実に快適な眠りだった。アイセメルはまぶたを閉じたまま、寝起き特有のまどろみに身を委ねる。普段は睡眠というより仮眠に近かった。アラームをかけずとも早朝に目を覚ますことができるし、人の気配を察知すると否応なしに意識が覚醒してしまう。業務が詰まっている場合は都合が良い時もあるが、常に寝不足なのは困りものでもあった。  そんな眠りの浅いアイセメルも、しかしラーマとベッドを共にする夜だけは別だった。ラーマの隣でなら、夢さえ見ることなく朝まで熟睡できるのだ。一体少女の何が安眠をもたらしてくれているのか。未だ解明できていないし、そもそも解明するつもりもない。科学者にあるまじき怠慢だが、これでいい、とアイセメルは思っていた。理由も証明もいらない、ただラーマの傍にいれば心が穏やかになるのだという事実だけあればいい。そう、昨夜だって──ふわふわとした頭で順に記憶を辿っていたアイセメルは、そこでようやく違和感に気付いた。  眠りに落ちようとするまぶたをこじ開ける。薄暗い室内で、けれど求めていた背中はすぐ目の前にあった。いつもは抱き枕よろしくアイセメルに抱きついて眠るはずの隣人が、今はベッドの端でひとり華奢な身体を丸めている。昨夜、そう、昨夜だ。数時間前の記憶を完全に取り戻した彼女は、痛むこめかみを押さえた。見上げたラーマの視線が熱を帯びていて、至るところに落ちる口づけの心地よさについ目を閉じて、そして──そこで記憶が途絶えているということは、意識を手放してしまったのだろう、多分。  小さな背中が軽く身じろぐ。寝息が聞こえないということは恐らく起きているのか、あるいは眠れなかったのか。いずれにせよ、アイセメルに非があることに変わりはない。 「…おはよう、ラーマ」 「…随分のんびりとしたお目覚めね」  悩んだ末の挨拶に、険のある言葉で打ち返される。なにせ一ヶ月ぶりに顔を合わせたのだ、ラーマの怒りももっともだ。アイセメルは外部講演のため出張、ラーマのほうも研究所にこもりきりだった。その一ヶ月間、アイセメルの眠りは当然質が良いとは言い難かった。これまではそれが常だったはずなのに、一度快適な寝心地を知ってしまえばもう元の状態には戻れないのが人間というもの。ラーマの香りと体温と感触にすっかり身体の緊張が解けた昨夜のアイセメルが寝落ちしてしまったのもまた仕方のないことだ。  しかしそんな言い訳をしたところで、少女の機嫌が直るわけではない。  張り詰めた空気を打破すべく、ラーマの肩に手を伸ばす。ぴくり、わずかな反応のみで振り返る気配はない。 「その…すまなかった」 「なんで謝るのよ。疲れてたんでしょ? なら仕方ないじゃない」 「だが、君を怒らせた」 「別に怒ってない」  ぶっきらぼうな声も、向けられたままの背中も、少女がへそを曲げているという事実を疑いようのないものにしている。そもそも疲れているのはラーマも同様のはずだった。エニアの報告によれば突如発生した異常現象により、ラーマを筆頭とした研究員たちはここ数日徹夜して作業にあたっていたという。にも関わらず休息よりもアイセメルとの逢瀬を優先したのは、やはり若さゆえなのだろうか。そんなことを口にすればますます機嫌を損ねてしまうだろうから、ため息とともに心の内に閉じ込めた。  しゅる、とシーツがささやき声をあげる。ぴたりと背中に身を寄せれば、さすがのラーマも身体を揺らした。一瞬逃げる素振りを見せるも、すでにベッドの端にいるためそれも叶わない。相手の反応に構わず、アイセメルは肩にくちびるを触れさせた。目の前の身体が今度はぎゅっと強張る。翡翠色の眸がどうか自分を映してくれますように。髪へ、うなじへ、音を立てながら滑らせたくちびるに願いをとかしこむ。 「…っ、そんなので誤魔化せると思ってるの?」 「誤魔化そうなんて思ってないよ。許してほしいだけだ」 「だから…怒ってない、ってば…っ」  言葉から段々毒気が抜けていく。頑なだった姿勢はどこへやら、アイセメルの吐息が掠めるごとにラーマの身体は警戒をほどいていった。素直すぎる反応に、アイセメルの顔がつい綻ぶ。募る想いのままぎゅうと背後から抱きしめ、息をひとつ。 「…どうやら私は、君のそばにいると気が抜けるらしい」 「…はあ?」 「君の横では肩肘張らず、ただの私でいられる。だからつい安心して眠ってしまった」  人のことを指摘できないくらい、彼女の口も随分と正直だった。  腹に回ったアイセメルの手にそっと触れたラーマは、しばらくしてもぞもぞと動き、ようやく身体を反転させた。いくらか薄闇に慣れた目が、ふてくされた表情と真っ赤な顔を捉える。じとりと睨み据えてくる視線にはちっとも迫力がない。 「…それなら、まあ、許してあげる」 「やっぱり怒っていたんじゃないか」 「うるさい」  噛みつくように吠えたラーマが肩を押す。翡翠色の眸を見上げながら、今日が休みでよかったと、アイセメルはひそかに安堵した。 「あんたは充分休めたわよね? ──じゃあ今度は、あたしを甘やかしなさい」 (君との朝寝は叶わない) 2026.8.21
