触れたい。そう強く願う日が来るだなんて思いもしなかった。
無意識に伸びた指が行き先に惑って動きを止めたのは一瞬。額を掠め、前髪に触れる。
「なぁに、エヴァ。くすぐったいわ」
「ふふ。乱れてるわよ、お転婆さん。少しじっとしていて」
毛先が舞うせいか、ん、と。水面色の眸が姿を隠す。
くすくすとおかしそうに笑みをこぼすソフィーは気付いているのだろうか、あたしが最初どこに触れようとしていたか。悟られていないはず、いいえ勘付かないでいて、と。祈りとともに押し込める。──だってこの欲望は、毎夜あたしを求める浅ましい男たちが抱くそれと同じだから。ソフィーに触れたい、誰の目にも晒したくない、澄んだその眸にあたしだけを映してほしい、そうして叶うなら穢れを知らないその身体にあたしを刻みつけてあたししか知らないソフィーを手に入れたい、だなんて。
澱んだ渇望に吐き気を覚える。この子には、大切なこの子にだけは向けてはいけない想いなのに、清らかであるべきなのに、あたしはいつから、こんな劣情を。
「─…はい。もう開けてもいいわよ」
目を閉じて、ひらいて。まぶたの裏に固く封じ込めてから声をかける。覗いた水面色には、浅ましい女がひとり、憐れむように笑っていた。
(せめてあなたの前ではきれいなままで、)
2026.2.18
飛び出しかけた呼び名を慌てて飲み込んだ。
思わず家の陰に隠れる。そうっと覗いた先にいたのは、見間違いでもなんでもなく、やっぱり私の知るエヴァその人だった。馴れ馴れしく肩を抱いているのは見知らぬ男性。隣の村の住人だろうか。下卑た笑みはどうにも好感を抱けない。
すぐそばを通り過ぎていく彼らにどうかバレませんようにと息を殺して──どうして身を潜めているんだろう、私。親友の「仕事」を見たくないから?彼女に気まずい思いをさせたくないから?
答えを探しあぐねている間に、ふたり分の影が角を曲がる。あの方向はきっとエヴァの家。一緒にシチューでも作ろうかと思っていたけど、今夜は諦めたほうが賢明みたい。
「あーあ、こんなにたくさん…どうしろっていうのよ…」
恨み節みたいにこぼれていく言葉を止められない。
彼女にだって生活がある。私は約束のひとつも結んでない。分かってる、分かってるけど、ひとり虚しく帰路に着く今ばかりは、愚痴のひとつやふたつ大目に見てほしい。
「エヴァの、ばか」
果たしてなにに対する文句なのか自分自身も分からないまま重たい紙袋を抱え直す。勢い任せに蹴った小石は、夕闇にとけて見えなくなった。
(あなたの隣は私の、)
2026.2.18
他の指よりも少しだけ細い付け根が、どこか空虚に映った。
「やっぱりあなたの職場に近いほうがいいわよね」
「…え、なにが」
「だから。新居の話。私たちの」
ふ、と視線を上げた先。笑顔のまぶしさに思わずたじろぐ。彼女と出会ってもう数年。幾度も逢瀬を重ねたはずのその人は、けれど馴染みのない笑みを浮かべていた。
賃貸情報誌の上を滑る指。駅近、陽当たり良好、二人入居可。なぞる単語がまるで頭に入らない。夢を並べたことはある。波の音が届く家。狭くていいの、一つのベッドであたため合って、だけどお風呂とトイレは別がいいわね──寂れたホテルで語る夢物語。実現することのない未来を紡いで、一緒になれない現実から目を逸らして。それで充分だった、それが幸せだった。叶うなんて思わなかった、叶える意志なんてないと思っていた。彼女の薬指が空くことなんて一生ないのだと、そう、
「せっかくだからペットを飼うのもいいわね。あなたも猫、好きでしょ?」
空想が現実に塗り替えられていく。無造作に生んだいくつもの夢が首を締め上げる。よく知っているはずの人が、覚えのない顔で笑う、わらう。
「嬉しい、─…これから私たち、ずぅっと一緒にいられるのね」
(飾り気のない薬指が、こうもわたしを締めつける)
2026.4.8
他よりも細いことに気付いて初めて、指をなぞる癖があることを知った。
