「まだいたの?」  甲高い声が耳を突いた。声の主など、確認せずとも分かりきっている。 「それはこちらのセリフだ。良い子は眠る時間だろう」  視線は持ち上げず、再び書類に目を走らせる。この内容ならデジタル形式にまとめたほうが効率が良いだろうに。後で確認メールを送るついでに忠言してみよう。  そんなことを考えている間に近付いてきた不機嫌な足音が、すぐ横で動きを止めた。書類が乱暴に奪い去られる。はためく紙の行方を追いかければ、見知ったしかめっ面に出くわした。怒りと呆れ、それから心配といったところか。まったく、分かりやすい。 「あんたねぇ、いま何時だと思ってんの」 「午前二時を回ったところだ」 「分かってるならさっさと切り上げなさいよ」 「もう数件処理したら終わるつもりだ。私に構わず、君は先にあがるといい」 「そんなこと言って、数件で終わった試しがないじゃない。今日は騙されないんだから」  書類を人質に取ったまま腕を組んだラーマは不服な姿勢を崩さない。別に騙しているつもりはない。ただ件数を明確にしていないだけだ。だというのにため息をついた若き科学者は書類を放り、端末を閉じ、ぐいと私の腕を引いた。 「睡眠不足は研究の大敵だ、って偉そうに宣っていたのはどこの所長様だったかしら」  言うには言ったが、成長期の子供にとって、という枕詞をつけていたはずだ。そんな訂正は、ふらつく身体を支えるために足を踏ん張ったと同時に喉の奥へ転がり落ちた。どうやら知らぬ間に疲労が蓄積していたらしい。ここはラーマの言うとおり、大人しく休んだほうが身のためかもしれない。  向かう先は仮眠室なのだろうが、ここで湧いた疑問がひとつ。 「君も一緒に来るのか」 「もちろん。あたしだってさすがに眠いし…」 「添い寝は私の業務に含まれていないはずなのだがな」  先導するその人が急停止。勢いをつけて振り返った顔は真っ赤に染まっていた。ころころとよく変わる表情は、何度見ても飽きが来ない。 「だ、誰が添い寝なんて…! ええと…そう、見張りよ、見張り! アイセメルってば、放っといたらすぐ抜け出すでしょ。いい大人のくせにまったく、手がかかるったら…!」  ぶつくさと勝手な言いがかりをつけ、再び強引に引っ張られていく。どうやら狭いベッドで眠る羽目になりそうだが、代わりに布団をあたためてもらうのだから悪くない条件だ。つい頬を緩ませてしまった私はなるほど、やはり疲れているのかもしれない。 (子守唄は残業代に含まれますか?) 2026.8.10
 ──警戒レベル高 : 所長が料理を振る舞おうとしている。  ──繰り返す、所長が料理を振る舞おうとしている!  チーム内にのみ伝わるアラートは、しかし彼女たちの秘密基地まで届かなかった。 「あ、アイセメル、どうしてここへ…!」  ここは共有ラウンジ。若き科学者たちはこの小さな談話室に集っては日夜熱い議論を交わしたり、時にアイドルへの情熱を語り合ったり、時に新曲の振りつけ習得に全力を注いだりなどしている。いわば息抜きの場でもあった。  そんな子供たちの居城へ現れたのは、観測基地首席顧問でありラーマたちの教師でもあるアイセメルだった。彼女がここを訪れることは少ない。だからだろう、室内へ踏み入ったアイセメルは、物珍しそうに周囲を見渡した。所狭しと貼られたポスター。棚に並べられたグッズやライブ映像ディスク。そして唖然としているラーマが今まさに手にしている、チラン遠征隊のフィギュア。かつては他の研究員もこの部屋を利用していたはずだが、今やすっかりラーマたち四人の色に染められていた。  我に返ったラーマは慌ててフィギュアを後ろ手に隠す。今さら取り繕ったところで、教え子たちのひそやかな趣味などとうの昔に露見しているし、ラーマもそれは承知の上ではあったが、だからといって堂々と見せびらかすのはラーマのプライドが許さない。 「オフィスにいないのであればここしかないだろうと当たりをつけた結果だ」 「あたしのオフィスにも勝手に入ったっていうの!? ううん、この際どうでもいいわ。それよりも、ねえ所長、あんたが持ってるそれは一体…」  自身のオフィスの惨状を思い出し頭を抱えたくなったラーマは、しかしようやく本題とも呼ぶべき話題に触れた。できれば無視を決め込みたかったが、悲しいかな、研究者としての性でつい、確認してしまっていた。 「ああそうだ。珍しい食材が手に入ってな。君たちに味見してもらおうと思って」  指摘されたアイセメルはようやく、大事に抱えてきた保温ボトルの蓋を開けた。恐る恐るボトルを覗き込んだラーマの目が捉えたのは、恐らくスープのような液体だった。ごろごろと浮かんだ得体の知れない具材に、形容しがたい匂いは、とてもじゃないが料理とは呼びたくない。 「…なに、これ」 「スープだ」  どうやらスープらしい。ラーマの見立ては合っていた、残念なことに。  