 失敗するはずのない計画だった。  席を立つタイミング、距離を詰めるまでの歩数、意識が向くまでの速度、腕を伸ばす角度、踵を浮かせた際に稼げる高さ。すべて緻密に計算した。天才の名をほしいままにしているラーマ・ヘルツフィールドにとってこの程度の計算など、食堂のランチを予想するよりも容易いことだった、そのはずだった。ただ一つ誤算があるとすれば、ラーマ自身の身長が、本人が把握している数値よりも低かったことだろうか。  ぎゅっと目を閉じたラーマは、しかし想像していた感触がないことに疑問符を浮かべ、そうしてすぐに失敗を悟る。彼女は先日の健康診断の際、ツンとわずかに上向いて身長を測った。少女の小さな見栄が、肝心なところで大きく影響してしまったのだ。  恐る恐るまぶたを開く。艶やかなくちびるは目と鼻の先にあるというのに、そのあと一歩が届かずにいた。縋られるようにラーマに両肩を掴まれたアイセメルは、しばらくいつもの無表情を保ち観察していたが、やがて堪えきれなくなったのか、ふふ、と笑みをこぼした。ラーマの顔に羞恥が広がる。アイセメルのこの態度が気に食わなかった。いつも余裕ぶって、ラーマのどんな無茶な要求も涼しい顔で受け入れてしまう。だからその仮面を剥ぎ取り、動揺した表情を見て悦に入りたかった。あわよくば柔なくちびるを堪能したかった。ただそれだけの不意打ち計画だった。 「どうした、ラーマ。なにか欲しいものでもあるのか?」  白々しく尋ねてくるアイセメルに余計腹が立つ。ラーマの意図も欲するものもすべて分かっているはずなのに、彼女はいつも、少女の願いをみずから引きずり出させようとするのだ。そんなのずるいと憤慨するものの、しかしこの状態ではラーマも引っ込みがつかない。  しばらく睨み据えていたラーマは、やがて噛み締めた歯の隙間から言葉を絞り出す。 「……しなさい、よ…」 「聞こえないな。喉の調子でも悪いのか?」 「だから! キスしなさいって言ってんの!」 「よくできました」  褒美とばかり不意に距離を詰めるアイセメルに、ラーマは思わず目を閉じる。けれどやわらかな感触が降ったのは口ではなく額だった。今しがたくちびるが触れたであろう額を押さえたラーマは呆然とする。その隙に束縛から抜け出したアイセメルは、ふに、と少女のくちびるへ人差し指を伸ばす。 「不意打ちする悪い子は、夜までおあずけだ」 「──っ、失敗したんだから大目に見なさいよ!」 (計画は御破算です) 2026.8.24
 人間の身体には限界というものがある。食事、睡眠、休息。そのうちのいずれか一つでも欠ければ徐々に処理能力が落ち、判断の精度も鈍っていく。頭では理解しているが、悲しいかな、常にベストな状態であれないのが社会人というものである。  珈琲片手にレポートを読み進めるアイセメルの目元には、化粧でも隠しきれないクマが居座っている。それもそのはず、徹夜生活も今日で四日目だった。据わった目と染みついたクマのせいでいつもより凄みが増しているのか、所長室を訪れる研究員たちは皆怯え、用件を済ませるとさっさと退出していった。彼女としてはありがたいが、しかし来客が減ったところで目の前の書類の山が崩れるわけではない。  研究所へ新しい研究員たちが入所する時期ということもあり、所長であるアイセメルのもとへ論文やらレポートやらが多数寄せられていた。若き科学者たちの斬新な視点に触れられるのはやはり心が躍る。躍るがしかし、いい加減目が滑り始めてきた。  カップに口をつけたものの、とっくに飲み干していたことを思い出したアイセメルはひっそりとため息をつく。珈琲は意識を保つためのものというより、もはや精神安定剤に近かった。珈琲がなければ今頃すべての書類を放り出し、新しいレシピ開発に興じていたかもしれない。