外したのは十年振り、いいえ、もっと長いかもしれない。たった二十グラム。もはや肌に馴染んでいたはずのそれの不在を確かめて、ふ、と笑みがのぼる。まっさらな指に再びまみえる日が来るだなんて思ってもみなかった。自由の身となったことへの喜びと、ようやくここまで来たのだという安堵と、なにものにも束縛されない指でようやくこの子に触れることができるのだという幸せと──とめどなくあふれ出る感情を、まばたき二つで押し留める。久しぶりに訪れた解放感にまだ、心が追い付いてこない。
賃貸情報誌を開いたのは、そんな感情たちの行き場を探していた節もあったのだろう。駅近、陽当たり良好、二人入居可。ありふれた文句がこんなにも目にまぶしい。
ふたりで何度も夢を並べた。波の音が届く家。狭くてもいいよ、こんな風に毎晩抱きしめ合って、だけどお風呂とトイレは別がいいな──寂れたホテルで語る夢物語。叶うはずのない未来だった。一つのベッドで迎える朝なんて一生来ないと思っていた。
けれど何度も口にした夢は、私の中で確かな輪郭を持っていった。この子と共に見る朝日に焦がれてしまった。おはようを最初に聞くのは、おやすみを最後に言うのは私でありたかった。そんな子供みたいな夢の欠片たちが、今はもう、手の届くところにいる。
「やっぱりあなたの職場に近いほうがいいわよね」
「…え、なにが」
「だから。新居の話。私たちの」
なんてことのない風を装ってやっと口にした言葉に、一拍遅れて届いた返事。ふ、と視線を上げた先。驚きと困惑が入り混じったような表情に、心臓が嫌な跳ね方をする。幾度も逢瀬を重ねたはずのその子は、けれど馴染みのない戸惑いを浮かべていた。
性急すぎただろうか。私が元の姓を取り戻してからまだ日が浅い。受け止めきれないのも当然だ。だけどもう時間をかけるのは嫌だった。進展しない話し合いの末ようやく判を押して、煩雑な手続きをいくつもこなして。長年纏っていたものを一つずつ剥いでまで空けた指だった。二十グラムの不在を待ち望んでいたのはこの子も同じはずだった。
「せっかくだからペットを飼うのもいいわね、あなたも猫、好きでしょ?」
返事も待たずに言葉を続けた、続けるしかなかった。紙面を走る指にじっとりとした視線が纏わりつく。証明したはずだった。ただの夢物語ではないことを、あなたと共にありたいという想いが本物であることを。なのに、軽くなったはずの指がやけに心細い。
飾り気のない薬指をそ、と握り込む。息を呑む気配。まだ見ぬ夢の入り口で微笑んでみせる。どうかあなたが不在を埋めてくれますようにと祈りをこめて。
「嬉しい、─…これから私たち、ずぅっと一緒にいられるのね」
(飾り気のない薬指が、こうもあなたを締めつける)
2026.4.9
まさかあなたが見落とすはずがないと予想してはいたけれど、あまりに露骨な視線に思わず笑ってしまった。
あごに添えた左手を追うように顔が持ち上げられる。ようやくかち合った眸が困惑を露わに見開かれる。別れたって言ってたのに。ひとりごとみたいな疑問に今度こそ吹き出してしまった。一体どの口が。居所も家庭も財産も、私を構成していたなにもかもを投げ打ってまで薬指を空けたのは誰であろうあなたのためだったのに。元の姓に戻った途端、元凶であるその人は波が引くように連絡を絶った。依存も執着も私に向けられたものではなかった。人のものに惹かれていた、ただそれだけだったのだ。
「どう? 満足した?」
二十グラムの重みを見せつける。空白を埋めるのは容易かった。誰も彼もが私の指を飾り立てようと躍起になっていたから。彼女以外の有象無象なんてどうでもいいのに。願ったたったひとつは、ただの『私』には見向きもしてくれない。私を縛るなにもかもは、あなたにとって背徳の恋を燃え上がらせるための材料に過ぎなかったのでしょうね。
「──あなたはここに指輪をしていない私のことなんて、興味ないものね?」
は、と。こぼした嘲笑を前に、愕然とした眸がかわいそうなくらい揺れている。それでも視線を外さない馬鹿正直さが心底憎らしくて、心底いとおしかった。
(墓の先まで交わらない、それがお望みなんでしょう?)