我らが所長様は、部下たちに時折手料理を振る舞うことがあった。多忙な職員を労うためだとか、面白い味になったからだとか理由は様々だが、問題はその味だった。  本人が宣うとおり、差し入れる料理のどれもこれもが不可思議な味をしているのだ。一口に不味いとは評せない、得も言われぬ料理もどきを食べて無事だった試しがない。恐らくアイセメルは、料理を実験だとでも思っているのだろう。研究も人付き合いも卒なくこなすくせに、どうして料理だけへたくそなのよ。ラーマは内心毒づいた。 「最近栄養食ばかりだろう。食が偏っていては大きくなれないぞ」 「…余計なお世話よ」  金糸雀色の眸に見つめられたせいで、文句も罵倒もすべて喉の奥に滑り落ちていった。元より彼女を前にして断れる者など、この研究所にはいないのだ。だから料理の気配を察知して身を隠すという手段を取っていたのだが、今日のラーマは運悪く逃げおおせることができなかった。ならば潔く腹を括るほかない。  机にフィギュアを置いたラーマは、震える手で保温ボトルとスプーンを受け取った。近くで見れば見るほど食欲が減退していく。一体何を入れたら紫色になるのだろうか。謎の物体の制作者はといえば、感想を心待ちにするかのようにラーマの手元を注視している。いつもは鉄仮面みたいに無表情のくせして、どうしてこういう時だけ生き生きとした表情するのよ。もはや何度目かも分からない愚痴とともに、スープをひと口。まだ作り立ての熱を残したそれが喉を流れていき、 「……あれ? 意外とおいしい…」  固く閉ざしていた目をぱちりとまたたかせたラーマは思わず呟いた。鼻を抜ける風味はコンソメだろうか。なぜ紫色の液体からコンソメの味がするのか不明だが、美味しいと評価して差し支えない出来ではあった。  素直な反応を聞き遂げたアイセメルが顎に手を当てる、その表情はどこか満足そうだ。 「なるほど、あの調味料を加えればコンソメ味になるのか」 「ちょっと待って。味見してないの?」 「したに決まっているだろう。だが実験において、第三者の視点は必要だ」  ついに実験だと公言してしまった。少女はその年齢にそぐわない深いため息をつく。普段の刺々しさは、不思議なことにスープのぬくもりにとかされてしまったようだ。  スープをもうひと口。優しい味が腹をゆっくり満たしていく。大人しくなった教え子の頭に軽く手を置いたアイセメルは、ふ、と口角をゆるめた。 「それを飲んだら、今日はもう休みなさい。残りの作業は私が引き受けよう」  ちらと視線を持ち上げた先、金糸雀色の眸に映し込まれてしまっては、従うより道がない。せめてもの反抗でわずかに頬をふくらませた少女は小さく頷いた。 「─…はい、教授」 (優しさはコンソメの味をしていた) 2026.8.10
 明かりが落とされていたせいで、人の気配を察知するのに時間がかかった。  実験室の奥にそっと足を踏み入れる。常夜灯の頼りない光の下、研究チームの首席は両腕を枕にして眠っているようだった。目の前の端末はとうにスリープモードになっている。光が届かないよう端末を傾け、起動させる。  表示されたのは今日の襲撃の解析結果だった。観測基地による総力戦となった今回の防衛戦では、地底の傀儡を退けたどころか、敵の残留物を利用して空間亀裂の解析まで進めたらしい。らしい、というのは、最高責任者であるはずのアイセメルは此度の戦いに参加できなかったからだ。研究員総出で臨んだことも、招集がかかったことも知っている。なにせ彼女の端末には、大量の不在着信とメッセージが残されていたのだから。  画面をスクロールして、解析の進捗を確認する。残り10%といったところか。短時間でよくここまで成果を挙げたものだ。さすが天才を自負するだけある。  襲撃の最中、アイセメルはEDGEによる「調査」を受けており、今しがた解放されたばかりだった。大方あの局長の提案によるものだろう。内容から察するに教授陣からの告発や外部との取引も含まれているのだろうが、彼女がそう易々と尻尾を掴ませるはずがない。腹の内はともかく、表面上は彼らの一次試験をパスした。明後日に予定されている最終検証実験前に観測基地を接収し、そうして──アイセメルはそこで思考を止めた。人の目がない今くらいは、知略や算段といったすべての煩わしさを意識の隅へ追いやりたいと、らしくもなくそう思ってしまった。  端末から外した視線が行き着いた先で、天才少女はすよすよと健やかな寝息を立てている。夢の中で実験でも行っているのだろうか、細い眉がハの字を描いていた。  ──この非常時に一体どこにいるのよ! 研究を投げ出すなんて、科学者失格ね!  襲撃時にラーマから送られたメッセージを思い出す。乱暴な言葉で飾られてはいるが、端々に「手を貸してほしい」という願いが滲んでいた。ラーマはいつもそうだ。