もちろん彼女に限ってそんな奇行に走るはずもないが、彼女の今の精神状態はそれくらい危ういものだった。  カップ片手に立ち上がる。途端、ぐらりと揺れた視界に思わず机に手を突いた。書類ががさりと身を揺らす。浅い息が洩れる。ゴンゴン、と響く音が耳に障る。そういえば最後にまともな食事を口にしたのはいつだったか。音が大きくなる。まぶたを閉じる。食事も睡眠も休息も、アイセメルには何一つ足りてはいなかった。音が大きくなる、 「ちょっと! いるなら返事くらいしなさいよ!」  突然割り込んできた声に、泥に沈みゆこうとする意識が引っ張り上げられた。  重いまぶたをこじ開ける。見慣れた翡翠色の眸が思っていたよりも至近距離にあり、アイセメルの思考が一瞬停止した。身を屈めて顔を覗き込んだラーマは、ひっどい顔、と不機嫌そうに呟く。 「鏡見たら? みんな震えてたわよ、あんたの顔がこわいって。どうせ珈琲取りに行く余裕もないだろうから持ってきてあげたわよ。感謝してよね。あたしだって忙しいのに、まったく…健康に気を付けろってうるさいくせにあんたは…」  いつもの調子で矢継ぎ早に話していたラーマは、しかし予想した反応が返ってこないことで口を噤んだ。少女の高慢な口調に嫌味の一つでも口にするはずのアイセメルは、目の前の少女をただぼんやり見つめている。 「ねえ、本当に大丈夫? あんたいつから寝てないの…?」  さすがに只事ではないと察したのだろう。カップを机に置いたラーマは、アイセメルをどうにか椅子に座らせた。ラーマを見上げた金糸雀色の眸にふっと色が戻る。まるでようやく来訪者の正体に気付いたかのように焦点を結んだアイセメルが両腕を伸ばす。 「なに、どうし…わっ、むぐ、」  何か訴えたいことでもあるのかとラーマが近付くと同時、首に巻き付いた腕にぐいと引き寄せられた。少女の顔が軟着陸した先はアイセメルの胸元。顔を包み込むやわらかな感触に、ラーマの身体が瞬時に熱を持つ。 「い、いきなりなにするのよ! 人のことぬいぐるみだとでも思ってるの!?」  ぷは、となんとか顔を持ち上げる。じたばたともがくラーマを気にも留めず、ラーマの髪に顔をうずめたアイセメルは深く息を吸い込んだ。シャンプーの香りが胸を満たす。はちみつのような甘い匂いに、アイセメルのまぶたが自然と落ちていく。 「…十五分…十五分後に起こしてくれ……」  語尾がゆるりとほどけ、代わりに小さな寝息が聞こえ始めた。あまりにも早い寝入りに唖然としたラーマは、やがて諦めたように大きなため息をつく。 「世話が焼けるわね、まったく…」  文句は届かない。机の上で、なみなみ注がれた珈琲がゆるりと湯気をくゆらせていた。 (用法用量を守って正しく抱きしめてください) 2026.8.24
 隠れるように眠る人なのね。ラーマは隣人の緩やかな呼吸を数えながら、いつだったかアイセメルの寝姿を初めて目にした夜のことを思い出す。  ベッドの上で膝を抱え込み、丸くなって眠る。上背のある彼女が胎児のような格好を取ると、まるで誰かの目から逃れんとしているようにも、世界の片隅にぽつんとひとりきりでいるようにも見えた。  そんな体勢で休まるわけないでしょ、と。半分は心配、半分は下心のもとアイセメルの腕の内へもぐり込んだラーマを、意外にも彼女は素直に抱きしめた。てっきりいつものように皮肉やからかいの一つでも飛んでくると思い身構えていた少女は、自身を包むやわらかな感触に狼狽えた。しかし自分から提案したのだから今更引っ込みもつかない。  それからというもの、徹夜の日以外はぬくもりを共有するようになった。ラーマが先に仕事を片付けた時は、眠ったふりをする少女をアイセメルがそっと抱き寄せる。逆の場合は、椅子で学術書を読んでいるアイセメルを横目に毛布を被ったラーマが、明るいと寝れないんだけど、と乱暴に隣を叩き、苦笑した彼女が明かりを消す。そんな茶番のようなやり取りが定着し、いつしか二人で越える夜が日常になっていった。  薄闇に慣れてきたラーマの視界が、目の前の顔をぼんやりと捉える。細かなまつげに、陶器のような頬に、血の気の薄いくちびる。精緻に形づくられた顔は、意識がある時は冷徹にも見えるが、こうして寝息を立てている姿はどこかあどけなく映るから不思議だ。普段はラーマのほうが先に夢へ落ちてしまうため、アイセメルの寝顔を拝めるのは早朝だけだった。