2026.4.9
そのお方は毎朝教会へお越しになっては、神の御前で祈りを捧げられておりました。
まだ陽も昇りきらぬうちから礼拝堂でひとり跪き、両手を重ね合わせる姿はわたくしたち聖職者よりもなお敬虔に映りました。ステンドグラス越しの日差しを厳かに受ける彼女はまるで一幅の絵のようだと、思わず視線を奪われてしまうのは不謹慎でしょうか。少なくとも彼女に伝えたところで、良い顔はされないでしょう。
きっとよほどのご事情がおありなのでしょう、その背中はいつも懺悔と後悔に満ちているようでした。彼女の過去も素性も存じ上げないわたくしはただ彼女の祈りへ重ねるしか術がございませんでした。主よ、どうか彼女の祈りを聞き遂げてください、と。
彼女をお見かけするようになって数ヶ月ほど経ったころでしょうか。庭を掃き清めていたところ、彼女の姿を目にいたしました。お声をかけましたがまるで届いている様子はなく、そのまま礼拝堂を行き過ぎ教会の裏手へと姿を消しました。覚束ない足取りに、どこか暗く沈んだ表情は、彼女の背中を追うに充分な理由でした。
教会の裏手に広がる墓地。整然と立ち並ぶ墓石のなか、ひとつの墓石の前でしゃがみ込む背中が見えました。てっきり故人を偲ばれているのかと思いましたが、よくよく目を凝らせば、一心に土を掻いていらっしゃるではありませんか。思わず駆け寄り、その腕を掴んでしまいました。振り返った彼女の眸には怯えの色が浮かんでいました。
「あぁ…見ないでください…見ないでください、私を…」
初めて耳にした彼女の声は酷く掠れていました。
「私の目を見ないでください…私の耳を、鼻を、口を、…私の腕を、見ないでください」
自由なほうの手が彼女自身の顔を覆いました。土にまみれるのも構わずがりがりと、皮膚を裂くように、みずからを削るように。見ないでと口にしながらもその目は言葉は行動は、わたくしに向けられたものではないように思えました。
「私の指を見ないでください」
がり。赤黒い血の滲んだ指。
「私の髪の毛を見ないでください」
がり。指先に引っかかり抜ける髪。
「私のつま先の爪を見ないでください」
がり。なおも墓を暴こうとする裸のつま先。
「私は…私は、償わなくてはならないの…っ」
自身を傷つけるその様は、宗教画もかくやと尊ぶほどの御姿とはまるで別人のよう。一体何が彼女をここまで追い立てているのでしょう。滲む狂気に気圧されたわたくしは追及も出来ずにただ、彼女の手首を握ったまま立ち尽くすしかありませんでした。
「あの人の目も、耳も、鼻も口も、指も髪の毛も皮膚も手も足も完璧に元に戻してあげなきゃいけないの。あの人の家族も…ちゃんと、元に戻さないといけないの、だから、」
そこでようやくこちらの存在に気付いたかのように向けられる視線。底の知れない泉を覗き込んでいるような、光のまったく窺えない眸にぞくり、背筋が冷える感覚。
「だから…放っておいてくれる…? 一人になりたいの…一人にさせて…」
ああけれど、打ちひしがれる彼女をどうして見過ごせましょうか。どうしてその手を取らずにいられるのでしょうか。だって彼女は誰よりも信心深い神の子。たとえどんな罪を背負っていようと、主はきっとお赦しになるでしょう。あわれにも自分を見失ってしまった子羊をきっとお導きになるでしょう。
震えを抑え、彼女の両手を包み捧げるは主への祈り。どうか迷える子羊に再びの光を。
「…神、なんて」
祈りをかき消されるような、自嘲めいた笑みでした。
「祈っても、願っても、悔いても乞うても縋っても、あの人は帰ってこないじゃないの。…あの人を戻してはくれないじゃないの」
ほどかれた手が、わたくしの両頬に触れました。体温を失った手のひら。棺のなかはきっとこんな温度なのでしょう。そんな想像がよぎるほどひえびえとしておりました。
「…それとも、あなたがあの人の代わりの目になる?」
わたくしをひたと見据える眸はけれどわたくしを映してはおりませんでした。