実力も発想もアイセメルを上回っているはずなのに、少女はなぜか彼女の意見を求めてくる。もちろん少女の性格上、明確に助力を乞うわけではないが、発表会に顔を出さなければ後日刺々しいメッセージが飛んできたり、所長の発言を待つかのように言葉を呑み込む時がある。便宜上はアイセメルが最高責任者だからだろうか。いいや、と彼女は即座に否定する。ラーマは上司に配慮などしない人間だ、顔を立てようなどとは微塵も考えていないだろう。それならばなぜ。彼女はもうずっと、その問題に行き詰まっていた。  少女が教え子になって、どれだけの月日が経っただろう。出会ったころから気難しい性格ではあったが、それでもまっすぐ見上げてくる子だった。彼女の手を取り、光ある方へ連れていこうとする。なぜ。心の中でいつも問うていた。答えはまだ出ていない。  端末の電源を落とし、研究室の隅に配置されたロッカーへ向かう。思ったとおり、誰かのブランケットが置き去りにされていた。足音を忍ばせ戻った彼女は、少女の肩へそっとブランケットを掛けた。自室へ運ぶか、起こしてきちんとベッドで眠るよう諭すのが正解なのだろうが、小柄とはいえ人ひとり運ぶほどの力は無いし、いま目覚めれば先の戦闘での不在理由をしつこく問われるだろう。面倒は避けるに限る。実験室の監視カメラは、ダミー映像が流れるようあらかじめ細工してある。ブランケットを寄越した人間が知られることはないだろう。  それに──寝顔を見下ろしたアイセメルがふ、と息をつく。少女のひと時の安らぎを妨げたくはなかった。  手を伸ばし、乱れた前髪を整える。それでも少女は夢の中。深い皺が刻まれた眉根をじっと見つめたアイセメルは不意に腰を屈め、皺の寄ったそこへくちびるを落とした。ふわり、鼻先をくすぐる少女の香りについ、彼女の目尻が下がる。 「─…おやすみ、ラーマ。よい夢を」  夢の中に巣食う暗霧をどうか払えますように。祈りが夜闇にとけていく。詮無い祈りを少女が知ることはない。今も、そしてこれから先もきっと。それでいい。夢に沈んだ少女の口元がやわらかに緩む。彼女にとってはただ、それだけでよかった。 (Good night, genius.) 2026.8.12
 口内に広がる苦味に、ラーマは思いっきり顔をしかめた。 「にっが…こんなの飲む人間の気が知れないわね…」  研究所のラウンジには、誰でも利用できるドリンクサーバーが備え付けられている。中でも珈琲は産地から焙煎に至るまで多種多様取り揃えられており、缶にインスタント、果ては珈琲豆まで並んでいるのだから、いっそ異常なほどだ。恐らくここの所長が自他ともに認めるほど珈琲好きということも大いに関係しているのだろう。こんなところで無駄に権力を振るうんじゃないわよ。ラウンジに踏み入るたび、ラーマはひとりごちた。  目の敵にする理由は至ってシンプル。ラーマは珈琲が嫌いなのだ。幼い頃、背伸びをして飲んだ珈琲が大層苦く、以来苦手意識を持っていた。  あたしだってもういい大人だもの、珈琲くらい飲めるはずよ。少女がそう意気込んだ理由の一つに、大量の珈琲を導入したであろうその人の存在があった。リング研究所の所長様はいつも珈琲を携えている。発表資料を確認する時も、雑多なメールを処理する時も、徹夜のお供ももちろん珈琲だ。あんなに常飲していてはもはやカフェインの効き目も薄いのではないだろうかと、ラーマは常々思っている。  そんな彼女が部下たちへ珈琲を差し入れることがままあった。研究員ひとりひとりの好みを把握しているようで、その人の口に合うものを用意しているらしいが、ラーマに手渡されるのはいつも栄養ドリンクか甘いジュース。糖分も必要だからな、と素知らぬ顔で宣う彼女はおそらく少女の嗜好を熟知しているのだろう。いっそ指摘されたほうがまだ反発できるものを、遠回しに気遣われているのが余計腹立たしい。  そんなこんなで弱点を克服すべく、人目を忍び挑んでみたわけだが、やはりというか昔の記憶そのままの味が舌の根に残り、思わず悪態をついてしまう。  ちらとカップに視線を落とす。ひと口飲んだきりの茶色い液体はまだなみなみ残っている。いくらひと気がないとはいえ、捨ててしまうのはさすがに気が引ける。だからといって我慢して飲み干せるかと言われると──珈琲を睨みつけ唸っていると、肩越しに伸びてきた手がカップを奪い去っていった。 「もう少し浅煎りのほうが、君の口にも合うだろう」  カップの行方を追いかけると、金糸雀色の眸に行き着いた。誰であろう、ラウンジを珈琲まみれにした張本人だ。代わりに手渡されたマグカップのにおいを嗅いだラーマは、不服そうに口をとがらせる。 「そう言うなら珈琲を寄越しなさいよ」 「こんな深夜に飲むものじゃない」 「あんただっていつも飲んでるじゃないの」 「私はいいんだ。水分みたいなものだからね」  噛みついてもどこ吹く風、傍らに立ったアイセメルはふっと苦笑する。