意外と朝に弱いのかしら。そんなことを思いながらそっと腕を引き抜く。  そろり、指先で触れた肌から伝う体温はラーマのものより随分と低い。だから少女はいつも胸元に顔を寄せ、とくとくと控えめに打つ鼓動を確かめ安堵の息をつく。かつてアイセメルが自分の前から姿を消してしまったことは、少女に深い傷を負わせていた。目を離せば今度こそ手の届かない場所へ行ってしまう、そんな恐怖を振り払いたくて、呼吸に耳を澄ませ、傍へ留め置き、腕の内に閉じ込める。ラーマの恐れをアイセメルも感じ取っているのだろう。だからこそ毎夜律儀に体温を受け入れているのかもしれない。  顔を押しつけるようにして口づけをひとつ。胸にはまだ、昨夜つけた欲の名残が点々と散らばっていた。こうして自分の痕を刻みつけるのもまた、彼女をここへ繋ぎ止めるためのまじないのようでもあった。  そ、と。親指で頬を撫で、人差し指でくちびるをなぞり、少し伸びをして口づける。ほのかな熱が、アイセメルの存在を確かなものにする。 「─…いかないで。もう、どこにも」  ぽつり、落とした願いは、暁闇の空気にひっそりととけていった。 (そうして今日もあなたのいる朝を抱きしめる) 2026.8.26
 技術顧問団を招いた小規模な技術検討会は滞りなく終了した。主催の名を負っているはずのリング研究所所長が顔を出したのは冒頭の挨拶と折衝の場だけ。実際に技術発表を担い、場を動かしたのはラーマ率いる研究チームだった。一任されること自体に問題はない。顧問団の懐疑的な問いや、簡略化という名の稚拙な改善案を説き伏せることは、ラーマにとっては造作もないことだ。  ラーマが不満に思っているのはアイセメルの態度だった。彼女はいつもそうだ。研究の場から一歩引き、代わりに折衝だの責任だのといったもっともらしい役割を抱え込む。まるで自分は雑用係だとでも言わんばかりに。それがラーマは気に食わなかった。  同じく発表を担当したエニアたちは、アイセメルからのご褒美を受け取ると忙しなく会議室を飛び出していった。大方彼らの秘密基地へと向かったのだろう。すっかり懐柔された姿に、ラーマは呆れたようにため息をつく。 「さすが所長様は、あたしたちのご機嫌取りにも余念がないわね」  口を突いて出た嫌味は思った以上に刺々しかった。含まれた険に気付いているだろうに、当のアイセメルは涼しい顔で三人の小さな科学者たちの背を見送っている。 「どうした、天下の天才さんもご褒美が欲しいのか?」  ハッ、と馬鹿にするように天才科学者は息を吐く。 「見くびらないで。あたしは権力や物欲しさに研究してるんじゃないの、純粋に科学を探求してるのよ。どこかの誰かさんと違ってね」 「それは結構」  横目で睨み据えるラーマをよそに、アイセメルは机にぽつりと残されていた物を手に取った。先ほどまでボルたちへのプレゼントの陰に隠れていたそれをラーマへ手渡す。 「では、これは褒美ではなく、君の科学に対する探求心への投資ということにしよう」  橙色の薄紙に包まれているのは一冊の本のようだった。怪訝な表情でリボンを解いたラーマは、現れた表紙に思わず息を呑んだ。 「探していたんだろう。初版はなかなか市場に出回らないらしい」  表紙の題字を辿る少女の指先が震える。ナイトフォール後に行われた、死の禁域への最初の探索記録。現行版では削除と改変にまみれ、原型を失いつつあるその本の初版をどうしても読んでみたかったのだ。 「…これ、どうしてあんたが」 「人文学部の教授の手を少々借りてね。礼なら彼女に言うといい」  意外な人物の登場に、顔を上げたラーマが目を丸めた。確かにラーマと中央図書館の館長は懇意の仲ではあるが、アイセメルが彼女の協力を仰ぐ姿は想像つかなかった。  じっと見つめてくる金糸雀色の眸を前に、居心地が悪くなったラーマは再び本へ視線を落とす。綿でも詰め込まれたように、口の中でもごもごと感情が行き場を失っていく。 「こんなのでご機嫌が取れると思わないでよね」 「お気に召さなかったのなら返却してもらって構わないが」 「だ、誰も気に入らないなんて言ってないでしょ!」  両手で本を抱えて言い返す。大事そうに抱き込む姿に、アイセメルはとうとう口角を緩めた。ラーマの頭に手を伸ばしたアイセメルは、髪を梳くように優しく撫でつける。やわらかな指先の心地よさに、少女はつい目を細めてしまう。 「今日の成果は上々だ。よく頑張ったな、ラーマ」  子供扱いしないで。我に返ったラーマは反射的に口を開きかけ、けれどアイセメルの表情を仰ぎ見て文句を呑み込んだ。いつもどおり底の読めない微笑を浮かべてはいるが、わずかに下がった目尻や緩んだ頬にどこか誇らしさに似た感情がにじんでいる気がして、咄嗟に言葉が迷子になってしまった。 「…当然よ。あたしを誰だと思ってるの」  胸に抱いた本をさらに引き寄せる。仕方がないからもう少しだけ撫でさせてあげるわ。それまで感じていた怒りや憤りに言い訳をしたラーマは、目を閉じて五秒だけ数えた。 (五秒間だけ猶予をあげる) 2026.9.1