「あの人の、代わりの奥さんになる?」
わたくしを透かして誰かを探しているような視線でした。
「──あなたが、あの人の身代わりになる?」
ああきっと、彼女はすべて見透かしているのでしょう。彼女の上辺の美しさにばかり囚われていたわたくしを。彼女の祈りの先さえ推しはかろうとしなかったわたくしを。彼女に赦しも罰も失くした誰かの代わりによすがさえも与えられないわたくしを。
もはや呼吸さえままならないわたくしへ向けて、ふ、と。浮かんだ微笑みは馴染みのあるそれでした。けれど懐かしさも一瞬のこと。離れゆく手を追いかける気力などもうどこにもございませんでした。
両手を広げたその人はゆっくりと倒れ込んでいきました。背後に控えるはぽっかりと開いた穴。いつの間に広がっていたのでしょう、穴の底の棺は彼女を待ち構えるように口を開けていました。地獄の門を思わせるそれに彼女が吸い込まれて、
「─…死ぬ勇気もないくせに」
ぽつりとこぼれた声は、棺の閉じる音に呑まれてもう、聞くことは叶いませんでした。
(みないでください)
2026.7.8
動物の鳴き声も、植物のさやめきも聞こえない夜だった。
抱き留めていたぬくもりがふと身じろぐ。おやすみなさいと挨拶を交わしていくらか経ったけれど、隣人はどうやらまだ夢に沈んでいないようだ。
「眠れないの、グローリア」
「…いいえ。眠りたくないだけ」
静寂にとけるようなひっそりとした声だった。
思えば今日のグローリアはどことなく雰囲気が異なっていた。前触れもなく訪問してくるのはいつものことだけれど、普段の快活さが鳴りを潜めているというか、どこか影をまとっているというか、そんな印象。違和感を覚えつつも結局尋ねるきっかけもないまま、こうして一枚の毛布にくるまっている。
つ、と。伸びた指先がくちびるを辿り、行き先に迷っているような頼りない手つきで頤に触れ、喉へと下る。まぶたを開けても、夜に慣れない眸は彼女の金糸をぼんやりと捉えるばかり。
「…知っているかしら。カルロッタってば、わたくしの知らない言葉で寝言を呟く時があるのよ。この地域の方言かしら。それともあなたの生まれた国の言語かしら」
「…知らなかったわ」
素直にそう返すと、グローリアは少しだけ肩を揺らして笑った。
眠りは浅いほうだった。常にうっすらと意識が漂っている状態なのは締切に追われる日々で染みついた仮眠のせいか、それとも密林という棲み処に適応した結果かどうかは分からない。まるで蛹みたいねと、いつだったかグローリアに揶揄されたことがある。そんな自分がまさか寝言を呟き、あまつさえグローリアに聞かれていたなんて。なにせグローリアは朝まで熟睡するどころか、揺さぶってもなかなか目覚めないのだから。
背中に腕が回され、きゅう、と身体が近付く。私よりいくらも高い体温が眠気を運ぶ。
「少し、こわくなるの。…あなたが、知らない場所へ行ってしまう気がして」
「…いるわよ、ここに。グローリアのそばに、ずっと」
頭を抱きこむように引き寄せる。元々なかったはずの距離がさらに縮まっていく。
悲しみの理由は判然としない。もしかすると音の無い夜に不安をかき立てられただけなのかもしれない。けれどどうかグローリアを抱きしめているこの身体の熱が、鼓動が、吐息が伝わりますように。隣にいる彼女がこれ以上眠れぬ夜を数えることがないように。祈るのはただ、そればかり。
「─…あなたの音がする」
胸に耳を寄せたグローリアが、確かめるようにそっと呟いた。
(ふたりぼっちの夜に、)
2026.7.9
額を小突かれ、再び妹を見上げる羽目になってしまった。
「だめよ、お姉様。大人しく横になっていて」
「でもほら、焦げ臭くて。あなたも気になるでしょ?」
「だそうよ。まさか夕食抜きなんてことにならないわよね」
「もう! 少し黙っててくださるかしら、お姉さまがた!」