人の健康管理にはとやかく口出しするくせに、自分こそ不健康街道まっしぐらじゃないの。そう言い返そうとして、けれどアイセメルが珈琲を煽る姿を見とめたラーマはぴたりと固まった。カップの縁に移った、ほんのわずかな口紅の色。そこは今しがた、苦味と悪戦苦闘していた少女が口をつけた場所だった。  ラーマの頬にかっと熱が灯る。ぶつけたい文句は山ほどあるが、指摘すればすなわち意識していると打ち明けるようなものだ。  羞恥に沈む少女の心の内を知ってか知らずか、親指でカップの縁をなぞった彼女はそっと息をつく。 「…あまり急ぎ足で大人になってくれるな」  揺れる茶色い水面に落ちた視線はどこか遠くを見つめているようにも映って、ラーマは思わず口を噤んだ。彼女は時折、少女が少女のままでいることを願うような言葉を口にする。その真意は窺えない。迷った末、少女は握ったままのマグカップに口をつける。 「…あんまり子供扱いしないでよ」  まだほんのりあたたかいココアの甘みが、珈琲の余韻を上書きしていった。 (コーヒーブレイクにはまだ早い) 2026.8.14
 データをアップロードしたと同時、背後の扉が開く気配がした。 「あら、所長様じゃないの。今日も戻ってこないかと思ってたけど」  非難の色を多分に含んだ声の持ち主など、振り返らずとも分かりきっていた。しかし無視をすれば、更なる不機嫌の種を生んでしまうだろう。ため息をひとつ。椅子を回転させて振り向けば、思ったとおり、首席研究員であるラーマがこちらへ歩を進めていた。ちょうど定期観測が完了したところなのだろう。共有データベースにあがっていた解析結果をつい先ほど確認したばかりだった。  恐らくここ数日観測基地を留守にしていたことに腹を立てているに違いない。ラーマを中心に実験を行っているのだから私が立ち会わずとも問題ないはずなのに、この子はいつも私の不在を咎める。研究に背を向けるな、とでも言うように。  不満をそのまま乗せたような足音は、しかし目が合った途端ぱたりと止まった。文句のひとつも向けてこないまま、食い入るように顔を見つめてくるラーマはどこか驚いているようにも見えた。馴染みのない反応に、こちらもつられて首を傾げる。 「どうした、私の顔に何かついているか?」  声をかければ少女はようやく我に返った。慌てて視線を逸らし、気のない返事を装う。 「別に。ただ、メガネをかけてる姿が物珍しかっただけよ」  指摘されるまですっかり存在を忘れていた。矯正したとはいえ、疲労が重なった時や事務処理が続く時はやはり頼らざるを得なかった。それ以外はあまり着用しないようにしていたから、ラーマが目にするのはこれが初めてだろう。  外そうとしてつるに伸ばした手を、けれど小さな手が押し留めた。 「…どうしてかけなくなったの」  ふ、と上向いた先。両手を私の指先に触れさせたまま見下ろしてくるラーマは、視力以外の理由を尋ねているように思えた。少女が知るはずのない過去を見透かされているようで、胸の内がざわりと波打つ。  メガネをかけていると、あの頃の自分が顔を出す気がした。仮面の奥に仕舞いこんだいつかの自分。まだ純粋で、真理というものを無邪気にも追い求めていた、愚かな私。容姿ひとつで何が変わるのかという話だが、私にとってはもはや願掛けにも近かった。  少女はじっと答えを待つ。レンズ越しの翡翠色の眸がいつもより澄んで見える。 「…別に。ただ、必要がなくなっただけだよ」  彼女の口調に寄せて、そう返した。嘘ではない。けれど満足のいく答えではなかったのか、不愉快そうに眉をひそめたラーマは人差し指でそっと、メガネの輪郭をなぞる。 「─……あっそ。それならいいわよ、別に」 (翡翠は歪まない) 2026.8.18
 どうやら天才でも埋まらない差はあるらしい。  襟を掴んで引き寄せ、背伸びまでしているというのに、私と彼女のくちびるはいまだ触れ合っていない。  求めた感触がいつまでも降ってこないことに勘付いた天才少女は、翡翠色の眸を覗かせ、そうして見る間に赤く染まっていった。勢いで口づけるつもりが気勢をそがれてしまい、遅れて羞恥に襲われているとか、大方そんなところだろう。  ラーマの靴がきゅ、と床を滑る。不満が表れた音につられるように、憤りを露わにした少女が吠える。 「ず、ずるいわよ! ちょっとくらい屈んでくれてもいいじゃない!」 「ああ、すまない。頑張って背伸びをしている姿がかわいらしくてね」  私としては褒め言葉のつもりだったのだが、どうやら下手を打ったらしい。乱暴に襟を離したラーマは背中を向け、完全にへそを曲げてしまった。そんな姿さえ愛らしいことに気付いているのかいないのか。  右手で肩を掴んで振り向かせ、左手で頤をさらう。呆気に取られて薄く開いたくちびるへ、自身のそれをそっと落とす。  触れたのは一瞬。けれどそれで充分。 「悔しいのなら早く大きくなることだな、天才さん」 「──っ、今に見てなさい…!」  不服を訴えながらも、さすがは負けず嫌いの天才。首に両腕を回し、つま先立ちをしてみたび強引に距離を埋めた。 (目には目を、くちびるにはくちびるを) 2026.8.18