 所長室に入った途端、鮮やかな色が視界を彩った。  見覚えのない花が机の上に鎮座している。薄桃色の華やかな包葉は、殺風景な室内でひときわ浮いて見えた。  まばたきを一つ、机に近付いたアイセメルは鉢を観察する。メッセージカードの類は見当たらない。後援者や研究所へ便宜を図りたがる誰かからの贈り物かとも考えたが、花を贈るような粋人に心当たりはなかった。加えてこの花は、昨夜まで存在しなかったのだ。端末で所長室の解錠履歴を確認したが、部屋の主が留守にしていた深夜から早朝までの間にそれらしき痕跡はない。つまり送り主はアイセメルが不在の隙を突いてこの部屋に忍び込み、花を据え、ご丁寧に自身の足跡を消して去ったということになる。  あるいは自分に恨みを抱く者が盗聴器でも仕込んで寄越したのだろうか。しかし計器に反応はない。 「意外ね、あんたが花を愛でる趣味を持ってるなんて」  可能性を一つずつ潰しているところへ、覚えのある声が割って入った。振り返るよりも早く、アイセメルの隣に並び立ったラーマが鉢植えを見やった。咲き誇る花を上から下まで眺め、ふうん、と興味なさそうに鼻を鳴らす。 「育てたことは?」 「君に指摘されたとおり、生憎と花を愛でる趣味は持ち合わせていなくてね」 「まったく。風情ってものがない人間はこれだから…仕方ないから教えてあげる」  腰に手を当てたラーマはわずかに胸を張る。曰く、ブーゲンビリアは陽当たりが重要なのだと。曰く、水をやりすぎると花が育ちにくくなるため乾燥気味が好ましいと。  得意げに講釈を垂れる少女に目を丸めたアイセメルは、やがてふっと口角を緩めた。視線のやわらかさに気付いたラーマが途端、ばつが悪そうに言葉を呑み込む。 「なによ。あたしが花に詳しかったらおかしいかしら」 「いや。ただ、犯人は現場に戻るという俗説は証明されたようだ」 「は、犯人ってあんたねぇ…! あたしは別に…」  勢い込んで言い返そうとして、けれど口を滑らせたことにようやく気付いたのだろう、ラーマの声が不自然に途切れた。言い訳を探すようにしばらく視線を彷徨わせたものの、やがてそろりと隣人を見上げる。詰めの甘さに、アイセメルは堪えきれずに吹き出した。肩を震わせる彼女を前に、ラーマの頬がかあっと熱を持つ。 「おかげで仕事に身が入りそうだ。ありがとう、ラーマ」  噛みつくように口を開いたラーマは、ふわりと微笑まれて結局、視線を花へ逃がす。 「…枯らしたら承知しないから」 (ところでブーゲンビリアの花言葉は、) (なんでそんなことばっかり詳しいのよ!) 2026.9.3
 まどろみの底からゆるり、引き上げられた。  ひとつ、ふたつ。焦点が合わない。まばたきさえ億劫だった。なんであたし寝てるんだっけ。ぼんやりと天井を見上げながら記憶を手繰り寄せようとしても、考える先から思考がほどかれていく。 「目が覚めたか。調子はどうだ?」  聞き慣れた声にゆっくりと視線を滑らせた。ぼやけた視界に映る、見覚えのあるシルエット。どうしてあたしの部屋にいるのよ、そんな疑問は咳に絡め取られた。  そ、と。額に触れた手のひらの心地よさについ目を細める。随分と体温の低い肌が、身体の内を蝕む熱を取り去っていくかのようだった。 「まだ熱いな…もう少し休むといい。引き継ぎは完了しているから、心配は無用だ」  その言葉にふっと記憶が浮上する。朝から体調が優れなかったのに無理を押して実験に参加した結果、途中で意識を失ってしまって──自身の不甲斐なさにじわりと、また視界がにじんでいく。自業自得の結末で、ましてやこんな人の前で弱みなんて見せたくないのに、熱に浮かされた身体は言うことを聞いてくれなかった。  目尻からとめどなくあふれる涙を、細い指がすくい取る。