなぞる。霜は冷たさしか返さない。
「…姉さんの魔法だったらよかったのに」
「──でもあなた、冬は嫌いでしょう?」
ふ、と。ふいに耳元に落ちた声に慌てて振り返った。雪原に似た髪がふわりと舞う。妹をとかしこんだ氷色の眸がゆるり、笑みのかたちに細められる。
「エ、エルサ!? いつの間に…!」
「ちょっと城に用事があって…忙しいだろうし、本当は声をかける予定は無かったのだけれど、最近女王がお疲れのご様子だってゲルダが言うものだから。お邪魔だったかしら?」
「それはあたしのセリフよ! エルサってばいつもいないんだもの、きっと忙しいんだろうなって…」
声がすぼみ、顔を見合わせて。そうしてふたり同時に吹き出した。幼少期に染みついた遠慮癖が、まさか今でも健在だなんて。離れていた期間が長かったからそれも仕方のないことだけど。
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を、ほっそりとした指が拭っていく。今しがた触れた窓と違ってやっぱり、あたたかい。
「ねえエルサ。もしよければもう少しここにいない?」
あら、お仕事はもういいのかしら、女王様?」
「こんなに寒くちゃ仕事にならないわ」
ゲルダにお説教してもらわなくちゃ、そう笑う姉は昔とちっとも変わらない。そうだ、お互いの背負う肩書きが変わっただけで、あたしたちの関係はなんにも変化していないんだ。そんな当たり前の事実がなによりも嬉しかった。
「それじゃあなにをしましょうか、アナ」
やわらかな問いに自然、頬が綻ぶ。
「──雪あそびするのはどう?」
(いつまでも、あのころのあたしたちのままで)
2025.12.18
午睡に興じる彼女の姿は、いまや管理局の名物となっていた。
陽当たりのよいカウチにもたれる姿はさながら猫のようだと、最初に例えたのは誰だったか。捉えどころもなく飄々と言葉を躱す様子は狐を思わせるが、言われてみればなるほど、ふわりと広がる金糸の髪も相まってか、毛並みのよい猫にも見える。
「ヴァトゥール、休んでいるところすまないがそろそろ…」
カウチに近付きそろりと声をかける。ニューシティへの遠征は間近だ。今回は彼女のツテありきで組んだ予定なのだから、彼女無しで出発できるはずもない。
だというのに瑠璃色の眸は姿を隠したまま。いつもは寝起きのまどろみなどなかったように目を覚ますはずの彼女はけれどまぶたをピクリともさせない。なんなら寝息まで聞こえてくる。この大きな猫はどうやら深い夢に沈んでいるらしい。
こうなると職務への責任感よりも好奇心のほうが勝るのは仕方のないこと。なぜならこうも無防備な彼女は珍しいのだから。意図的に隙を見せることはあっても、予期せぬ形で懐へ潜り込む機会はそうそう無い。
足音を忍ばせ一歩二歩、そっとカウチとの距離を詰める。見慣れたスリップの胸元が緩やかに上下する。規則正しい吐息が毛先を揺らす。木漏れ日色の髪に覆われた顔を、どうしてだか無性に覗き込みたくなった。
無造作に散らばる前髪を耳にかける。そうして覗いたのはやはり目覚める気配のない寝顔。私よりいくらか年嵩であろう女性に向ける表現としては不適当かもしれないが、あどけないその表情はまさしく少女のようだった。
「─…マドレーヌ、」
いつだったか、貝殻を模した異邦の菓子を振る舞いながら彼女は笑っていた。こんな可愛らしいものと同じ名で呼ばれていたことがあったのだと、懐かしむように、けれど幾ばくかの寂しさもにじませて。きっともう向けられることのなくなった音をもう一度くちびるに乗せる。あたしには似つかわしくない名だよ。当人はそう自嘲していたが、目の前でひとり夢を泳ぐ彼女にこそ相応しい響きのように思えた。
マドレーヌ。みたび音にしたところでぐい、と襟を引っ張られる。出迎えたのは瑠璃の眸とやわらかな感触。なるほど、猫でも狐でもなく、どうやら狸だったらしい。
「………そろそろ準備をしてくれると有難いんだがな、ヴァトゥール」
「おや。もうあたしの名前を忘れてしまったのかい、局長ちゃん」
「さて、狸寝入りをするような悪い子を呼んだ覚えはないんだがな」
わずかに紅の剥がれたくちびるが笑みを形づくる、心底嬉しそうに。結局は手のひらで転がされていた憐れな獲物もとい私はため息をひとつ、四度目のその音を口にした。
(木漏れ日色の猫は甘い夢を見るか)
2026.2.17
彼女の背中にはまだ、あの日の傷跡が鮮明に刻まれていた。
あの夜──スチュワート家襲撃事件でエルヴィラを庇った際に負ったのだろう。彼女が覆い被さったおかげでエルヴィラにはかすり傷一つなかったが、代わりに剥き出しのイェレナの背中には無数の傷が残された。順調に快方へと向かっているものの、視界に入るたびに忸怩たる思いを噛み締めてしまう。
「─…まだ、痛むだろうか」
屋外エリアは彼女のお気に入りだ、今夜もいるような気がしていた。
ベンチに座る彼女に視線で促されるまま隣に腰を下ろす。恐らくエルヴィラを寝かしつけたその足でここを訪れたのだろう。執務室に呼びつけようかとも思ったが、そんなことをせずともいつものベンチへ赴けばまみえるだろうという読みは当たったようだ。
琥珀色の眸が思案するようにまたたく。数瞬のちに浮かんだのは困ったような微笑。
「いいえ、もうすっかり。管理局の医療班が優秀なおかげですわ」
「だがいくら優秀でも、完全に跡を消すことは出来ないだろう」
「ふふ。お優しいんですね、あなたは」
「優しいとか優しくないとか、そういう話ではない。あなたを守れなかったばかりか、もしかしたら一生残るかもしれない傷を負わせてしまったというのに」
いつもそうだ。守るべき民を、友を、仲間を、肝心なところで矢面に立たせてしまう。僅かなりとも力を持っているはずのこの手からなにもかもがすり抜けていってしまう。
ふ、と。沈みゆこうとする思考が、肩を包んだぬくもりに引き上げられる。
「あなたのせいではありません。だからそんな顔をしないで」
あやす代わりに抱きしめるのは彼女の癖なのかもしれない。私やエルヴィラ以外にも、彼女の抱擁に捕らえられているコンビクトを何人も見てきた。その大半は満更でもなさそうだが、一応は管理局の長であり立派な大人でもある私はそうもいかない。いかないのだが、いつしかそれが祈りのようにも懺悔のようにも思えてきて。儀式にも似た抱擁を拒む術を、私はまだ知らない。
「…これは戒めなのです。たった一人の、なによりも大切な子さえ守れない私への」
耳元に落ちる声色からは、彼女の表情は読み取れない。
手を伸ばし、剥き出しの柔肌にそっと指を這わせる。まっさらな肌に今も残る痕を、彼女は罰と呼ぶ。ぴくりと肩を震わせた彼女はけれどそれ以上言葉を発さないまま、腕の力をほんの僅かに強めた。
首筋に言葉をうずめ、傷に障りがないよう抱きしめる。耳朶に触れた吐息は果たして安堵か悔恨か、辿る術を私はまだ、知らない。
(声無き告解にどうか赦しを、安寧を)
2026.2.18