 紙面をこんなにも羨ましく思ったのは初めてだ。  研究所の寮の一角にあるアイセメルの自室では、空調の静かな唸り声と、時折書類をめくる乾いた音だけが落ちていた。すでに深夜に差し掛かっているためか、扉の向こうを研究員たちが駆けていく足音も絶えて久しい。  そんな心地よい静寂の中で、しかしラーマ・ヘルツフィールドは大層不服だった。  簡易ベッドのヘッドボードへ背中を預けたアイセメルは、来週に控えた学術研究会の配布資料を確認している。来場客に配られるのは紙媒体の資料なのだから、実際の配布物を目視で確認したほうがいいだろう、とは彼女の言い分だ。  そうして書類に目を通し始めて早や三十分。  始めの十分はアイセメルの隣に大人しく座っていた。中央図書館から借りっぱなしの遠征隊の日誌は何度読み返しても飽きが来ない。しかし読み込んでいるせいで一言一句覚えてしまっていたため、完全に意識を集中させるには至らなかった。  次の十分は肩にもたれていた。ふわり、鼻先をくすぐる隣人の香りにラーマの鼓動が跳ねる。就寝前ということもあり、アイセメルは髪を下ろしていた。たまに滑り落ちる後れ毛を、細い薬指がすくい上げ耳へかけていく。そんな仕草ひとつにさえラーマの胸は落ち着きを無くす。もはや読書を続行することなど不可能だった。むしろこの状況で本へ没頭することができる人間がいるのならぜひともその秘訣をご教示願いたいものだ。  次の五分は膝の上にいた。やわらかな腿に頭を預けるようにして横になり、じとりと見上げる。資料から視線を外さない彼女に訴えは届かない。スリップから覗く肢体に、ラーマの喉が余計渇きを覚えただけだった。  身体を起こしたラーマはアイセメルの膝をまたぎ、覆い被さるような形で抱きついた。胸元に頬をすり寄せれば、腿よりもなおふかふかとした弾力に受け止められ、ラーマの顔がつい熱を持つ。勝手に敗北したような気になって、悔しさに任せて肩紐をいじる。  ラーマなりに抗議しているつもりだった。なんなら精一杯の甘えでもあった。けれどレンズ越しに見える金糸雀色の眸は一向に少女を映さない。 「もう少しいい子にしていてくれないか」  代わりに伸びてきた指が、ラーマの髪をひと房さらっていく。檸檬色のふわりとした巻き毛が指の間から滑り落ちる。髪を整えるでもなく、ただラーマがそこにいることを確かめるような動作に牙を抜かれかけてしまい、慌てて睨み据えた。 「五分前にも同じこと言ってたじゃない」 「そうだったかな」 「あら、記憶力もないの? その程度の資料、十分もあれば読めるでしょ」 「君のような天才と一緒にされては困る」  ぺら、と。また一枚紙がめくられていき、その流れで再び伸ばされた手が今度は頭を撫でていく。頭の形をなぞるような穏やかな手つきにまたも気勢をそがれる。  こんなので誤魔化されてやるもんですか。心地よさに思わず目を細めてしまいそうになる自分を叱咤する。そうやって優しくあしらえば大人しくなるだろうと思われていることが腹立たしい。かわいい教え子が─自分で言うのもなんだが─忙しい合間を縫って訪ねてきたというのに、待ちぼうけを喰わせるなんて。絆されそうになった怒りをなんとか奮い立たせる。いつまでもいい子で待てができるほど、あたしは従順じゃないのよ。  意を決したラーマは髪を梳いていた左手を取り、人差し指の先にひっそりとくちびるを押し当てた。ひくり、腕がわずかに震える。反応に気を良くした少女は薬指の根元にひとつ、それから手の甲にもうひとつ、わざと音を立てて口づける。  アイセメルは依然として何事もなかったかのように、手元の資料を読み進めている。けれど見上げたメガネの奥、まばたきが増えた事実を見逃すラーマではない。  左手を解放したラーマの次なる獲物は鎖骨。綺麗に浮き出たそこが彼女の弱点であることはとうに知っていた。くちびるを寄せ、ちゅ、と軽く触れる。 「こら」  低く落ちた静止の声に、しかし咎めるような色はない。当然のように無視して今度はほんの少し歯を立てた。やわな肌に犬歯が沈む感触に、ラーマのほうがくらりと眩暈を覚えそうだった。 「…あと一ページだから」 「そう。頑張って」  悪びれもせずそう答え、くちびるで肌を下る。谷間の際にひとつ、身体を屈めて腹にひとつ。シルク生地越しの体温がいつもより高い気がする。キスの雨を受けたその人がひそやかに息を詰めた気配がして、ラーマは思わず口元を緩めた。  さらに下方へ進もうとして、けれどみたび伸びてきた手に押し留められる。後頭部に添えられた手つきは、止めるというより縋るようでもあった。  見上げた先でようやくかち合った金糸雀色の眸が揺れる。レンズの向こう、眸の底でぐずりとなにかが燻ぶっている。ラーマは勝利を確信した。 「……君という人は、どうやら堪え性が無いらしい」  上体を起こしたラーマは書類を奪い、シーツの上へ投げ捨てる。そうしてアイセメルのメガネまで取り去ると、抗議の言葉をくちびるで呑み込んだ。 「あたしを待たせたあんたが悪いのよ」 (従順な子猫じゃいられない) 2026.8.18