額から頬へ移った冷たさに、波立った心が徐々に平静を取り戻していく。 「お小言は君が元気になってからにしよう。…だからもう泣かないでくれ」  頬を撫でるその人が吐き出したため息は、呆れよりも戸惑いを含んでいる気がした。そういえば彼女はいつの間に研究所へ戻ってきていたのだろう。もう数日顔を合わせていなかったはずのこの人は、もしかしてエニアたちから連絡を受けたためにこの部屋を訪れて、ベッドの主が目覚めるまで傍らで見守っていたとでもいうのだろうか。 「なにか食べられそうか? 粥か果物でも用意してこよう」 「あ…、まって、」  手を伸ばしたのは無意識だった。頬を手放したぬくもりを追いかける。ぎゅうと両手で掴んでしまったことに、自分自身が驚いていた。 「─…いかないで。…そばにいて、おねがい」  正常な判断ができないから、ひとりが心細いから、だから仕方なく頼っているだけ。言い訳をしなければ縋れなかった。けれど口実を作ってでも離したくなかった。そんな小狡い心の内を見透かしたように、冷たい手のひらが再び頬を包み込む。ようやく焦点を結んだ視界が捉えたのは、金糸雀色の眸を慈しむように細めたアイセメルの姿だった。 「少し眠るといい。君が起きるまでここにいるから」  まぶたがゆるり閉じていく。意識が沈む直前、額にやわらかな感触が落ちた気がした。 (あんたがいると安心するのも、あんたに触れていてほしいのも、全部全部、風邪のせいなんだから) 2026.9.4
 窓を打つくぐもった音で、ラーマの浅い眠りが途切れた。ふわあ、と欠伸が口を突く。まだ夢の世界に片足を突っ込んだまま、薄暗い室内をぼんやり見渡す。  果たしてベッドの住人は珍しく上体を起こしていた。ラーマの寝床と反対方向の窓へ顔を向けているせいで、その表情は窺えない。  ラーマはひっそりと息を呑む。この病室の主が自ら体勢を変えたのは初めてだった。そっと簡易ベッドを抜け出したラーマは足音を忍ばせ、彼女のベッドの縁に腰を下ろす。二人分の体重を受け止めたスプリングがぎしりと不平を訴える。彼女は動かない。  ラーマたちの元へ戻ったアイセメルが何かに反応を示すことは一度もなかった。研究にも食事にも人にも、自身の生に関わる一切を受け入れようとしない。死を望んでいるというよりも、何もかもを手放してしまったかのように見えた。  そんな彼女のお目付け役としてラーマが病室に住み着くのも当然の流れだった。一応正式な手続きを踏んではいるが、半ば強引に通した特例でもあった。病院食に目もくれないアイセメルは、けれどラーマがスプーンを差し出した時だけ、機械的にではあるが口を開けるのだ。だからこそMBCCはアイセメルの治療のため、ラーマの滞在許可を無理やり通したのだった。 「…眠れないの?」  ラーマの問いは拾われることなく、絶え間ない雨音にかき消されていく。答えは期待していなかった。アイセメルと再会した後、彼女がラーマへかけた言葉はただ一言。『私はもう、君の人生から消えた人間だ』──ただそれだけだった。  ラーマはそっと横顔を窺う。感情を失った金糸雀色の眸は、窓を伝う雨粒を映してはいなかった。ただ夜闇に馴染ませるように視線を漂わせている。 「ねぇアイセメル、どうすればあんたは戻ってきてくれるの?…どうすれば、あたしを見てくれるの?」  アイセメルの視線の先を追ったラーマがぽつりとこぼす。答えはない。怒りも願いも、もうどこかへ置いてきてしまった。今はただ、いつ叶うか知れない祈りをかけるばかりだった。祈ることまで諦めたら、彼女の存在さえ雨にとけてしまいそうだったから。  しばらく横顔を見つめていたラーマは、やがて小さく息をつく。自身のベッドへ戻るべく立ち上がりかけ、けれどかさりと囁いたシーツにつられて振り返る。アイセメルの細い指が、ほんの少しだけラーマの寝間着の裾を掴んでいた。縋るというにはあまりに頼りない。それでもラーマを引き留めるには充分だった。  息を詰めたラーマが、泣き出すようにくしゃりと顔を歪める。裾に縋る指にそっと、壊れ物にでも触れるように手を重ねる。雨はまだ、降り続いている。 (雨に沈む、君を想う) 2026.9.5