キッチンの方角から飛んでくるのは憤慨した末の妹の声と、食器たちの騒々しい悲鳴だった。嘆息した次妹がまた私の頭を撫でる。ぴくり、思わず身体を揺らしてしまう。
滅多にキッチンに立つことのない末の子が夕食を準備してくれているというのも大事件だけれど、すぐ下の妹になぜか膝枕をされ、そのうえ幼子にするように頭を撫でられているという状況もまた不可思議だった。これといったきっかけがあったわけではない。お姉様、と手招きされたので近付いたところ腕を引かれ、あれよと言う間にこの体勢になっていたのだ。
「…たまにはお姉様にも休息が必要だわ」
ぶっきらぼうな呟きが落ちてくる。その視線はキッチンで忙しなく立ち働く背中を捉えたまま。髪を撫でつける手つきはどこかぎこちない。それでも確かに伝わるぬくもりについ、頬がゆるんでしまった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「ええ。存分に甘えてちょうだい」
「ちょっとあねさま! 次はわたしに譲ってちょうだいね!」
(あら、ちゃんと食べられるわ。よくやったじゃない)
(ふふん。もっと褒めてくださってもいいのよ)
(評価基準が甘すぎるわ、お姉様)
2026.7.10
書類を抱えて早や三十分。そろそろ覚悟を決めなければならない。
ちらと視線を向ける。件のその人は書類やモニターを間断なく確認しているので目が合う可能性は低いけれど、それでも慎重にならざるを得ない。思ったとおり、三分前と変わらず書類に目を落としていらっしゃる姿に知らず安堵の息をつく。あの険しい視線に耐えられる自信は今のわたしには無い。無いものの、正面から受け止めなければならない時はある。だってこれは仕事だから。
書類を手に立ち上がる。向かうは窓際、上座に位置する課長席。当課の課長はわたしの足音を聞き付けたのか、ようやくモニターから顔を上げた。射抜くような鋭い視線に思わず竦んでしまいそうになる。
「ああ、先日の稟議ですね。確認するので少し待ってもらえますか」
差し出した書類を一瞥した課長は、印鑑を探しながら紙面に視線を走らせる。この間電子決裁が下りた申請ではあるものの、彼女の確認は丁寧だった。そもそも一度承認が下りたものなのにどうして押印を集めて回らなければならないのか。悪しき習慣だと、わたしの教育係でもある係長も嘆いていた。社歴の長い社員でもそう感じているのなら、新卒ごときの意見ではきっと変わらわないのだろう。
「三十分前から様子を窺っていましたよね、あなた」
押印しながら飛んできた指摘につい肩を揺らした。てっきり気付いていないとばかり思っていたのに、どうやらわたしの熱視線は届いてしまっていたらしい。
ふう、と目の前で落ちるため息。業務が滞ったことを咎めているのだろうか。だって話しかけづらい雰囲気があったから、などという言い訳は通らないかもしれない。
「…手が離せない時は後に回させてもらう場合もありますが、基本的には気にせず声をかけていただいて問題ないですよ」
けれど書類と一緒に渡された言葉は叱責ではなかった。いや、表情は相変わらず険を帯びているものの、少なくとも咎めるような口調ではないように聞こえた。
それだけ言い残すと、わたしの返事も待たずにまたモニターへ視線を移してしまった。頭を下げて自席へ戻る。経理へ配属された同期を羨むのもこれで何度目だろう。聞けば経理課の課長は物腰柔らかなおじさんだという。うちの課長も悪い人ではないのだろうけれど、近寄りがたいオーラを前にどうにも委縮してしまうのだ。
課長とのやりとりを見ていたのだろう、隣席の指導係は苦笑していた。
「さっきの言葉、いつでも遠慮なく話しかけてくださいねってことですからね」
はあ、と曖昧な返事になってしまう。たしかに普段の課長にしてみれば優しい物言いではあったけれど、果たしてそんなニュアンスだったのだろうか。
話によると指導係であるこの人も、新卒でこの部署にやって来たのだという。きっと課長との付き合いも長いであろう係長は、相談しやすい人だった。課長とは正反対だ。