『私はアイセメル。リング研究所の所長だ』  画面の中心で、壇上に立つ見慣れた女性が淀みなく自己紹介をしている。その口上も聞き慣れたものだ。ちらとモニターへ視線を向けたラーマは、しかしすぐに作業へ戻る。  端末には、第三ブラックリングからサンプリングした狂瞳波形がいくつも並んでいた。数式を打ち込みステータスを調整し、モデルを更新する。精密さは求められるが、単調な作業ではあった。そのお供にと適当に選んだのが、ブラックリング研究所の入試説明会だった。数時間前にアップロードされたばかりの配信動画は、再生回数がそれなりの数字に達していた。それだけ多くの人に注目されているということだろう。それ自体に興味は無いが、ラーマはつい、サムネイルに映る見知った女性をタップしていた。  何か音が欲しかったから。理由はそれだけだった。では何故あえてこの動画を選んだのかと誰かに問われたとして、知ってる声のほうが聞き流せるでしょ、と少女は不機嫌を露わに答えるかもしれない。  説明会の内容は、運動エネルギーと圧力に関する設問だった。静止軌道上から地上へテザーを垂らすと仮定した場合の方程式を求めよ、というラーマからすれば小学生でも解ける簡単な問題を、しかし聴講している生徒の大半は理解できていないようだった。未来の科学者が聞いて呆れるわね。ラーマは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。  そもそもラーマは学部生に期待などしていなかった。自分やエニアたちのように若くして才能を発揮する者もいるが、それはほんの一握り。特に今の学生の半数は親のコネによる入学だ。いかに楽をして単位を得るか、いかに安定して高給取りな職に就けるか。彼らが気にするのはそればかり。科学や研究にはまるで興味がない。教授陣も似たようなものだ。教えを説く側であるはずの大人たちも、求めているのは学部内でのより高い席次だけ。真理を究明する者などどこにいようか。  画面の向こうで教鞭を執っているその人も腐敗した教育制度にとっくに気付いているはずなのに、彼女の視線は変わらず前を見据えている。 『科学の探求に終わりはない』  凛と凪いだ金糸雀色の眸は、目の前の学生たちを見つめているようにも、別のどこかを見晴るかしているようにも見えて、 『君たちの中にいる、好奇心に満ちた子供を忘れないでくれ』 「…御託を並べちゃって。馬鹿みたい」  ──あんたが一番、科学者としての志を見失ってるくせに。毒づいたラーマは、乱暴な手つきで動画を止めた。修正はすでに完了している。それまで部屋を満たしていた声も打鍵音も途絶え、再びひとりきりの静寂が戻ってくる。 「まだ残っていたのか、ラーマ」  その静けさも長くは続かなかった。つい先程までスピーカーを通して聞いていた声が、今度は直接鼓膜に届く。鋭い足音がすぐ隣で止まる。来訪者の正体は分かりきっているものの、ラーマはすぐには顔を上げなかった。 「…おや。珍しいな、君がこんなものを見ているなんて」  隣人の視線は、静止したままの画面に留まった。あからさまにため息をついてみせたラーマはようやく振り仰ぐ。見上げた金糸雀色の眸に、わずかに驚きがにじんでいた。 「君にとっては退屈な講義だっただろう」 「ええそうね。内容も聴衆も本当、程度が低いわ」  感じたことをそのまま、オブラートに包みもせず投げつける。苛立ちの理由はラーマ自身にも分からなかった。知性の乏しい学生に辟易したのか、堕落した教育現場を垣間見たせいか、それとも教壇に立っていた女が白々しくも講釈を垂れていたからだろうか。どれも正解で、どれも適当でない気がする。  刺々しい感想に、アイセメルはふむと腕を組む。ラーマを見つめる表情には、どこか教師としての色が浮かんでいる気がした。 「彼らの実力はまだ未知数だ。現時点で切り捨てるには少し時期尚早だろう」 「未知数? 努力もしない人たちの可能性を、あんたは信じてるっていうの?」  語尾が怒気を孕む。ラーマの手に知らず力がこもる。ああそうだ、彼女は憤っていた。教師然として佇むアイセメルその人に腹を立てていた。自身は科学者としての矜持も志も置き去りにしているくせに、生徒相手には本懐を説く姿に。究明にも探求にも興味がないという顔をしながら、後進たちには真理を追わせようとする振る舞いに。