「一体どういうことなのか説明しなさいよ!」 「主語が抜けている。君の悪い癖だ、ラーマ」  勢いよく机を叩いたラーマに構わず、この部屋の主であるアイセメルはキーボードを叩き続けている。画面を確認する表情も打鍵する指先も、いつもとなんら変わりない。通常運転のアイセメルとは正反対に、動揺と苛立ちを露わにしたラーマは叫んだ。 「だから! なんであんたに耳と尻尾が生えてるのかって聞いてるのよ!」  話は二時間前に遡る。  アイセメルが実験室に到着したのは、実験開始五分前だった。前の予定が押していたという話だが、その言い訳で遅刻したり立ち合いを見送ったことは数知れない。今日という今日は一言申してやろうと息巻いたラーマが振り返り、しかし目にした姿に開いた口が塞がらなくなった。──足音を響かせ入室してきたアイセメルの頭に耳が、背中には尻尾が生えていたのだ。  ラーマの思考が固まる。夢でも見ているのかと頬をつねってみたが、ちゃんと痛みを感じたので恐らく現実なのだろう。ラーマはますます混乱する。耳も尻尾も、どこからどう見ても猫のそれなのだ。数日前に顔を合わせた時には確かに生えていなかったはずなのに。そもそも人間には存在しないはずなのに。  疑問は尽きないが、開始を遅らせるわけにいかない。実験に意識を集中させることで幸いにも狼狽を思考の外へ逃すことができた。実験後、早々に引き上げたアイセメルを追って所長室へ押しかけたラーマは今こうして説明を求めているというわけだった。  ため息をついたアイセメルは、机に両手を突いているラーマを見上げる。艶やかな髪から覗く一対の猫耳。髪色と同じく灰がかった毛並みのそれは、訴えを聞き遂げるようにラーマのほうを向いていた。怜悧な視線とふわふわの耳はなんともミスマッチだ。 「先程も皆の前で説明しただろう。朝起きたら生えていた。精密検査の結果は問題ない。わずかだが過去にも症例があるようで、数日もすれば元に戻るだろうとのことだ」 「そういうことじゃなくて…!」 「なら、どういうことだ。疑問は明確にしてもらえるか」  アイセメルの返答に、ラーマはつい口を噤んでしまった。確かに状況の説明としては、彼女が語ったことがすべてではある。他の研究員たちも簡潔すぎる説明で納得したようで、それ以上言及することはなかった。しかしラーマは簡単には受け入れられずにいた。例えば本当に身体に悪影響はないのかとか、その姿のまま外部の打ち合わせに参加するつもりなのかとか。次から次へと浮かぶ心配を真正面から口にするほどの素直さは今のラーマにはなかった。  ぐっと押し黙ったラーマが項垂れる。その拍子に、胸元のリボンがふわりと揺れる。目の前の人ならざる耳がぴくりと反応した気がして、ラーマは再び顔を上げた。  アイセメルの視線は、ラーマのリボンに縫い留められていた。瞳孔がわずかに開き、耳がぴんと立ち、尻尾の先端がゆらりと揺らめいている。視線の先に気付いたラーマがそっと右へ動くと、金糸雀色の眸も追いかけてくる。上体を後ろへ引けば、アイセメルの両手が机の端を掴んだ。その姿勢はまるで今にも飛びかからんとしているようだった。 「……アイセメル?」  恐る恐る口にした名前にようやく我に返ったのか、目を閉じ姿勢を正したアイセメルはわざとらしく咳をする。しかし尻尾はいまだ落ち着きなく跳ねていた。 「…治るまで人に会わないほうがいいんじゃない?」 「…心配しなくとも、すでにリスケしている。数日は研究所で過ごすつもりだ」  努めて平静を装おうとしている様子に、ラーマはこっそり口角を上げた。少なくともラーマの目の届くところにいるのであれば安心だ。それに──完治するまでの数日間は退屈せずに済むだろう。 「面子が保てそうでよかったわね。─…あたしだって、かわいい猫は独り占めしたいし」  ぴくり、左右に揺れる尻尾に、ラーマはますます悪戯に微笑んだ。 (喉を鳴らすまであと五秒) 2026.9.7
 所長室に入ってすぐ見えた光景に、ラーマは慌てて口を噤んだ。  てっきり珈琲片手に端末を睨んでいるとばかり思っていた。来意を尋ねることもなく必要な書類を差し出してくる、いつもの所長様がいるはずだった。そんな予想に反して、部屋の主はソファに静かに身を横たえていた。  足音を忍ばせそっと近付く。肘掛けを枕にしたアイセメルは、膝を曲げて窮屈そうにソファに収まっている。そのあまりにも穏やかな寝姿に、ラーマはつい顔を覗き込んだ。緩やかに上下する胸元と、かすかに洩れる呼吸に知らず安堵の息をつく。よほど深い夢に落ちているのだろう、ラーマがここまで距離を詰めても目覚める気配がない。