そんな彼女も書類片手に席を立ち、上座へと足を運ぶ。用向きを伝え、書類を確認し、押印をしつつ他の業務の話を少々。今しがたのわたしとのやりとりが繰り返される。
書類を返却されそのまま戻ってくるのかと思いきや、身をかがめた彼女は課長へなにやら耳打ちをしていた。会話は届かない。けれど上席の表情の変化は見て取れた。始めにばつが悪そうに顔をしかめて、次に困ったように眉尻を下げて、それから隣の部下を見上げる、その口元にはやわらかな微笑みが浮かんでいた。
入社して半年ほど経つけれど、こんなに柔和な表情は数えるくらいしか見とめたことがない。数少ないそのどれもを、たったひとりの部下が引き出しているのだと気付いたのは最近のこと。同期に感じるのとは別の羨ましさが浮かんでは消える。あのかわいい─いくらも年上の女性をかわいいと評するのは失礼にあたるかもしれないから心のうちに留めておくのだけれど─笑顔を、やわらかな声を、いつかわたしに向けてくれる日が来るだろうか。経理へ異動したいと考えていた同じ頭でそんな願いを抱いてしまう自分にほとほと呆れてしまう。
視線の先ではまだ上司と部下が、ふたりにしか分からない世界で笑っていた。
(あなたの隣にいるだれか)
2026.7.12
もはや定時がいつだったかも忘れてしまった。ぐ、と背伸びをする。椅子が洩らした不平がふたりきりのフロアにやけに大きく響いた。
「そろそろ帰りなさい。あとは週明けでも問題ないから」
キーボードの音に紛れて届いた声をたどる。上座に位置する課長席。夜が広がる窓を背に、当課の長であるその人はモニターと睨み合っていた。眼鏡は似合わないから、と。以前お酒の席でふて腐れたようにこぼしていたことをふと思い出す。本人曰く、眼鏡をかけると顔つきがよりキツくなるらしい。彼女はどうにも目つきの悪さを気にしているようだ。それなら一緒に選びに行きませんか、なんて約束はいまだ果たせずにいる。
久しぶりに伸びた膝がぱきりと鳴る。身体からの抗議も気にせず歩を進めても、件のその人は画面を見つめたまま。そっと名前を落とす。役職でも苗字でもない呼び名に、ようやく視線を持ち上げた彼女はどこか困ったように眉尻を下げていた。同じフロアの社員はすでに退勤しているのだ、これくらいは大目に見てほしい。
まあまあ、と曖昧に笑いかけながら背後に回る。両肩に手を置けば、ぴくりと僅かに強張る身体。軽く親指を沈みこませる。凝り固まった肩は本人の言葉よりも雄弁に疲労を訴えていた。
「…こんな仕事まで任せた覚えはないけれど」
キーボードから離れた左手がわたしの右手をやんわり叩く。ひんやりとした手のひらが心地よい。言葉に反して拒絶の意志が窺えないのをいいことに指の力を強めた。ふう、と洩れた息に色濃くにじむ疲れとほんの少しの色香に知らず喉を鳴らす。最後にキスをしたのは、抱きしめたのは、手を繋いだのはいつのことだろう。はじめは部下と上司という、ただそれだけの関係だったはずなのに、彼女の熱を知ってからはこれまでの自分がどうやってこの欲を抑えつけていたのかまるで思い出せない。
「…少し、楽になったわ。ありがとう」
左手がまた、手の甲をなぞる。薬指に引き寄せられる視線。華奢な手をさらうことができたらどんなにかと、願わない日はなかった。二十グラムの重みなど気にせずどこか遠くへ、この人とふたりだけで。
「そろそろ終電の時間でしょう、あなた。先にあがりなさい」
そんな願いもむなしく、彼女は目を伏せる。垂れた前髪のせいで表情は窺えなかった。見えないことに安堵する自分もいた。覗いてしまったらもう、離せなくなりそうだから。
「─…いい子だから、ね」
左手が離れる間際、指先をそっと握りこんでいく。どうか少しでも長くわたしの体温が残っていますように。祈りの先はついぞ分からなかった。
(夜にとかした祈りをどうか、)
2026.7.13