欺瞞的な行為が酷く滑稽で、酷く痛ましかった。彼女が自分自身の道をとうに諦めているように見えて、そのことが何故かラーマの胸を締めつけていた。  金糸雀色がまぶたの裏に姿を隠す。何かを押し留めるような仕草は一瞬のこと。 「可能性、か…。信じたいと思っているよ」  静かに落ちた声は、どこか祈りにも似ていた。金糸雀色の眸に少女が絡め取られる。真正面から睨み据えたものの、先に視線を外したのはやはりラーマのほうだった。これ以上見つめ合っていたらきっと、余計なことまで口走ってしまう。  端末を手に実験室の扉へ向かうラーマの背中へ、アイセメルがひっそり名前を落とす。 「君のことも信じているよ、私は」  そ、と。願うようなささやきに、少女は内心吐き捨てる。あんた自身は信じないの?──疑問を音にすることはとうとうなかった。 (象牙の塔の愚者たちへ、) 2026.8.20
 何度目かの寝返りを打ったところで、ラーマは仕方なく身体を起こした。  学術研究会は数時間後に迫っていた。別に緊張しているわけではない。狂瞳空間理論の骨子はすでに組み上がっているし、反証に対するデータも準備している。それでも完璧ではなかった。現状モデルにはまだ検証の余地が残っている。リソースも全然足りていない。つつかれて崩れるほどではないが、理想としている形にわずかに届かない。そのわずかな綻びが、ラーマの安眠を妨げていた。  枕元の時計を見やる。朝の四時を少し過ぎたところだった。もう少し詰めたほうがいいかもしれない。ため息をひとつ、ラーマはベッドを抜け出した。  早朝の廊下は静まり返っていた。普段は研究員の往来が絶えない所内の廊下も、さすがにこんな時間とあれば人の気配がない。残業時間のトップを走るラーマでさえ、非常時でもなければ眠っている時間だ。  脳内で修正箇所を洗い出しながら歩いているところへ、ふ、と。甘い香りが鼻先をくすぐる。真っ白い無機質な廊下にほのかなバターの香りはひどく不釣り合いだったが、それが逆に少女の興味を誘った。  寮区画と実験区画の境界には共同キッチンがある。匂いの元は恐らくそこだろう。  こんな時間に一体誰が。足を進めながらも、しかし心当たりは一人しかいなかった。 「─…朝っぱらから何してるのよ、アイセメル」 「ああ、おはよう、ラーマ」  キッチンへ続く扉を開ければ、やはりというか、ここの所長であるアイセメルその人が調理台に向かっていた。入り口に立つラーマを見とめ、いつもの調子で挨拶を返す。しかし最高責任者であるはずの所長様は研究着の上からエプロンを着用し、天板を持ち、さらにその上には様々な形のクッキーが並んでいた。  ラーマの知るアイセメルという人間から乖離した姿に一瞬、呆気に取られてしまう。彼女が料理を得意としていることは知っていたが、実際に調理風景に出くわすのは初めてだった。アイセメルってちゃんとエプロン着けるんだ。固まった思考が最初に抱いた感想はそれだった。 「眠れないのか?」 「…別に。ちょっと目が覚めちゃっただけ」  我に返ったラーマは、誤魔化すように視線を落とす。丸に四角に星型。焼き立てであろうクッキーは、天板の上で綺麗に整列していた。 「あんたも早起き組?」 「いや。雑務を片付けていたら、中途半端な時間になってしまってな」 「それでクッキーを」 「焼いていた」  至極当然とでも言いたげな返答をされてしまえば、もはや返す言葉もなかった。  ラーマは料理というものから縁遠い生活を送っていた。研究所内に食堂や購買があるのだから、自分で調理するよりも出来合いのものを食べたほうがはるかに効率がいい。料理の腕前に目も当てられないから、という理由は伏せておこう。  同じ科学者として─今の彼女をその括りに入れるのは不本意だが─アイセメルも同じ考えだと思っていた。けれど彼女は、隙を見つけてはキッチンへ向かい、時には研究員たちへ手料理や菓子を振る舞うことさえある。ラーマも渋々といった体で何度も口にしたことがあるのだが、悔しいことに腕前は申し分なかった。  アイセメル曰く、料理は科学らしい。材料や調味料の配分一つでがらりと味が変わる。特に菓子は、加減を誤れば失敗に繋がる可能性が高い。だから面白いのだ、と。ラーマには彼女の語る面白みが一つも理解できない。理解できないがしかし、味見係くらいにはなってもいいかも、とは思っている。  だけど何もこんな時間に作らなくても。ラーマの文句は、キッチンに響いた腹の虫に遮られた。慌てて腹を押さえたが、対面の表情を見るに恐らく聞き咎められてしまったのだろう。かあ、とラーマの頬に熱が差す。そういえば昨日の昼から何も食べていないことを思い出す。意識した途端、腹の虫が今更のように不満を訴え始めた。 「君はタイミングがいい。ちょうど焼き上がったところなんだ、よければ味をきいてくれないか」  天板を差し出すアイセメルの口元にほんのり笑みが浮かんでいる。悔しい。非常に悔しいが背に腹は代えられない。 「…仕方ないから、あんたの暇つぶしに付き合ってあげる」  悩んだ末に星型のクッキーを選び、半分ほどかじった。ほんのり熱を持った甘みが口いっぱいに広がり、少女の顔が思わず緩む。充分に休息が取れなかった脳にバターが染みわたるかのような感覚に、知らず肩の緊張がほぐれていく。 「天才の口に合っただろうか」 「及第点ってところね」 「赤点でないなら上出来だ」  もきゅもきゅと残り半分を咀嚼し、さらに二つ目のクッキーへ手を伸ばすラーマに、アイセメルは今度こそ微笑んだ。 (手練れの味見係) 2026.8.21