それもそのはず、アイセメルの目元には化粧でも隠しきれないほどの隈が居座っていた。 「…人のこと言えないじゃないの、馬鹿」  思わず文句がこぼれる。残業時間の上位を走るラーマにいつも小言を向けている彼女こそ碌に休息を取っていないことをラーマは知っていた。ワーカーホリックなくせに、それを自覚していないだろうこともまた腹立たしい。  眠っているのをいいことに更なる悪態を吐きかけたところで、アイセメルがわずかに身をよじった。寒いのだろうか、しかしこの部屋に毛布やブランケットといった寝具があるとは思えない。  迷ったラーマは結局、小さく息をつきながら上着を脱ぐと、ソファで身を縮めているアイセメルの肩へそっと掛けた。細い指が縋るように上着をやわく握りしめる。世にも珍しいアイセメルの無防備な姿に、それまでの苛立ちを忘れたラーマはつい頬を緩めた。  ソファの前にちょこんとしゃがみ込む。顔を近付け、けれど思い出したようにキョロキョロと周囲を見渡す。誰もいるはずはないが、それでもふたりきりであることを入念に確かめたラーマは改めてくちびるを寄せた。額にひとつ、ついばむように口づける。アイセメルは目覚めない。長いまつげを伏せたまま、規則正しい呼吸を繰り返している。調子づいたラーマは、今度は頬にちょんとくちびるを押しつけた。先ほどよりも鮮明に伝わる体温と肌のやわらかさに、ラーマの顔が熱を持つ。思えば久しぶりの接触だった。多忙な日々を送るふたりは、いつの間にかすれ違いを重ねていた。研究に追われている間は押し込めていられた欲が、柔な肌に触れた途端、今更のように顔を覗かせた。  もう一回くらい許されるわよね。誰にともなく言い訳をしたラーマが再び身を屈める。だってあたしたち一応は恋人同士なんだもの、放っておくほうが悪いのよ。自分のことは棚に上げながら、隙だらけの口の端に触れようとした、その時だった。 「──天下の天才様に、まさか人の寝込みを襲う趣味があるとはな」  間近に落ちた声に、ラーマはその場で飛び上がった。  くちびるに向かっていた視線を慌てて持ち上げる。熟睡しているとばかり思っていたアイセメルはまぶたこそ閉じているが、その口元は悪戯に弧を描いていた。 「…狸寝入りするほうが趣味が悪いと思うんだけど」 「今しがた起きたばかりの人間に向かって随分な言い草だな」 「今しがたっていつ」 「君が上着を掛けてくれたあたりだ」 「ほとんど最初からじゃないの!」  ラーマは思わず叫んだ。頬どころか耳まで赤く染まっている。調子に乗って口づけていたことに遅れて羞恥がやってくる。今の今まで失念していた、相手は寝たふりくらい平然とやってのける女だということを。  アイセメルがようやく眸を覗かせる。寝起きのせいか普段の怜悧な視線はなりを潜め、代わりに楽しげな色が浮かんでいた。 「悪かった。君があまりにかわいいものだから、起きる機会を逃してしまってね」 「…そういうのを趣味が悪いって言うのよ」  拗ねた風に顔を逸らすラーマの両頬を、アイセメルの手が包み込む。つい先ほどまで夢の淵に沈んでいたからか、優しく触れる手のひらはいつもより少しだけ体温が高い。  逃げる間もなく引き寄せられ、ラーマは反射的に目を閉じた。ちゅ、と。可愛らしい音は頬から。重ならなかったくちびるに、ラーマはつい口を尖らせてしまう。 「これ以上すると我慢がきかなくなるからな。今はこれだけで辛抱してくれ」 「っ、あんたねぇ…!」  照れ隠しに声を荒げたラーマは、けれど言葉半ばで勢いを失くしていく。目を開けた先、再びまみえたアイセメルのやわらかく細められた眸を前に、それ以上の文句が封じられてしまったのだ。  身体を起こしたアイセメルが居住まいを正した。膝に滑り落ちた上着へ触れる指先。布地をなぞる仕草はまるで、そこに残ったラーマの体温を確かめているようでもあった。 「もう少し借りていてもいいだろうか。夜に返そう」  アイセメルが上着を軽く引き寄せる。込められた意図に気付いたラーマの熱は、遂に首筋にまで侵食した。憎まれ口を呑み込んだラーマは、くちびるを一度引き結ぶ。 「…それなら居眠りしてないで、さっさと仕事を終わらせなさいよ」 「ふふ、努力しよう」  満足そうに微笑むアイセメルを、ラーマは精一杯睨みつけてみせる。それでも期待に高鳴る胸だけはどうしたって抑えられなかった。 (返却期限の延長を申請します) 2026.9.14