「あら、珍しいお客様ですわね」  小さな部屋の主は、書物から顔を上げると驚くことなくふわりと微笑んだ。  ここはディスシティ中央図書館。平日の昼下がりであるにも関わらずそれなりに利用者がいたが、図書館というだけあって静寂は保たれていた。  そんな居心地のよい空間の一角を訪ねたアイセメルは、筆を置く館長に詫びを入れた。 「邪魔をしてすまない」 「いいえ。ちょうど一段落ついたところでしたの」 「あっ、それじゃあ私、お茶を用意してきますね!」 「いや、私は、」  シーリンの横に控えていたリンダは本を抱えたまま、来訪者の返事も待たずに部屋を飛び出していった。忙しない足音ののち、やがてここが図書館であることを思い出したかのように歩調が抑えられていく。  教え子の背中を見送ったシーリンはくすくすと笑っている。 「慌ただしくて申し訳ありません。よければご一緒していかれませんか?」 「せっかくのお誘いだが、この後予定が入っていてね。また今度お願いしよう」  朗らかに断りを入れたアイセメルは、部屋の様子をそっと窺った。  来客用なのであろう長机には、一冊の本が置き去りにされていた。表紙に『ディス科学黄金時代』と記されたその本は、よほど読み返されているのか少しよれていたが、それが逆に書物としての風格を深めているように見えた。 「ラーマもさっきまでここにいたのですが…資料を探しに行ったきり、まだ戻ってきておりませんの」  どうやらアイセメルが来訪した目的はお見通しだったようだ。席を立ったシーリンはゆっくり歩みを進めると、本の表紙をそっと撫でた。 「うちの子が迷惑をかけていないだろうか」 「いいえ、まったく。むしろ、いつも楽しくお話してくださるものですから、来館を心待ちにしておりますのよ」 「それならよかった」  口からこぼれたのは、思ったよりも素直な安堵だった。  ラーマは科学者という存在に対して生真面目だ。潔癖なほどの理想を持ち、真理を追い求めることこそ科学者の本分だと豪語して、それ以外の趣味や好みを隠そうとする。もっとも上手く隠せていると思っているのは本人ばかりで、少女が憧れる者も、少女のオフィスを埋め尽くすグッズの存在も、アイセメルはとうの昔に知っているのだが。 「遠征隊の話になると、あの子の顔が分かりやすく輝くんです。彼女にとってはずっと憧れなのでしょうね」  そんな少女が屈託なく趣味に打ち込める場所があることを、話を聞いてくれる相手がいることを知れただけで、今日のアイセメルの目的は充分に果たされた。  本から指を離したシーリンがつとアイセメルを見やる。 「会っていかれませんの?」 「いや、やめておこう。私がいると気兼ねしてしまうだろうからな」  シーリンは否定も肯定もしなかった。ただ口元に手を当てほのかに笑い、来訪者を見つめている。藍玉にも似た眸が悪戯に細められる。どこか人の心の内まで見透かすようでもあって、アイセメルは少し苦手意識を覚えていた。 「ラーマから、貴方のお話もよく伺っているんですのよ」 「私の?」 「ええ。毎回、とても」  含みのある言い方に、アイセメルは片眉を上げた。 「話とは」 「それは本人から直接お聞きになったほうがよろしいかと」 「私が聞いたところで素直に答えてくれるとは思えないな」  のらりくらりと微笑む館長に、アイセメルは肩を竦める。その話とやらの大半は文句や怒りであろうことは想像に難くない。けれど自分のいない場所で、自分のことを話すラーマの様子はどんなものだろうかと、アイセメルは少しだけ思いを馳せた。  シーリンの手元にある本を眺め、まばたきをひとつ。年季の入った表紙を焼きつけたアイセメルは、部屋の主へ軽く頭を下げた。 「邪魔をした。君の教え子にもよろしく伝えておいてくれ」 「またいつでもいらしてくださいな。今度はあの子と一緒に」  踵を返したアイセメルはひらりと手を振る。きっとラーマとともにここを訪れる機会はないだろうが、それでもついそんな未来を想像して、ふっと口角を緩める。  遠くで響く忙しない足音に耳を傾けながら、アイセメルは歩き出した。 (Genius’s little sanctuary.) 2026.8.21